25 御伽噺
『御伽噺』って、昔はニュースのような最新の事実のことを言ってたんだって。
「眠る前の御伽話か。私を寝かし付けようとしているのか?」
「眠ってしまっても構いませんよ。俺がホテルの寝室まで運びます」
「私は子供ではない。それに、お前の話は最後まで聞くに決まっているだろう」
ムッと少しだけ膨らんだ神楽の頬を見て、祷は笑った。
「それでは、昔々のお話を始めます」
幾億年前から存在する月に見守られ、幾億年前から揺れ続けている波の音に包まれながら。
祷は、語り始めた。
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今から500年ほど前の、日本のとある地方。
雄大な山々にぐるりと囲まれたそこは、冬にたっぷりと降り積もる雪のおかげで水に困らない潤った土地でした。
女人禁制の神聖な山から湧き出た雪解け水が、大きな川となって平地へと流れ落ちる。
南方にある山々から北方にある海へと流れる大きな川を、その土地に住む人々は宵明川と呼んでいました。
そしてその宵明川を境に、左右に2つの国がありました。
日が昇る東側に、日輪国。
日が沈む西側に、夜永国。
俺が今から語る1人の男は、夜永国の大名家である月詠家の五男として生まれた男です。
男の幼名は、烏丸。
大名家の5兄弟で最後に生まれた末っ子でした。
烏丸の兄たちは、とても個性的でした。
穏やかな性格の長男。
慎重で思慮深い次男。
元気で明るい三男。
上品で風流な四男。
しかし最後に生まれた五男は、何の特徴も無かったのです。
長男から見た烏丸は、穏やかな言動をしていて。
次男から見た烏丸は、合理的な考えをしていて。
三男から見た烏丸は、溌剌と動き回っていて。
四男から見た烏丸は、風雅な振る舞いをしていて。
烏丸は何でも出来るが故に、何者にもなれたのです。
勤勉な息子を父が望むので、烏丸は勤勉になった。
優しい息子を母が望むので、烏丸は親切になった。
いつも相手の意向に沿った言動をして、ニコニコと微笑んでいる烏丸は決して争い事を起こしません。
だから個性をぶつけ合って喧嘩ばかりする兄たちの仲裁役は、いつだって烏丸でした。
そんな優秀な烏丸は、両親や兄達だけでなく、家臣達や使用人達からも慕われていました。
例えば、寒い冬に門番をしていた家人に温かな毛皮を着させたり、高い棚に手が届かなくて困っていた侍女に丈夫な椅子を持ってきたり。
皆は口を揃えて、烏丸の人徳を褒め称えました。
そうして皆から必要とされ、期待される。
利発で器用な烏丸は、それに応えることができる。
求められるままに応え続え、いつしか夜永国全体に烏丸の評判が知れ渡っていくことになります。
────しかし烏丸は心に『虚空』を飼っていました。
家族や家来たちに愛されて、満たされているはずなのに。
心のどこかに、常に『虚しくポッカリと空いた穴』を抱えていました。
『自己』を持たない故に、烏丸には欲しいものも目指すものも無かったからです。
何にも関心が無いので、全てがどうでもよかったのです。
だから、ただただニコニコと笑って、周囲に求められる人物を演じることしかできなかったのです。
そんな烏丸は、現代で例えると学校のような場所へ通うことになります。
宵明川の川上、山の麓で二股に分かれている中洲に、天巡寺という寺がありました。
日輪国と夜永国の境にあったその寺では、協力関係にあった両国の子供たちが集って共に学んでいました。
先生は峙 雲龍という名の僧侶で、寡黙で厳格ですが面倒見の良い男でした。
峙先生には弟子がいました。
円恵という名の青年です。
彼は夜永国に仕える家臣の次男ですが、頭脳の高さを買われて先生に引き抜かれたのです。
天巡寺では、峙先生と円恵の2人体制で子供たちに学問や武術を教えていました。
天巡寺に入門した烏丸は優秀な成績を収め続けました。
学問でも武術においても、入学してから全ての試験で首席を取り続けたのです。
相変わらず烏丸はニコニコと人懐っこい笑みを崩さず、接する相手の性格に合わせて柔軟に態度を変えていました。
そのおかげで、烏丸は寺の人気者でした。
もちろん初めは全ての門下生に好かれていた訳ではありません。
中には優秀な烏丸への妬みで嫌がらせをする門下生もいました。
