10 傷
***
入出 環はいつも朝のHR開始ギリギリで教室に入る。
友達がいないからだ。
多種に渡るコンサルタント企業の跡取り息子である環は、いつも家の送迎車で時間通りに登校しているのだが、すぐには教室へ向かわない。
屋上に出て、中等部3年B組を見下ろしている。
自席が窓際である神楽の傍に、いつも愛しの花蓮がいるからだ。
いつもと変わらぬ平凡な朝。
今日も環は1人で屋上へと向かい、愛しの花蓮を観察するつもりだった。
いや、今日だけは否。
神楽が登校していない非平凡な朝であることを確認するつもりだったのだが。
「このっ下衆野郎─────ッ!!!」
屋上の扉を開いた途端、強烈なキックが飛んできた。
「オグウッッッッッッ!!!」
環はその声の主に瞬時に気付き、喜んでその攻撃を受けた。
こう見えて、環は常に余裕のある男だ。
なぜなら常に他人の言動に対して数十手先まで読んで行動しているから。
しかし花蓮だけはいつも奇想天外で、絶対に環の読み通りには動いてくれない。だから環は生まれる前から、そして生まれ変わっても花蓮のことが好きなのだ。
鳩尾に入った強烈な蹴りさえも愛おしく感じられ、環はヨダレを垂らしながらニッコリと笑った。
「ゲホッ、花蓮ちゃんっ……どうしてここにっ…?」
「どうしても何も無いわよ!!あの薬に何を入れたのよ!!」
腰に手を当てて仁王立ちしている花蓮が、尻餅をついた環を威圧的に見下ろす。
「神楽くん、もしかして欠席?」
「そうよ!!アンタの薬のせいでしょ!?」
環は笑みを深める。
「ん〜、まぁ間接的にはそうかな。でも直接的な原因ではないよ」
「どういう意味よ」
「僕の予想通りだったってことさ」
環は腰ポケットからスマホを取り出して神楽にメッセージを送る。
「何してんのよ」
「神楽くんに、お見舞いに伺ってもいい?って聞いてみたんだよ」
「はぁ!?いつの間に神楽さんと連絡先交換してんのよ!!」
「お、すぐ返信きた。『構わない』ってさ。花蓮ちゃんも一緒に来る?」
絶対に嫌!と断固拒否されると環は予測していたのだが。
「行く」
「え?」
「アンタと一緒に行ってやる。けど、交換条件にアンタが何を企んで、アンタが神楽さんに何をしたのか洗いざらい全て話してもらうから」
今日は生憎の曇天。
暗澹とした鉛色の空が空気をどんよりと重くさせている。
「……いいよ。他でもない花蓮ちゃんの頼みだからね」
そんな空色とよく似た雰囲気を持つ男は、うっそりと笑いながら黄檗色の瞳を細めて愛しい少女を見つめたのだった。
***
時刻は午前9時半。
月宮家本家の邸宅。
神楽は自室に篭もり、お粥を食べている。
「平日の朝にのんびりしていると、なんだかいけないことをしている気分だな」
神楽は生まれて初めて経験する『サボり』にテンションが上がっていた。
時は遡ること5分前。
神楽の寝室の扉がノックされた。
「失礼致します、神楽様」
神楽は首から下にある無数の傷を見せないよう、掛け布団にくるまって顔だけを出した。
「何の用だ」
「朝食をお持ちしました」
「入れ」
朝食として用意されたお粥を持って来てくれたメイドに、『寒気が酷くて布団から出られない』と伝えてベッド脇にあるナイトテーブルにお盆を置いてもらった。
メイドが部屋から出て行ったことを確認してから、神楽はゆっくりと掛け布団から出た。そしてベッドに腰掛けながら、食膳に手を伸ばしたのである。
「梅がゆ、か。……美味いな」
神楽は酸っぱいものが大好物だ。梅干しやレモンに目がない。
優しい味のお粥に程よく混ざった梅の酸味に舌鼓を打っていると、再び寝室の扉がノックされた。
「神楽ちゃん大丈夫?」
七織の声だ。神楽は慌てて掛け布団の中に潜り込み、顔だけを出して返事をした。
「問題ない」
神楽が答えると、心配そうに眉根を下げた七織が寝室に入ってきた。
「まだ寒気がするの?」
「ああ。布団から出られない」
「そっか、熱でもあるのかな?」
七織が神楽の額に優しく手のひらを置いた。
「ん〜、熱くはないけど念の為測っておこうか」
七織が踵を返して扉の方へ向かった。七織が扉を開けると、たまたまメイドが近くを通ったので体温計を持ってくるように指示した。
