11 嘘吐き
***
祷は神楽の寝室をノックした。
「神楽、入ってもよろしいですか?」
「構わない」
寝室の中から聞こえてきた神楽の声音がいつも通りで、祷はほっと安堵する。そして後ろにいる環と花蓮を振り返って微笑んだ。
「入りましょう」
2人が頷いたのを確認してから、祷は扉を開いた。
寝室の中で、神楽はベッドに腰掛けていた。顔色も良さそうだ。
「神楽っ…元気そうで良かったです」
神楽はゆったりとした半袖シャツと7分丈のスウェットパンツを身にまとっている。いつもの寝間着だ。
しかし。
「何ですか……それ………」
その腕や足元には噛み跡や鬱血痕がびっしりとついており、神楽の白い肌を赤黒く染めていた。
「どうしたのですかっ…、これはっ!?」
祷が慌てた様子で神楽に駆け寄る。
その後ろで、環は無表情で神楽を見つめ、花蓮はバツが悪そうに視線を落とした。
神楽はじっと環を見つめ返す。静かに品定めをしているレモンイエローの瞳を。
「答えなさいっ、神楽!これはどうしたのです?」
祷が神楽の傍で膝をつき、酷く心配そうな顔をして神楽の顔を覗き込む。
神楽は視線を祷に向けた。
「……………。」
神楽は嘘を吐けない。
嘘を吐くと心苦しくなるのも理由だが、最もたる理由は神楽のアイデンティティだ。
神楽は決して自分にも他人にも嘘を吐かないのが信念であり、魂そのものとも言える。
だから真実を告げることが誰かを傷付けることになる場合、神楽はいつも黙り込んでいた。決して口を割らなかった。
「神楽っ!」
しかし今は、黙り込むという行為すらも祷を傷付ける。
それならば。
「祷」
神楽は祷の腕を掴んで引き寄せた。
「えっ」
そして腕の中に祷を閉じ込めた。
サラシが巻かれている神楽の胸に頬を押し付ける体勢になった祷が、カッと顔を赤らめさせる。
「は!?ちょっ…何してるんですか!?環も前田さんもいらっしゃる目の前でっ!!」
身じろぐ祷を、神楽はギュウと強く抱き締める。祷の柔らかな黒髪に頬を擦り寄せながら、神楽は口を開く。
「腹の痛みが酷くて、自分の腕や足を噛んで耐え忍んでいた」
神楽は静かに告げたのだ。
嘘を。
環の指示ではなく、自分の意思で。
途端、環が優しく目を細めた。
それは安堵だろうか、賞賛だろうか。環の心の機微が神楽にはわからなかったが、批判的ではなかったことに神楽は静かに胸を撫で下ろした。
「そんなに痛みが酷かったのですか?今も痛みますか?」
神楽の腕の中で、祷が心配そうに訊ねてくる。
「いや、大丈夫だ」
「寒気が酷くて布団にくるまっていたと、母から聞きましたが?」
「それも大丈夫だ。七織の看病のおかげで今は寒くない」
「この噛み跡や引っかき傷の方は?ちゃんと消毒しました?」
神楽は思わずギクリと身体を硬直させた。祷を抱いたままなのでバレバレである。
「してないのですね。早く放しなさい、消毒液を持ってきますので」
「む。大丈夫だ、必要無い」
「化膿したらどうするのです!いいから放しなさい!」
「この傷のことは七織には秘密にしてくれ」
被せ気味に言った神楽に、祷は目を細めた。
「……貴方。まさかこの傷を見せないために寒気がするとか言って、布団に隠れていたのですか」
再び神楽の身体がギクリと軋む。隠すつもりが無いように思えるほどわかりやすい。
「馬鹿ですか貴方は」
「む。馬鹿とは聞き捨てならない」
「馬鹿ですよ。お腹の痛みが酷いのも、きっと最近の寝不足のせいで体調を崩しているのも原因でしょう」
神楽は目を見開いた。
「……気付いていたのか」
「俺が貴方の変化に気付かない訳がないでしょう」
神楽はここ2週間、祷がいる前では眠たい素振りを見せないように細心の注意を払っていたのだが。
