23 ワルツ
日本の主流って四拍子だから『ワルツ』のリズムを刻むの難しいよね。
***
ついに始まった、私立聖蘭学園中等部3年生による舞踏会。
ウィンディオーシャン・グランドホテルのボールルームの中央で、美しい少年少女が踊っている。
2人はまだ中等部3年生なので14歳の未成年なのだが、身長が高いので立派な紳士淑女に見える。
少女は早熟で172センチメートルも身長がある上にヒールのあるパンプスを履いている。
そんな彼女と一緒に踊っている少年も早熟で、身長は185センチメートルを超えていて長身だ。
そんなワインレッドのタキシードを着た美しい少年と、サファイアブルーのドレスを着た美しい少女がクルクルと回る姿に、周囲の生徒たちがうっとりと見蕩れていた。
──────ただ1人を除いて。
(俺の方が、もっと神楽を自由に踊らせることができる)
神楽を慕う日下部や桐生、そして野生児である肇ですらも見蕩れている中、祷だけは鋭く2人を睨み続けている。
「ダンスまで完璧だなんて、お二人は逆に何ができないのかしら?」
(完璧ではない)
祷は近くにいた女子生徒の呟きを、心の中で即座に否定する。
管弦楽団が華麗に演奏している『美しき青きドナウ』のワルツに合わせて、桜雅と神楽はステップを踏んでいる。確かに2人はステップを間違えることなく、スムーズに近付いたり回ったりしているように見えるが。
(神楽は嘉堂に引っ張られている)
神楽のしなやかで長い手足が、少しぎこちなく動いている。
のびのびと自由な動きをする神楽が最も美しいというのに。
きっとこの場に、ダンスの藤森先生がいれば同じ指摘をしていたことだろう。
白銀のシャンデリアの光が、白い大理石のフローリングに反射してキラキラと輝く。
その上に、神楽のダイヤモンドのパンプスがコツコツと音を立てて置かれる。蝶が舞うように広がった神楽のドレスが、フローリングにドナウ川のような青い影を落とす。
大きな格子状の窓から差し込む月光が、神楽の白磁の肌を優しく照らし出す。
美しい。
とにかくこの世のモノでは無いほどに美しい。
夢幻なのではないかと疑ってしまうほどに。
だから勿体ない。
(あんな男に踊らされているのが勿体ない)
桜雅は自分が最も美しく見える動きを意識しており、神楽のことを考えてなどいない。舞踏会におけるダンスはコミュニケーションの1種だ。相手の動きをよく見て、相手と呼吸を合わせて感情を伝え合う。
しかし桜雅は一方的だ。
自分の美しい姿を神楽に見せ付けてアピールするばかりで、神楽がどう思って何を伝えようとしているのかを見ていない。
祷はじっと耐えた。
バンケットホールとボールルームの間にある、柱の影から虎視眈々と神楽を見詰める。
おそらくもうすぐで『美しき青きドナウ』の演奏は終わる。
そのタイミングで神楽を取り返すつもりだ。
(やはり許せない)
神楽が桜雅とコミュニケーションを図ろうと、必死に桜雅を見つめている。
神楽の瞳は、祷のものだというのに。
神楽の瞳は、祷だけを見つめていなければならないのに。
祷は寸鉄を帯びようと震え出した右手を握り込み、必死に耐えたのだった。
***
嘉堂 桜雅は目の前の少女をじっと見つめる。
(やはり美しいな)
少女の名は、陽向 神楽。
彼女の母親は、雪丸家当主の娘である雪丸 鈴蘭だ。今は嫁入りして姓は陽向だが。
「お前は母親の出自を知っているのか?」
「無論だ」
「父親がどうやって、お前の母親と結婚したのかも知っているのか」
「……無論だ」
桜雅の問いかけに、スッと神楽の瞳が細められる。
白銀色の長い睫毛が下瞼に掛かり、宙色の瞳に影が差す。
憂いの表情も美しく、桜雅はほぅと感嘆の溜息を吐いた。
現在、桜雅と神楽はボールルームの中央でワルツを踊っている。
そんな2人を囲むようにして私立聖蘭学園中等部3年生全員と教師たちが立って見ているのだが。
「その肝の据わり様は、母親譲りか」
「性格は父に似ているとよく言われる」
神楽が桜雅の手に指先を添えながらターンする。
ふわりと満開に咲いた花のように広がったドレスの中央で、神楽は飛び立つ前の蝶の羽のように腕を伸ばす。
「表情が変わらないな。緊張はしないのか」
そう、神楽の顔が仏像のように無表情のままなのだ。
ようやく桜雅の腕の中に捕らえられたというのに。
交流会の時は警察官に連れられたドーベルマンのような目をした祷と日下部と桐生が神楽の傍にいたので近付けなかった。
フランス料理のフルコースディナーが終わり、管弦楽団がチューニングを始めたところで桜雅は神楽を迎えに行った。
神楽の隣席にいた日下部が睨んできたが、桜雅は気にする事なく神楽に手を差し伸べた。
