17 事件
『事件』って何か予感するよね…前触れにちょっとした不幸な目に遭ったり。。
***
事件というのは、いつも唐突に起こるものである。
計画的犯行である場合、計画していた側にとっては計画通りであるのだが。
巻き込まれた側にとっては突然の事である。
本当に迷惑な話だ。
「お姉さん、ごめんね」
亜麻色の髪の少年が、申し訳なさそうに眉根を下げて神楽を見上げる。
「お詫びにこれ、あげる」
少年が差し出してきたのは、青いジンベエザメのぬいぐるみのキーホルダーだった。
「む。詫びなど不要だ。これはお前の大切な物ではないのか?」
「僕の大切なものは貴方だよ、お姉さん」
「む?」
「だから大丈夫。受け取って」
そう言った少年は、グイグイと神楽の手にキーホルダーを押し付けた。神楽が戸惑いながらも受け取ると、少年は満足気に笑いながら青年と共に去って行った。
──────────
───────
時は遡ること30分前。
水族館に到着した神楽たちは、さっそく水族館の中をまわり始めた。
桐生と肇は送迎車の中で意気投合したのか、水族館の中でも並んで話し続けている。
渚は1人で、1つ1つの水槽をじっくりと眺めて解説パネルをしっかりと読んでから次へと進んでいる。
祷と神楽は相変わらず2人きりの世界だ。水槽の中にいる魚に関連した知識や雑学を話す祷に、神楽が興味深そうに聞きながら頷いている。
花蓮はというと、感動した様子で大きな水槽を見上げる日下部の隣に並んで歩いていた。
「綺麗だね、忠」
「ああ」
焼けるような暑さの外気とは対照的に、館内は薄暗くて涼しい。開けた通路の両脇に立派な水槽がたくさん並んでおり、その中で大小様々な魚たちが自由に泳ぎ回っている。
そんな命の躍動によって揺れる水面から、真っ直ぐに差し込む青白い光が神秘的で美しい。
長年、愛を育むためのデートスポットとして選ばれ続けてきた水族館。
しかし日下部は、先程からずっと水槽を見上げている。
ちっとも花蓮の方を向いてくれない。
「美しいな。水槽の色が、神楽様の瞳によく似ている」
ピタ、と花蓮は思わず動きを止めた。
「そ……」
そうかな?
まぁそうかも?
でも神楽さんの瞳ってもっと宇宙みたいな深い青じゃないかな?どっちかっていうと、私のアクアマリン色の目の方が近くないかな?
日下部の呟きに心の内でツッコミを入れながら、花蓮は頷く。
「そうだね。神楽さんの目、綺麗な青だもんね」
「ああ。この世の誰よりも美しい」
送迎車の中でも日下部は神楽の話ばかりしていた。
そりゃあ、花蓮と日下部の共通の友人が神楽だからではあるが。
それにしても、日下部が神楽ばかりを褒めちぎるのは花蓮にとっては面白くない。
前世では神楽は花蓮と日下部の主上であった訳だが、現在は違う。
皆、ただの同級生だ。
「…………私の」
私の目にも似てない?見てよ。
いつものように明るくそう言えばいいのに、喉が詰まって言葉が出てこない。どうして。
(どうしてこんなに、虚しいの)
息苦しくてたまらない。
まるで水槽の中で溺れてしまったみたいだ。
(せっかく、義仁が気を遣ってくれたのに!)
何にも出来ない自分が不甲斐なくて悔しくて悲しい。
──────誰か!誰か助けて!
