2章 蠍の星19ー対話(ヘレ)、スピカを侵す毒ー
蠍の神は満足げに自室へと向かっていた。「残してきたオナゴは果たしてどうしたじゃろうか」と、高揚した気持ちで部屋へ足を踏み入れる。
「おや、まだいたのか?」
蠍の神の視線の先には、ヘレが縄を解き、加護の腕輪をしっかりとはめて立っていた。しかし、額に汗が滲み疲労を露わにしている。
「――っ! ……わかってて言ってますよね?」
乱れた息を整え、キッと目を吊り上げてヘレは蠍の神を睨みつけた。
「ふふっ、そんなに疲れて”何度”戻ってきたんじゃ?」
なお煽るような言葉にヘレは深くため息を吐いた。
ヘレは今しがたこの部屋に戻ってきたところだった。正確にいうならば、三度目の帰還である。扉から出ても、なぜか部屋に戻ってきてしまうのだ。
こうも戻ってきてしまえば、ヘレにだって否が応でもわかる。縄が緩くてすぐに外れたのも、加護の腕輪が椅子に置きっぱなしだったのも、逃がすためじゃない。あってもなくても変わらないからだと。
ヘレは諦めて蠍の神との会話に応じることにした。
「まだ三回目ですよ。あなたこそ、何をしてきたんですか?」
「そんなに気になるのかのぅ? わしは上の階におるお気に入りたちの様子を見て来ただけじゃ」
「見に行っただけ……なわけないですよね」
蠍の神は、ヘレの言葉ににっと口端をあげると、つかつかと椅子まで歩きゆっくりと腰を下ろす。それから、ヘレを見て笑ったまま質問に答えた。
「あの獅子の小僧と、牡牛のオナゴが邪魔をするのでな、一度外へと出てもらったぞ」
「…………」
「また来ると言うておったのぅ」
「……あなたに嫌われたレグルスさんとアルディさんはここに入れないんじゃないですか? 蠍のマークはあなたが嫌えば消えるのでしょう?」
「くふっ、おかしなことを言うのぅ。ならばお主のもとうの昔に消えてなければならぬのぅ?」
「えっ?」
驚いた声をあげ、自分の足首を見たヘレはそこにまだ蠍のマークがあることを確認する。彼女の狼狽ぶりに、蠍の神は満足げに椅子の背もたれに寄りかかり足を組む。
「確かにピラミッドに入る前の選定はしておる。じゃが、ピラミッドに入った輩の蠍のマークを消したりはせんわ」
「な、なんで……?」
「なぜ? そんなことは決まっておろう。わしに執着し、再び会いに来る輩が面白いからじゃ。そんな面白い相手を何故わざわざ弾かねばならぬ。わしは全員歓迎しておる」
はっきりと紡がれる言葉に、ヘレは手を握り込む。
「なにそれ……おもちゃみたい」
「しっくりとくる言い回しじゃな! そうじゃ、久しぶりに余興を見せてくれる楽しいおもちゃじゃ。壊れるまで存分に踊って、わしを楽しませるがいいぞ」
ギリっとヘレは奥歯を嚙み締めた。困惑を超え、蠍の神の思考のわからなさにヘレは確かな怒りを感じていた。
ヘレは自分に言い聞かせるように大きく言葉を紡いだ。
「私は、あなたの思い通りになんてならないっ」
「ふふっ、よいぞ。あがく姿は面白いものじゃ。面白くなければ、先ほどのように軌道修正をすればよい」
怒りの言葉をぶつけても、笑みを崩さない蠍の神に嫌悪感を抱きながら、ヘレは方向転換をして扉へと向かった。
「私は……私は、アスクたちと合流してここを出るわ」
「せいぜい頑張る事じゃな」
蠍の神の余裕たっぷりな言葉に見送られながら、ヘレはその部屋を出た。何度部屋に戻ることになるとしても……。
スピカが道にある罠をすべてを薙ぎ払ってくれたおかげで、俺たちは次の階へ無事に到着した。でも、開けた光景に目を奪われてしまう。
「地図に書いてあった時は嘘かとおもったけど……」
「これは、本物と変わりないな」
ピラミッドの中だっていうのに、さんさんと降り注ぐ太陽に眩しく光を返しているのは一面の砂。初めて来たときに見た砂漠そのものだった。
「どうなってるんだろう?」
「さあな。神の住まう場所だ、蠍の神の力だろうが……」
風が頬を撫でて、眩しい太陽に照り付けられて、どう考えてもここは外にしか見えない。入ってきた扉の向こう側に石造りの階段が見える以外は。
「入り口の横は壁っぽいね。触れる」
「見た目に反して確実に建物の中だと言うことか」
