pregnant:妊娠中
俺がその物体に放尿したのは前の秋の終わりだった。
閉ざされたクリーム色のカーテンの向こうで鈴虫が鳴いていた。
物体を見つけたきっかけは酔いの勢いだったと思う。
当時は看護師である恋人の浮気を酷く疑っていて、それこ後頭部に豆粒サイズの円形脱毛部ができてしまうくらいに悩んでいて、しかし問い詰める勇気も出ずに、結局彼女の夜勤の不在にバッグを漁ったら、それを発見したのだった。
ありふれ過ぎて特別感のないブランド物のバッグは、恋人が複数所持していたものの1つで、開くと柑橘系の香りが漂ってきた。リップクリーム、化粧用ポーチ、ティッシュ、ハンカチ、小銭入れ等々。
雑多でカラフルで小さな物体たちに埋もれるように、それはあった。
体温計を梱包するような細い長方形の箱。
つまみ上げて開くと、説明書と物体が出てきて、体温計のような形状で、においをかぐと新品のプラスチックで、俺の鼻は自然にふんと鳴った。
馬鹿にしたわけではない。ただ、避妊について絶対の自信、この自信は自制心とも言い換えることができる、というものを持つ俺に対する不信に、実は酔っぱらって恋人のバッグを漁ってしまうくらいにナイーブな俺の心が傷ついてという、それだけの話だ。
最後に性交をしたのはいつか。それは妊娠検査薬の使用と合致するか。
酔った頭でしばし自問し、肯定という答えが出た。神よ感謝する。クリスマスはミサに行こう。正月は参拝しよう。盆は墓参りをしよう。
とにかく心あたりはある。しかし避妊は完璧だった。生理不順か。子宮ってやつは大変だな。卵巣だったっけ。そんなことを考えながら、俺は力の入らない膝と足首のためにふらついた視界の中でトイレに向かった。
放尿をしたいと思ったからだ。検査薬をつまんだままだということに、便座のふたをあげる段になって気が付いた。
俺は何を思ったのか、本当に正確に思い出せないが、検査薬の先に尿を振りかけた。
そして鼻の先までつまみ上げて、体温計の表示部分のようなディスプレイをのぞく。
楕円の中央に赤の線が1本。縦に走っていた。
「……は?」
赤の線。妊娠。妊娠?
俺が? 心あたりはないぞ?
避妊は完璧だ。いやそれ以前に俺は男だ。なんで妊娠なんだ。
混乱する俺の食道をせり上げるものがあった。酷い、しかし確実な何かを宣言するような、猛烈な吐気だった。
つわり、という言葉が頭痛のように響く中、便座に上体をまげてひたすら嘔吐した3ヶ月後の現在。
俺は今、レモンをかじっている。