再び神楽の元へ戻ってきた七織がふとナイトテーブルを見てパッと表情を明るくさせた。
「あっ、お粥は食べられたんだ〜!よかった」
「とても美味しかった」
「絶妙な塩加減と酸味だったでしょ?私も生理痛が酷かったときにお母さんに作ってもらったんだ〜」
七織の言葉に、神楽は目を瞬かせる。
「もしかして、貴方が作ってくれたのか?」
「うん。私には娘がいないからさ、こういうの憧れてたんだよね。ありがと」
神楽は七織の慈愛に満ちた笑顔に見蕩れて、息を呑んだ。そして首を横に振る。
「いや、感謝をするのはこちらの方だ。本当にありがとう」
胸の辺りがポカポカすると同時に、神楽は七織を騙していることに心苦しさを感じる。
神楽は嘘を吐けない。だから今まで、自らの意思で嘘を吐いたことは無い。
しかし『指示を受けた』となると話は別である。
神楽は現在、環の指示通りに動いている。
だから事実とは異なることを言える上に痛がるフリもできている。
神楽が視線を下げていると、七織が何かを察したのか神楽の頭を優しく撫でてきた。
「……鈴蘭もきっと、こうして神楽ちゃんの支えになりたかったでしょうね」
『鈴蘭』とは神楽の母親の名前である。昔、母から七織とは幼稚舎の頃からの親友だと聞いた事がある。
「鈴蘭は最近どう?元気にしてる?」
母は5年程前に血液系の難病を患い、アメリカで治療を続けている。
アメリカの病院で入院中の母とは、1週間に1度は必ず父も交えてビデオ通話をしている。生まれつき身体の弱い母だが、性格は前向きで明るい。先週に通話した時も元気そうに笑っていた。
「いつもと変わらず父と私を諌めていた。仏頂面をどうにかしろ、柔らかい口調で話せ、と」
「あははっ!スズらしいや」
七織が笑っていると、誰かが扉をノックした。
メイドが体温計を持ってきたようだ。
神楽はなるべく掛け布団から手を出さないようにして、メイドから体温計を受け取った。
測定結果は35.5度。神楽にとっては平熱だったが、七織には低く思われたそうだ。
「体温が下がってて寒気がしてるのかもね」
体温計をメイドに返した七織は、胸ポケットからメモ帳を取り出すと必要な物を書き始めた。
「これを準備して頂戴」
「かしこまりました」
七織からメモを受け取ったメイドが足早に寝室から出て行った。
「さて。じゃあ、昼食は消化に良いもので温かいスープを作るね」
「ありがとう」
「いいのよ。ゆっくり休んでね」
七織は神楽の頭をぽんぽんと優しく撫でると、静かに寝室から出て行った。
神楽はその足音が遠ざかって完全に聞こえなくなったのを確認してから起き上がった。
そして。
「……………よし」
ナイトテーブルの引き出しの中に隠していた小型カメラを取り出し、枕元に置いていたスマホを手に取る。
「確認しよう」
何故、自分の身体に噛み跡や鬱血痕が無数に残っているのか。その原因を突き止めるため、神楽は動き始めたのだった。
***
放課のチャイムが鳴り、祷は月宮家専属の運転手に連絡をした。
神楽がいないので下校でも送迎車を利用するためだ。
「じゃあ、また明日ね」
「ええ、また明日」
親友である理斗と手を振り合い、スクールバッグを持って教室を出ようとした……その時。
ダアンッ!!と何者かが教室の扉を激しく叩いた。
中等部1年A組の教室内だけでなく、廊下からも生徒たちの悲鳴が上がった。
祷も驚いて目を見開いた。
理斗と直輝に至っては祷の前に立って戦闘態勢になっている。前世で叩き込まれた護衛の動きが、反射で出てしまったようだ。
「いっ…ゲホゲホ!!はぁっ…はぁっ…はあっ!い……祷くんっっっ!!!」
扉を叩いたのは、もじゃもじゃのワカメ頭になった環だった。荒い呼吸を繰り返して汗をダラダラと流している。急いでここまで走って来たのだろう、息も絶え絶えになっている。
教室内にいた生徒たちがさらに悲鳴を上げた。もう大混乱である。
大笑いする理斗の後ろで、祷は額を押さえて溜息を吐く。
「いきなり何ですか…?」
「ごめんね〜!みんな〜!この馬鹿がビックリさせちゃって〜!」
環の後ろから花蓮が顔を出した。
