2. あなたのための刺繍
アシュトン辺境伯の大きな手が、リーナの差し出したハンカチに触れた瞬間、彼の時間が止まったかのように見えた。
常に苦痛に歪んでいた眉間のしわが、ほんのわずかに和らぐ。酷い吹雪の夜にもかかわらず、彼の額には脂汗が滲んでいたが、その呼吸が少しだけ深くなったのをリーナは見逃さなかった。
「……お前、名は」
「リ、リーナと申します」
「リーナ」
まるで大切なものを確かめるように名を反芻し、辺境伯は修道院長へ向き直った。その手は、小さなハンカチを固く握りしめている。
「この女を城へ連れていく。対価は十分に支払おう」
「し、しかし辺境伯様! リーナは……その……」
「異論は認めん」
地を揺るがすような一言が、修道院長の言葉を遮った。それは王の勅命にも等しい響きを持っていた。
リーナは恐怖で後ずさるが、ぎろり、と辺境伯の視線が彼女を射抜く。それは脅しつけるような色ではなく、むしろ藁にもすがるような、切実な光を宿しているように見えた。長年、どれほどの痛みに耐えてきたのだろうか。その瞳の奥にある昏い絶望に気づいたとき、リーナは動けなくなった。
有無を言わさず、リーナは辺境伯の連れてきた馬車に乗せられた。修道院には、彼女の身代金として信じられない額の金貨が残されたという。
まるで人買いのようだと自嘲しながら、リーナはこれから始まるであろう未知の生活に、ただ静かに身を委ねるしかなかった。
◇◇◇
辺境伯の居城「グライフェン城」は、リーナの想像通り、華美な装飾など一切ない、質実剛健な灰色の要塞だった。しかし、城内は隅々まで掃き清められ、武骨な中にも不思議な気品が漂っている。
リーナに与えられたのは、城の最上階に近い、日当たりの良い一室だった。暖炉には赤々と火が燃え、部屋には上質な刺繍糸や布、そしてあらゆる種類の針が揃えられた立派な裁縫台まで置かれていた。追放された先とは思えない、贅沢な環境だった。
「リーナ様、私はエマと申します。身の回りのお世話をさせていただきます」
世話係としてつけられたのは、年配の侍女だった。口数は少ないが、その目元は優しげだ。
「あの……私は、何をすればよろしいのでしょうか」
「アシュトン様がお見えになります。それまでは、どうぞごゆっくり」
エマはそう言うと、静かにお茶の準備を始めた。
言われた通り、リーナが窓辺の椅子に腰を下ろして間もなく、部屋の扉がノックもなしに開けられた。アシュトン辺境伯その人だった。
彼は大きな革袋をどさりとテーブルの上に置くと、無言でリーナに顎をしゃくった。
「これに、お前の刺繍とやらを施せ。特に、この手袋とな」
袋の中には、彼が普段身につけているであろうマントやシャツ、そして使い古された革の手袋が入っていた。
リーナは黙って頷くと、裁縫台に向かい、白い絹糸を針に通した。
何を縫えばいいのだろうか。迷った末に、彼女はかつて本で見た、魔を祓うという古代の守護紋様を縫い始めることにした。
チク、チク、と針が布を刺すかすかな音だけが部屋に響く。
辺境伯は帰るでもなく、部屋の隅の長椅子に腰を下ろし、ただ黙ってその様子を見ていた。普段、呪いの痛みでまともに眠ることもできない彼が、その規則的な音を聞いていると、不思議と意識が遠のいていくのを自覚していた。
数時間後、リーナがすべての刺繍を終えて立ち上がると、辺境伯ははっと目を開けた。
「……終わりました」
リーナがおずおずと差し出した手袋を、彼はひったくるように受け取った。そして、その手をはめた瞬間、固く閉ざされていた彼の唇から、安堵のため息ともとれる息が漏れた。
「……悪くない。明日もやれ」
それだけを言い残し、辺境伯は部屋から出て行った。
嵐のような一日だった。リーナは疲れ果て、ベッドに倒れ込む。しかし、その胸には、今まで感じたことのない、小さな温かい感情が芽生え始めていた。
生まれて初めて、自分の力が誰かの役に立ったのかもしれない。
翌日から、リーナの奇妙な城での生活が始まった。
昼間は辺境伯の私物に刺繍を施し、夜は彼と二人きりで夕食をとる。広い食卓の両端に座り、会話もない気まずい食事。しかし、リーナは気づいていた。辺境伯が、自分が刺繍したナプキンを、食事中何度も握りしめていることを。
ある日、リーナは故郷で母が一度だけ作ってくれた、カボチャのポタージュの話をぽつりと漏らした。辺境伯は何も言わなかった。
だが、次の日の夕食の席に、当たり前のように温かいカボチャのポタージュが並んでいた。
「料理長が、ぜひにと」
給仕をするエマが、そっとリーナに微笑みかけた。
不器用で、言葉足らずで、けれど確かに優しい。リーナは、この無骨な城の主の本当の姿に、少しずつ触れていくのだった。
その夜のことである。
城中に、けたたましい警鐘の音が鳴り響いた。
「魔獣の襲撃だ!」
騎士たちの怒号が飛び交う。アシュトンが甲冑を身につけ、リーナの部屋に駆け込んできた。
「俺が戻るまで、ここから一歩も出るな」
彼は、リーナが今日刺繍したばかりの手袋をはめると、彼女の肩を強く掴んだ。その瞳には、戦場へ向かう男の鋭い光が宿っている。
「……ご武運を」
リーナが絞り出した声に、辺境伯は一瞬だけ驚いたように目を見開き、そして力強く頷くと、嵐のように部屋を去っていった。
一人残された部屋で、リーナは彼の無事を祈ることしかできなかった。
あの傷だらけの体が、これ以上傷つかないように。あの苦しみに満ちた日々が、少しでも安らぐように。
自分の刺繍が、どうか彼を守ってくれますように、と。
窓の外では、剣戟の音と、獣の咆哮が轟いていた。リーナは、自分の胸の中で、彼を案じる気持ちがこれほどまでに大きくなっていることに、その時初めて気づいたのだった。