しかし烏丸は顔色ひとつ変えることはありません。
むしろ笑みを深め、報復することなく悠然とした態度で静かに瞼を閉じていました。
その威風堂々たる姿に烏丸を敬愛する者が増えていき、終いには烏丸に嫌がらせをする者は1人もいなくなりました。
────烏丸はただ、どうでもよかっただけなのに。
慕われようが、嫌がらせを受けようが、烏丸にはどうでもいいのです。『自己』が無いので、他者にどんな感情を向けられても何も思わないのです。
この頃、烏丸の心で『虚空』は大きく育っていました。
天巡寺で自分と同年代の少年たちが個性豊かで、未来に希望を持って瞳を輝かせている姿を見た所為です。
烏丸は彼らの個性が羨ましくて、彼らの真似をしました。
しかし彼らに興味がある訳ではありません。
だから彼らが抱いている未来への希望を、知ろうとは思いませんでした。
だから、瞳の輝きだけは真似をすることができなかった。
真っ暗な心の虚空をそのまま映し出したかのような、色の無い瞳で烏丸はニコニコと笑っていたのです。
しかし、烏丸は自分の置かれた環境が『幸福』であることは認識していました。
家族や家来、それだけでなく、友人達にも愛されている。
なんて恵まれた環境なのでしょう。
そんな平穏で安泰な、つまらない日々を過ごしていたある日。
天巡寺に、新しい入門生が現れたのです。
彼の幼名は鶴千代。
その名の通り、色の白い細身な少年でした。
女のように儚げで美しい容姿をした鶴千代に、門下生たちは授業はそっちのけで彼に見蕩れました。
そして門下生たちはこぞって鶴千代に声を掛けました。
衆道の文化が浸透していた時代です。鶴千代がとても美しかったので、親密になりたかったのでしょう。
しかし鶴千代は、嫋やかな見た目に反して無骨で無愛想な男だったのです。
門下生たちに対する鶴千代の反応は、あまりにもそっけないものでした。
鶴千代の口数が少ないので会話がすぐに終わってしまう上に、彼の顔が無表情のままピクリとも動かないのです。
次第に門下生たちは、彼のぶっきらぼうな態度に興を削がれてしまいました。
そうして、誰も鶴千代に声を掛けることはなくなりました。
元より他人に興味が無い烏丸は、自分に接触して来ない鶴千代と関わることは無かった。
このまま、烏丸は鶴千代と話すことは無いだろうと思っていました。
────剣術稽古で、鶴千代に負けるまでは。
『嘘だろっ!?烏丸様がっ…負けたのか!?』
門下生たちが驚愕でどよめく中、烏丸は心の『虚空』に何かが嵌った感動に打ち震えていました。
その日、鶴千代にとっては初めての剣術稽古でした。
剣術稽古とは、天巡寺の中庭で門下生たちが2人1組になって竹刀で打ち合うことです。
誰にも負けたことの無い烏丸とペアを組みたがる門下生はいませんでした。
そんな中、鶴千代が声を掛けてきたのです。
『お前も相手がいないのか。私と組まないか?』
『いいのか?助かる』
これが、烏丸と鶴千代が初めて言葉を交わした瞬間でした。
烏丸に手合わせを願う恐れ知らずな鶴千代に、周囲にいた門下生たちがクスクスと忍び笑いをしていたのだが。
淑やかな見た目に反して、鶴千代は攻撃的だった。
力強い踏み込みで相手を怯ませ、素早い動きで隙を突く。
烏丸が鶴千代の迫力に驚いて一瞬だけ身体を硬直させた、その瞬きの間に、鶴千代は烏丸の手元を打った。
烏丸の竹刀が叩き落とされた直後、烏丸の首に鶴千代の竹刀がひたと当てられる。
天巡寺の中庭が、しんと静まり返った。
鶴千代は烏丸の首に竹刀を当てた状態で静止する。
そんな鶴千代の宙色の瞳に見据えられ、烏丸はポッカリと口を開けた。
剣術の達人である峙先生にしか、負けたことがない烏丸が。
同年代の相手による初めての敗北に、烏丸は歓喜した。
『あっははは!やるな、鶴千代!』
烏丸が笑い出すと、鶴千代は静かに竹刀を下ろした。
『称賛、感謝する』
周囲にいた門下生たちがどよめく中、烏丸は鶴千代に手を差し伸べる。
『また手合わせ頼む』
烏丸は人懐っこく微笑んだのだが、鶴千代は無表情のまま烏丸の手を握り返した。
『承知した』
鶴千代はコクリと頷くと、水分補給のためか井戸の方へ歩いて行った。
烏丸はその背中を見送りながら、これからの剣術稽古に思いを馳せた。
────これから楽しくなりそうだ!