「貴方が必死に隠そうとしていたので、敢えて指摘しなかったのです。何か悩み事でもあったのですか?……ぐっ!?」
神楽がギュウギュウと祷を強く抱き締めた。
「ちょっ……神楽!苦しいです!」
「すまない。つい…」
神楽は慌てて祷を解放した。
そのまま立ち上がった祷を、神楽が物言いたげな目で見つめる。祷は苦笑すると、小さく息を吐いてから口を開いた。
「安心なさい、母にはその傷のことは言いません」
それだけ言うと、祷は静かに寝室から出て行った。
残された神楽が、環と花蓮に視線を向けて頭を下げた。
「見舞いに来てくれたこと、感謝する」
「元気そうで良かったよ〜!安心した〜!ハイッ、これ!」
花蓮が見舞いの品として、学園の自動販売機で買ったオレンジジュースのペットボトルを10本も神楽に手渡す。
「ありがとう」
「僕からも、これ」
環は大きな梅ジュースの瓶を神楽に手渡す。
「神楽くんは酸っぱいものが好きなんだってね。花蓮ちゃんから聞いたよ」
「ああ、その通りだ。感謝する」
「それはそうと、カメラの映像。どうだった?」
環が唐突に神楽に訊ねる。
微笑んでいた神楽はすっと真剣な表情になると花蓮に視線を向けた。
「花蓮はどこまで知っている?」
「僕が全部話したよ」
「そうか」
神楽は瞼を閉じた。
「私が起きないせいで、祷は錯乱した。この手足にある傷は錯乱した祷が私に噛み付いたり引っ掻いたりしてできた傷だ」
神楽が淡々と告げると、環は「予想通りだったね」と呟いた。
カッと花蓮の顔が怒りに染まる。
「アンタッ…!神楽さんが傷付けられることをわかってて薬を飲ませたの!?」
「そうだね。でも、祷くんの夢遊病を止めるには祷くんが睡眠薬を飲むか、神楽くんが睡眠薬を飲んで無意識状態になるしか方法は無かったんだ」
「そうだな、環には感謝している。映像のおかげで祷の心の傷の深さを知ることができた」
神楽は瞼を開き、環を真っ直ぐに見つめる。
「祷が睡眠薬を飲んだとて、根本的な解決にはならない。祷の心にある傷を癒さない限り夢遊病は治らない。今晩は薬を飲まずに起きているつもりだ。幸い、明日は土曜日だからな」
「必要無いよ。たぶん、これでもう祷くんが神楽くんの寝室に来ることは無いからね」
環が断言する。
「む。何故だ?」
「君、無意識状態で何かを呟かなかった?」
環はレモンイエローの瞳を鋭く光らせる。何かを確信し、探っているような瞳だ。
「祷くんが君の寝室から立ち去る直前、君は祷くんに何かを言わなかった?」
まるで神楽が握り潰したカメラの映像を見たようなことを言う環に、神楽は疑いの眼差しを向ける。
「あの小型カメラにはネットワーク機能は無いとメッセージで言っていなかったか?」
「メッセージの通り、映像はあのカメラでしか確認出来ないよ。だから僕は映像を見れていない」
「では、お前はなぜ映像の内容を知っているような物言いをする?」
神楽が訊ねると、環は悲しげに目を細めた。
「僕の両親も、祷くんと同じように夢遊病になったからさ」
「………え?」
突如、コンコンと扉をノックされた。
「入ってもよろしいですか?」
祷の声だった。
「構わない」
神楽が答えると、大きな救急箱を持った祷が寝室に入って来た。
「俺が傷の手当をします」
祷は救急箱をナイトテーブルに置き、箱から消毒液やガーゼを取り出して準備を始めた。
その背中に環が声を掛ける。
「じゃあ、僕達はここでお暇させてもらおうかな」
「そうですか。十分なおもてなしもできず申し訳ございません」
「神楽くんの元気そうな顔を見れただけで十分だよ。ね、花蓮ちゃん」
「それはそうだけど…エッ、何っ?なんで私が環と一緒に帰ることになってんの?」
