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3. 告白

 窓の外で荒れ狂う剣戟の音と獣の咆哮が、リーナの心を容赦なくかき乱す。


 ただ部屋で待っているだけでは、恐怖に押し潰されてしまいそうだった。いてもたってもいられず、リーナは裁縫台に向かった。


(私にできることは、これしかない)


 新しい純白の亜麻布を手に取り、銀色の刺繍針を握りしめる。


 祈るだけでは足りない。彼の力になりたい。その一心で、リーナは針を動かし始めた。


 今までで一番大きく、複雑で、そして強力な守護と治癒の紋様。自分の持つ魔力のすべてを、この一枚の布に注ぎ込む。指先が痺れ、視界がかすんでも、リーナは手を止めなかった。


 どれほどの時間が経っただろうか。部屋の扉が静かに開き、侍女のエマが温かいスープを乗せた盆を手に立っていた。


「リーナ様……」


 エマは、鬼気迫る様子で刺繍を続けるリーナと、床に散らばる使い切った刺繍糸の束を見て、息をのんだ。


「まあ……なんと。アシュトン様のために……」

「エマさん……彼は、いつもあのような戦いを?」


 リーナの問いに、エマは静かに頷いた。


「辺境伯様は、この北の地をたった一人で守ってこられました。呪いを受けてからは、眠れぬ夜も、癒えぬ痛みも、すべてお一人で耐え忍んで……。ですが、リーナ様がいらしてから、アシュトン様が安らかにお休みになっているのを、私どもは初めて拝見したのです。あなたの刺繍は、アシュトン様にとって、まさに命綱なのですよ」


 エマの言葉に、リーナは胸が締め付けられる思いだった。


 彼が背負ってきたものの重さを改めて知り、彼女は再び針を握り直した。この人が、少しでも安らげるように。温かい寝台で、穏やかに眠れるように。


 やがて、東の空が白み始めると、城を揺るがしていた騒音が嘘のように静まった。


 戦いが、終わったのだ。


 それから間もなく、重い足音がリーナの部屋の前で止まった。扉が開き、血と泥に汚れたアシュトン辺境伯が立っている。その体は新たな傷を負い、疲労は色濃かったが、その足取りは驚くほど確かだった。


 彼は、部屋の中央で刺繍布を手に立ち尽くすリーナの姿を認め、まっすぐに彼女のもとへ歩み寄る。


「おかえりなさいませ、アシュトン様」


 リーナは、完成したばかりの大きなショールのような刺繍布を、彼に差し出した。


 アシュトンは無言でリーナを見つめている。彼の身につけていた鎧やマントはボロボロだ。しかし、リーナが刺繍を施した革の手袋だけは、不思議と傷一つなく、夜明けの光を受けて微かな輝きを放っていた。


「……お前のせいだ」


 掠れた低い声に、リーナの肩がびくりと震えた。


「お前の刺繍のせいで、体の動きが軽すぎた。おかげで、いつもより深く踏み込みすぎた」


 それは非難の言葉ではなかった。戸惑いと、信じられないものを見たという驚きに満ちていた。


 彼はゆっくりと手を伸ばし、リーナが差し出す新しい刺繍布に触れる。


 その瞬間、奇跡が起こった。


 彼の体の傷から立ち上っていた黒い瘴気のようなものが、陽の光に溶ける雪のように、すっと消え失せたのだ。アシュトンの表情が、劇的に和らぐ。長年彼を蝕んできた呪いの痛みが、完全に引いていくのが分かった。


「あぁ……」


 安堵とも、歓喜ともつかない声が彼の口から漏れる。


 長年の苦痛からの解放と、徹夜で自分を案じ続けてくれた少女への愛しさが、彼の感情の堰を壊した。


 次の瞬間、リーナは力強い腕で、しかし壊れ物を扱うかのように優しく抱きしめられていた。甲冑の冷たさと、彼の確かな体温が伝わってくる。


「リーナ」


 耳元で、彼の切実な声が響く。


「お前は俺の……俺だけの癒やしだ。誰にも渡さん」


 それは命令でも、契約でもなかった。彼の魂からの、初めての告白だった。


 呪われた令嬢と、呪われた辺境伯。


 孤独だった二つの魂が、ようやく巡り会い、重なった。


 リーナは彼の広い背中にそっと手を回し、こくりと頷く。温かい涙が、頬を伝って彼の胸元を濡らした。


「はい、アシュトン様……」


 北の果ての地で、誰にも知られず、二人のための新しい物語が、今、静かに始まった。

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