19 不安
『不安』って起きてもいないことに対する取り越し苦労であるのが殆どなんだよねぇ〜
仄暗い通路に差し込む、柔らかな水槽の光。
突き抜けるような晴天の蒼とは違う、優しく包み込むような碧だ。
そんな光の中で浮かび上がる、白銀色の少女。
水の精霊と言われれば、信じてしまいそうな程に神秘的で美しい。
白銀色の髪は碧の光に照らされ、まるで真珠の光沢のように複雑かつ繊細な色に艶めいている。
透き通るような白磁の肌には、波の模様が淡く映し出されている。
彼女が瞬きをするたびに、パチパチと宙色の瞳に光の粒が舞う。
それがまた、髪と同じ白銀色の睫毛に反射して白磁の頬に落ちる。
「祷」
精霊の如き少女が、澄んだ声を放つ。
そして細くて長く、しなやかな指で水槽を指した。
「ほら見ろ」
揺れる白銀色の髪の動きに合わせて、白磁の肌で青い影が揺れる。
まるで天の羽衣が揺蕩うような美しさに、皆が指差した方向ではなく神楽に見蕩れていた、その直後だった。
「大きなカニだ。美味そうだな」
儚げな美少女らしからぬ発言が、形の良い唇から飛び出たのだ。
台無しである。
全くもって台無しである。
周囲の一般客もズッコケたり、荷物を落としたりしている。
魚を見るために水族館に訪れたはずの一般客たちが、セーラー服を着た絶世の美少女に視線が釘付けになっていたのだ。
そんな台無し美少女の神楽は、反応の無い祷の様子に首を傾げる。
「祷、どうした」
「……………。」
いつもの祷であれば、先程の台無し発言で盛大な溜息を吐くのだが。
「腹が痛いのか?トイレに行くか?」
祷のツッコミも制止も入らないので、美少女の口から不躾な言葉が次々と飛び出してしまっている。
普段は口数の少ない神楽だが、今は祷に手を繋がれているのでテンションが上がっているのだ。
その手繋ぎも、恋人の手を優しく握るようなものではなく、飼い主が暴れ犬のリードを必死に掴んでいるような力強いものであるのだが。
「祷」
「貴様はいつも、息をするだけで人を惹き付ける」
突然、祷が喋り出したことに神楽は驚く。
そんな神楽に視線を向けることなく、祷は真っ暗な瞳で淡々と呟く。
「蔵にでも閉じ込めておくべきか」
「だったらお前も一緒だ、祷」
神楽は迷いなく言い返す。
「1人きりで蔵に閉じ込められるのは寂しい。でも、私にはお前さえ一緒に居てくれればそれで良いからな」
照れることも恥じることも無く、神楽は真っ直ぐな言葉を伝える。
いつもだ。
神楽の言葉は、いつも真っ直ぐだ。
だから誰の心にも真っ直ぐに届く。
それはもう、貧富も身分も老若も関係なく平等に降り注ぐ太陽の光のように。
その光だけが、いつも祷の瞳を照らしてくれるのだ。
「よくもそんなこと、恥ずかしげもなく言えますね」
いつもの琥珀色の瞳を取り戻した祷が、溜息を吐く。
「む?おかしなことを言っただろうか」
「いいえ。そのままで良いです」
「そうか」
神楽は傾げていた首を元に戻して頷いた。
その安心したような神楽の顔を見て、祷は微笑みながらも眉を顰める。
(俺だけに言って欲しいですが)
神楽の真っ直ぐな言葉は、全ての者を明るく照らす。
けれど、祷の瞳は神楽の言葉でしか照らされない。
──────月が、太陽の光でしか輝けないように。
だから祷は、絶対に神楽を誰にも渡せない。
神楽が奪われる不安因子を、徹底的に取り除かないと気が済まない。
「………なんで、泣いたのですか」
祷の口から突如として飛び出した質問に、神楽は再び首を傾げる。
「む?先程のことか?」
神楽は祷に掴まれていない方の手を顎に当てる。
「私も分からん。気が付いたら涙が出ていた」
「では、どんな気持ちでしたか?」
祷は思わず、神楽の手を掴んでいる力を強めてしまった。
声音だけは平静を装うことができたが、手まで動揺を隠し切れなかった。
しかし神楽はそれに気付くことなく質問の答えを考える。
「日下部やお前の顔を見た時は安堵した」
「合流した時ではなく、金髪の少年に会った時ですよ」
「む。そういえばあのキーホルダー、お前が破壊していたな?」
