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何も持たない男と、侍女と

作者: 中澤 悟司

 貴族の身分以外何も無かった俺に、彼女は仕えてくれた。


 6歳の時、彼女に出会った。かつて我が家に仕えていた侍女の娘だと紹介された。男の侍従以外に、歳の近い侍女も側に置いておいた方が何かと都合が良い、という親の判断だったらしい。彼女は俺の専属侍女見習いとして、他の侍従と共に仕えてくれた。同い年であったが、彼女は既に美しく聡明だった。何より、才能に溢れていた。何をやっても、どう努力しても、俺は彼女には届かなかった。そんな情けない俺のことを、彼女は嫌な顔ひとつせず相手してくれた。彼女に相応しい主人でありたい、その思いが、恋慕に変わるのにそう時間は掛からなかった。


 12歳の時、見習いが取れた彼女が侍従のひとりと懇意にしているという話を聞いた。彼もまた、俺などよりも余程優秀な男であった。嫉妬で身を焦がした。しかし、彼女はあくまでも侍女なのだ。身分だけは立派な凡百の俺に縛り付けて、息苦しい思いをさせたくはなかった。


 15歳になり、俺には婚約者が出来た。家格に相応しい相手、紛う事なき政略結婚であった。しかも相手には、既に慕う男がいた。愛の無い結婚生活になるのは目に見えていた。多感な時期、俺はそれに堪えられる気がしなかった。


 転機は18歳の時に訪れた。内乱が起き、国王が処刑された。高位貴族も軒並み斬首となり、王政は崩壊、政治体制が転換した。そこそこ高位の爵位を持っていた俺の父親も、漏れなく処刑された。俺の婚約者は、混乱に紛れて慕っていた男と共に国外へ逃亡した。家の者たち、仕えてくれていた侍従たちも散り散りとなり、最後に専属侍女の彼女を含む数名が残った。


「君の器量なら、どこへ行っても大丈夫だろう。今更役に立つかどうか分からないが、紹介状も渡そう」


 彼女は何も言わずに紹介状を受け取ると、俺の前から姿を消した。


 分かってはいた、分かってはいたんだ。淡い夢を見ていたことくらいは。俺は、生まれて初めて感じた心の痛みに泣いた。


 彼女が去った翌日、差し押さえに来た役人どもに屋敷を明け渡した俺は、辻馬車乗場で途方に暮れていた。領地では兄達が抵抗を続けているようだが、長くは持たないだろう。無駄に抵抗せず、財産の引き渡しに応じる代わりに、彼女をはじめとした家の者たちの身の振り先をどうにか確保するよう交渉した俺は、既に何も持ってはいなかった。貴族の矜持は無いのか、と兄達に言われそうだな。

 さて、この服でも古着屋で売れば、幾許かの小銭にはなるだろうか、と俺は馴染みの服屋へと向かった。服を買い取って貰えるとは思っていなかったが、市中の情報に疎い俺は、古着屋の場所など知らなかったのだ。服屋に着くと、よく我が家に出入りしていた店主を見かけた。彼に聞けば、あるいは古着屋の情報を教えてくれるかもしれない。そんな期待を持っていた。


 結果的には、惨めな思いをしただけだった。まともに相手にもされず、俺は店から閉め出された。財産を持たないということは、こういうことなんだなと、改めて思い知った。金さえあれば、彼女を引き留めることも出来たのだろうか。そればかりが頭を過ぎった。


◇◇◇


 あれから3日が過ぎた。俺は貧民街の路上で、飢えと渇きに苦しんでいた。古着屋で売るはずだった服は、追剥ぎに取られてしまった。身ぐるみ剥がされるとは、まさにこのことか。ああ、目も霞んできた。最期に、麗しの彼女をせめてひと目でも、と思っていたら、幻覚が見えた。こんな薄汚れた貧民街に、全く不似合いな彼女。女一人で、いや、隣に男が居るな。あれは、噂になっていた侍従か。


 …そうか、幸せになれたんだな、良かった。


 俺は妬む気力も無く、そっと目を閉じた。


 目覚めると、素朴だが綺麗な木組みの天井が目に入った。俺を呼ぶ声がした。この声は、ああ、間違えるわけがない。


「若様、ご無事で何よりでした」

「迷惑を掛けたな」

「いえ」


 俺は、久々にまともな食事をし、一息ついた。こんな美味い食事は、初めてかもしれないな。そんなことを考えながら、以前と変わりなく俺の世話をしてくれる彼女を見ていた。俺の視線を感じたのか、彼女が俺の方を向いた。

