5. 世界で一番強い人
王都へ行く、というアシュトンの言葉に、リーナの心は喜びと不安で大きく揺れた。
彼が自分を「妻」と呼んでくれたことは、夢のように嬉しかった。しかし、貴族社会の中心である王都で、辺境伯夫人という大役が自分に務まるのだろうか。追放された田舎令嬢である自分が、彼の隣に立つ資格があるのだろうか。
そんなリーナの不安を見透かしたように、侍女のエマが優しく微笑んだ。
「リーナ様は、リーナ様のままでよろしいのです。閣下がお選びになり、心から愛されている方なのですから。何も気負う必要はございませんよ」
エマの言葉に、リーナは顔を上げた。そうだ、私は私のままでいい。彼の隣で、彼を支えたい。その気持ちだけで十分なのだ。リーナは、アシュトンのため、そして自分自身の幸せのために、逃げずに立ち向かう決意を固めた。
旅の準備は、慌ただしくも活気に満ちていた。
リーナのために、王都の流行を取り入れた豪華なドレスや宝飾品が次々と用意される。しかし、リーナが旅の荷物の中で一番大切にしたのは、アシュトンが初めて贈ってくれたシンプルな花の髪飾りと、夜なべで彼のために刺繍を施した揃いのマントだった。
「これは戦いだ」
出発の前夜、アシュトンはリーナに言った。
「だが、お前は何も心配することはない。俺の後ろで、すべてが終わるのを安心して見ていればいい」
彼の言葉は力強く、リーナはこくりと頷いた。
◇◇◇
王都までの道中は、馬車に揺られて幾日も続いた。
二人きりの馬車の中、リーナは今まで聞けなかった彼の過去を尋ねた。子供の頃の話、初めて戦場に立った日のこと、そして、永い間彼を苦しめた呪いの痛みについて。
アシュトンは、訥々と、しかし隠すことなくすべてを語ってくれた。心を許した者にしか見せない、彼の素顔だった。
「お前の家族は、何故お前の力を呪いと呼んだのだ」
今度はアシュトンが尋ねた。
「私の……妹は、生まれつき魔力が少なかったのです。私が刺繍に夢中になっていると、妹は決まって体調を崩しました。私の力が、無意識に周りの魔力を吸い取ってしまうから……。それで、母や父は……」
リーナの言葉に、アシュトンは彼女の肩を強く抱いた。彼を癒やすその力が、皮肉にも彼女を家族から引き離したのだ。アシュトンは、リーナを虐げた者たちへの怒りを新たにした。
互いの痛みを知るたびに、二人の魂はより深く結びついていくようだった。
やがて、一行の前に巨大な城壁が見えてきた。王都だ。
辺境とはまるで違う、華やかで喧騒に満ちた街並みに、リーナは圧倒される。人々は、アシュトンの掲げる「灰色の戦神」の紋章を見て道を開けるが、その視線には好奇と、そして侮蔑の色が混じっていた。
「北の蛮族が、修道院から魔女を連れてきたそうだ」
「なんでも、その女の呪いで辺境伯を誑かしているとか……」
囁かれる悪意に、リーナはぎゅっと目を閉じる。彼女を貶めるための噂を、実家がすでに流しているのだ。
アシュトンはそんなリーナを守るように強く抱き寄せると、馬車を王都にある自身の屋敷へと急がせた。
「気にするな。明日には、あいつらの戯言はすべて消え失せる」
王都の辺境伯邸に到着し、落ち着く間もなくアシュトンは言った。
「明日、王城へ参内する。陛下に謁見し、我々の婚姻の儀について裁可をいただく。そして、すべてを終わらせる」
決戦前夜。
リーナは、アシュトンが謁見で纏う豪奢な礼服に、一晩かけて刺繍を施した。
それは、どんな呪いも、どんな悪意も跳ね返す、これまでで最も強力な守護の紋様。そして、百獣の王である獅子をかたどった、威厳を示す紋様だった。
明日、あの家族と、私を捨てた男と対峙する。
けれど、もう怖くはない。私の隣には、この人を誰よりも愛してくれる、世界で一番強い人がいるのだから。
リーナは完成した礼服を愛おしげに撫でると、静かに夜が明けるのを待った。