18 涙
何でもない時に『涙』が出るのは限界のサインだよ。休んでね。
その場にいた全員が驚愕したのは、神楽の、ましてや真澄の涙すら見たことが無かったからだ。
──────否。日下部だけは真澄の涙を見た事があった。
しかしそんな日下部も、滅多に見ない神楽の涙に驚愕している。
「神楽様っ!?何かされたのですか!?どこか痛みがあるのですか!?」
「いや、違う。何もされていないし、どこも痛んではいない」
神楽も首を横に振りながら困惑していた。
「む?何故だ?止まらない…」
ポロポロと神楽の大きな宙色の瞳から、雨のように雫が滴る。それは白磁の滑らかな頬を伝い、細い顎からポツっと放たれては煌めきながら落下していく。
「……また、お辛い思いをされたのですか」
日下部が訊ねると、神楽は首をぎこちなく縦に動かした。
神楽は驚いた様子で潤んだ目を見開く。
「む?首が勝手に動いた」
「無意識で頷いてしまわれるほど、お辛い思いをされたのでしょう」
「そうなのか?」
「そうですよ。貴方はいつも、そうですから」
神楽は日下部から手渡された真っ白なハンカチで目元を拭いながら首を傾げる。
「いつも?そうだろうか?」
「とにかく、どこかで休まれた方がよろしいかと。外に出ましょうか」
日下部が神楽の手を引いて出口に向かおうとした、その時だった。
「神楽くん、手に持ってるそれは何?」
環が鋭い口調で神楽に訊ねた。
「む?これは人違いをしたお詫びだと言われて貰った」
神楽は手に持っていたジンベエザメのキーホルダーを掲げて見せる。
「誰から?」
「知らない少年からだ」
「どんな奴だった?」
「む。……金髪の小柄な少年だ」
「他には?どんな特徴があった?」
環に質問を重ねられ、神楽は顎に手を当てて考え込む。
「可愛らしい顔立ちをしていた。一見、少女と見間違えるくらいに」
「瞳の色は覚えてる?」
「………確か、緑色だったはずだ」
神楽の言葉に、環はニッコリと笑みを深めた。
そして笑顔のまま、神楽が手にしているジンベエザメのキーホルダーを指した。
「それ。その、キーホルダー。電波妨害の機器が入ってるよ」
環に言われ、神楽が驚きに目を見張る。
「本当か?」
「貸して」
差し出された環の手のひらに、神楽はキーホルダーを置いた。環はキーホルダーを持ったまま、神楽から後ずさって距離を空けた。
すると突然、神楽のスマートフォンから通知音が鳴り響いたのだ。
「む?」
スカートのポケットにスマホを入れていた神楽が、慌ててそれを手に取る。
「皆、連絡をくれていたのか。心配を掛けてすまない」
膨大な数のメッセージや電話の着信が入っていたことを確認して、神楽は申し訳なさそうに眉根を下げた。
「いや仕方ないよ、このキーホルダーのせいだから。半径2メートル以内にある電子機器の電波を妨害するようになってる」
「環、気を付けてください。他に何か仕掛けがあるかもしれませんから」
祷が、キーホルダーを確認するために環の傍に寄った、その時だった。
なんとジンベエザメから声が聞こえた。
【僕の真澄様、ちゃんと守ってよね】
声変わり前の、明るい少年の音声だった。
直後、バキリと音を立ててジンベエザメが粉砕した。
環の手の中にあったはずのジンベエザメは、瞬きの間に祷の手の中に移り、破壊されたのだ。
パラパラと床に落ちる破片を、祷は無言で見下ろす。
「祷くん…」
環が俯いた祷の顔を覗き込み、息を呑んだ。
祷の瞳が新月のように真っ暗だったからだ。
そんな環と祷から少し離れたところにいる神楽には、ジンベエザメから放たれた音声が聞こえなかった。
突然、キーホルダーを破壊して暗い表情になった祷を見て、神楽は首を傾げる。
そんな神楽に、日下部が声を掛けた。
「神楽様、外に出ましょう。この人混みの中では危険です」
「心配してくれている気持ちには感謝する。しかし無用だ。次は引っ張られないように気を付ける」
「泣くほどお辛い思いをされたのでしょう?ここから出て休息を取られた方がよろしいですよ」
日下部の言葉に、神楽は首を横に振った。
神楽の視線の先には、祷がいる。
「祷と、一緒にジンベエザメを見たい。祷に声を掛けてくる」
神楽は静かに言うと、祷の方へと歩いて行った。
残された日下部が、神楽の背中に向けて伸ばそうとした手を引っ込めた。そして拳を握り、離れてしまった神楽を黙って見つめる。
そんな日下部の隣に、花蓮はそっと寄り添った。
「忠はさ、神楽さんが祷くんと仲良くしてる時、どう思ってるの?」
花蓮の問い掛けに、日下部は視線を神楽の背中に向けたまま答える。
「正直なところ許せん。よりにもよって、真澄様を殺めた、あの男が神楽様の隣にいるのは」
「じゃあどうして神楽さんを引き止めないの?どうして追いかけないの?」
花蓮は珍しく、強い口調で問う。
「いいの?このまま神楽さんが祷くんと上手くいって、付き合っても」
花蓮は日下部の横顔を見上げる。
「祷くんが神楽さんの彼氏になって、夫になるかもしれないんだよ?でも、見ていただけの忠は神楽さんの何にもなれないんだよ?友人のまま、幸せになる2人を遠くで見ていることしかできないんだよ?いいの?」
花蓮は勢いのまま言い切って、そしてズキズキと痛む胸を押さえた。
(私も、そうだ)
私だって忠のこと言えない。
だけど。
だけど!