乾杯の挨拶で約束を交わしたので、神楽は抵抗することなく桜雅の手を取って立ち上がったのだが。
その、桜雅の手を取った瞬間から神楽の表情はひとつも変わっていない。
「これでも、自分に出来る最大限の踊りをしようと必死だ」
「そんな風には見えん」
「む。そうか。そういうお前はどうだ?」
不意に桜雅はステップを細かく刻み、神楽の腰を抱き寄せた。しかし神楽は動じることなく桜雅の肩に腕を伸ばし、背を反らすことでリズムの変化に対応した。
「……ふ、小憎たらしい女だ」
悔しそうに、しかし嬉しそうに桜雅は鼻を鳴らす。
そんな桜雅の横顔を見て、神楽は無表情のまま訊ねた。
「お前は何故、私の母のことを知っている?」
「我の愚父が、お前の母親に懸想をしていたからだ。卒業アルバムを見せられ、何度も何度も彼女の美しさを熱弁されれば嫌でも覚える」
今まで無表情だった神楽が、驚きで少しだけ目を見張った。
「そうだったのか。確かに、娘の私から見ても母はとても美しいと思うからな」
「その母に瓜二つなお前も、相当美しいぞ」
「称賛、感謝する」
美しいと言われ慣れているからだろうか、神楽の表情はピクリとも動かない。
桜雅はクツクツと喉奥で笑い、神楽の細い手首を握った。
「我ならば、お前と、お前の両親を守ってやれるぞ」
桜雅の言葉に、神楽は宙色の瞳を揺らす。
「母の一族が、お前の手に負えると?やめておけ」
「お前を許嫁にできるなら、我は何でもする」
神楽のステップが少しだけずれたが、桜雅が素早く抱き上げることによってフォローした。
ふわりと舞い上がった神楽のパンプスが、シャンデリアの光を受けて一等星のように輝く。
「私のような難儀な家筋に関わらぬ方が懸命だ」
「それを踏まえた上で、お前が欲しいと言っている」
「何故?美しさを求めてか?」
「そうだな。お前は我の隣に立つに相応しい」
神楽はくるりと身を翻して桜雅から離れた。そして溜息を吐きながら桜雅の腕の中へと戻る。
「私も母も、いずれは老いる。美しさは永遠ではない」
「存外だな。お前が老いた者を美しくないと言うのは」
演奏がフィナーレに近付くにつれ、幾つもの音が重なっていく。管楽器も弦楽器も打楽器も、全てが息を合わせて重厚なメロディーを奏でる。
「我はお前との最期の別れまで、お前を愛し抜く自信がある」
「巷では美人は3日で飽きると言われているが」
「我をそこらの凡庸どもと一緒にするな」
「すまない」
「それは、何に対する謝罪だ?」
打たれる打楽器、弾かれる弦楽器、高く鳴る管楽器が、何度も同じタイミングで響き合う。その度に、聞く者の鼓動が強くなってボルテージが上がる。
「お前を侮る発言をして申し訳ない。そして、お前の想いに応えることができなくて申し訳ない」
「好いた男ができたのか」
「いない。いたとしても、私は誰とも婚約するつもりはない。家の事は私が1人で対処するつもりだ。両親も、私が守る」
神楽の瞳に光が灯る。
それは髪留めに宿る月の光よりも眩い、純粋な青の光で。
決して曲がることの無い、真っ直ぐな光で。
「この頑固者め」
フラれたというのに、桜雅は愉快そうに笑う。
「何度言われたとて、私の考えが変わることは無い」
神楽は無表情のまま、クルクルとターンを繰り返す。
「これで何度目だろうな。今宵、我と思い出話でもして共に数えないか?」
「一晩では足りないだろう。不可能だ」
実は初等部の頃から、桜雅は何度も神楽にプロポーズをしている。
桜雅はいつも、周囲の人間を上手く利用して神楽の傍に祷や日下部が居ないタイミングを作り出してからプロポーズをしている。
だから、神楽が何度も桜雅から求婚されていることを祷たちは知らない。花蓮すらも知らないのだ。
そして毎度毎度、桜雅は神楽にあっさりとプロポーズを断られ続けている。
「そういえば我もお前に、謝罪が必要だな」
「何だ」
「我は諦めの悪い男だ。不本意だがそこは愚父に似たようでな。今後も求婚を続けるつもりだ、光栄に思え」
「相変わらず傲慢な男だ」
「光栄なことだろう?この我がいつでもお前の力になってやると言っているのだからな。これは愚父の意向でもある。いつでも遠慮なく頼れ」
そしてフィナーレを迎えた管弦楽団の演奏とともに、神楽は高く跳躍し、それを桜雅が軽々と抱き留めた。
直後、ボールルームに割れんばかりの拍手喝采が響き渡る。
「プロポーズの返事は、気が変わったらすぐに言え」
鳴り止まない拍手の中、桜雅は神楽にしか聞こえない声量で告げた。
桜雅の腕から軽やかに下りた神楽は、チラと顔だけで振り返って桜雅を見た。
「気持ちだけ感謝する」
「何のお気持ちです?」
