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星に願いを

作者: ハシモト

 それはとても長く、銀白色の輝く線を残して、天空をまっすぐと横切った。流れ星だ。ルカはその軌跡に心の中で願い事を唱えた。


「素敵な出会いがありますように」


 まだルカが私塾に通っていた頃、仲が良かった商店の息子が、流れ星は一瞬だから、願い事なんて絶対に唱えられないとルカに告げた。だがルカはそんなことは無いと思っていた。それは天空から消えるまでの間ではなく、自分の心の中から消えるまでの間だと信じていたからだ。


 その真っ白く輝き、そして淡く消えて行った軌跡はまだ自分の目に、そして心の中に残っている。


「素敵な出会いがありますように。素敵な出会いがありますように――」


 ルカはさらに二回、心の中で願い事を唱えた。


 周りを囲む山の間、その中央にある空には満点の星と白い天の川が見えている。今日は流れ星が良く見える日なのだろうか?さらに小さく、短い流れ星が一つ、二つと星の間を流れ行くのが見えた。だがそれはルカの心に何も残すことはなく、一瞬の間に消えて行った。


 ルカが祈った流れ星とは全然違う。それは天を二つに切り裂くかの様に、西から東へと真っ直ぐに流れていき、白く輝く光の線と、その周りに淡い銀白色の光を残しながら、山の端の向こうへと消えて行った。集落からぽつんと離れて建つ、山の陰にあるルカの家の方だ。


 今はその家にはルカ一人しか住んではいない。とても仲が良かった両親は、去年の初めにこの辺りで流行った病で二人とも亡くなってしまった。


 最初に母親が倒れて、それを看病した父親も、すぐに後を追うように倒れて死んでしまった。ルカはまだ大人と呼ぶには早い年ではあったが、自分で畑をなんとかできる年でもあった。なので誰かを頼って、両親との思い出が詰まったこの家を離れるより、一人でここで暮らすことを選んだのだ。


 父は代々この地で畑と時には家畜をかったりしながら、細々と暮らす農民そのものだったが、母は少し離れた街の出身で、父がまれに道具を買い求めたり、家畜の売買をするときに偶然に出会ったらしい。農家の奥さんにしては少し色白で、あか抜けた感じがし、よく笑う母は父の自慢だった。父だけじゃない。ルカにとっても母は自慢の母親だった。


 そのせいだろうか、小さい時からルカは読み書きやそろばんなんかも覚えるように、街の私塾に通っていた。そこで街の少しばかり色味がある服や、リボンを頭につけた女の子達を見ては、私塾に通う男の子達と一緒に、どの子が好きだとか、あの子の笑顔が素敵だなんて会話をしていたりした。そこに通う仲で実際に結婚したものもいる。


 だがもう私塾を辞めてから二年近くになる。ルカは星明かりの下で自分の手をじっと見た。その手は記憶にある父親の手と同じ、固くそして鍬を握る場所にはマメがある農民の手だ。それにルカの家はこの集落からも少し離れた山の陰にある。自分に父が母と出会ったような出会いはあるのだろうか?


 だからルカは目だけではなく、心の中にはっきりと刻み込まれたあの流れ星に、その願いを願わずにはいられなかったのだ。


 ルカは背中の籠を背負いなおした。中には綱やら鉄の鉤爪やら、猪や貉の罠に使う道具が入っている。夜に畑を荒らす奴らを捕まえる為のものだ。捕まえられれば、皮や肉を燻製にして街に持っていけば金に換えられるし、自分の食卓のおかずも少しばかりは豪勢になるはずだった。


 だが今晩は空振りだった。残念は残念だが、おかげでさっきの流れ星が見れたのだ。ルカは自分をそう納得させると、星明かりだけを頼りに慣れた道を歩き始めた。山の裾を回れば、今となっては少しばかり広く感じる我が家が待っている。だがルカはその手前で赤く何かが光っているのに気がついた。


『何だろう?』


 星明かりだけではあったが、慣れた道だ。ルカは赤い光のところに向かって走り始めた。それは木を切り倒した後の切り株の根元が、赤く燃える炎の明かりだった。何だ、どうしてこんなところで炎が上がっているんだ?


 燃え上がるというよりは、まるで熾火の焚火のように赤く光を放っているところの中心に、何か黒いものがめり込んでいる。何なんだ。だが早く火を消さないといけない。今日は風はほとんどないが、辺りの枯草に燃え移りでもしたら厄介だ。背後に背負っている籠にある、自分の水袋に残りはあっただろうか?


