24 駆け落ち
愛だけで何でも解決できるなら、『駆け落ち』で失敗することは無い筈なんだよ…
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現代日本に転生した月宮 渚が前世の記憶を取り戻したのは、7歳くらいの頃だった。
前世の渚は武術が得意ではなかった。だから身分を隠して町人のフリをし、下町で情勢の調査をしていたのだが。
その際に、何者かに背後から短刀で刺されて殺された。
転生してから、前世の殺された瞬間までの記憶を取り戻して、真っ先に思ったのは遺された父や弟がどうなったのかという不安だった。
急いで図書館へ向かい、日本史の書物を開いて愕然とした。
──────鷹明が、真澄を討ったという文字に。
渚は慌てて帰宅し、自分よりも先に前世の記憶を取り戻していたらしい弟の祷に訊ねた。
真澄を討ったのは本当なのかと。
『間違いありませんよ』
祷は淡々と答えた。相変わらず聡明な弟だった。
この時はまだ、祷は5歳だったというのに。
祷は鷹明という名前だった前世も、末っ子でありながら自分も含めて兄達よりも利発な子だった。
常に冷静で、誰よりも戦況や情勢を把握して最善の手を尽くしていた。
鷹明は、日出家と合戦をしたくないと言う父の意見を尊重して、なるべく日輪国との衝突が起こらないように注意していたというのに。
『何があったの?』
渚は努めて優しく訊ねた。
祷は無表情のまま、淡々と話し始めた。
『真澄が真夜中に訪ねて来たのです』
『どこに?』
『夜永城に』
渚は驚愕のあまり目を見開いた。
前世で渚が殺された頃には既に、戦乱は広範囲に広がっており情勢は悪化していた。
そんな中、夜永国とほぼ敵対状態にあった日輪国の次代首領とも呼べる真澄が、夜永城に訪ねてくるなど信じられない話だ。
『まさか、1人で?』
『はい』
『事前に相談があったの?』
『いいえ』
『それじゃあ許可なく乗り込んで来たの?』
『はい』
ますます信じられない話だ。
まず城に侵入する前に、夜永国の国境にある関所で捕まるはずだ。
『その時の真澄は、小袖しか着ていなくて、裸足で、刀だけを持っていました。それに…』
祷の瞳がドロリと蕩けた。
『おそらく、俺に会いに来るまでに邪魔した奴らを斬り捨ててきたのでしょう。たくさん返り血を浴びていました』
祷は昏い瞳で薄らと笑った。
5歳児らしからぬ、愉悦で歪んだ笑みだった。
『そんな真澄に、「私の願いを叶えてくれ」と懇願されたのです』
『願い?』
渚が訊ねると、祷は宝物を見せる子供のようにはにかんだ。
『俺と、「一騎打ちがしたい」と』
まるで好きな子から愛の告白でも受け取ったかのような幸福そうな祷の笑顔に、渚は息を飲んだ。
『その願いを聞き入れたんだね?』
『はい。承諾した俺は、真澄の身体を清拭しました。俺以外の血が真澄に付いているのが許せなかったので。その間の真澄は、時折身体を震わせたり、堪らなくなって声を上げたりしましたが、終始、俺に身を預けて大人しくしていました』
睦事を語るかのように、祷の声が小さくなった。
ただ清拭の話を聞いているだけだというのに、掠れた声で語る祷のせいで渚の心拍が上がる。
『小袖も血で真っ赤になっていたので、俺の小袖と袴を着せました。それから俺たちは手を繋いで、城の隠し通路を使って外に出ました』
まるで駆け落ちみたいだ、と渚は思った。
そう思ってしまうほどに、語る祷の表情はうっとりと夢見る乙女のように恍惚としていた。
『そして俺たちは、誰にも邪魔されない、かつて天巡寺のあった山の麓で刀を交えました。そこで、俺が真澄を殺したのです』
渚はやるせなさに握り込んだ拳を震わせた。
