1. 追放された令嬢と呪われた辺境伯
ひんやりとした空気が漂う応接室で、子爵令嬢リーナは俯いたまま、きつく拳を握りしめていた。
目の前には、婚約者であるダニエル子爵嫡男とその両親が、凍るような視線を彼女に向けている。
「――よって、この婚約は破棄させていただきたい」
ダニエルの冷たい声が、静寂を切り裂いた。リーナの父である子爵が慌てて言葉を挟む。
「お、お待ちください! リーナは我が家のただ一人の娘。何か不手際がございましたなら……」
「不手際? とんでもない」
ダニエルは、まるで汚物でも見るかのようにリーナを一瞥した。
「彼女の手が『呪われている』という噂はかねてより耳にしておりました。彼女の刺繍には、触れた者の魔力を吸い取る呪いがかけられていると。まさか、そこまでとは思いませんでしたがね」
ダニエルがテーブルに叩きつけたのは、リーナが心を込めて刺繍したハンカチだった。彼の幸運を祈り、守護の紋様を縫い込んだものだ。
しかし、その紋様は微かに黒ずみ、禍々しいオーラを放っているように見えた。
「先日、私が魔力測定を控えていたのを知って、彼女はこれを渡してきたのです。おかげで私の魔力は著しく低下し、恥をかくところだった! こんな呪われた女を、我が家に迎え入れることなど断じてできん!」
「呪い」――。
それは、リーナが物心ついた頃から言われ続けてきた言葉だった。
彼女の刺繍は、他の誰のものよりも緻密で美しかったが、完成した布には必ず「魔力を吸い取る力」が宿ってしまう。
ただそれだけで、彼女は家族からも疎まれ、友人もなく、孤独に生きてきた。
リーナの母が、すがるようにダニエルの母親に頭を下げる。
「申し訳ございません! この通り、この子が愚かなばかりに……。ですが、婚約の儀はすでに……」
「ええ、ですから慰謝料はいただきませんわ。その代わり、このお話は一切なかったことに」
にべもない言葉に、リーナの両親は顔を青くする。もはや、誰もリーナを庇う者はいなかった。
父が苦虫を噛み潰したような顔で、低い声でリーナに告げる。
「……リーナ。お前は、北の『忘れられた聖女の修道院』へ行け。それが、お前が我が家にできる最後の償いだ」
北の果てにある、罪を犯した貴族の女たちが送られる場所。
事実上の追放宣告だった。
リーナは、涙を見せることもできず、ただ「はい」とだけ呟いた。
◇◇◇
王都から馬車に揺られること十日。
すべてを諦めたリーナがたどり着った修道院は、雪と静寂に包まれた質素な場所だった。
しかし、誰からも罵倒されず、冷たい視線を向けられることもない日々は、皮肉にもリーナの心を少しずつ癒やしていった。
許されたのは、最低限の着替えと、一つの刺繍箱だけ。
誰に渡すでもなく、リーナは窓の外に降る雪の結晶や、凍てつく冬に凛と咲く小さな花を、白い布に縫い付けていった。
魔力を吸い取ろうが関係ない。もう、誰にも迷惑はかけないのだから。
そんなある吹雪の夜だった。
修道院の古びた扉が、まるで破壊するかのごとく激しく叩かれた。
こんな夜更けに、ましてやこの辺境の修道院に訪れる者などいない。修道女たちが息を殺す中、修道院長が恐る恐る扉を開けた。
そこに立っていたのは、屈強な騎士たちを従えた、熊のように巨大な体躯の男だった。
ぼろぼろのマントには雪と乾いた血が付着し、顔には生々しい傷跡が走っている。しかし、何よりも目を引いたのは、その瞳に宿る、燃えるような光と、すべてを圧するほどの威圧感だった。
北方を魔獣から守る、「灰色の戦神」。
そして、戦場で受けた呪いによって、永い間、癒えぬ痛みに苦しめられているという――アシュトン辺境伯。
彼が、なぜここに?
修道院長が言葉を失っていると、辺境伯は地を這うような低い声で言った。
「ここに、刺繍で呪いを和らげる女がいると聞いた。案内しろ」
その言葉に、修道女たちの視線が一斉にリーナへと突き刺さる。
修道院長に促され、リーナは震える足で辺境伯の前へと進み出た。
アシュトン辺境伯は、値踏みするように彼女を見下ろした。その鋭い視線に射抜かれ、リーナは息をのむ。
「……お前か」
短く、それでいて有無を言わさぬ声だった。
「力が本物か、試させてもらう」
リーナは恐怖に震えながらも、咄嗟に懐から一枚のハンカチを取り出した。
それは、彼女がこの修道院に来てから刺繍した、小さな冬の花の模様が入ったものだった。
「……これしか、ございません」
か細い声で差し出すと、辺境伯は無言でそれを受け取った。
ごつごつとした、傷だらけの大きな手がハンカチに触れた、その瞬間。
辺境伯は、わずかに目を見開いた。そして、苦痛に歪んでいた彼の眉間のしわが、ほんの少しだけ和らいだように見えた。