嫌がる花蓮の手首を掴み、環がニッコリと笑う。
「それじゃあ神楽くん、お大事にね!」
「イヤ〜ッ!!放してよ馬鹿ぁ〜っ!!」
そのまま環に引き摺られ、花蓮が寝室の外へ出て行った。
「追いかけて止めた方がいいか?」
心配して立ち上がった神楽の肩に手を置き、祷は首を横に振る。
「大丈夫ですよ。ただのじゃれ合いです」
「じゃれ合い…」
「ええ。喧嘩をするほど仲が良いと言うでしょう?」
「む…。そうだが……そうなのか……?」
「それより貴方は、他人よりも自分の心配をしなさい。滲みるかもしれませんが、我慢してくださいね」
そう言って、祷はピンセットで消毒液をたっぷり染み込ませた綿球を神楽の腕に押し付けたのだった。
***
環は神楽の寝室から出た際にスマホで入出家専属の運転手に連絡し、月宮家の邸宅前に停まった送迎車に花蓮と共に乗り込んだ。
半ば強引に花蓮を車に押し込んだが、そもそも花蓮が本当に環と一緒に帰ることを嫌がっていたのなら、容赦なく環にパンチやキックを食らわせて逃げ出していたことだろう。
そうではなく、大人しく環に押し込まれるがまま入出家の送迎車に乗ったということは、つまり環と話す意思があったということになる。
「花蓮ちゃんは僕の何が気になって車に乗ってくれたの?」
後部座席で隣に座った花蓮に訊ねると、花蓮は顔を背けたまま話し始めた。
「神楽さんに嘘を吐かせたの、なんで?」
環は、前世で鷹明が言っていた言葉を思い出す。
『真澄は絶対に虚偽を述べない。だから真澄の言葉だけを、俺は手放しで信頼する』
思い出して、環は笑う。
『此方が私の愛する妻だ』
そう言って亜麻色の髪の姫を抱き寄せる真澄は、環の目には大嘘吐きに見えたが。
「神楽くんが『決して嘘を吐かない』という自分のアイデンティティを曲げてまで、祷くんの心を守るのかを試させてもらったんだよ」
環が言うと、花蓮が振り向いた。
毛虫を見るような目をしていた。
「アンタが誘導したんでしょうが」
「でも最後に嘘を吐く選択をしたのは神楽くんだ」
環が微笑むと、花蓮は再び顔を車窓の方へと背けてしまった。その桃色の髪が美しい後頭部を見つめながら、環は小さく息を吐く。
「嘘を吐くのは一般的に悪いことだって言われてるけどさ、相手の心とか自分を守るために必要な時ってあるでしょ?」
「そうだけど、神楽さんの信念を曲げさせるのは良くないと思う」
「信念、ね。確かに神楽くんも真澄様も嘘を吐かなかった理由は、確かにアイデンティティを守るためだったとは思う。でも、そのアイデンティティがどうして確立されたと思う?」
花蓮が少しだけ顔を横向けた。
「御館様のお教えだったんじゃないの?御館様も誠実で真摯な御方だったもん」
「そうだね。父御にそっくりだったもんね。でも違うよ」
環は断言する。
「鷹明様のためさ。あの御方は自分の目で見て確信したことしか信じない。だから真澄様は鷹明様に誓ったんだよ、決して嘘は吐かないってね」
花蓮は思わず振り向いた。花蓮のアクアマリンの目と環のレモンイエローの目がかち合う。
「じゃあ神楽さんは?神楽さんも祷くんと約束したってこと?」
「違う。魂が覚えていたのさ」
環は自身の胸ポケットから古びた手帳を抜き出して花蓮に手渡す。
「どういう神の思し召しなのかは知らないけど、日月峠の戦いに関わった人間のほとんどが同じようなタイミングに同じような場所で転生してるんだよ」
花蓮がその手帳を開くと、無数の人の氏名がびっしりと書き込まれていた。前世の名前と今世の名前、そして今世の住所と生年月日までその隣に並んでいる。
恐怖のあまり花蓮は口元を引き攣らせたが、環は構わずに話し続ける。
