天竺屋の最後
じゃばり、と堀中から男が上がる。
先程まで着ていた鎧はすでに捨てていた。
天竺教徒たちを置き去りにして逃亡を図った――天竺屋徳兵衛である。
彼はまだ諦めてはいなかった。
『阿片』はまだ隠してある。
それを手に入れれば、再起もあろう。
今はただ、落ち延びるだけ――
彼は土手を見上げる。
そこには――白馬にのった武士がこちらを見下ろしていた。
赤い総髪。陣羽織を羽織り、針金のような大小を指した若者。
天竺屋はため息を付く。
「蘭癖さまですか。最後まで私の邪魔をしようと――」
そう言いながら、懐から抜きざまに拳銃を発射する。
二発三発。
しかし、その弾は空を切り統秀にはかすりもしない。
「お縄につけ。とはいえ、獄門は間違いなかろう。かといって自決を許すほど、同情の余地もない」
普段の温厚な統秀とは異なり、明らかに怒りを感じさせる口調で刀を抜く。
天竺屋も懐の脇差しを抜く。
馬を降りて天竺屋に飛びかかる、統秀。
それを天竺屋は迎え撃つ。
それは、勝負にもならない。
統秀の刀は袈裟斬りに天竺屋をなぎ倒す。
天竺屋は仰向けに血を吐きながら、天を仰いだ。
「蘭癖......せっかくこの国を救おうとした私を殺すとは......後悔するぞ」
そう天竺屋がむせながら統秀に訴える。
「私は......バタヴィアに生まれた......あそこでは阿蘭陀人がまるで現地の人々を奴隷のように扱うのを......見た」
「それがなぜ、麻薬を広めていいことにつながる」
「わからんのか」
意外な天竺屋の答えに統秀はじっと彼を見つめる。
「遅かれ早かれこの国は植民地化されよう。その時にみなが麻薬に毒されていれば、外国の支配欲も少なくなるだろう。何より支配されても麻薬の甘美な幸せがあれば、どんな苦しみでも乗り越えられる。まさに仏の慈悲だとはおもわないか......ね」
そう言いかけたところでごほっと血の塊をはき、天竺屋は絶命する。
「死にましたか」
後ろから平左が現れる。先程からずっと様子を見ていたらしい。統秀は静かに頷く。
「泥棒には泥棒なりの理屈がある、って言いますがね。これはその最たるものだ。一体何でこんな考え方になったんでしょうね」
「それは――さぞかしきつかったのであろう。異国での奴隷のような扱いが」
統秀はそう呟く。
『苛政は虎よりも猛し』という中国の古典のことわざがある。ひどい政治というのは虎よりも民にとって脅威である、という意味だ。
隣国清王朝は、このあとイギリスの阿片の持ち込みにより麻薬患者が急増する。それがアヘン戦争、そして本格的な植民地化になったのは言うまでもない。
この時代より日本にも多くの外国船が出没するようになる。
統秀はそっと刀を拭い、鞘に納める。
第二の天竺屋が出ないことを、心に強く願いながら――
第二章 完