前方から少年の声が響いた。途端、神楽の瞳が真昼の太陽のようにカッと輝き出す。
桜雅に向いていた神楽の顔が、パッと逸らされてしまった。
(嗚呼、今世もか)
神楽はドレスの裾を持ち上げて少年の元へ駆け寄る。
純白のタキシードで身を包んだ、月宮 祷の元へ。
(月詠 鷹明め)
桜雅は、祷を睨みながら拳を握り締める。
(真澄の首を奪った男)
日輪国と協力関係にあったはずの、夜永国の大名家五男。
日輪国の危機に助力することなく、あまつさえ日輪国の跡取りであった真澄の首を討ち取った男。
長きに渡る戦乱で夜永国の大名家の息子たちが次々と戦死する中、たった1人だけ生き残った五男。
その後、夜永国の大名に成ったが雛菊姫と相討ちになって死んだ男。
(記憶の無い真澄に近付いて、何のつもりなのか)
桜雅は前世で、夜永国の国衆だった。
大名家である月詠家に仕える家臣だったが、戦乱の中で一揆を起こして領土を拡大し大名に成った。
混乱に乗じて下克上を果たしたのである。
幼き頃は、真澄や鷹明たちと共に天巡寺で学問や武術を学んでいた。
──────その頃から、桜雅は真澄に惚れていた。
一目惚れである。
たかが一目惚れ、されど一目惚れだ。
桜雅は真澄の隣に立つために血の滲むような努力をした。
下克上を果たして大名になったら、真澄を手に入れるつもりでいたのだが。
(我が大名になる前に、この男に奪われた)
カツカツと靴音を立てて桜雅は神楽の背中を追いかけた。
「陽向」
桜雅の呼び声に、神楽が振り向いた。
その、一瞬の隙を狙って桜雅は神楽の手を取った。
そのまま、その白い指に口付ける。
琥珀の指輪が嵌っていない、神楽の左手の薬指に。
ボールルームがしんと静まり返った。
窓の外から、海の波の音が聞こえる程に。
皆の視線が神楽と桜雅に集中する中、桜雅は周りの視線など気にすることなく神楽だけを見つめる。
神楽の顔が無表情ではなく、驚きで目も口も開いていたことに満足して微笑む。
そして微笑みながら、甘く低く囁く。
「プロポーズの答え、待っている」
甘いココアにマシュマロを溶かしたような桜雅の美声に、桜雅の近くにいた生徒たちが感嘆の吐息を漏らす。
その直後、ボールルームに黄色い叫び声が上がった。
男子生徒も女子生徒も教師たちも盛り上がり、顔を真っ赤にさせて陶酔している。
しかし神楽と祷だけは違った。
「くどいな」
そう言って呆れて眉を顰める神楽の後ろで、祷が真っ黒な瞳を細めて桜雅を睨む。
その今にも斬りかかってきそうなひとごろしの目に桜雅は鼻を鳴らす。
「その殺意を、愛した者にも向けたのか」
「何の話です?」
「胸を焦がす嫉妬すらも楽しむ余裕が無い男に、陽向を守れるとは到底思えんな」
クツクツと喉を鳴らして笑った桜雅が、ああ。と声を上げて鮮血のような色の上がり目を見開く。
「そういえば、貴様は守るどころか癇癪で殺す幼稚な男だったな」
皆既月食の赤い瞳と、満月の琥珀の瞳がぶつかり合う。
「貴様の胸に在るのは愛ではない。結局は自分が可愛いだけの、独りよがりな執着だ」
太陽の光を受けていない、月食の赤い瞳が弧を描く。
勝ち誇ったような不敵な笑みだ。
その傲慢かつ不遜な笑顔を受けて、祷は溜息を吐いた。
「貴方こそ何もわかっていませんね」
祷は桜雅に奪われていた神楽の左手を取り返して微笑む。
「神楽は守られることなど望んでいませんよ」
そして神楽の左手首の内側に口付け、不敵な笑みを返した。
「刀を交えることこそが、愛なのですから」
祷の言葉と共に、管弦楽団が次の演奏を始めた。
ハープの美しいカデンツァから始まる、チャイコフスキー作曲の『花のワルツ』だ。
バレエにおける『くるみ割り人形』というストーリー中で、主人公であるクララがお菓子の国で金平糖の精から手厚い歓迎を受ける。
その歓迎というのが、金平糖の精が『花のワルツ』を踊ることなのである。
祷の瞳と同じ色のマリーゴールドという花をイメージして作曲された、華やかなワルツ。
『勇者』や『変わらぬ愛』といった意味を持つマリーゴールドは、しかし同時に『嫉妬』や『悲しみ』という意味も抱えている。
ホルンの重厚なメロディーと共に、マリーゴールドのような複雑な想いが込められた祷の手が神楽に差し出される。
「俺と踊っていただけませんか、神楽」
その瞬間。氷のようだった神楽の無表情が、星を散らすような煌めきを放ちながら微笑みへと変わった。
その様はまさに、お菓子の国の王子様に微笑む金平糖の精のようで。
「勿論だ」
神楽のお辞儀を合図に、かつて宿敵同士であった2人は手を取り合ってボールルームの中央へと歩み出したのだった。