「俺の質問が先ですよ」
「すまない」
ぴしゃりと祷に咎められ、神楽は肩を竦めた。そして真剣な様子で考え始めた。
「……可愛らしいと思った」
「他には?」
「他、か。特に何も」
「そう……です、か」
「何故そのようなことを聞く?」
「貴方が泣くなんて、よっぽどのことがあったのかと心配なんですよ」
「む、心配、か。すまない」
「なぜ謝るのです?俺が貴方に心配を掛けさせられるのは、今に始まったことではないでしょう」
神楽は反省した様子でキュッと唇を窄める。
そんな幼子のような反応を見た祷は溜息を吐いた後、握っていた神楽の手を持ち上げた。
「神楽。いいですか。あのキーホルダーにはスマホなどの電子機器の電波を阻害する機械が入っていました。貴方が俺たちと連絡を取れないようにするために」
「だから破壊してくれたのか。ありがとう」
「あのキーホルダーは、悪意ですよ。貴方を孤立させるための、悪意があのキーホルダーに詰まっていたのです」
「悪意…」
「ええ。だから今後、貴方の腕を掴んで連れ去ったあの男と、キーホルダーを渡してきた金髪の少年を見かけたら、すぐに逃げなさい」
祷の切羽詰まった様子に、神楽は少し驚いて目を見開く。
そんな神楽の瞳を真っ直ぐに見つめながら、祷は真剣にはっきりと口調を強めて言う。
「約束ですよ。絶対に逃げなさい」
念を押す祷に、神楽はコクリと頷いて見せた。
「承知した」
神楽は約束を違えない。絶対に。
祷はほっと胸を撫で下ろしながら、握っている神楽の手を引いた。
「ジンベエザメ。見に行くのでしょう?行きますよ」
祷はチラと、少し離れたところで神楽の護衛のために控えている日下部の姿を確認して歩き出す。
「ああ」
神楽は白磁の頬を桜色に染めながら頷くと、祷と共に歩き始めたのだった。
***
そうして神楽たちは、各々が自由に水族館の中を歩き終えて中央ゲートで集合した。
そして貸切タクシーを呼び、次の目的地であるフルーツのテーマパークへと向かったのだが。
そう、何度も言うがこれは修学旅行だ。
私立聖蘭学園中等部3年生だけが参加できる、修学旅行なのだが。
「…………なんで、入出先輩まで当たり前の顔してついて来てるのかな」
渚は額を押さえながら溜息を吐く。
環は水族館で別れることなくタクシーに乗り込み、花蓮の隣に引っ付いてきたのだ。
ちなみに環は聖蘭学園の生徒だが、高等部1年生である。
高等部1年生は修学旅行には参加出来ないはずなのだが。
「花蓮ちゃーん!ほら見て!あの大きな看板!奇抜なデザインだよね〜!」
「ホントだめっちゃカラフルじゃん!映える〜!」
テーマパークの入口にある、大きな看板を楽しそうにスマホで撮影する花蓮と環の後ろ姿を見て、渚はもう一度溜息を吐いた。
その隣にやってきた祷が、やれやれといった様子で苦笑する。
「まぁ、俺はこうなることを予想していましたよ」
「いや君もだよ」
渚は祷に視線を向ける。
祷は神楽の誘拐未遂事件の後から、ずっと神楽の手を掴んでいる。2人と一緒にタクシーに乗った日下部によると、タクシーの中でもずっと祷は神楽の手を握り続けていたらしい。
「君も一緒でしょ」
「個人的な用事で来た環と、理斗のお手伝いで来た俺を一緒にしないでください」
それだけ言うと、祷は神楽の手を引いてテーマパークの中へと入って行った。
その後ろを、日下部が1人で追い掛ける。
渚は花蓮の方へ視線を向けた。
花蓮は日下部の方を向くことなく、環と2人で楽しそうに撮った写真を見せ合っている。
(……失恋、しちゃったのかな)
凛々しい日下部と可愛らしい花蓮が並んで歩く姿は、お似合いな正統派カップルに見えたので残念だ。
でも、環も良いかもしれないと渚は思う。
神楽が行方不明になり、日下部が花蓮に非難の視線を向けた際。環は空気が悪くならないように、努めて明るく花蓮をフォローしていた。
軽薄そうな男だが、常に周囲の状況を把握して場の雰囲気が悪くならないように気を配っている。
前世からそうだが、とても頭の良い男である。