廊下で驚きのあまり硬直している生徒たちや、教室内で震えている生徒たちに明るく声を掛けている。
「ごめんね〜!怖かったよね〜!私がコイツを成敗するから安心してね〜!えーいっ!!」
花蓮が明るい笑顔のまま環の脳天にチョップを食らわせた。
ゴンッという鈍い音が響いた直後、環がうつ伏せで倒れ込む。
その首根っこを掴み上げた花蓮が、ポイと教室の隅に投げた。
「これで大丈夫だよ〜〜!」
何も大丈夫ではない。
花蓮を恐れた生徒たちが慌てて教室を出て行く。
理斗は過呼吸になるほど笑い転げている。
直輝は威嚇する犬のように警戒を強めている。
「あっ!祷くんやっほ〜!送迎車、一緒に乗せて〜!」
そんな中、花蓮が明るい笑顔で祷に手を振る。
生徒たちの視線が一斉に祷に集まった。嗚呼、最悪だ。仲間だと思われてしまった。
「……え?お知り合いですか?」
直輝に訊ねられ、祷は渋い顔をする。
「ええ……………………まぁ…………………」
祷は、嫌々ながらも肯定したのだった。
***
月宮家本家の邸宅、その3階にある神楽の寝室で。
神楽は小型カメラとスマホをケーブルで繋ぎ、昨晩の記録を確認していた。
そして酷く後悔していた。
「………起きていた方が良かったのか」
カメラが記録していたのは、凄惨な一夜だった。
『真澄っ……嫌だっ……起きろっ!真澄ぃ!!』
錯乱状態の祷が神楽の腹に馬乗りになり、神楽の両肩を掴んで激しく揺さぶっている。
『起きろっ……頼むっ、起きろっ…!!』
祷がかなりの大声で叫んでいるが誰も来ないのは、神楽の寝室が月宮家一家が眠る寝室からもメイドや執事たちが使用している寝室からも遠いからだ。
居候の身であるため、元々は物置部屋であったこの場所を寝所として使いたいと神楽が強く要望したからだ。
それが不幸中の幸いだった、こんな祷の姿を七織たちに見せる訳にはいかない。
『起きろっ!真澄!!』
祷が涙を流しながら眠る神楽の身体を強く抱き締める。
『真澄っ……、真澄真澄真澄真澄真澄っ!』
突如、ピタリと叫ぶのを止めた祷が、神楽の首元に唇を寄せた。そのまま神楽の額や頬に優しく口付けをし始めた。
何だか気恥ずかしくなった神楽は思わず頬を染める。
しかし次の瞬間、大きく口を開けた祷が神楽の肩口に思い切り噛み付いたのだ。
思わず神楽は袖を捲り上げて自分の肩口に手を当てる。その手のひらで歯型の凹みを感じた。
映像の中の祷はまるで野犬のように、熟睡して無抵抗の神楽に何度も噛み付いている。腕や足だけでなく、乱暴に神楽の寝間着を掴み上げて脇腹にも噛み付いている。
『貴様の首から下もっ……俺のモノだっ……!!』
悲痛な叫び声を上げ、再び祷が神楽の身体を掻き抱いた。荒い呼吸を繰り返しながらも、まるで縋り付くかのように祷は神楽の頭に頬を擦り寄せた。
その時だった。
『………む、五月蝿いぞ』
神楽が瞼を閉じたまま呟いた。そしてゆっくりと持ち上げた手で、祷の頬を優しく撫でる。
『何を泣いている…、───。』
最後の一言が上手く聞き取れず、神楽は動画を止めて再度確認した。しかし何度聞いても、そこだけが聞き取れない。
その一言を聞いた祷が、目を見開いて神楽から離れた。そしてそのまま静かに寝所から立ち去る。
静かになった寝室で、神楽は寝息を立てて熟睡していた。
「………………。」
神楽は小型カメラからケーブルを引き抜いた。そしてスマホで小型カメラの製造元や型番を調べ、ネット通販で全く同じ物を購入した。
神楽は黙り込んだまま、昨晩の映像が記録されている小型カメラを握り潰した。バキッと音を立ててカメラは粉々になった。パラパラと床に散らばった破片を、神楽は指先で摘んで拾い上げていく。
ひとつひとつ丁寧に拾い、床が綺麗になったタイミングで扉がノックされた。
「…………何の用だ」
「神楽様。ご学友の方々がいらっしゃいました。お通ししてもよろしいでしょうか」
メイドからの報告に、神楽は今日の朝に環から送られてきたメッセージを思い出した。
「問題ない」
「かしこまりました」
メイドの足音が遠ざかって行くのを聞き、神楽は息を吐いた。
そして、覚悟を決めたのだった。