「転生した者を調べてみたら、ある法則があった。前世の記憶が無い者は『前世に未練が無い』者。記憶がある者はその逆だってことだよ」
「未練…」
花蓮は前世で日輪城に侵入していた刺客に斬られて死んだ。その死の間際に、刺客の存在を仲間に伝えられず真澄の身を案じた。
そして真澄を守りきれなかったことを酷く悔やんだ。想い人に想いを伝えられなかったことも。
「でも、記憶が無い者たちも前世と変わらない容姿で性格もほぼ同じ。さらに無意識の状態で前世のことを語る姿も目撃されている。例えば『寝言』とかね」
花蓮は目を見開いた。そして納得した。
「だからアンタはあの時、神楽さんに映像のことを聞いた時。昨日の夜に呟いたことを聞いてたんだ」
「そう。もしかして無意識の神楽くんは、鷹明様の名前を呼んであげたんじゃないのかなって思ったんだ」
環は笑いながら、花蓮の手から手帳を引き抜く。
「前世の記憶が無い者が、記憶を取り戻したという報告は未だに受けていない。もしかしたらこのまま永遠に思い出さないのかもって最近は諦めてる」
「…………記憶を取り戻させたい人がいるの?」
花蓮が訊ねると、環は笑みを深めた。
「神楽くんだよ。今度こそ騙されず、嘘も上手に使いこなして欲しいなって」
「は?誰に騙されるのよ」
環は笑顔のまま黙り込んだ。車窓から差し込む夕日が、環の顔の影を深く濃く染める。
「……女狐だよ」
「はぁ?もしかして私のことぉ!?」
「えっ?」
環は思わず素っ頓狂な声を上げる。
「え!?違うよ!!可愛い可愛い花蓮ちゃんが女狐な訳ないでしょ!!僕にとっては女神様だよ〜」
「だって私、前世で『男を欺く女狐』って噂されたことあるし!!」
「何それ!ひっどい噂だね〜!」
絶対に耳にしたことがある筈だというのに、知らない素振りをする環に花蓮は舌打ちをする。
「アンタの前世での噂も相当だったでしょうが」
「え〜っ!有能な名軍師ってウワサ?」
「軍師としての能力は凄いけど、『女たらしの屑野郎』ってね」
環は他人の言動を数十手先まで予測できる男だ。だから女性の心を鷲掴みにするのも容易い。
どんなに気位の高い女も、どんなに男慣れした女でも、環の手にかかればすぐに落ちた。だから遊戯感覚で環は色んな女性と関係を持っていたのだが。
「前世で君という運命に出会ってから、一度も女に手は出してないよ。今世でもね」
「へぇー」
「もっと興味持ってよ」
環が半べそをかいて見せるが、花蓮は冷たい視線を向け続ける。
「よくも好きでも何でもない女をホイホイと抱けたよね。仕事じゃなきゃ絶対ムリだわ」
「仕事といえば、花蓮ちゃんってハニートラップが得意だったよね?逆に質問したいんだけど、日下部にはしないの?」
花蓮の拳骨が環の脳天を直撃した。
「その質問、セクハラだから」
「ごめんって……イタタタタ…」
環が痛みに頭を押さえながらも笑う。
「いやぁ、日下部は良い意味でも悪い意味でもクソ真面目だからさぁ、花蓮ちゃんがアタックすれば真摯に向き合ってくれると思うんだけどねぇ」
環の言葉に、花蓮は訝しげな顔をする。
「……え、何?逆に怖いんだけど…」
「安心してよ。僕、花蓮ちゃんのことは大好きだけど、花蓮ちゃんと結婚したいとかは思ってないから」
花蓮は思わず驚きに目を見張った。
その反応を見て環は片頬だけを持ち上げる。
「意外だったでしょ」
「実は嘘だよ〜とかは?」
「ないよ」
「………一応、理由は聞いてやる」
花蓮は環の瞳を見つめる。
環も花蓮の瞳を見つめ返す。
愛しい女性に見つめられているというのに、環は飄々と笑っていた表情を落とした。
「雛菊をぶっ殺したいから」
今まで聞いた事のない、地獄の底を這うような低い声で環は唸るように言ったのだ。