俺はスピカの言葉にもう一度空を仰いだ。雲一つない快晴。そして、照り付ける太陽の熱気は明らかに体力を消耗させることだろう。とにかく、
「暑い……」
「ああ、長居はしたくないな。出発しよう」
スピカは大きな布を纏って歩き出す。俺は元々蠍の星の服を着ているので、特にこれ以上の対策はない。だから、スピカの後に続いて歩き出した。
「たしか、北の方にまっすぐ進めば次の階に降りれるんだよね」
「ああ、そこまで行ければ昼間の砂漠が終わる」
「その次は夜の砂漠か……すごい内装? だよね」
この暑さが次の階段まで続くと思うとどっと足が重くなる。しかも次の階は次の階ですごい寒いんだよなぁ。
「そうだな。どちらも危険性が高い。無理はせず、こまめに休憩を挟んでいこう」
「うん」
返事をすれば、スピカは黙ったままもくもくと歩く。
レグルスとアルディさんは大丈夫だっただろうか。ヘレは、何してるだろう……。
黙っていると不安が頭をもたげる。スピカがいるから大丈夫だ。と言い聞かせて、俺は不安を頭の端へと追いやった。今考えても仕方がない。
――あれから、どれくらい時間が経っただろう。
ずっと歩いているのに先が見えない。暑さと、砂の重みで体力は奪われて、一歩進むごとに喉がヒューヒューと音を立てる。
額からはおびただしい数の水滴がいくつも流れ落ちていく。
隣を歩くスピカも俺と同じく言葉数が少なくなっていた。
「……ふぅ」
「……スピカ、大丈夫?」
「ああ……問題ない」
そうはいうけど、明らかに歩く速度は遅くなっているし、覇気もない。俺だって疲れてるけど、スピカほどじゃない。それくらいスピカの様子はおかしかった。
「……少し休もう」
問題ないと言われたけど、どうにも足取りがおぼつかなくて、俺は砂山の影のところで一度荷物を下ろす。
スピカは倒れ込むように座り込んだ。
「すまない……」
「……ねぇ、暑さが苦手? それとも何かあった?」
水を差しだせば、口につけてゆっくりと飲み込み、スピカは俺を見た。顔の表情を見て驚く、顔色が明らかに悪かった。
「……蠍の神との対峙した時……何かに刺さられた」
「え!?」
「たぶん蠍だったのだろう。遅効性の毒のようで、徐々に体が重くなってきている……」
「そんな! なんでもっと早く言わなかったんだよ!」
思いもよらない返答に俺は叫んだ。喉がガラガラでげほげほと咳が出る。
なんでそんな大事なことを言ってくれないんだ。喉の痛みよりも、スピカへの怒りの方が強くて、じっと彼女を見た。スピカはすまなそうに眉尻を下げる。
「すまない。あの時はおかしなことはなかった。何よりアルディとレグルスがあの状況では、あの判断が正しいと思っている」
「……! でも、言うことくらいできただろ!」
「だが……言えばアスクは不安になるだろう? 一人で行かせるわけにもいくまい」
言われてしまえばたしかに不安になる。でも、そんな正論よりも、スピカが俺に話してくれなかったことの方が悔しくて、悲しかった。
「お、俺は一人でも平気だし! 結局、こんなところで倒れてたらダメだろ!」
「……そうだな」
「あっ……」
勢いあまって言った言葉にスピカの目が揺れた。どう見ても傷つけた。視線をそらして、スピカは重々しく立ち上がる。
「こんなところで、立ち止まってる場合では、な……」
「スピカ!!」
立ち上がって歩き出すとして、スピカは前のめりに倒れ込んだ。
「スピカ! ねぇ!!」
駆け寄ってゆするけど、その閉じた瞳は開かなくて……。
「どうしよう……俺のせいだ」
体調が悪い相手に怒りで当たり散らして、傷つけて、無理させた。
どうしよう、最悪だ……。
スピカの言った通りだ。俺一人じゃ何もできない。スピカやレグルス、アルディ、そしてヘレが来てほっとしたんだ。これでどうにかなる。って。安心した。
みんなの役に立ちたいって思ったのに、結局ずっと甘えてた。強いから、みんながいれば大丈夫って。みんなだって、同じ人間なのに。いくら強くても、加護を持っていても、どうしようもないことだってある。
「……どうしよう」
このままじゃいけないのはわかってる。けど、何も浮かばない。
「誰か、助けて……」
「困っておるようじゃな?」
つぶやきに応えるように、声が降ってきた。顔をあげれば、蠍の神が目の前に立っていた。