少し突っ走ってしまうところのある花蓮を、ちゃんと守ってくれそうな安心感がある。
何より、花蓮のことを一途に愛している。
(舞踏会にまでついて来る気なのかな…)
無意味な疑問だ。ここまで来て花蓮のドレス姿を、環が見逃す筈もない。
120パーセント、環は舞踏会にも参加するだろう。
渚はひとつ溜息を吐いてから、今度は桐生と肇の方へ視線を向けた。
2人は水族館も一緒にまわり、タクシーも同乗し、今も2人で楽しそうに話し込んでいる。
肇は桐生のことを気に入ったようだ。
肇は明るく朗らかな性格をしているが、実は好き嫌いが激しくて冷酷な性質を持つ。
退屈を最も嫌い、つまらないと思うと人でも物でもすぐに興味を失って捨てる。
渚は正直なところ、肇はすぐに桐生に飽きて離れると思っていた。
桐生は大人びていて物静かな男だ。
肇の好みとは正反対だと思っていたが。
(桐生…、気になってきたな)
肇は嗅覚の鋭い男だ。
肇が気に入る人間は、只者ではない。
(それに、入出先輩のあの態度……)
環は一切、桐生に視線を向けようとしなかった。
(気になるなぁ)
渚はふっと上がった口角を手で隠しながら、肇と桐生の後を追い掛ける。
(僕も入出先輩や祷のこと、言えないね)
渚はそのまま肇と桐生の会話が聞こえる、ギリギリの距離を保ちながらテーマパークの中へと入って行ったのだった。
─────────
───────
お腹が減っていた一同は、まずはテーマパーク内にあるカフェに向かった。
水族館のレストランで昼食を食べずに来たのは、フルーツをたくさん食べたいという花蓮の要望を叶えるためなのだが。
「かっ……神楽さんっ?それはっ…?」
花蓮が口元を戦慄かせながら問う。
問われた神楽はきょとんと大きな瞳を丸くさせた。
「パフェだが」
「いやいや見ればわかるよ!そうじゃなくってぇ!」
神楽の目の前に置かれたのは、メニューの中で最も大きなパフェだった。
「どうした」
「いやいやどうしたはこっちのセリフだよ!その量!まさか1人で食べるの!?」
確か、メニューには総重量が1.5キロと書かれていたが。
「そうだが」
神楽は平然とした顔で頷く。
「全部食べれるの!?大丈夫!?」
「大丈夫ですよ」
神楽の代わりに、祷が返事をする。
「神楽はこう見えて、甘い物限定で大食いなんですよ」
「そうなの!?」
思わず花蓮は日下部を見た。日下部もコクコクと頷いている。つまり前世からそうだったということである。
「ワッハッハ!その薄い腹のどこに収まるのか不思議だなっ!」
可笑しそうに笑う肇の隣で、桐生も頷く。
「ああ。いつも不思議でならない。これで全く太ることが無いのだから」
「男のオレでも羨ましく思うぞっ!」
ワハハと愉快に笑う肇の隣で、渚がふっと静かに笑う。
「女性が甘いものを好むのは、恋に落ちる高揚感とか幸福感に似てるかららしいよ」
「む。そうなのか」
目を丸くさせた神楽の隣で、祷が飲んでいた水を吹き出した。
「あ〜、それはわかるかも」
渚の言葉に同意した花蓮が呟くと、今度は花蓮の隣に座っていた環が飲んでいた水を吹き出した。
「えっえっそうなのっ?じゃあほらっ、アーン♡」
環が慌てて自分のソフトクリームをスプーンで掬い、花蓮の口元に運ぶ。
「えっ何キモ」
「食べてよ」
「急に何」
「吊り橋効果ならぬ、甘味効果だよ。僕が甘いものを食べさせれば、僕が君に恋の幸福感を与えたってことになるでしょ?」
「嫌すぎる無理」
環からプイッと顔を逸らした花蓮が自分のフルーツパフェを食べ始める。
環はしょんぼりと眉根を下げながら、花蓮の口元に運んでいたスプーンを諦めて自分の口に入れた。
そんな環を呆れた様子で見ていた祷は、隣で首を傾げた神楽に視線を向けた。
「どうしたのです?」
「これが、本当の『恋』の気分なのか?」
神楽は困惑した表情で祷を見た。
「───恋とは、もっと苦く苦しいものだと思っていた」
カラーンッ!と。
祷の手から落ちた金属製のスプーンが、硬い床に叩きつけられて悲鳴のような甲高い音を響かせた。




