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1.家族の背景

1−1.私の生い立ち


  少しばかり私の家族背景は変わっている。この話の土台となるため、そこから話を始めたい。

 親は生まれてすぐに離婚し私達は母が引き取った。私たちというのも、私は双子なのである。

母子家庭で育つことになるのだが母の仕事もあるため、はじめのうちは日中は祖母の家で過ごし、夜に母が迎えにきて家で寝るという生活だったらしい。しかしその生活も辛いとのことで、私が物心がついた頃には祖母の家で生活をし、休日に母が泊まりにくるというスタイルとなった。私たちは祖父母にとって初孫であり内孫となり、何よりも一緒に生活していることもあってとても可愛がられた。まさに目に入れても痛くない存在だったと思う。幼い頃より離婚していることは聞かされていたため、この生活については何の疑問を抱くことなく過ごしていた。

 時は過ぎ小学生の半ばになる頃、3番目の父と出会うことになる。なぜ3番目なのかというと、それまでに何人かと母は付き合っており、母の彼氏とも面識があった。その中に父になりそうな人もいた(結局一緒になることがなかったが)。そしてその最後、私の中では3番目の父との出会いが小学生の頃であった。

 週末は母が祖母の家に来るか、私たちが母の家に行くかのどちらかであった。母は3番目の父と同棲していたため、泊まりに行くと顔を合わせることになるが私たちは歴代の彼氏とあっていることもあり、抵抗はなかった。

 そして中学生に上がる時に祖父の体調が悪くなり、それをきっかけに母が私たちを引き取り一緒に生活をすることとなった。もちろん3番目の父も一緒に住むのである。

 そして私たちが中学1年生、高校1年生の時に弟が1人ずつ生まれた。私たちとは異父兄妹となるがそんなことは些細なことで、年が離れていることもありそれはもう可愛かった。ちなみに弟ができた経緯としては、私たちが妹や弟が欲しいと母にねだったことが理由の1つであり、後に出てくる論争の1つでもある。

 高校・大学とは自分で将来を考えた上で学校を選び、母に説明をして志望校に入学をした。ちなみに双子の姉も同じ将来を考えていたため同じ学校へ進学し、2人とも高校・大学ともに私学であった。大学の学費に関しては祖父が私たちに大学へ行ってほしいという願いを持っていたため、祖父母が学費を大半出してくれた。その甲斐があって自分たちが選んだ未来へ歩くことができたので、祖父母には感謝してもしきれない。

 私と姉は母の意向もあり同じものを同じだけ与えられて育った。服も全く同じデザイン。幼い頃のおやつも必ず同じ量。学生の時の文房具も基本的には同じものを買って使っていた。それもあってか、今でも趣味嗜好は7-8割は同じである。幼少期から高校生頃までは喧嘩も多かったが、大学生くらいになると段々と落ち着きお互いの役割分担が明確化したことで、より仲の良い姉妹へと育った気がする。文字通り「片割れ」なのである。



1−2.私の母


 私の母は祖父、母から見れば父にそれはもう大切に育てられた。その反面、祖母も祖父も優しい部分もあれば昭和ながらの激しさも持ち合わせていた。祖父は手を挙げることもあったというし、祖母はその上をいく激しさがあった。1番印象的な話は、私の叔父(母から見れば兄である)と祖母が喧嘩をした際に祖母が叔父に向かってポットを投げつけたという話である。私と一緒に住んでいるときはそこまでの過激さはなかったが、怒ると物を投げるという癖は治っておらず、テレビのリモコンなどが飛んできたのはいい思い出である。

 そんな祖母の血を母はしっかりと引いており、性格は短気であり自己中心的である。しつけに関しては怒鳴る以外にも体罰(当時は慣れすぎて自分自身そういう認識はなかった)もあった。中学の時にはテストの点数が悪ければ回し蹴りをされ怒鳴られた。元々短気な性格であり、また自分が気に入らないことはとことん否定する性格であったため、小さい頃から親の顔色を窺いながら過ごすことも多かった。当時はそんな母のことも「恐いけど好き」と思っており、母は甘い時はとことん甘く好きな物(おもちゃであったり文房具など)はしっかりと買い与えてくれていた。

 しかし、段々と大人になっていくにつれて世間一般的に見ても母は短気な性格であると感じるようになり、束縛が強いと感じたがそれでも特段に気することなく私たちは過ごしていた。今振り返ると恐怖政治だよなと思い、私は母のことをスターリンであると心の中でひっそりと思っていた。ちなみに双子の姉はヒトラーだと思っているらしい。(2人とも世界史については全然知らないため有名な人をただ思い浮かべただけであるが)

 束縛が強い母は何が何でも私たちを家に縛りつけたかった。中学生の時は母の元へと引っ越し土地勘がなかったこともあり、外に遊びに行くなと言われた。高校生の時は入りたい部活があったが、成績維持(併設されている大学への進学のため良い成績が必要だった)と弟の世話のために部活には入るなと怒られ、部活に入ることができなかった。大学生の時は、ほぼ必修科目で構成され忙しい学科であったため、友達とバイトをしようと思ったが反対された。そして、当時弟は6歳と3歳とまだ小さかったため、「弟の世話」があるだろうということで授業が終わればすぐに家に帰らないといけなかった。また、大学はその曜日でコマ数が違うため、曜日ごとに授業の終わりの時間、スクールバスの時間を紙にまとめて帰宅時間を把握していた。そのため、帰宅が20分でも遅れるようなら母からLINEが届くのである。素直に友人と話していると送り返せば特段怒られることもなかったが、そのLINEが届くとタイムリミットだと感じ家に帰るようにしていた。