 彼女は少し逡巡すると、俺の目を見据えて言った。


「…こんなことになるのではないかと、思っておりました」


 彼女は、困ったように笑った。


「ご自分で家事をされたこともないのに、無茶をなさるから」

「俺には」


 貧民街で行き倒れていたところを、密かに想う女に助けられるなど、男として情けない限りであった。助けてもらった礼もまともに言えないまま、俺はつい、弱音を吐いた。


「俺にはもう、何も無い。唯一あった肩書きも消えて、今の俺は無一文の浮浪者、いや、施しを受ける方法も知らないから、浮浪者以下だな」

「若様が誰よりも努力していたこと、それは一番お側でお仕えしてきた私が、一番よく知っておりますよ」


 彼女は笑った。届かなくて辛いときに、俺を支えると同時に、悲しませたこの笑顔。もう、終わりにしなくては。


「何故、俺が才能が無くても努力していたか知っているかい?」

「また才能が無いなんて言われて。それに、立派な跡継ぎとなられる為に…」

「君にだけは、諦めて無様な姿を見せたくなかったから、それだけだよ」


 彼女の言葉を遮った俺の言葉に、彼女は押し黙った。暫く沈黙が続いた。


「その、僭越ながら、私に、男女の情をお持ちでいらしたこと、存じておりました」


 最後は消え入りそうな声であったが、確かに彼女はそう言った。


 え、彼女は俺の想いに気付いて。


「分かりやす過ぎたんですよ、若様は」


 いつの間にか近くにいた侍従から言われて、はっとした。


「この男から、ずっとからかわれておりましたよ」


 照れるように彼女が続けた。


 …俺は、なんて惨めなのだろう。誰にも知られていないと思っていた想いを、当の相手から指摘され、その相手の想い人とともにからかわれるなど。何もかも失ったと思っていた俺だったが、まだ失うものがあったとは。悲しみや怒りを通り越して、自分に呆れてしまった。


「ああ、そうだったのか」


 俺は頭を軽く下げた。


「それは済まなかったな」


 笑顔を浮かべる余裕は、俺には無かった。


 きっと死んだ魚のように虚ろになっていたのだろう。彼女たちは俺を気遣い、ゆっくり休むように言うと、ふたりして部屋から出て行った。落ち着いたら今後の話を、と言っていたが、これ以上何の話があるのだろうか。仲睦まじく寄り添って出て行ったふたり。俺がここに居ては、きっと彼女たちの足枷になってしまう。

 俺は、部屋にあった便せんに書き置きを残し、そっと部屋を出た。書き置きには、少しばかり未練がましいことも書いてしまったが、それくらいは許して欲しいと思いながら。


◇◇◇


 2ヶ月後、俺は旧王都から随分と離れた田舎の農村で、末端の農夫として何とか糊口を凌いでいた。外見はすっかりみすぼらしくなってしまい、もう誰も元貴族だなんて気が付かないだろう。何でここまでして生にしがみついているのか、我ながら浅ましいものだ、と心の想いに蓋をして、日々を過ごしていた。動けるうちは働いて、せめて彼女の幸せを見届けてから逝きたいものだと思っていた。そんなある日、寂れた農村の風景におよそ似つかわしくない、麗しの彼女がやってきた。俺はまた、幻覚を見たのかと思ったが、そうではなかった。


「どうして、どうして私を置いて行かれたのですか」


 挨拶もそこそこに、彼女は俺にそう迫った。


「どうしてって、書き置きを読んだかい?俺は君の幸せを願って…」

「では、私と共に戻ってください」


 珍しくも俺の言葉を遮り、彼女が言葉を紡いだ。


「私の幸せは若様の傍らにあります」

「そんな、そんな求婚のような言葉を言わないでくれ。勘違いしてしまうから」

「は?」


 分からない、という表情の彼女に、俺は続けた。


「君が幸せになるのは本懐だが、それを傍らで見続けられるほど、俺はストイックには生きられないんだよ」

「え?あの、一体何…」


 まだ分からないのか、俺は、言いたくなかった言葉を発した。


「俺は、君たちの幸せを妬まない自信が無いんだ、それだけだ」


 彼女は、やっぱり分かっていなかった。でも、一緒に来ていた侍従の男は、意味に気が付いたのか、笑いを堪えているように見えた。そうだな、俺のこんな思いなんて、彼にとっては笑う対象にしかならないだろう。


「わ、若様、もしかして、俺たちが結婚するとでもお考えですか?」

「お似合いだと思っている。彼女を幸せにしてやってくれ」


 言われずとも分かっている、そう返しが来ると思っていたら、全然違う言葉が返ってきた。


「若様、私では彼女を幸せには出来ませんよ」


 侍従は、微笑んでいた。まさか、違うのか。じゃあ、誰が。俺は彼女の方を向いた。


 彼女はしっかりと俺の目を見て告げた。


「若様、私の幸せは、あなたの傍らにあります」


 そう言うと、彼女は俺の手を取り、自分の手を握らせた。


「もう、離さないでください」


 彼女と俺の頬を、一筋の涙が伝った。

この後、どうやって生活したんだろう(ぉぃ)

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