 燃料がもったいないと、ここまで使ってなかった腰のランタンに火を入れると、辺りが黄色い灯りに照らし出された。その灯で籠の中から水筒代わりの水袋を探し出すと、その黒い何かと周りの赤い炎に向かって、革で出来た水袋の水を全部かけた。


「ジュ――――!」


 まるで鍛冶屋が鉄を鍛えるときのような音と共に、辺りに水蒸気の白い煙が上がった。赤い火は根の奥の方に残っているようだが、ここ迄になれば、後は土を掛けてやるだけで問題はないだろう。ルカはランタンを手にした手の甲で、ここまで走って来たせいで額から落ちてきた汗を拭った。


『何だろう?』


 ランタンを上げた時に、切り株の先に何か見えたような気がする。ルカは慌ててランタンを前へ差し出してその先を伺った。見間違いじゃない。大きな切り株の陰になっていて気が付かなかったが、白い何かがその先に横たわっている。ルカは慌ててその白い何かに駆け寄った。間違いない!


「女の子だ!」


 ルカの口から思わず声が漏れた。真っ白な服を着た女の子が、切り株の向こう側の草むらに倒れている。ルカはおそるおそるその手に触れると、その手からはかすかな温かみが感じられた。横に回ってうつぶせに倒れている顔を伺うと、日の光に当たったことなど無さそうな真っ白い肌と赤い唇が見えた。唇からは微かに吐息が漏れている。どうやら倒れているだけで息はあるらしい。


 どうしてこんなところに女の子が?


 しかもこんな寝間着のような白い薄着だけを着て倒れているんだろう?あまりにもおかしい。もしかしたら自分は猪が罠にかかるのを待っている間に寝てしまって、夢を見ているんじゃないだろうか?だからあんなに奇麗な流れ星も見たのだろうか?自分の頬をひねってみたが、頬から感じる痛みは本物にしか思えなかった。


 この子の家族とかも居るかもしれない。ルカは立ち上がると、ランタンの明かりをかざして辺りを伺ってみた。すると倒れている女の子の10m程先の草の上にも、誰かが倒れているのが見えた。黒いフード付きの銀の縁取りがある外套を着ている。どうも男性らしい。この子の父親だろうか?


 ルカは急いで立ち上がると、その男性の側に向かった。男性は黒い髪をしていて、手にはその髪の色と同じ真っ黒な手袋をしている。右手にはステッキのようなものを握ったまま倒れていた。何かから逃げようとして駆けだして、そのまま前に倒れた感じだった。そこからさらに1mほど先に、男性がかぶっていたと思われる、丸いつばのある黒い帽子も転がっている。


 ルカは呼びかけようとして、その肩を揺さぶった。


「大丈夫ですか?」


 だが何の反応もない。ルカはおそるおそる男性の首筋に手をやった。亡くなったばかりらしく、まだ完全に冷たくはなっていなかったが、最後に父親をみとった時と同様に、そこには何の脈も感じられなかった。男性は既に亡くなっていた。


 ルカは男性の首から手を離すと、ランタンを草の上に置いて、両手を顔の前で組み、男性の魂に安らぎがもたらされるように祈りを捧げた。そして再びランタンを取って辺りを見回してみたが、この男性と先ほどの白い服を着た女の子以外は何も見当たらなかった。


 あの子も、あの薄着のままだと凍えて死んでしまうかもしれない。男性をこのままにすることには抵抗があったが、ルカは女の子のところに戻ると、彼女を背中に背負って、家までのそう遠くない道のりを歩き始めた。


 ルカは彼女を受け止める手に、背中に、彼女の体の温かみと柔らかさが感じられて、耳の後ろが熱くなるのを止められなかった。 


* * *


 彼女を見つけた晩から既に二日以上がたった。


 女の子にはどこにも怪我があるようには見えなかった。呼吸も安定していて顔色も悪くない。ルカは両親の部屋の寝台で安らかに寝息をたてている女の子の顔を覗き見た。その間、食事も水も取っていないのだけど、その顔色は最初の晩とさして変わらないように見える。


 男性の亡骸はそのままにしておくわけにはいかないので、この子には申し訳なかったが、穴を掘って両親の墓からさほど遠くない林の入り口の前に埋葬させてもらった。その際に彼の遺品を改めてみたのだが、ポケットの中にわずかなお金が入っているだけで、彼が誰なのか、どこから来たのかも含めて何も手掛かりになる物は無かった。


 着ている物から考えれば街の住人のようだけど、着ているもの自体がこの辺りの街の住人とは全く違う。見たことも無い衣装だ。それにこの辺りでは、彼のように鼻の下に立派な髭を持つような人はほとんどいない。


 この子についても、本当は街まで行って医者を連れてくるべきなのだろうけど、街まで言っている間にこの子が気が付いたらどうしようと思って、呼びに行けずにいた。それにすぐに気が付くと思っていたのだ。