「よくないでしょ!!」
花蓮は言わずにはいられなかった。
「忠はずっと、真澄様の傍にいたのに!誰よりも近くで、真澄様のことを大切に守り続けていたのに!」
花蓮は瞼を閉じる。
瞼の裏に映るのは、常に真澄の隣に控えていた近侍の姿だ。
真澄の変化にいち早く気付き、誰よりも早く真澄の為に動いていた健気な男。
口数の少ない真澄の表情をよく見て、真澄自身よりも早く真澄が求めるものに気付いた男。
誰よりも真澄の傍で、いつだって真澄のことを想い続けていたのに。
こんなのって。
「こんなの、忠の気持ちはどうなるの?」
私はずっと見ていた。
日輪城に、夜永国の武士たちによって火矢が放たれたあの日まで、ずっと。真澄を庇って瓦礫に巻き込まれた、その最期の瞬間まで、真澄のことを想い続けていた近侍のことを!
「構わない」
「………え?」
いつの間にか、日下部が花蓮を見ていた。
その目は、穏やかな薄明の空のような色だった。
「神楽様の幸福こそが、俺の幸福だ。それ以上は望まん」
日下部ははっきりと告げた。そこに一切の迷いは無い。
(ああ、)
なんて。なんて真っ直ぐなんだろう。
花蓮は感嘆した。
そんな花蓮のことなど露知らず、日下部は淡々と告げる。
「かつての俺は、真澄様の近侍だった。でも、今は神楽様にとっては何者でもないことなどわかっている」
日下部はほんの一瞬だけ、寂しげに視線を下げた。
しかしすぐに前へと戻し、濃紺の瞳に黎明の光を宿して微笑んだ。
「でも、そんな事は関係ない。神楽様にとって何者にもなれなくても、俺は勝手に神楽様を想い、神楽様の幸福のために行動するのみだ」
そう言って、日下部は神楽の方へ歩いて行った。
そして祷と共に水槽を見上げる神楽から、少し離れた場所で立ち止まる。
花蓮は、引き止めることができなかった。
神楽の元へ向かっていく、日下部を。
花蓮は、追いかけることができなかった。
祷と語り合う神楽の背中を、健気に見つめている日下部を。
「か〜れんちゃんっ」
突然、ポンッと花蓮の頭に大きな手が置かれた。
「神楽くんも無事に戻って来たし、せっかくの水族館だよ。色々と見て回ろうよ〜」
いつも通りの軽薄な調子で環が声を掛けてきた。
「ちょっと。頭重い、手どけて」
「ごめんごめん。つい撫でたくなっちゃって」
「っていうか、なんでアンタ、ここに私たちがいるって知ってたの」
「なんでって…、僕の情報網の広さは知ってるでしょ?」
環は胸ポケットから取り出した手帳を、花蓮にひらひらと振って見せた。
「雛菊姫が沖縄にいるっていう情報を貰ってね。慌てて飛んで来たんだよ。でも結果的に、神楽くんは一時的に攫われてしまったけど」
環は悔しそうに唇を噛む。
「今回は神楽くんを返してもらえたけど、本気で攫いに来てたらかなりヤバかったよ。僕の失態だ」
「それは違う。私が、アンタに頼まれたのにすぐに神楽さんの傍に行かなかったのが原因だから」
「まだ言ってるの。今の君は忍者じゃないんだよ」
環はレモンイエローの目を細めて花蓮を見下ろす。
「何。君も日下部みたいに今世でも真澄様の従者でいたいの?」
「違う。今の私は神楽さんの『親友』だよ。忠の在り方を否定する訳じゃないけど、私は今を生きたいから」
花蓮はそう言ってから、視線を下げた。
目の前に広がっている水槽と同じ色の瞳が、揺蕩う。
「私、誤解してた。……忠は、過去に囚われてるんだって、だから今を見て、私を見て、私と今を生きてくれないかなって、思ってたん、だけどさ」
花蓮の声が次第に上ずり、途切れ途切れになっていく。
「私、やっぱりさぁ…、忠の、真っ直ぐなところ、かっこよくて…っ、好きだなぁって、思うんだよ…」
そして花蓮の瞳から、ポロリと真珠のような丸い涙が落ちた。
