虎口を逃れて
「危機一髪でしたな」
茶を口に運びながら、そう平左がもらす。
言葉の意味ほど危うさを感じないのは、さすがに百戦錬磨の手練れといったところか。
「とはいえ、あやつめを逃してしまいました」
多鶴が不満そうに答える。
ここは統秀の屋敷。
虎口を脱した統秀たちは、再検討を迫られていた。今後、どのような方針に基づいて天竺屋たちの悪だくみを阻止することができるかという、作戦である。
「連中は『阿片』を企みに使うと言っていた。当然それは悪事であろう。そして、それを使用して江戸を支配しようとも言っていた。その方法は――」
統秀の問いに二人は沈黙を守る。統秀自身が答えが出ないままの状態であった。
あの『阿片』を何に使うのか。
売る?しかし、それで得られる利益はたかがしれいている。
この国に『阿片』の常習者を作り出す?それもなかなか迂遠な話である。そもそもどのようにして市中に違法な薬物を流通させ浸透させるのか。
「御公儀の助力を仰ぐ必要もあるかもしれませんな」
平左がそうつぶやく。
やくざ者、その筋のものを使って『阿片』をばらまく可能性は大きい。そうでなくても、闇闇に活動している天竺屋とその一党の手がかりが何か入手できるかもしれない。
「白河公――定信さまにお願いしてみよう。まさかここまで事態が大ごとになるとは意外であった」
統秀がすまなそうにそう答える。
松平定信。現老中筆頭にて、寛政の改革の領袖でもある。清廉潔白な彼の政治姿勢からも、そのような麻薬が世に広がるのを決して良しとはしないであろう。まして、江戸を乗っ取ろうする企み、許し難き行いである。
「しかし、どのように説明したらよいのか、いささか難しいところもある」
統秀が腕組みして考える。目の前の茶には一切手を付けずに。
「長谷川様に相談してみては」
平左がそう切り出す。
長谷川様――長谷川平蔵宣以。鬼平ともいわれ、火付盗賊改方の長官として江戸の治安の要をなしていた。
「長谷川様は『ああいう』後ろ暗い連中に通じております。蛇の道は蛇、と申します」
「なればそなたは毒蛙ではないのか」
平左の言葉に多鶴が皮肉を交える。平左はそれに反応するわけでもなく、今一度手元の茶をグイっとあおる。またそれが多鶴にはむかつくものであったのだが。
なるほど、そうかもしれぬと統秀は判じる。
その夕方、統秀は装いを正し、白河藩上屋敷を訪れた。
目的は当然定信に助力を仰ぐため。そして、彼の配下の火付盗賊改方に協力を要請するためであった――