 だが既に二日以上がたってしまった今では、ルカはその判断が間違いだったのではないかと言う思いにとらわれ始めていた。すぐに街まで行って医者をここまで連れてくるべきだったのではないだろうか?両親の葬儀費用を出すために牛は売ってしまったが、集落で荷馬車と牛が借りられない訳ではない。


 ルカはどうして自分が医者を呼ばなかったか、集落の者にも知らせなかったのか、うすうすは気が付いていた。この子との出会いが、自分の流れ星へのお願いがもたらしてくれたものではないかと思ったからだ。だから他の人には知らせたくなかったのだ。


 だがそんな淡い夢想にとらわれている場合ではない。集落に行って荷馬車を借りて街の医者まで連れて行こう。ルカがそう決心して、寝台の横においた椅子から立ち上がった時だった。


「あなたは誰?」


 ルカの背後から小さな声が上がった。驚いて振り返ったルカの目に、寝台の上から自分を見る、銀色の様な明るい灰色の目が見えた。そしてサクランボの様に赤い唇が動いた。


「あなたは誰?」


「ぼ、、僕は、、ル、、ルカと、言いま、す。」


「ルカ?」


「あっ、、あの、怪しい者じゃないです。いっ、、家の近くに、、倒れて、、いたので、ここまで、運びました」


 ルカは必至に平静を保とうとしたが、そうすればするほど口がうまく動かなくなるのを感じた。怪しい者ではないと言ってみたものの、これでは怪しい者そのものではないか。


「ルカさんですね」


「は、、はい」


「ありがとうございました」


 彼女はルカにそう告げると、寝台から上半身を起こそうとした。だがまだ体が自由に動かないのか、うまく体を起こせないでいる。ルカは慌てて彼女の側に寄ると、その体を起こすのを手伝おうとした。彼女の体の温かみが、その体の柔らかさが手に伝わり、ただでさえ早かった鼓動がより早くなる。


「まだ無理をしない方が……」


「はい」


 彼女は素直に頷くと、再び寝台の上に横たわった。


「私の()()は何処でしょうか?」


「残念ですが、僕が見つけた時には彼は亡くなっていました」


 僕の言葉に、彼女は一瞬目を閉じて何かを思うような、考えるような表情をすると再び目を開いた。


「天から星が落ちて来たのです。私が助かっただけでも奇跡なのでしょうね」


「あの男性は貴方のお父さんでしょうか?」


「違います。遠い親戚の叔父です」


 彼女は僕の方を見ると、僕が神妙な表情をしているのに気が付いたのか、言葉を続けた。


「ルカさんが悪いわけではありません。運が無かったのです」


「ご愁傷さまです」


 僕のお悔やみの言葉に彼女は頷いて見せた。


「すいません。まだ名前を名乗っていませんでした。私はアリシアと申します。叔父と一緒に私の引き取り先に行く予定だったのですが、道に迷ってしまいました。道を探しているうちに馬達も逃げてしまって、どうしていいか分からなくなっていた時に、天から何かが降って来たまでしか覚えていません」


 旅人と言う事だろうか?山を一つ越えたところに、あまり人が使わない裏街道があるが、そこから迷い込んできたと言うのだろうか?この子を見ると流れ星に乗って来たと言われた方が、自分としては信じられそうな気がする。


「流れ星ですね」


「流れ星ですか?」


「はい。貴方に会った夜に見ました。普通の流れ星とは違って見えました。それが落ちて来たのですね」


「アリシアさんが気が付くまではここに寝ていてもらうつもりでした。気が付いたのであれば、街までお送りします。そこからなら、あなたの目的地なり、知り合いに連絡が取る手段があるかもしれません。」


 気がついたのであればここに置いている訳にもいかない。数晩の間、この子の寝顔を眺められただけでも有難かったと思うべきだ。


「ルカさん、お願いがあります」


 彼女が突然に真剣な表情でこちらを見た。


「何、、何でしょうか?」


「しばらくの間、私をここに置いてはいただけませんでしょうか?」


「は、、はい」


 やっぱり、あの流れ星は特別だったんだ。それは僕の願いを叶えてくれた!