烏丸は生まれて初めて、心の奥底から湧き上がる高揚を感じた。
それは烏丸の瞳に、初めて光が宿った瞬間だった。
『手合わせ頼む』
『無論だ』
それから烏丸は、剣術稽古の時間だけ鶴千代に声を掛けるようになった。
最初の手合わせでは烏丸が鶴千代に意表を突かれて負けてしまったが、実際は2人の実力は拮抗していた。烏丸が勝つ日もあれば鶴千代が勝つ日もあった。
互角の相手との勝負はとても楽しかった。
実力を認め合う充足感、相手を上回りたいという競争心。
何もかもが新鮮で、心地好くて堪らなかった。
烏丸にとって、鶴千代と手合わせをする時間だけが『幸福』に思えた。
それは鶴千代にとっても同じだったようだ。
いつも無表情だった鶴千代が、烏丸との手合わせの時だけ微笑むようになった。
その笑顔が、かつて烏丸の心にあった『虚空』の部分に熱を湧き上がらせてむず痒くさせる。
そうしていつしか、烏丸は鶴千代との手合わせだけでなく、鶴千代という人間そのものに興味を持つようになった。
『貴様の出自は?』
手合わせの決着がつき、勝って気分の良い烏丸は負けて眉根を寄せている鶴千代に訊ねた。
寺の縁側に腰掛けながら、鶴千代は何でも無い事のように呟く。
『日出家の長男だ』
烏丸は目ん玉をひん剥いた。
『は!?えっ!?日輪国の若だったのか!?』
『そうだが』
驚愕で固まる烏丸の様子に、鶴千代は訝しげな顔をしながら首を傾げる。
『そんなに驚くことか?お前も月詠家の五男だろう』
『貴様は嫡男だろう?同じではない!』
日出家は、夜永国の隣にある日輪国の大名家だ。
そこの長男ということは、鶴千代は日輪国の次期首領ということだ。
烏丸は頭の中で必死に過去を遡った。
鶴千代が初めて天巡寺に来た日、教壇の前で鶴千代は自己紹介をしていた筈なのだが。
『貴様、自己紹介の時に日出家の者だと名乗ったか?』
その頃は鶴千代に興味が無かったため、烏丸は鶴千代が入門した日のことを全く覚えていなかった。
単刀直入に訊ねると、鶴千代はバツが悪そうに視線を横向けながら答えた。
『日輪国の武家出身、とは言った』
だから他の門下生たちも、鶴千代に対してへりくだった態度を見せなかったのだ。
そこではたと、烏丸はおかしな点に気付く。
『なぜ日輪国の者たちが、貴様を知らないんだ?』
夜永国の者たちが鶴千代のことを知らないのは仕方が無い。
しかし日輪国の者であれば、噂話でも聞きかじって知っていそうなものだが。
大名家の嫡男が天巡寺に入門するとなれば、日輪城から町へと噂が広まっていてもおかしくはないのだから。
『知らなくて当然だ』
鶴千代は淡々と言い切った。
『私は城の奥に閉じ込められて育ったようなものだからな』
『命を狙われていたのか』
鶴千代は静かに首を横に振る。
『強く賢くなるまで、外には出せないと言われていただけだ』
『厳しいな』
『だからこの寺に来るまで、両親と世話係、近侍と護衛の5人としか顔を合わせたことは無かった』
家臣や使用人達の目にすら触れないように育てられたということだろうか。
教育熱心を通り越して過保護すぎるのではないか。
あまりの徹底ぶりに烏丸は呆気にとられて閉口する。
『だから正直、私は他人との関わり方がわからん。皆と親しくできるお前が羨ましい』
そう呟くと、鶴千代は縁側から下りて去って行った。
唐突すぎる鶴千代の吐露に、烏丸は驚きのあまりその背中を見つめることしかできなかった。
───その背中を、追いかけるべきだったと後悔する。
それから鶴千代は、烏丸を避けるようになったのだ。