藻掻くような思いでそう願った、次の瞬間。
「花蓮ちゃぁ〜〜〜〜んっ!!♡♡」
聞き馴染みのある、間の抜けた声が遠くから聞こえた。
聞こえる筈のない声なのだが。
「久しぶりっ!元気にしてた?」
駆け寄ってきたのは赤いアロハシャツを着た環だった。
浮かれた格好の通り、浮かれた様子で手を大きくブンブンと振っている。
花蓮は表情をグシャリと歪めた。先程とは違う意味で。
「なんっっっでアンタがここにいんのよっ!!?」
「ちょっと急用ができてね。……あれ」
環が花蓮の隣にいる日下部に目を向けた。
「珍しいね。桐生じゃなくて日下部と一緒なんだ?」
「お久しぶりです、入出先輩」
日下部はサッと頭を下げて環に挨拶をする。
実のところ、環は幼い頃から剣道を習っている。
環と日下部は同じ剣道場に通っており、全国大会に進むくらいの腕を持つ環がよく日下部にアドバイスをしているのだ。
だから日下部にとっては、環は頼れるアドバイザーなのである。
「急用とは何でしょうか?俺に手伝えることであればやりますよ」
「そうだね。是非ともお願いしたい。花蓮ちゃんにも」
「はぁ!?なんで私まで!?」
全力で嫌そうな顔をした花蓮を、しかし環は真剣な表情で見つめ返す。
「ここに雛菊姫がいるんだ」
その言葉に、思わず花蓮は肩を跳ねさせる。そして隣を見て、日下部も険しい表情をしていることに驚いた。
「………もしかして、忠も知ってるの?」
花蓮は日下部に訊ねたのだが、環が頷く。
「うん。全部話してあるよ。彼は花蓮ちゃんの他に唯一、何の疑いもなく神楽くんに忠誠を誓っていると確認が取れる人物だからね」
「前田も知っていたのか」
日下部も驚いた顔をして花蓮を見る。水族館に来て、今、初めて花蓮を見た。
花蓮が動揺のあまり黙り込んでいると、環が説明を始めた。
「そうだよ、僕が話したんだ。花蓮ちゃんが裏切り者な訳がないからね。それより祷くんは?何処にいる?」
「すぐそこにいますよ」
日下部が指した方向で、祷は水槽の前で神楽と並んで立っていた。それを見た環が額を押さえる。
「あ〜、神楽くんも一緒かぁ。ちょっとだけ引き剥がしてもらえる?」
「お任せ下さい」
日下部はすぐに神楽の元へ向かい、後ろから声を掛けた。すると神楽と同時に祷も振り返り、環の姿を確認して驚いた。
「環までこちらに来られたのですか」
「急用でね。ごめん、神楽くん。少しだけ祷くんを借りるよ」
「承知した」
神楽は頷くと、隣の水槽の方へ歩いて行った。
「花蓮ちゃんお願い!神楽くんを1人にしないで!」
「わかった!」
環に言われ、花蓮は慌てて神楽の後を追った。
しかし。
「あっ!ここにいたんだ!」
突如、白銀色の髪の青年が人混みの中から現れて神楽の腕を掴んだ。
「む?」
「探したよ〜!早く行こう!」
「神楽さんっ!」
花蓮が反応するよりも早く、青年が神楽の腕を引っ張って駆け出す。青年も神楽も背が高いのに、人混みに紛れてあっという間に姿が見えなくなった。
「神楽様っ…!!」
状況に気付いた日下部が慌てて神楽の後を追う。
「神楽さんっ!!」
青ざめた顔で走り出そうとした花蓮の肩を、環が掴んで止めた。
「ここは足の速い日下部くんに任せよう。この人混みでバラバラになるのはまずい。とりあえず僕達はここで待機だ」
平日の午前中とはいえ、有名な観光地であるこの水族館はたくさんの観光客で溢れ返っている。
少しでも離れると、人混みの中へ流されて紛れてしまいそうだ。
「………今の男、見覚えがありますね」
環の隣で、祷が顎に手を当てる。
