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蘭癖高家  作者: 八島唯
第2章 江戸を震わす狐茶屋
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『蘭癖高家』と呼ばれる旗本の物語

 小机に正座して向かう男性。その机の上には丁寧にたたまれたいくつもの書状が並べられていた。

 裃を正して、一枚づつ開いてはそれにじっと目を通す。たまに「うむ」という声を聞こえるか聞こえないかぐらいの大きさでつぶやきながら。

 部屋には誰もいない。

 彼はあまり仕事の際に、余人がそばにいることを良しとしなかった。扱う仕事の機密を守らんがための配慮である。

 彼の仕事――勝手方取締掛にして老中首座。彼の名前は松平越中守定信であった。

 御三卿の家、田安家に生まれ八代将軍徳川吉宗の直系の孫である。本来は将軍になれる身でもありながら、陸奥の白河藩に養子に出されたことが彼の人生の転機となった。譜代大名の跡を継いだことにより、幕府の実質的な為政者である老中へ就任することを可能としたのだった。

 時に天明七年――一七八七年彼は老中首座としてこの部屋の主となる。

 近年まで権勢を誇っていた田沼主殿頭意次は失脚し、この年改易の憂き目にあっている。

 いわゆる『寛政の改革』がこの部屋から始まるのであった。


 定信は世に言われるほど、田沼を恨んではいなかった。

 その政治手法は世を乱すものとして忌避していたものの、幕府財政の強化という点では目的を一にしていた。彼を狂信的な朱子学信奉者と見る向きもあるが、実際はやや理想と理論に偏る傾向があるとは言え現実の情勢も重んじるリアリストであった。

 実際、田沼の政策でもそれが理にかなって効果を上げていれば、定信はそれを継続するつもりであった。

 意次に対する恨みはあくまでも私怨。政治を行う者にとって、国家の大政の前にはそれは小さなものであるはずだ。

 そもそも、田沼政治の末期においては緊縮財政・倹約を旨としておりそれは彼の目指すものである。さしあたっては地方の農村の復興が最優先になるだろう、と定信は決心していた。幕藩体制を支えるのは農民の年貢であり、米である。田沼は商業資本をあまりに重視しすぎたことが弊害となって、あのような最後を遂げてしまった。

 とんとんと、書状を揃え書箱にしまう。老中でも一部のものしか見ることのできない書状。それは幕府の財政にかかわる秘密が事細かに記されていた。

 もう一つの箱に手を付ける。その前にもう一度姿勢を正す定信。年はまだ三十にも届かない。まるで武道を嗜む少壮の剣士のような佇まいである。

 その箱の中には数冊の冊子がしまわれていた。

 表紙には『阿蘭陀風説書』と朱書きされていた。

 鎖国、と呼ばれている江戸時代だが決して外国との交流が断絶していたわけではない。

 蝦夷地ではアイヌを通じての中国との貿易が行われ、ロシア人も多く渡航していた。

 対馬藩を通じての朝鮮半島との定期的な交流。

 薩摩藩の琉球支配を通じての中国との貿易。

 そして幕府が管轄する長崎『出島』における中国やオランダとの貿易であった。

 オランダの商館長が国際情勢をまとめたものを、通詞が訳したものがこの冊子である。一八世紀末、ヨーロッパの進出は世界に広がりつつあり日本もその例外と言えない状態になっていた。

 とりわけ、蝦夷地へのロシアの南下は大きな問題である。

 田沼は蝦夷地を開発することにより、その防波堤を築こうとしていた。

 定信は一般に蝦夷地開発に反対したとされているが、それはロシアの南下を許そうとしたものではない。

 むしろ幕府直轄による開発を企図していたともされる。

 風雲急を告げる国際情勢の様子は、ただ一冊の冊子からも強く感じられるものであった。

 どうすればこの内外の国難を乗り切ることが――

 腕を組み、目を閉じる定信。

 数刻の後に彼は決心する。

 初代将軍家康大権から吉宗に、そして自分にのみ伝わったある人物の活用を。

 『蘭癖高家』、後にそう呼ばれることになる人物。

 高家旗本、一色左近衛中将統秀を召し出すことを――

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