閉じた瞼の裏に映るのは、天巡寺で仲睦まじく肩を並べていた鷹明と真澄の背中だ。
(そんな形でしか、愛を証明できなかったんだ)
その夜は2人にとって、苦みと苦しみの渦の中でたった1つだけ咲いた甘い花だったのだ。
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──────そんな、2人が。
ボールルームの中央で、手を取り合って踊っている。
純白のタキシードで身を包んだ祷の襟元には、神楽のドレスと同じ色のネクタイが締められている。
タキシードと同じ色の真っ白な革靴も、爪先や踵はサファイアブルーの革で装飾されている。
祷も神楽も手袋はしていないが、その指先はサファイアブルーのネイルカラーで染められている。
2人が手を重ねる度に、お揃いのネイルカラーがよく目立つ。
(嗚呼、輝いてる)
天井で輝く白銀のシャンデリアに負けないくらい、サファイアブルーで彩られた美しい少年少女がクルクルと回りながら煌めく。
まさに超大作映画のような、名作ミュージカルのような光景に、渚の瞳から珠のような涙がポロポロと零れた。
そんな渚の手元に、ハンカチを持った手が伸びてきた。
「使え」
ハンカチを手渡してきたのは桐生だった。
「ありがとう」
渚は桐生からハンカチを受け取り、濡れた目元にそっと当てた。
「陽向、幸せそうだな」
桐生が静かに呟き、それに渚は頷いた。
「そうだね。今は、祷がここにいてくれて良かったと思ってるよ」
「お前は前世の記憶があるのか?」
桐生からの唐突な質問に、渚は思わず動きを止めた。
それを肯定と受け取ったのか、桐生が鼻先で笑った。
「双子なのに、お前たちは真逆だな」
おそらく桐生は、肇には前世の記憶が無いことを言っているのだろう。
「そう。肇と違って僕には未練があったから」
「未練?」
「桐生は肇と何の話をしてたの?」
渚は微笑みながら、質問を返す。
「先にそれを教えてくれたら、僕も教えてあげるよ」
「サバイバル技術を教えていただけだ」
「サバイバル技術?」
桐生はタキシードの胸ポケットから十徳ナイフを取り出した。
「俺の家は特殊でな、幼い頃から生き残るための知識を一通り教えられるんだ」
渚は桐生のプロフィールを思い出す。
確か、あの有名な日本最大級のポータルサイトを運営する会社の社長令息だったはずだ。
それならば、サバイバルではなく幼い頃からコンピューターについて学ばされそうなものだが。
「殴られても蹴られても耐えられる筋肉、毒にも耐えられる消化器、飢餓や脱水にも耐えられる循環器を求められる」
「え」
「陽向も同じだ。陽向は、お前たちが思っている以上に常軌を逸した存在だ」
渚はパッと隣に立つ男に視線を向けた。
その男が雰囲気をガラリと変えたからだ。
そこにいたのは、生真面目で精悍な男ではなかった。
渚が握っているハンカチを見下ろすその目は、氷のように冷たく鋭い。
「そのハンカチに染みた涙は、一体どういう意味を持つんだ?」
「感動したんだよ。言わなきゃわからないの?」
「ああ。わからない。俺はちっとも感動しないからな」
クッと喉奥で嗤った桐生は、渚の手からハンカチを引き抜いた。そして腰ポケットから取り出したライターで着火し、大理石のフローリングに落とすと靴底で踏み消した。
「まだ嘉堂の方がマシだ。彼奴の父親は教育者でありながら、裏社会でも顔が利くロクデナシだからな」
「つまり何が言いたいの?」
渚が睨み返すと、桐生は片眉を上げた。
「お前の弟では綺麗すぎる。兄であるお前から忠告してやってくれないか」
「嫌だよ。僕の未練は、弟が好きな子と幸せになる姿を見れなかったことだから」
「そうだったのか。見る前にすまなかったな」
すまなかった?
