0章 牡羊の星01―始まり―
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この世界には12の星がある。
牡羊の星、牡牛の星、双子の星、蟹の星、獅子の星、乙女の星、天秤の星、蠍の星、射手の星、山羊の星、水瓶の星、魚の星の12の星だ。
しかし、かつてこの世界には13の惑星があったのだ。
13番目の惑星の名は「蛇遣いの星―オフィウクス―」
今現在、その惑星の名を口にすることはできない。
事実上、消えた惑星……。
それが、オフィウクスに選ばれた”彼”が目指す場所。
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ズルズル――
何かが這いずる音がする。
真っ暗で何も見えない。
――ズルズル
音が大きくなり、近づいてくるのがわかった。
動かしたくても動かない寝たままの体から、汗が噴き出す。
逃げ出したい――
ズルズル……。
焦燥感が募るだけで、体はびくともしなかった。
ついに、それは俺に触れた。足にひんやりとした感触が巻き付き上へ上へと昇ってくる。
腹、胸、首……
頭がかき乱される恐怖に、冷たい汗が滴る。
「見たくない」そう思うのに、目は、視界に入ったそれを追った。
暗闇の中なのに、くっきりと鱗に包まれた顔が姿を現し、そして金色の深い込まれそうな鋭い瞳と目が合った――
「はっ! はぁはぁ……」
激しく鳴る心臓を押さえつけて、俺は荒い呼吸を整える。
「夢か……」
目にかかった赤毛を掻き上げて息を吐いた。いつの間にか、うたた寝をしていたようだ。
周りを見渡せば、夢の陰鬱な空気とは違い、爽やかな草原が目の前には広がっている。いつもと変わらない景色だ。
「ふぅ……またこの夢か」
得体の知れない生き物が体を這う夢は、最近よく見る。
平凡な毎日の反動だろうか。それならもう少し楽しい夢の方がいい。こんな、心臓が痛くて飛び起きる夢なんて……夢でも気持ちのいいものじゃない。
もっと、こう知らない世界を冒険する夢とか、神に認められる夢とか、ゆめものがたりの一部を夢みたい。
どうせ、現実はこのままずっと羊の世話をするんだから。
「アスク、お仕事お疲れ様!」
後ろから俺を呼ぶ声と同時に、水の入った皮袋が目の前に差し出される。振り返ると、肩に触れるふんわりとした淡いクリーム色の巻き毛を揺らし、幼なじみの女の子ヘレが立っていた。人懐っこい栗色の瞳が俺の緑色の瞳を覗き込んだ。
「あ、ああ、ありがとう。どうしたんだ?」
ヘレは最近忙しいから、俺のところに来るのは珍しい。不思議に思い、視線を投げかければ、ヘレがイタズラっぽい笑みを浮かべる。
「ちょっと疲れちゃって。息抜きしに来たの」
ここなら、いつもと変わらなくて安心するから。と小さく付け足して、彼女は隣に腰を降ろした。
「そんなに大変なのか? 星祭りの大役」
「うん……」
ヘレは、星祭り――この惑星の神の誕生を祝い、一年の豊富を願う祭り――で、一番重要な役目を請け負っている。
ある一定の年齢の中からひとりだけ選ばれる役目だ。責任も重い。
それと同時に――
「でも、ずっと、この【神様へ祈りを捧げる役目】は夢だったから、とっても楽しいよ!」
子どもの頃から夢として追っている人は多い。
笑顔が眩しいヘレに、俺は口端を上げることしかできなかった。上手く笑えている自信はない。
「アスクも、やっぱりやりたかった?」
ドキっとした。半分図星で、半分ハズレだ。
幼い頃は、俺も神の話を聞くのが大好きで、その大役をやってみたいと思っていた。けれど、他の子どもと比べられたことでわかった、自分の力不足。どうあがこうと追いつけない、事実。
親にも「後を継げ。その自覚をしっかり持て」と釘を刺され、俺は結局羊飼いの仕事へと歩を進めた。
だから、今は諦めている。
「いんや。もう子どもでもないしな。そういうのは向いてるやつがやればいいと思ってるよ」
肩をすくめて、ヘレから視線を外し、羊たちを見た。相変わらずうまそうに草を食んでいる。
「アスクなら、できると思うけど……」
「それは、幼なじみの贔屓目ってやつだよ」
「そうかなー。アスクは、私より神話のことすっごく調べて知ってたじゃない。それで、私にいくつも教えてくれて……」
「それだけじゃなにもできないんだよ。神話以外の勉強は全部ヘレのができてただろ」
「それは、アスクが勉強しなかったからでしょ」
「はは」
「笑い事じゃないよ。アスクは勉強にしろなんにしろ、食わず嫌いが多すぎるのよ」
ヘレの言葉は耳が痛い。昔からよく知っているからこその小言は、割と心に刺さる。
だって仕方ないじゃないか。やってみても、誰よりも上手くできる人間が近くにいたんだから。そんな惨めになるくらいなら、やりたくない。って、子どもの頃の俺は意地になったんだ。
今はまさしくその通りだとも思うけれど。
「でもなー、今からいろいろやるには、もう遅いだろ」
「そんなの、やってみなきゃわからないじゃない」
そういう挑戦的なところは素直に尊敬できるし、だからこそ彼女はすべてに挑戦して今の大役を手に入れたんだ。
「正直、ヘレが羨ましいと思うよ」
「だったら、見に来てよ」
ヘレの言葉に驚いて、顔を向ける。
「……見に来て、それで、来年はアスクがあの場所に立ってよ。まだ一年残ってるでしょ。私たち」
真剣な目で、彼女は俺を射貫く。喉が鳴って、その場で時間が止まったようだった。
「約束ね。絶対来てね!」
ヘレは俺が返答するよりも早く、立ち上がって駆け出した。表情はうつむいて見えなかったから、彼女がどういう真意で言ったのかはわからない。でも、からかっていないのは確かだ。
「お、おい……!」
考え込んでしてしまったから、声をかけるには遅すぎる。ヘレはすでに、その場からいなくなっていた。
「……ムリに決まってんだろ」
思わず唸り声が漏れた。
ヘレが子どもの頃からどれだけ努力していたか知っている。そんなヘレがようやっと今年、神様へ祈りを捧げる役目を得たっていうのに。一年やそこらで、俺がその役目になれるわけが、ない。
こんな平凡で、何もかもから逃げて、こんな俺が変われるとしたら、それこそ『神の奇跡』だ。
受け取ったままの水の入った皮袋が空しくちゃぷりと音を立てた。