* * *


「リーン!」


 一階の、以前は両親の寝室だった部屋に置いた呼び鈴が小さくなった。僕は選別中の芋を籠の中に放り投げると、手についた泥を慌てて洗い落として、勝手口から家の中へと飛び込んだ。


「何か御用ですか?」


「ルカさん、申し訳ありません。お水を飲ませて頂いてもよろしいでしょうか?」


 アリシアさんは僕に小さな声でお願いをした。寝台の横の卓には水差しと小さなグラスが乗っている。


「大分良くなったのですが、まだ痺れがあってうまくグラスが持てないのです」


「お安い御用ですよ」


 アリシアさんは、流れ星が地面に落ちてきたときのショックのせいか、体にしびれがあるらしく、時としてそれがひどくなるらしい。本人は大分良くなったと言っているが、しびれがあるときには僕が手伝ってあげないと色々なことが満足に出来ない。


 僕は彼女の上体を抱き起すと、寝台の横からグラスを取って、それを彼女の口元へと持っていった。彼女が小さく喉を鳴らしながら、水を一口、一口と飲んでいく。ルカにはそのしぐさ一つ一つがいじらしく、そしてとてもかわいいものに思えた。


「ありがとうございます。お仕事中にお邪魔ではなかったでしょうか?」


「いえ、なんてことはないですよ。何かあったらまたすぐに呼んでください」


 こちらとしては仕事中というか、野良仕事以外の仕事を何とか見つけて、作業している間もいつ呼んでくれるかやきもきしてるくらいだった。呼んでくれれば、彼女の銀色の光る月のような瞳を見る事が、そのつややかで長い髪を見る事が出来るのだ。


 他には用事はないらしい。ルカは少しばかり後ろ髪を引かれる思いで部屋を後にした。


「なんて奇麗なんだろう」


 ルカは思わず自分の口から漏れ出た声に背後の扉をふり返った。彼女に聞かれたりはしなかっただろうか。自分の母親のほがらかな笑みを浮かべた顔もいいと思うが、アリシアさんのまるで彫像のような美しさも、神秘的な感じがする笑みも見る者を魅了する。ルカはもう一度残念そうに扉の方をふり返ると、裏手の納屋の方へと向かうべく、勝手口へと足を向けた。


「リーン!」


 鈴が小さな音を立てた。何だろう。僕の願いが届いたのだろうか?


 扉の前にまだ居た事をごまかすために、一呼吸置いて、わざと足音を立ててから部屋の扉を開けた。


「ルカさん、すいません。一つ我儘なお願いをしてもいいでしょうか?」


 上体を起こしたままの彼女がこちらを見て告げた。少し傾けた顔がこちらを見ている。その瞳に見つめられるだけで、ルカの心臓は壊れそうなぐらいに激しく鼓動を打った。


「何でしょうか?」


「山ぶどうを手に入れる事はできますでしょうか?」


「山ぶどうですか?」


「はい。私は幼かったころのことをあまり良くは覚えていないのですが、私の生まれ故郷ではこの時期になると山ぶどうを絞った物を飲んでいて、それが何よりの楽しみでした。ルカさんには助けて頂きましたが、こうして一人で居ると、どうしても幼かった時の思い出が思い出されて……」


 そう言うと、最後は言いよどんで俯いてしまった。もしかしたら僕に告げたことを後悔しているのだろうか?


「里のものにお願いして――」


 この辺りでも山ぶどうは取れないことは無いが、次期も遅いし、普通に収穫できるところは里の者がすでに収穫してしまっているだろう。だけど里の者で絞って手元においているものが居るかもしれない。そう告げた僕に彼女が顔を上げた。


「ルカさんにお願いしたいのです。ご迷惑でなければですが……」


 その言葉に感情の起伏はそれほど無かったが、最初の僕にお願いするという言葉が、ルカにはまるで心の叫びの様に感じられた。


「もちろんいいですよ。少し時期的には遅いですが、探せば何とかなるかもしれません。ですが少し時間がかかると思います。その間、一人で大丈夫ですか?」


「はい。大丈夫です」


 僕の言葉に彼女が今まで見せたことがない笑顔を浮かべて答えた。なんて美しい笑顔なんだろう。この人にお願いされたら、拒否なんてできるものは誰も居ないだろう。


「もう日も大分高くなってしまいました。すぐに出かけますので、ゆっくり休んでいてください」


* * *


「ここがだめなら、もう駄目かな」


 さすがに時期が遅すぎた。普段、山ぶどうが採れる場所は全くダメだった。あと心当たりがあるとすれば、この山の間の陰になっているところだ。


 確か前に父親と一緒に狐を追った時に迷い込んだこの場所で、少しだけ山ぶどうがあったのを見た記憶がある。その後で、普段はとても温厚だった父親にすごく怒られたのを思い出した。この辺りには熊の巣ごもりの穴があって、秋から初冬にかけては気が荒くなった熊に会う可能性がとても高いからだ。


 背には弓を持ち、腰には鉈を持っているが、不意打ちを食らったらどうなることか分からない。ここに来てから熊よけの鈴を呼び鈴として置いてきたことに気がついた。出てくる時間も少し遅すぎた。この辺りは日の陰になってかなり薄暗い。熊だけじゃない。日が暮れれば狼の群れなんかに見つかるかもしれない。


