土左衛門
がやがやと人だまりができる。
物見高い江戸の民のことである。すこしでも珍しいものがあれば、それに飛びつくのが彼らの生きがいであった。それが水死体となれば――
「二日前、ぐらいかな」
十手で死体の襟元を開く同心。その後ろには岡っ引きらしき者がその言葉に相槌を打つ。死体は水にぬれ、青くやや膨らんでいた。むしろをかけなおすと、同心は振り返る。
「だめだ、何も身元を明かすようなものは持ってねぇ。千集、こいつに見覚えはねえか」
千集と呼ばれた岡っ引きは、首を横に振る。
運河の一角。そこそこ人通りの多い、河原に土左衛門が見つかったのは今朝のことである。夜のうちに打ち上げられたのだろう。棒手振りが河原に横たわる死体を見つけ、ほうほうの体で番所に届けたものである。
死体の身元はようとして知れない。
このあたりの岡っ引きを総動員しても、だめである。
「困ったな」
彼は北町奉行所に属する伊奈嘉兵衛門という同心である。このあたり、どうも仕事がすっきりとしない。このままではまた、上役にせっつかれるななどと暗澹たる気持ちになり始めた、その時――
再び野次馬ががやがやと声を上げる。
その中を進む、黒羽織の男。ややうつむき加減で、手には十手をひらめかせて――
「......!」
見覚えのある顔であった。
陰気臭いその雰囲気。知らない者はいない。南町の『にわたずみ同心』こと、稲富平左直禎であった。
嘉兵衛門は北町の同心であったが、よく知っていた。
何ともよい噂のない有名人である。
「ごめんよ」
そういいながら慇懃に頭を下げる平左。無言で嘉兵衛門も会釈する。
「死体が上がったそうで」
そういいながら、ずかずかと現場に入り込む平左。岡っ引きが止めようとするが、そんなのは気にしない。
「困るな。稲富殿。月番は北町。ご存じであろう。余計なことをすると――」
「結構結構。持ちつ持たれつではありませんか。伊奈どの。同じ町方、まあお目こぼしを」
死体のそばに腰を下ろし、十手でむしろをこじ開ける。
この男にはかなわない、と嘉兵衛門はあきらめる。
同心に過ぎないとはいえ、なにやら後ろ盾があるらしい。先輩の同心や与力ですら彼には一目置いているのだ。
処世の常として、筋を通すよりも長いものには巻かれたほうが良いに決まっているのだから。
「身元が分かりませんか」
「まったく」
「では、行方不明人として無縁仏で弔うこととなりましょうな」
身元のはっきりしない死体は、焼き場に運ばせ無縁仏としてだびに付されるのが常である。
そうですな、と嘉兵衛門はそっけなく答える。
「ならば、一本くらいよろしいでしょう。右腕をいただいていきます」
言葉の意味が理解できない嘉兵衛門。
その言葉が終わるか否か、平左は抜刀して死体の右手を手首から切り落とす――