一見は冷静そうに見えるが、祷は深呼吸のようにゆっくりと意識して呼吸が早まらないようにしている。
「雪丸 榊。今世でもアイツの従者だよ」
「雪丸ってことは…、神楽のお母様の親族ですか」
「ここまでくると、もはや呪いだよねぇ」
「何……?何の話?」
怪訝な顔をする花蓮に、環はニッコリと笑って見せた。
「神楽くんの血筋がすごいって話だよ」
ただでさえ生気の感じられない青白い肌をした環が、より一層、水槽からの青い光で亡霊のように見えた。
***
突然、見知らぬ青年に腕を掴まれ引っ張られた神楽は混乱していた。
青年が知己のように自分に話しかけるものだから、神楽は必死に記憶を辿って思い出そうとしていた。
だから反応が遅れた。
気付いた時には祷たちから遠く離れた場所にまで引っ張られてしまっていた。
「…む。すまない。止まってくれないか。お前が誰か思い出せないのだが」
神楽が声をかけると、青年がピタリと足を止めた。
「えっ?」
そして振り返り、神楽の顔をまじまじと見つめた。
「……え?どちら様ですか?」
「それはこちらの台詞だが」
「あーっ!やっと来た榊!!」
神楽と青年が見合っていると、少し離れたところから少年の声がした。
「もぉー!!遅いよどこ行ってたの!?」
「白夜様っ、申し訳ございませんっ」
榊と呼ばれた青年が、神楽の腕から手を離して頭を下げる。
白夜と呼ばれた少年が、頬を膨らませながら腰に手を当てて怒っている。
神楽は困惑しながら、榊と白夜の顔を交互に見た。
榊と呼ばれた青年は背が高く、神楽と同じ白銀色の髪で神楽と同じ蒼い目をしている。
顔立ちも凛々しく、そこはかとなく神楽の母に似ているような雰囲気だ。
一見すると細身の体躯だが、腕や太腿の部分は少し膨れていて鍛えられているのが窺える。姿勢も真っ直ぐで只者では無いように見受けられる。
白夜と呼ばれた少年は、亜麻色の髪と翡翠色の瞳が爽やかで美しい。
一見すると少女に間違えられてしまいそうなほど、睫毛の長い大きな丸い瞳が特徴的な可愛らしい顔立ちをしている。
体躯は細く、身長は女性の平均身長である花蓮と同じくらいのように見える。
(全く見覚えが無い)
神楽は脳をフル回転させたが、掘り起こした過去の記憶の中でこんな美青年と美少年に出会った覚えは無かった。
神楽が困惑しながら見つめていると、その視線に気付いた白夜が神楽を見て首を傾げた。
「………お姉さん、誰?」
「お前こそ誰だ?」
「申し訳ございません!!」
神楽も同じ質問を返したところで、榊が勢いよく頭を下げながら謝罪した。
「私が間違えて連れて来てしまいました!」
「はぁ!?」
声変わり前の、甲高い少年の声が響き渡る。
「人違いってこと!?何してるの榊っ!!」
──────そうして、冒頭に戻る。
***
「神楽様をっ……見失いました……」
日下部は人混みを掻き分けながら必死に走って追い掛けたのだが、神楽を見つけられなかった。
協力を求めるために、祷たちのところへ戻ってきたのだが。
「駄目です。電波が妨害されているのか、神楽の位置情報すら掴めません」
「うーん、計画的だねぇ。やられた」
神楽のスマホにGPSアプリを入れていた祷が唇を噛む。その隣で環も舌打ちした。
日下部が、ギリッと拳を強く握り締める。
「クソッ…!」
何度も神楽のスマホに電話をかけたが繋がらず、焦燥と絶望で日下部の顔はグシャリと歪んだ。
「大丈夫?忠…」
花蓮が日下部の顔を覗き込んだ。
心配して、覗き込んだのだが。
「っ!」
日下部は非難するような視線を花蓮に向けた。
──────お前も神楽様を守る側の人間だろうが、と。