 ルカは木立の陰の暗がりや、木の上に目をやりながら、心の中に恐怖心が湧き上がってくるのと必死に戦っていた。それでもルカはアリシアの喜ぶ顔が見たい一心で手を足を動かしていた。


 以前の記憶を手掛かりに辺りを探すと、折れて枯れた立ち木の周りに蔦が這っているのが見えた。その先に茶色く色あせた山ぶどう独特の、根元がへこんで先がとがった葉っぱが見える。もう葉っぱがこんな状態だとだめだろうか?


 だがよく見ると、まだ赤く色づいた葉っぱとその先に濃い紫の小さな房がいくつかついているのが見える。ここは生育が遅い分まだ間に合ったらしい。ルカは腰の鞘から鉈を取り出すと、その房を切り取ろうと枯れ木の方へと向かった。


 ガサ……


 その横の暗がりで何かが動いたような音がした。ルカはおそるおそるその音がした先を見ると、茶色い何かがそこに見える。


 ガサガサガサ


 間違いない。ルカは音がした方を慎重に向いた。杉の木の間に大きな体があり、その真ん中には牙をむいた顔がある。


 ヴオォオオオォォォ!


 熊の低い唸り声が立ち木の間に鳴り響いた。その目はじっとルカを見据えている。その爪はまだこちらをすぐにとらえる距離よりはわずかに遠かったが、その巨体はまるで5mもあるかのように思えた。


 鉈を持つ手が震えそうになるが、力を込めてそれを必死に堪える。そしてこちらも熊の黒く光る眼をじっと見据えた。こちらがおびえたり、背中をむけたりしたらその時点でお終いだ。


 ブオォォォー


 再び熊の唸り声がする。ルカは自分の唯一の獲物である、鉈をゆっくりと前へだして構えた。そこでじっと相手の出方を伺う。


 一体どれだけの時間が過ぎたのであろうか、熊はルカの目から視線を外すと、ゆっくりと木立の向こうの暗がりへと消えていった。


 ルカは張りつめていた息を吐くと、体中から流れる様に汗をかいているのに気がついた。それがとても冷たく、そして重いものに感じられる。ルカは急いで鉈で山ぶどうの房を切り取って籠に入れると、まるで転がり落ちるように山の獣道を下っていった。


 帰りはどこをどう通って行ったのかはよく覚えていない。気が付くとルカは、惚けたように月明かりに照らされる自分の家を見あげていた。


 彼女は、アリシアさんは家に居るのだろうか?


 家に明かりはついていないし、そして人の気配もない。もしかしたら彼女のこのお願いは、自分を外に出して、その間にどこかに行ってしまうための理由だったのではないだろうか?彼女はこんな冴えない田舎男のところに居るような子じゃない。


 ルカは半ば諦めた気持ちで玄関のドアを開けた。家の中は薄暗くほとんど視界は効かない。だけど長年住んでいる自分の家だ。灯など無くても問題はない。ルカは一階の奥にある、かつては両親の寝室だったところの扉の前に立った。何も気配は感じられない。


 熊に襲われそうになってまで自分は一体何をしていたのだろうか?ルカは扉を開けた後に自分がどんな気分になるかを先に想像しながら扉を開けた。


 扉の向こうでは窓が開け放たれており、そこから冷たい夜の空気が流れ込んでいる。ルカが開けた扉の先へと流れる微かな風に、日差し除けの薄手の布が小さく揺れる。月明かりの下、それは部屋の中で何かが踊っているような淡い影を映し出した。その影が舞う寝台の上で月をじっと見つめる人影がある。


「よかった」


 その人影はルカの方を見るとそう告げた。


「お帰りが遅いので心配していました」


 その顔を見た時に、ルカの中でこの数房の山ぶどうを得る為の苦労や、熊にあった恐怖などは一瞬で消え去ってしまった。ああ、この人の為なら自分は何でもできる。そうすら思えた。


「遅くなってすいません。」


 この時になってはじめて、ルカは自分が泥だらけの汚れた姿であることに気が付いた。この姿で近づくと彼女を汚してしまいそうで気が引けたがもう手遅れだ。ルカは、背中に背負っていた竹で作った小さな籠を下ろすと、その中から山ぶどうの房を取り出した。


