風呂の底が開く夜
深夜、風呂に入ると決めたのは失敗だった。
仕事が遅くなり、眠気と疲れの中で湯を張ったのが午前二時。
湯船に浸かり、ふうと息を吐いたそのとき――
ごぽっ。
湯の中で、何かが動いた音がした。
最初は排水口の空気かと思った。けれど違う。
その音は、湯の底から鳴った。
ぬる、と湯が揺れる。底が微かに波打った気がした。
私はじっと水面を見つめた。
浴槽の中の水は、静かに揺れていた。
もう出よう。そう思って足を動かした――そのときだった。
指先に“ぬめり”が触れた。
「……え?」
私は思わず身体を引いた。
けれど、その瞬間にはもう遅かった。
湯の底に、穴が開いていた。
黒く、深く、底の底に口のような形をして開いていた。
そこから、何かがにゅるりと這い出していた。
私は立ち上がろうとしたが、足首を何かに掴まれた。
ぬるぬるとした、冷たい手。
目を疑った。
浴槽の中から、人の顔が浮かび上がってきたのだ。
女だった。目を閉じている。
けれど、その唇がゆっくりと、確かに動いた。
「――いれかえよう」
声はなかった。けれど確かに、聞こえた。
彼女の顔が、私の顔とぴたりと重なったとき、私は意識を失った。
気づけば、風呂場は静まり返っていた。
水はなくなっていた。浴槽も乾いていた。
けれど私の手は、濡れていた。
――いや、違う。私の肌が、入れ替わっていた。
爪の色も、髪の長さも、声も。
鏡の中に映っているのは、あの女だった。
私は……私は……
「誰……?」
そのあとの彼女を見た者はいなかった。