 「弟の世話」であるが、普通であれば子どもの世話は親の役割である。母は昔は会社員として働いていたが、私たちと一緒に住むようになる頃には専業主婦となっていたため、弟の世話も普通なら母がメインですることが一般的であろう。しかし、“1−1 私の生い立ち”でも記載したように、「弟や妹のお世話は私たちがするから産んでほしい」という“小学生”の私たちがしたお願いもあって生まれたのである。そのため、母は「あなた達がお願いして産んだのだから、ちゃんとお世話をしなさい」という意見であり、学校から帰ってからの弟の世話は私たちがメインであった。それは遊ぶことから始まり、ご飯を食べさせる(料理を作るというわけではなく、弟が幼いため途中で食べなくなったらスプーンで食べさせる行為である)、歯磨き(小学6年生まで仕上げ磨きをした)、お風呂、寝かしつけなどは私たちの役割であった。

 「弟の世話」があるため、中学生の時だけでなく高校生や大学生の時も友人と遊ぶことは基本的には禁止されていた。夏休みや冬休みなど大きな休暇があるときは1-2回遊びに行くことを許されていたが、年に1回遊びに行けたらいいくらいであった。ここで有り難かったのは周りの友人達は皆理解のある優しい人であったということだ。特に大学での友人達は遊べないからと私達をハブることなく、また昼間しか出歩けない私たちを気遣いランチを誘ってくれ、卒業旅行もダメもとで誘ってくれるなど気を遣ってくれたことは本当に感謝している。ちなみに私たちも無理だと思っていたが、せっかく旅行に誘ってくれたためダメもとで母に聞くと、許しも出て無事卒業旅行に一緒に行くことができたのは友人のおかげである。

 私たちが外に遊びに行けない代わりにと言ってはなんだが、母は私たちが欲しい物は全部とはいかないがある程度は買い与えてくれていた。特に漫画の数の多さは比較的多かったが、母が漫画好きということもあり、基本的には欲しいものは何でも買ってくれた。そのため、私たちも損することばかりでなかったのも事実である。


 元々短気であった性格に更年期も相まってここ数年の母はかなり独裁政治・恐怖政治を極めていた。弟には体罰をしないという教育方針であったため、手を上げることはなかったことは救いだと思う。しかし、怒らない日はないし、母の怒鳴り声を聞かない日はなかった。とても些細なことで爆弾が落ちるため、私たちはまた怒っているなと受け流すのが日常茶飯事であった。が、怒鳴り声を聞くだけで正直疲れてくる。母の束縛にプラスして怒号の日々にかなり参ったことは何度もあった。そして何度も家を出ようと考えたこともあったが、姉をあの家に1人にしてしまうと皺寄せが全て姉に行ってしまう。それなら姉を連れて家を出て行こうとも思うが、姉は弟を溺愛しており、弟が成人するまでは手を離したくないと言うため結局家を出ることは断念するしかなかった。パワーバランス的には私と姉では、姉の方が強いのだ。

 そこで私たちは暇さえあれば祖母の家に帰っていた。祖母はいつでも温かく迎え入れてくれた。祖母と母はそこまで仲が良くないが、それに比べて私たちと祖母はかなり仲が良かった。私たちは甘やかしてくれる祖母が好きであり、また友人と遊べない代わりに祖母といろんな場所へ出かけることも好きだった。心のより処があったこともあり、実家での生活が多少窮屈に感じてもなんとか過ごしすことができていたのである。

 弟たちに関しては小学生ということもあり、まだ母親が好きな時期らしく特段母に関して嫌悪感は感じていない様子であった。



1−2 3番目の父

 

 3番目の父……と言っても、この話の中には父はこの人しか出てこないため、これ以降は「父」として書かせていただく。

 父との出会いは小学生の半ば。父は母よりも少し年下であった。私たちは過去に何回も母の彼氏と会っていたため、父と会うことや一緒に住むことも特段抵抗はなかった。その理由として、私たちが生まれてすぐに両親が離婚していることや祖父母の家にいたこともあり、私たちは家族というものの形にこだわりがなかったのだろうと今になってそう思う。

 父は私たちへの扱いが一貫しており、それは出会った頃から弟が生まれてからも変わらなかった。父の良いところをあげるとしたらこの点だろう。父からすれば連れ子である私たちと血のつながりのある弟達では愛情の差が出てもおかしくない。父の本心は知らないが、表面上では私たち4人兄弟の扱いは同等であった。自分が子どもの頃は特に何も思わなかったが、大人になった今考えると、そうした行動ができることはすごいなと感じる。

 

 父は自営業であった。最初は仕事の調子も良く順調であったが、コロナが流行り少し経つと業績は右肩下がりだったらしい。“らしい”というのも母をはじめ私たちは父の仕事について深くは追求していなかった。子どもである私たちならまだしも、母には少しは話していたらしいが詳しい仕事の話はしていなかったらしい。そして父の仕事は右に下がるばかりで、ついには首が回らない一歩手前まで来ていたのである。


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