「山ぶどうです。残念ながら数房しか見つけられませんでした」


「ああ、ありがとうございます」


 ルカの手の中にある山ぶどうの房をみたアリシアが感嘆の声を上げた。


「すぐに洗って持ってきますね」


「お待ちになってください」


 扉から出て行こうとしたルカに向かってアリシアが呼びかけた。


「どうかそれを、ルカさんの手で私に食べさせてください」


「手が汚れているので、それも洗ってから……」


「お願いします」


「本当にいいのですか?」


「はい」


 ルカはゆっくりと寝台の側に、アリシアの側に近づくと葡萄を一粒、房から外した。それを見たアリシアが目をつぶって、口を小さく開けて見せる。ルカはその粒をアリシアの口元へと近づけた。だがどうしたことか、熊と対峙した時よりも指が震える。


 ルカはやっとの思いで、それをアリシアの小さくかわいらしい唇の先へと押し込んだ。その時に指先がアリシアの唇にかすかに触れた。その柔らかい感触に、ルカの全身に今まで経験したことがない何かぞくぞくする感じが走る。アリシアは小さく口を動かすとその余韻を楽しむように喉を鳴らした。そして、


「おいしい」


 と一言告げると、目を開けて、月の明かりに銀色に輝く眼でじっとルカを見つめた。


* * *


「リーン!」


 アリシアからの呼び出しだ。ルカはぼろを縫う手を止めると、一階の奥に向かって走った。今のルカはもうアリシアの事で頭が一杯だった。


「ルカさん、わがままなお願いで申し訳ないのですが、こけももの実が食べたいのですが、手に入れる事はできますでしょうか?」


「実ですか?生ではとても酸っぱくて食べられないですよ。はちみつ漬けならありますけど」


「そうですか、、。あの香りをかぐととても心が落ち着くのですが……」


「分かりました」


 僕は籠と鉈をもって家を飛び出した。これも季節が遅すぎるが、探せばぎりぎり何とかなるだろう。彼女の感謝の言葉を、そして僕へのねぎらいの言葉を聞くためなら頑張るしかない。


「リーン!」


「ルカさん、我儘なお願いで申し訳ありませんが……」


「リーン!」


「ルカさん、我儘なお願いで申し訳ないのですが……」


 アリシアさんの呼び出しの鈴が鳴る度に、僕は部屋へと駆けて行く。そしてアリシアさんは僕に向かってお願いをした。彼女の体はまだ完全には癒えていないらしい。僕がいないと、僕が手伝ってあげないといけないのだ。


「リーン!」


 その日、何回目かの呼び鈴がなった。僕は彼女のお願いの兎のシチューを作るために人参を刻んでいた手を止めると、彼女の部屋に急いで向かった。


「何か御用ですか?」


 彼女は寝台の上で扉の方の僕に向かって、お願いをする前に唇の端をかすかに上げて微笑んで見せた。今までに無かったことだ。


「ルカさん。本当に色々とありがとうございます。そして色々とご苦労をおかけしてすいません」


 彼女が僕に改まってお礼の言葉を告げた。

 

「いや、苦労なんてものではないですよ」


 その通りだ。僕はこの子から感謝の言葉を受けたい為にやっているのだ。


「この体が早く自由になれば良いのですが……」


 彼女が少し俯き加減に小さく言葉を漏らした。


「体の事ですから焦りは禁物ですよ。きっと春が来て暖かい季節になれば大分良くなると思います」


 そう言ってからルカは少し後悔の念に駆られた。もし春になって、彼女の体が自由になればここを出て行ってしまうんではないだろうか?そうしたら僕は一人になってしまう。アリシアさんは僕の全てだ。アリシアさん無しの生活など僕には考えられない。


「そうでしょうか?他は大分良くなったのですが、左手だけはまだ思い通りになってくれません」


「それも時間がたてば――」


「ルカさん。お願いがあります」


「はい」


「あなたの左手を私に頂けませんでしょうか?」


 こちらを見るアリシアさんの目は真剣だった。


「はい、アリシアさん。貴方が自由に動かせる日が来るまで、僕はずっとあなたの左手の代わりになります」


 僕の言葉にアリシアさんは、しばし僕の方をじっと見つめた。やがて僕から視線を外すと、


「そうですね。焦りは禁物ですね」


 そう呟いて小さく頷いた。良かった。まだアリシアさんは僕と一緒にここに居てくれるつもりらしい。僕は何かを考え込んでいるらしい彼女の邪魔をしないように、声を掛けないで静かに扉の外に出た。


* * *


 いつの間にか雪が舞って、それが次第に根雪になっていく季節になっていた。


 アリシアさんはまだ一階の奥の部屋に居る。その顔色は最初にここに来た時よりも良くなったように思えるのだけど、時折ふさぎ込む様な、考え込む様な表情をすることがあった。もしかしたら、僕が彼女のお願いをうまく叶えてあげられていないのかもしれない。そう思うと少しやるせない気持ちになる。


「リーン!」


 その日はお昼近くになって初めて呼び鈴の鈴の音がなった。そう言えば朝食は食べてくれただろうか?呼ばれないうちに持っていったが、まだ彼女は寝ていて、寝台の横の卓に置いたままだった。それも下げないといけない。


「何か御用ですか?」


 扉を開けた僕の顔に何か冷たいものが当たった。冷気と言うか身を刺すような寒さだ。腕を顔の前に上げて中を伺うと窓が開け放たれている。もしかして換気の為に朝方、少しの間と思って窓を開けた時に閉め忘れたのだろうか?