渚は驚愕に目を見開く。
「もしかして、前世で僕を殺したのって君?」
「そりゃあ、敵国のスパイを発見したら殺すに決まっているだろう」
「それは君の意思?」
桐生は眉を顰めて首を傾げる。
「俺の意思など関係無い。そう教わったから、その通りに動いただけだ」
「そっか。それなら安心だよ」
「何が」
「僕のこと、嫌いな訳でも恨んでいた訳でも無いみたいだから」
「恨むも何も、俺は前世で、お前とは関わりも何も無かったからな」
「今は?」
渚は祷と同じ琥珀色の瞳で桐生をまっすぐに見つめた。
「今も僕は、君とは何の関わりも無い?上の命令があれば何時でも殺せる、取るに足らない存在?」
訊ねながら微笑んだ渚に、桐生は忌々しげな表情で渚の琥珀の瞳を見下ろした。
「俺は神楽と妹さえ生きていればいい」
桐生は渚に背を向けて歩き出す。
「だから真澄を殺したお前の弟を、俺は永遠に許さない」
それだけ言い残すと、桐生は人混みの中に紛れて姿を消してしまった。渚はしばらく桐生が消えた方向を見つめ、それから溜息を吐いた。
その、吐息が震え出す。
「ふ…ふっ……くふふっ!ははっ!」
渚は腹を抱える。
「いいねぇ!最高だよ!あはははは!!」
渚は心底面白くて堪らないといった様子で、ボールルームの柱の影でしばらく笑い続けていたのだった。
***
ウィンディオーシャン・グランドホテルのボールルームにて。
管弦楽団による『花のワルツ』の演奏は、後半に差し掛かっている。
神楽と祷は初めこそ、お互いの美しい姿に見蕩れ合っていたのもあって、大人しく優雅に踊っていたのだが。
「お前の実力はこんなものか、祷」
「貴方こそ。どの口で言っているのですか」
いつの間にやら高い跳躍や細かなステップなど、高度なダンススキルを何度も繰り出して競い合うようになってしまった。
もはや社交ダンスというよりもバレエである。
事実、2人は美しい姿勢を学ぶためにバレエを習っていたことがある。
「陽向様っ、なんて速いターンなの!」
「ヒールの高いパンプスを履いておられるのに!」
2人が技を繰り出すたびに、周囲で鑑賞している生徒たちが歓声を上げる。拍手や口笛まで鳴り響いている。
「陽向様を軽々と受け止める月宮様も凄いわね!」
「月宮様っ、かっこいいわ!♡」
祷は神楽よりも10センチほど身長が低い。
まだ祷は成長途中で、中等部1年生なのだから当たり前だ。
しかし長い四肢を爪先まで伸ばして、大きく動いているため神楽と並んでいても違和感が無い。
「やるな、祷」
「貴方もですよ、神楽」
2人はどんどん高難易度な技を出し合い、ついにはバレエですらなくなってしまった。
フィギュアスケートにおけるトリプルアクセルのような回転技だったり、体操における前方抱え込み2回宙返りのようなジャンプ技だったり、競い合いがヒートアップしていく。
2人の勢いで、ボールルーム内に竜巻のような突風が吹き荒れている幻覚すら見える。
否、幻覚ではないかもしれない。
2人を鑑賞していた生徒たちの髪が乱れ始める。
「キャ──────ッ!?」
「せっかくのセットがぁああ!!」
「目がァああ!!」
生徒たちの叫び声が大きくなってきた、その時だった。
「コラァァァァ〜〜〜〜!!!」
雷のような女性の叱責が、ボールルーム内をビリビリと震わせた。
生徒たちが驚いて静まり返る中、管弦楽団は『花のワルツ』の演奏を続けた。指揮者が指揮を止めなかったからである。さすがプロの演奏家たちだ。
「神楽ちゃん!!祷くん!!何をしていたのかしらっ!!」
バンケットホールの入口から再び女性の叱責が聞こえた。
とんでもなく大きな声で叱責した女性は、なんとダンスの藤森先生だった。
腰に手を当て、仁王立ちで怒りをあらわにしている。
「今のはダンスをしていたつもりかしら!?」
「なんだか競技を観戦してた気分だったわねぇ〜」
怒る藤森先生の後ろから、ひょっこりとマダム椿が顔を出す。
その顔は渋柿でも食べたかのような苦笑いだった。
