6. 癒やしの聖女
翌朝、王城へと向かう馬車の中は、張り詰めた静寂に包まれていた。
リーナが夜を徹して刺繍を施した礼服を纏ったアシュトンは、まるで伝説の獅子そのもののような威厳を放っている。彼にエスコートされ、王城の壮麗な廊下を進むリーナの背筋は、自ずと伸びていた。
すれ違う貴族たちが投げる好奇と悪意の視線も、彼の隣にいる今は、もう怖くはなかった。
謁見の間に足を踏み入れると、玉座に座す壮年の国王陛下、そしてその脇には、被害者のような顔でうなだれるリーナの両親と、元婚約者のダニエルの姿があった。
アシュトンとリーナが国王の前に進み出ると、待ち構えていたかのようにダニエルが甲高い声を上げた。
「陛下! ご覧ください! あの女です! 私との神聖な婚約を一方的に破棄し、あろうことか辺境伯閣下をその魔性で誑かした、呪われた女めにございます!」
場の空気が一気に凍り付く。リーナの両親も、さめざめと嘘泣きを始めた。
しかし、アシュトンは眉一つ動かさず、国王に深々と頭を垂れた。
「辺境伯アシュトン・グライフェン、馳せ参じました」
「うむ、面を上げよ」と国王が促す。「辺境伯。其方の言い分も聞こう」
「は。私が本日参内いたしましたのは、ただ一つ。私の生涯の伴侶となるリーナとの婚姻にご裁可を賜りたく、ご報告に上がった次第です」
凛とした声が、謁見の間に響き渡る。ダニエルが「なっ……」と息をのむ。
アシュトンは続けた。「そもそも、この二人の婚約は、リーナからではなく、ダニエル殿から一方的に、しかも私の妻を『呪われた女』と衆目の前で罵倒した上で破棄されたもの。それを今さら、さも自分たちが被害者であるかのように陛下に奏上するとは、王家への欺瞞も甚だしい」
「そ、それは違う! この女が閣下を誘惑したのだ!」
リーナの父が叫ぶが、アシュトンは冷ややかに一瞥しただけだった。
「陛下。彼らが『呪い』と蔑む、リーナの刺繍の力。それこそが、長年、戦場の呪いに蝕まれてきた私の命を繋ぎとめてきた、唯一の癒やしなのです」
アシュトンは自らの胸を指し示した。
「国境を守る私の命を、ひいては北の民の平和を支えてきたのは、彼らが捨てたリーナの力。これを呪いと呼ぶのであれば、私はその呪いを生涯かけて愛し、守り抜く所存」
その言葉に、場の空気が変わった。貴族たちがざわめき始める。
国王は賢明な君主だった。彼は玉座から立ち上がると、宮廷魔術師長を呼び寄せた。
「魔術師長よ、その刺繍とやらを鑑定せよ」
魔術師長は、アシュトンが身につけていた手袋を恭しく受け取ると、その刺繍に触れ、目を見開いて絶句した。
「こ、これは……! 陛下! 呪いなどでは断じてありませぬ! 周囲の魔力を吸収し、調和させ、浄化する……これは、極めて高度な聖属性の力! 失われたとされていた『調律』の御業にございます! 使い方次第では、暴走した魔力災害さえ鎮めることができるやもしれぬ、まさに奇跡の力です!」
その鑑定結果が、すべての決着をつけた。
リーナの両親とダニエルは、顔面蒼白になってその場にへたり込む。
「愚か者どもめが!」
国王の雷のような怒声が響き渡った。
「貴様らは、国の宝となり得る稀有な才能を『呪い』と蔑み、虐げたばかりか、北方を守る英雄である辺境伯を虚偽をもって貶めようとした! その罪、万死に値する!」
リーナの父は子爵位を剥奪され、領地は没収。ダニエルの一家もまた、それに準ずる厳しい罰が下された。
すべての裁きが終わり、国王はアシュトンとリーナに向き直ると、威厳に満ちた笑顔を見せた。
「アシュトン辺境伯、そしてリーナ嬢。二人の婚姻を、国王の名において祝福する。リーナ嬢、君はもはや呪われた令嬢ではない。我が国と、英雄を守る『癒やしの聖女』だ」
その言葉を合図に、謁見の間の貴族たちから、嵐のような祝福の拍手が沸き起こった。
アシュトンはリーナの手を取り、その震える指の甲に、深く敬意を込めて口づけをした。リーナは、頬を伝う温かい涙の中で、生涯で最高の笑顔を彼に向けた。
◇◇◇
謁見の間を出て、二人きりになった静かな廊下で、アシュトンはリーナを力強く抱きしめた。
「これで、お前を邪魔するものは誰もいなくなった」
「アシュトン様……」
「帰ろう、リーナ。俺たちの城へ」
追放された令嬢の物語は、ここで終わりを告げた。
北の辺境で、英雄とその妻となった聖女の、温かく幸せな愛の物語が、これから永遠に続いていく。