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南方に配されし荼枳尼の法【第八話】




 警備配置について、数時間。僕はしばし休憩を取らせてもらい、銀行の外に出た。

 暑い。

 冷房がないところに来た途端、じめじめした暑さが襲ってくる。

 コンビニ行くのもはばかれたので、自動販売機で缶入りのアイスコーヒーを買って、銀行の自動ドアの中にまた入り、冷房の効いた受付のある場所のソファに座る。

 プルタブを開けたとき、猫魔も缶ジュースを持ってこっちにやってきた。

 二人で並んでソファに座って、しばし無言で飲み物を飲む。

 会話がないのも寂しいし、僕は猫魔に気になっていたことを尋ねてみた。



「今日、僕たちが守っている『胎蔵界曼荼羅掛け軸』ってあるよね」

「ああ? ああ、曼荼羅な」

「〈対〉になっている『金剛界曼荼羅』の方は紛失した、って話だけど」

「そうなんだよ、山茶花。この常陸松岡には、〈胎蔵界曼荼羅〉しか現存しない。対になっている〈金剛界曼荼羅〉はないんだ。故に、指定文化財になっているのは〈胎蔵界曼荼羅〉のみ。それがどうしたんだ、山茶花?」

「いやさ、曼荼羅って一体なんなの? 文化財ってことは、文化的に価値があるんだろ。しかも、対になっているもう片方がなくなってしまっていても、それでも価値があるような代物なのかい?」

「おれはそこから説明しなくちゃならないのか。ていうか山茶花。おまえ、なにも知らずに警備にあたっていたのか……。あきれるぜ」

「そう言われると、なにも言えないなぁ」

「曼荼羅ってのは、神仏の集会図しゅうえずのひとつだ。サンスクリット語を漢字表記したものだな。だから、サンスクリット語でも、『マンダラ』と発音する。語源的には〈完成されたもの〉、〈本質を有するもの〉などの意味を持つ。西洋だと、フロイトと並ぶ偉大な精神分析医のユングが注目したことで、曼荼羅は有名だな」

「ユングも注目したのか、曼荼羅を……」

「ユング曰く『曼荼羅こそひとつの個としての人間の完成像であり、すべての道はそこに通じる』と」

「なんかすごいなぁ。言い過ぎじゃないの」

「いや、『ユングは密教をわかっているな』と言う印象だね」

「そういやその密教って、天台宗と真言宗があるじゃないか」

「そうだな。この銀行に保存してあるのは真言宗の寺にあったものだが。そうそう、天台と真言、このふたつは〈純粋密教〉、略して〈純密じゅんみつ〉と呼ばれる。大乗仏教の流れを汲むんだよ。〈純密〉は、もともとごちゃごちゃあった〈雑密ぞうみつ〉が体系的に整備され、成立したものなんだよ」

「ふーん」

「『大日経だいにちきょう』と『金剛頂経こんごうちょうきょう』に集約される〈純密〉は、大日如来をその本尊としていて、〈即身成仏〉のために、〈三密〉っていう名前の全身的行法を確立して、曼荼羅を生み出した」

「三密……ねぇ」

「密教は神秘主義なんだが、その神秘主義の考え方を簡単にざっくり言うと、〈人間それぞれが小宇宙ミクロコスモスとして大宇宙マクロコスモスに包まれている。同時に自分という小宇宙のなかに大宇宙そのものが含まれている〉……となるな。密教の世界観は、こんな感じだ」

「ユングのさっきの話と繋がるじゃないか。なるほど」

「そこでその〈宇宙〉を描いたのが両曼荼羅さ。つまり、大宇宙である『金剛界曼荼羅』と、小宇宙である『胎蔵界曼荼羅』」


 僕は缶コーヒーを飲み終える。

「文化財にもなるわけだ。大宇宙の方は紛失された、とは言えども」

「ああ。まあ、紛失されたとされる〈金剛界曼荼羅〉掛け軸なんだが、それはこの銀行の会長宅に代々大切にされて保管されている、というウワサもある」

「そうなのか?」

「さぁな。ウワサはウワサだ。それより今は午後十一時を回ったところだ。野中もやいだったら予告通りに、午前零時にやってくるだろうさ」

 と、猫魔が言ったところで警報器が鳴る。

 警備にあたっていたひとりがソファにいる僕たちに向けて叫ぶ。


「怪盗・野中もやいが現れた! 掛け軸は元の位置から消失した!」


 目を見開くように驚いた僕と猫魔は、ソファから立ち上がる。

「野中もやいが来ただって! 予告時間じゃない時にあいつが現れたっていうのか!」

 猫魔は走る。

 僕も、そのうしろを追った。

 野中もやいは予告通りの時間に現れるのが通例だった。

 なので、予想外だ、と猫魔は驚いたのだ。

 僕も、驚いた。

 だが。

 現れたのなら、仕方ない。捕まえるだけだ。





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