 寝台の上を見ると誰も居ない。慌てて腕を下げて部屋の中を見渡すと、部屋の真ん中に外から吹き込む雪に同化したかのような白い人影があった。


「アリシアさん!」


 彼女の衣服は最初の夜に見た時と同じ、白い薄手の寝間着のようなものだ。それが窓から吹き込む強い風にあおられつつ、彼女の体にぴたりと張り付いて、体の線をはっきりと浮きだたせている。女性らしいとしかいいようのない胸の線と、優美な曲線を描く腰、そしてそこから伸びるすらりと長い足がはっきりと分かる。


「アリシアさん?」


 ルカはその姿にどぎまぎしながらアリシアに向かって声を掛けた。こんな冷たい風の中でそんな薄着でいたらすぐに凍えてしまう。暖炉の火はどうなっているんだろう。火の手の気配は全くない。この風に消えてしまったんだろうか?


「ルカさん……」


「はい」


 部屋の中を吹き荒れる雪混じりの風の向こうからアリシアさんの声が聞こえた。


「今までありがとうございました」


 彼女が小さく僕に向かって頭を下げた。


「貴方に最後のお願いがあります」


「最後のですか?」


「そうです。これが最後のお願いです。そしてもっとも大事なお願いです」


 そう言うと、彼女は暖炉がある壁の方を指さした。そこには暖炉の代わりに何やら黒い何かがある。穴だろうか?いや違う!


 それは穴なんかではない。霞のような黒い何かがちろちろと動きながらこちらにある何かとぶつかって跳ね返されているように見える。一体何なんだこれは?うちの暖炉にどうしてこんなものが?


 だが深く考える前にアリシアさんの声が聞こえた。


「この向こう側に、私と一緒に行って頂きたいのです」


 その声は、アリシアさんが今まで僕にしてきたお願いと違って、どこか命令するような、口答えを許さないような響きが感じられた。


「何なんですか、これは!?」


「私の世界に通じる穴です。私は今までのお礼に貴方をそこに招待させて頂きたいのです。」


 そう僕に告げたアリシアさんの銀灰色の目は、これまでに見たことがない感じだった。怪しく光り、そしてまるで何かを値踏みするように僕の方を見ている。


「さあ、どうか私と一緒に、この先へと行きましょう」


 そう言うと、再びその黒い霧の様なものを指さした。そこからはどう考えても、邪悪でおぞましい気配しか感じられない。


「ああ、あの、僕には……畑の世話なども……」


 ルカはその黒い何かと、雪が舞う風の中に立つアリシアの姿を交互に見ながらそう言い淀んだ。アリシアは小さく頭を振ると、ルカに向かって手を差し出した。


「貴方は、私が招待した中でもっとも最高の魂を持つ方です。それ故にとても時間がかかってしまいました」


「魂!?」


「はい、貴方は私でも魅了できない、我が主の成人の儀にふさわしい、素晴らしい魂の持ち主です」


 そう告げると真っ白な肌に、そこだけとても赤く見える唇の端を持ち上げて見せた。これは親愛の微笑なんだろうか? いや違う。これは狩人が獲物を狩った後に見せる満足の笑みだ。


「ぼ、僕は――」


 最初から気になっていた。どうして男性は彼女の先に倒れていたのだろう。彼女を逃がすためなら男の方が手前に倒れていないといけない。それか、彼女をかばって倒れているはずだ。ルカは前から気になっていた疑問に対する答えがやっと分かった。あの男性はアリシアさんから逃げようとしていたのだ。


 僕も、僕も逃げないといけない。


 だけど体はまるで凍り付きでもしたかのように動かない。いや動かないのではない。アリシアさんの手招きに合わせるように、ぎこちなくあの黒い霧の様なものに向かって一歩一歩と進んでいく。その得体がしれないものに一歩近づくにつれ、それがいかに邪悪なものか、決して近寄ってはいけないものかという事がはっきりと分かって来た。


 嫌だ!行きたくない! 母さん、僕を助けて!


