あと9日
解放まであと9日
昨日のことなど何もなかったかのようだ。
その日は珍しく僕よりも先に教室に来ていたテレンス・リーヴェは、早くも腕を組んで寝ていた。
昨日の件は、なぜかその後も周りからは苦笑いで済まされ、特異気質のテレンスの乱として僕は同情を受けて終わった。
冷やかされるのは苦手なので助かる。
しかし、なんとなくではあるけれど、テレンス・リーヴェの様子がおかしかった。
いつも居眠り三昧ではあるけれど、ちょっとつらそうに見えた。顔色もよくない。
少し眠っては目が覚めるようで、いつもの堂々とした寝っぷりとはちょっと違っていた。懸命に教科書に目を向けようとしているふりをしている、でも眠気に勝てない。それなのに意図せず起きてしまう。…眠れていない?
「上司」の一大事を把握した部下は、何らかの行動を起こさねばならない。
そう思っていたのに、昼休みになるや否やあっという間にその姿は見えなくなった。
僕には行き先に心当たりがあった。
以前、あの子が学校の裏手の木の陰で昼寝をしているのを何度か見かけたことがあった。なんとなく今日もそこにいるような気がした。
自分の昼食を持ってそこに行くと、予想通り木にもたれて居眠りをしているテレンス・リーヴェがいた。
部下は何をすればいいか、一度話をした方がいいかと思っていたけれど、見つけはしたものの起こすのは忍びない。
部下と言いながら、やったのは掃除の代行くらい。せめて昼寝の護衛くらいはしようかと思い立ち、その場で昼食をとることにした。
今日、母が用意してくれたのは、柔らかい白パンだった。
木を背にテレンス・リーヴェとは90度右隣に座り、パンをかじった。
ピクリ、と動いた気がした。…パンの匂いに反応してる?
まさか、と思いながら、小さく一口大にちぎったパンを鼻の近くで軽く振ってみた。
確かにクンクンしている。
そのまま唇にパンを当てると、まるで魚が餌を見つけた時のようにパクっと食らいつき、目を開けもせずに咀嚼し始めた。
口の中の甘さが無くなると、またじっと眠ろうとしているけれど、眉間にしわが。
もう一かけ、鼻の前で揺さぶり、口に当てる。
それを繰り返し、パン一個が無くなった頃、テレンス・リーヴェは目を開けて僕の顔を見た。
「…ああ」
僕だとわかって無害認定したのか、眉間のしわがなくなった。警戒しながら食べてたんだろうか。
「まだいる?」
はじめ、パンのことを言っているのだとわからなかったようだった。
ちぎったパンを見せると、一口だけ食べ、「もういい」と言った。
そしてそのまま目を閉じると、今度は寝つきが悪いようなしぐさから一転、深い眠りについたようだった。おなかが空きすぎて眠れなかったのかもしれない。
お昼休みはまだ二十分ある。少しは寝られるといいけど。
昨日、急いで帰ったのは多分四聖がらみの仕事だろう。おとといも仕事に向かったと言っていた。竜の生け捕りは成功したんだろうか。女王様の依頼を一市民の僕に漏らすようなことはないだろうけど。
昨日、あんなことをするからだ。呪いが効いているなら、魔力は半分に減っているはずだ。そのせいで疲れが取れないなら、自業自得だ。
こくりと揺れながらずるずると傾く体を左肩で受け止めると、肩の上に頭がぴたりと収まり、おとなしくなった。
寝息と、自分のパンをかむ音だけが聞こえていた。
午後からの授業が始まる5分前になったら起こそう、そう思っていたけれど、それより先にチリリと甲高い音がした。
テレンス・リーヴェはゆっくりと目を開け、首の鎖を引っ張って、その先につけてあった指輪を取り出した。
呪文を唱えると、指輪が緩やかに光を投げ出し、ぼんやりと人影が写った。
「アリシア様…応答できますか?」
テレンス・リーヴェは、眠っていた時の穏やかさを捨て、影から現れた男を無表情で見た。
「ジャンか。…彼は部下だ。続けて」
僕のことを説明したらしい。ジャンと呼ばれた男はこくりとうなずいた。
「状況ですが、竜の直撃を受けまして…」
「…潰れたか」
「まもなくです。もう持ちません。急ぎ」
「わかった」
指輪の光は消え、溜め息が残った。
立ち上がったテレンス・リーヴェはふらつくことはなかった。午前中よりは少しは顔色が良くなっている。
二、三歩足を進めて、急に足が止まった。
「レオナール」
僕の家名が呼ばれた。同じクラスになって初めて固有名詞で呼ばれたかもしれない。
驚いて彼女を見ると、
「おいしかった。今日はこれで帰る」
そう答えて立ち去った。その表情に笑みはなかったけれど、何故か笑っているように感じた。
出席日数が足りないから呪いを受けながらも学校に来ていると聞いてたけど、テレンス・リーヴェは今日も早退だった。