神楽を1人にするなと環に言われたのに。
目の前で、神楽が連れ去られるのを許したな。
口には出していないが、目は口ほどに物を言う。
その視線が鋭い刃となって、花蓮の心臓をザックリと斬り込んだ。
花蓮は震える唇を開く。
「ごめ…なさ……」
「なぁんで花蓮ちゃんが謝るの」
ポンッと花蓮の頭に環の大きな手がのせられた。
「日下部。その目、やめな」
環に鋭く言われ、日下部はハッと我に返った。
「すみません…」
「うん。そうだね。今の花蓮ちゃんは忍者じゃないよ。神楽くんの従者でもない、ただの学生だ。それは君だって同じだろう」
「でも俺はっ…」
「そうだね。君は今でも神楽くんに従っている。でも、それを花蓮ちゃんに強要するのはおかしいだろう」
花蓮は顔を上げて、隣に立つ環を見上げた。
頼もしい横顔だった。
濃紺の髪の隙間から見える黄檗色の瞳に、月のような柔らかな光が宿っている。水槽から差し込む波模様の淡い光が彼の白い肌を幻想的に浮かび上がらせている。
その雰囲気はまるで、静かな月夜の凪いだ海のようで。
心の底から安心できる、心地よい雰囲気だ。
「すまない、前田…」
日下部から謝罪され、花蓮はハッと我に返った。慌てて視線を日下部に向ける。
「えっ?いや、いいよいいよ!神楽さんのことが心配なのは私もわかるもん!仕方ないよ」
「ふふ。花蓮ちゃんは本当に良い子だね」
環が優しく微笑みながら花蓮の頭をわしゃわしゃと撫でる。
「ちょっとぉ!!髪グシャグシャにしないで!!」
「ああ、ごめんごめん。お詫びに整えてあげるよ」
「要らない!!触らないでっ!!」
花蓮は飛び退いて環から離れた。
そして環に触られたところをペッペッと手で払い除ける。
しかし。
先程までズキズキと傷んで冷たくなっていた花蓮の心は、ドキドキと鼓動して温かくなっていた。
(相手は環だっていうのに、嘘でしょ!?)
「入出先輩」
胸を押さえて縮こまっていた花蓮は、突然、発せられた渚の声に驚いてビクッと肩を跳ねさせた。
「どうします?館内放送でもお願いしますか?」
渚の提案に、環は頷いた。
「うん。でも先に学園への連絡かな。許可を得てから館内放送、その次に警察だね」
「心配だな…。オレも探したい」
しょんぼりと眉根を下げながら肇も呟く。
「俺も同感だ、探しに向かいたい。肇と2人での行動なら良いか?」
桐生が訊ねたが、環は肇だけを見て頷いた。
「そうだね。お願いしてもいいかな?10分後には必ず戻ってきて」
「わかった!」
肇は元気よく返事をすると、桐生の腕を引っ張って走り始めた。
しかし。
「あれっ、神楽!?」
走り出した肇が、足を止めて大きな声を上げた。
皆の視線が一斉に肇の視線の先へと向けられる。
そこには、確かに神楽がいた。
「神楽様っ…!!」
日下部が誰よりも早く駆け出して神楽を迎えに行く。
「神楽様っ、ご無事ですか!?」
「ああ。どうやら人違いだったそうだ」
神楽がコクリと頷きながらこちらに歩み寄って来る。
「よかったぁー!!神楽が見つかって!!」
肇が胸を押さえながら大きく息を吐く。
「本当にね…」
環も力が抜けたのか、壁に背中を預けて脱力する。
祷も、花蓮も桐生も渚も。全員が大きく息を吐いて安堵した。
「よかった……本当に」
祷が額に滲んでいた汗を拭った、その時だった。
「神楽様っ!?」
日下部の大声に、皆が慌てて顔を上げた。
そして驚愕に目を見開いた。
「む?なんだこれは……?」
視線の先にいる神楽の瞳から、大粒の涙が次々と零れ落ちていたのである。