「2人ともこっちに来なさい!!」
怒った様子の藤森先生が、神楽と祷に手招きする。
しかし神楽も祷も、ピクリとも足を動かさなかった。
──────それどころか。
「逃げましょう、神楽」
祷が神楽の手を掴み、駆け出す。
「えっ!?ちょっとぉ!?待ちなさぁ〜いっ!!」
藤森先生の制止の声すらも無視して、祷は生徒たちの人混みを掻き分けて走り続ける。
その間、神楽は驚きと困惑で目を白黒させていたが、振りほどくことなく祷に引っ張られ続けた。
そしてついに、祷は突き進んだ勢いのままボールルームの大きな格子状の窓を開け放った。
「行きますよ」
「む」
そのまま祷は窓の外へと飛び出し、素早く神楽を抱き上げるとバルコニーから飛び降りた。
飛び降りたといっても、ボールルームは地上1階だ。バルコニーと地上はそんなに離れていない。
外へ逃げたとはいえ、大人しくしていたらすぐに捕まってしまうだろう。
「もっと遠くへ逃げましょうか」
祷は神楽の返事を聞くことなく、再び走り出す。
バルコニーの外は、少し離れたところが崖になっている。そして崖下には海が広がっている。そのおかげで、ボールルームの窓からは雄大なオーシャンビューを眺められるのだ。
崖は転落防止のために高い柵で囲まれているが、離れたところに砂浜へと下りるための階段が設けられている。
その階段はホテルが所有するプライベートビーチへ繋がっている。
祷は神楽を抱えたまま階段を駆け下り、ビーチへ向かった。
「あっははは!」
淡い月明かりだけが頼りの夜の砂浜を、祷は迷いなく走り続ける。瞳に月の光を宿して、笑いながら。
「明日は反省部屋ですね!俺たち」
「…む。修学旅行は連帯責任で、班員全員がペナルティではないか」
「そこは俺が何とかしますよ。理斗もいますし、先生方を説得するのは容易いでしょう」
純白の革靴が汚れるのも構わずに、祷は走る。
「貴方と、俺。2人きりです!ずっと、明日も!」
このまま遠くへ、遠くへ、遠くへ!
月の果てまで連れ去りたい。
貴方を!
「そうすれば、貴方は俺の目にしか映らないでしょう?」
「そうだな。お前しか、私の傍にいないのだから」
「嫌ですか?」
ザザン、と海が音を立てた。
まるで祷の心にさざ波が立ったかのように。
しかしその波の音も、すぐに鳴り止んだ。
だって、祷の太陽が微笑んだから。
「そんな訳がない。お前が傍にいてくれるなら、私は何処にいたっていいんだ」
祷は立ち止まり、そしてゆっくりと神楽を砂浜に下ろした。
そして自身が着ていたタキシードのジャケットを脱ぎ、砂浜の上に敷いた。
「汚れるぞ」
「この上に座ってください」
「皺になる」
「構いません。この後、貴方以外と踊る気はありませんから」
神楽がジャケットの上に座ると、その隣に祷も静かに座り込んだ。
2人は肩を並べて、夜空に浮かぶ真ん丸な月と海の水面で揺れる月明かりを見つめた。
「波の音って不思議ですね、気分も凪いでいくようです」
「ああ。夜空も美しく幻想的で、プラネタリウムを観ているようだ」
「それにしても満月とは運命的ですね。まるで貴方と俺がここに訪れるタイミングを見計らったかのようです」
祷の言葉に、神楽が小さく笑う。
「藤原道長のようだな」
「貴方が傍にいれば、月が欠けることはありませんね」
「月並みなことを言う」
「月が綺麗なせいですよ」
「ああ。死んでもいいな」
ザンッと波が飛沫を上げた。
え、と祷が声にならない声を上げたと同時に、神楽がくるりと祷に顔を向けた。
いつもの無表情だった。
「む。違ったか?」
「……無粋ですよ」
神楽と祷は静かに笑い合った。
言葉の裏側に、照れと本音を隠しながら。
ひとしきり笑った2人は、再び波の音に耳を澄ます。
しばらく砂の中で泡になって消えていく波をぼんやりと見つめていた祷は、何となく口を開いた。
「ねぇ神楽」
「何だ」
祷は、波に揺られてぼんやりとした頭で言った。
「今は遥か昔、1人の男の御伽噺を語ってもよろしいですか?」