「こっちです!離れてください!」


 何かが僕の手を引いた。銀の縁取りがある黒いフードが目に入る。


「確保しました。詠唱をお願いします!」


 僕の手を引いた何かが叫び声を上げた。僕はその手に引きずられながら扉の向こう側に立つアリシアさんを見た。彼女は何かにうろたえたように周囲を伺っている。その体を囲むように部屋の隅に4本の赤い光が昇るのが見えた。その光の中で黄色い粒のようなものが踊っている。


「封印柱の動作を確認!」


 僕の背中から再び叫び声が上がった。


「ルカさん、()()()です。私を助けてください!」


 アリシアさんが僕の方へ向かって両手を差し出した。何かよく分からないが、その姿は四隅の赤い光の向こうで揺らめいて見える。


 ああ、アリシアさんのお願いだ。彼女を助けないと!


 僕は引っ張る手をふりほどいて、アリシアさんの方へ向かおうとした。だが僕の手を引く何かが、振りほどこうとした手をさらに強い力で抑えた。そして何かが僕の頬を叩く。


「駄目よ!」


 母さん!?赤い目が僕を覗き込んでいる。そこで僕の意識は途切れた。


* * *


「母さん!?」


「大丈夫ですか?」


 赤に近い茶色の目の女性が僕を覗き込んでいた。さっきは分からなかったけど、僕とそう年が変わらなさそうな、まだとても若い女性だ。


「もしかしてご両親は間に合いませんでしたか!?」


 彼女がはっとした表情をして僕の肩を揺さぶった。


「ま、ま、間に合う……ですか?」


「はい!ご両親は穴の向こうへ行ってしまったのでしょうか!?」


 彼女が僕の目前まで顔を近づけて、真剣な表情で聞いてきた。彼女の吐息が顔にかかり、思わず耳の後ろが熱くなる。


「両、両親は昨年のはやり病で二人とも亡くなってしまいました。ここには僕一人です」


「そうですか、穴の向こうにいってしまったのではないのですね」


 彼女は僕の言葉に安心したのか、大きなため息をついて僕の肩から手を離した。上体が床に落ちそうになり、慌てて肘で体を支える。それから何かに気が付いたのか、再びハッとした表情をすると申し訳なさそうに慌てて僕に向かって頭を下げた。


「すいません。ご愁傷さまでした」


「あ、ありがとうございます」


 どうやら先に安心して見せたことを悪いと思っているらしい。


「すいません。私はこれだから。王宮魔法職見習いのフレアと申します。と言ってもまだ王宮付属上級魔法学校の生徒ですけど……」


 彼女は頭をかくと僕に向かって再度頭を下げた。黒いフードが外れて彼女の明るい赤毛の髪が見える。それはフードの中でこれでもかというぐらいに跳ねていたらしい。指に絡まった髪の毛を必死に振りほどこうとしている。その仕草の一つ一つが誰かを、僕の母親を思い出させてくれた。


「あ、僕はルカと申します」


「ルカさんは、親戚や近親者に誰か魔法職の人が居るんですか?」


 彼女は再び僕の肩を両手で掴むと真剣な表情で僕に問い掛けた。顔がとっても近い。この人は自分の興味があることになると、周りの事が見えなくなる種類の人間らしい。


「いや、誰もいません。代々ここで畑を耕しています」


「絶対に嘘です!」


 一体何を根拠に言っているのかは分からないが、フレアさんが僕に向かって力強く首を振って見せた。


「いや、嘘も何も――」


 実際のところ先祖代々の農家だ。だから集落からも外れたこんなところで暮らしている。だけどフレアさんは僕の言葉を聞く気は全くないように見えた。僕の肩から手を離すと、背筋を伸ばして指を上に差し、まるで私塾の教師が何かの授業をするかの様に語りだした。


「あなたは魔族の、それもあの『ブリエッタ』に抗することが出来たのですよ。しかも執行官すら返り討ちにされたというか、取り込まれちゃった相手です。絶対に私の同僚に、魔法職になるべきです」


 最後に上にあげた指を僕の目前へと差し出した。ちょっと危ないですよ。目に入ったらどうするんですか?


「魔法職ですか? 僕が!?」


「はい、私が保証します!一緒に頑張りましょう!」


 そう言うと彼女が僕に右手を差し出した。


 どうやら僕の願いはかなったらしい。僕は差し出された右手を握りしめた。


 やっぱりあれは特別な流れ星だったんだ!

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― 新着の感想 ―
[一言] 雰囲気コラボ、ありがとうございます。 序盤の童話的ほわほわ感で油断したので、終盤の某ホラー神話系スタイルに驚きました。 魔法職の世界観は私は好きです。 今後ともよろしくお願いします。
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