「でも……でも、それは…、神楽さんを、一途に想い続ける、忠、で。私を、見ない……忠、で」
「そうだね。その想いを、花蓮ちゃんに向けてくれれば、僕も安心できると思ったんだけどねぇ」
環の呟きに、花蓮は眉を顰める。
「……っ、どういうこと?」
「日下部はとても良い奴だよ。前世から、ずっと変わらない。人を見る目があるし、一度信じた者を絶対に裏切らない男だ」
「ちょっ!?」
環は花蓮の手を掴んだ。
「何すんのっ」
「日下部になら花蓮ちゃんを渡しても良いかなって思ったけど、やっぱり誰にも渡したくないな」
「え?」
「君に、一緒に地獄に落ちて欲しいなんて言わない。君に悪行の片棒を担がせるつもりは無い。けど、君の傍にいることを僕に許してはくれないかな?」
環は掴んだ花蓮の手をグッと引き寄せ、体勢を崩した花蓮の肩に手を置いて支えた。
自然と、2人は向き合う体勢になった。
驚いて何も言えずにいる花蓮を、環は首を傾けて蕩けるような視線で見下ろす。花蓮のことが可愛くて可愛くて堪らない、と訴えるような瞳で。
「この前、君とどうなるつもりもないって言ったけどさ、アレ、結構強がり言ったんだ。僕は元々、執念深い人間だし独占欲も強い」
環はふっと吐息で笑うと、驚愕のあまり硬直する花蓮の頬に触れた。そしてゆっくりとした動作で、その頬を伝う涙を指先で拭う。
「君が僕以外のせいで泣いているのも、本当は許せないかな」
レモンイエローの瞳がひたと花蓮の瞳を見据える。
いつもヘラヘラと軽薄に細められている目が、今はまるで猛禽類のような獰猛さを湛えて。
「ねぇ、花蓮ちゃん…、泣かないで」
なのに声だけは、優しく、穏やかで。
「君の涙も、僕のためだけに流して欲しいな」
環の顔が、花蓮に近づく。
ゆっくり、ゆっくりと。
それはまるで、草食動物に気付かれないように潜みながら近付く肉食動物のように。
レモンイエローの瞳とアクアマリンの瞳が混ざり合い、翠の光が散った、その時だった。
「ナシよりのナシだっつの!!!」
「ドゥフッ!!?」
ドスッ!と鈍い音が響いた。花蓮の拳が勢いよく環の鳩尾に入ったのだ。
周囲にいた一般客たちがドン引きして、モーセの海割りのように花蓮と環から離れる。
その中心で、花蓮は唇を横に引き伸ばしながら自分の両腕を擦った。
「えっ、急に何何何何。えっ、何。失恋で傷心中のところを漬け込もうとしてる?」
「流されてくれない?」
「アンタッ…、仮にも軍師だったのに情けなさすぎでしょ!」
「君のことだけはわからなくてさぁ〜」
環はいつもの飄々とした笑顔に戻ると、溜息を吐いた。
「全部、本音なんだよ」
「そう」
「もっと興味持って!なんでそんなに僕のことは頑なに好きになってくれないの?」
「やり方とか言うことが気持ち悪いからだよ」
「今から挽回できる?」
花蓮は顔を横向けて、水槽の中で宝石のように煌めく熱帯魚たちを見た。
皆、色鮮やかで美しいのにどうしてかレモンイエローが一際美しく感じられた。
「………さぁね。その回転の早い頭で考えてみなよ」
花蓮は水槽の方に顔を向けたまま歩き出した。
「あっ、待ってよ花蓮ちゃん!」
その背中を、環が慌てて追い掛ける。
そうして結局、花蓮は環と並んで水族館の中をまわったのだった。
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一方、その頃。
「見ろ、祷。クマノミが珊瑚から顔を出したぞ」
「……………。」
絶対に放さないという意志の表れか、ぎゅううと強く神楽の手を握っている祷。
そして手を握られながらも平然と水槽を見上げる神楽。
先程から神楽が祷に声を掛けているのだが、祷はずっと無言のまま俯いている。
そんな異様な2人を見て、周囲の一般客たちがモーセの海割りのように距離を取っていたのだった。




