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正法眼蔵 伝衣

 仏から仏へ正しく伝えている法衣と仏法を、中国に正しく伝えているのは、二十八祖の達磨だけなのである。

 二十八祖の達磨は、釈迦牟尼仏から第二十八代目の祖師である。

 法衣と仏法は、西のインドの二十八人の祖師達に正統に代々伝えられて、二十八祖から三十三祖まで中国の六人の祖師達は目の当たりにして正しく伝えている。

 法衣と仏法は、西のインドから東の地の中国まで全てで三十三人の祖師達に伝えられている。


 三十三祖の大鑑禅師は、法衣と仏法を黄梅山で夜中に正しく伝えられて、生前、護って保持して来ている。


 法衣は、千二百四十年現在、曹谿山の宝林寺に安置されている。


 諸代の皇帝は、あいついで、大鑑禅師の法衣を、皇居に招き入れて、捧げものを捧げた。


 神の者は、大鑑禅師の法衣を護って保持している。


 唐の中宗と、粛宗と代宗は、しきりに、皇居に招き入れて供養した。

 招き入れる時、送り返す時、使者を派遣して、皇帝の言葉を(さず)けた。

 これは、法衣を重んじる作法なのである。


 代宗は、ある時、仏の法衣を曹谿山に送り返す時に、言葉を授けて、「今、鎮国大将軍の劉崇景に(法衣を)頭の上に捧げ持たせて送り返させます。

私(、代宗)は、これ(、法衣)を国宝とします。

あなた(、劉崇景)は、本寺(、曹谿山の宝林寺)に(作法の通りに)安置して、僧達の親しい主旨を受けた者に厳重に守護を与えて、遺失、失墜させる事が無いようにさせなさい」と言った。


 数代の皇帝は共に、大鑑禅師の法衣を重要な国宝としている。


 実に、無量恒河沙の三千世界を統治するよりも、仏の法衣を国に保持する事は、特別に優れている大いなる宝と成るのである。


 仏の法衣は、「和氏の璧」という宝石と同等に扱うべきではない物なのである。

 たとえ「和氏の璧」が国の印として伝えられるように成っても、仏として伝えられる不思議な宝には成らない!


 唐の時代から今まで、仏の法衣を仰いで敬礼する出家僧と在俗者は、必ず、仏法を信じる大いなる素質の人なのである。


 前世の善行の助けによって、この身をもって目の当たりにして仏から仏へ正しく伝えている仏の法衣を仰いで礼拝できる!


 信じて受け入れる事ができない人は、自分であっても、仏に成れる種ではない事を、恨むべきである。


 俗ですら「人の手荷物を見る事は、人を見る事である」と言う。

 仏の法衣を仰いで礼拝する事は、仏を見る事なのである。


 百、千、万の無数の仏塔を建てて仏の法衣に捧げるべきである。


 天上、海中でも、心が有る者は、仏の法衣を重んじるべきである。


 人の間でも、転輪聖王などの真実を知っている人、優れている事を知っている人は、仏の法衣を重んじるべきである。


 世で皇帝と成った輩が、自分の国、中国に重要な国宝が有る事を知らない事を憐れむべきである。

 中国の皇帝には、道士の道教に惑わされて、仏法を廃する人が多い。

 仏法を廃した時、中国の皇帝は、法衣を(まと)わずに、頭頂部に「葉巾」をかぶる。

 仏法を廃した中国の皇帝が話すのは寿命を延ばす方法、長生きする方法である。

 唐の時代にも仏法を廃した中国の皇帝はいたし、宋の時代にも仏法を廃した中国の皇帝はいた。

 これらの(たぐい)の人は、皇帝であっても、国民よりも卑しいのである。


 「私の国、中国に仏の法衣が留まっていて現に存在している」と静かに観察するべきである。

 「仏の法衣は仏の国土であろうか?」とも思考するべきである。


 仏の法衣は、「舎利」、「仏の遺骨」などよりも優れている。


 遺骨、骨は、転輪聖王にも有るし、獅子(ライオン)にも有るし、人にも有るし、独覚などにも有る。

 けれども、転輪聖王には法衣が無いし、獅子(ライオン)には法衣が無いし、(仏ではない)人には法衣が無い。


 諸仏だけに法衣が有る。深く信じて受け入れるべきである。


 今の、愚かな人の多くは、「舎利」、「仏の遺骨」は重んじても、仏の法衣を知らないし、「(法衣を)護って保持するべきである」と知っている者は(まれ)なのである。


 昔から法衣が重要である事を見聞きできる者は(まれ)なのである。

 仏法の正しい伝承を未だ見聞きできないので、法衣を重んじないのである。


 よくよく釈迦牟尼仏の存命時からの年数を思えば、わずかに二千年余りなのである。

 国宝、神器も今にまで伝わっているが、二千年余りよりも過ぎている古い物も多い。

 仏法と仏の法衣は、時間的に近く、新しい物なのである。

 仏法は、田畑や人里を巡り、初祖から五十祖まで五十回も転々としているが、仏法の利益は絶妙なのである。

 仏法の功徳は、あらたかなのである。

 仏の法衣は、仏法と同様なのである。

 仏法は正統な後継者が正しく伝えている物ではない場合も有るが、仏の法衣は正統な後継者が正しく伝えている物だけなのである。


 知るべきである。

 真理の一つの詩を聞いても「得道する」、「悟る」場合が有るし、

真理の詩の一つの句を聞いても「得道する」、「悟る」場合が有る。

 真理の一つの詩や、真理の詩の一つの句に、なぜ、このような効能が有るのか?

 仏法だからである。


 一頂の法衣である「九品衣」、「九条衣などの大衣」は、仏法によって正しく伝えられている。(「袈裟」、「法衣」を一頂と数える場合が有る。)

 法衣は、真理の一つの詩よりも劣っていない。

 法衣は、仏法の詩の一句のような効能が有る!


 このため、二千年余り前から今まで、諸々の、仏法を信じて行う愚鈍な人と「仏法」、「真理」を知って行う利発な人といった、仏に従って学ぶ学徒は皆、法衣を護って保持して身心としている物なのである。


 諸仏の正しい仏法に暗い(たぐい)の人は、法衣を尊重しないのである。


 今、帝釈天は在家信者の天人の王であるし、「阿那婆達多(アナヴァタプタ)龍王」、「阿耨達(アナヴァタプタ)龍王」は八大龍王であるが、帝釈天や「阿那婆達多(アナヴァタプタ)龍王」、「阿耨達(アナヴァタプタ)龍王」などは、法衣を護って保持している。


 それなのに、頭の(ひげ)と髪を()った仲間、「仏の弟子」を自称する仲間が、法衣については、「法衣は受けて保持するべき物である」と知らない。

 まして、法衣の「体、色、量」、「素材、色、量」を知らない!

 まして、法衣を着たり用いたりする法を知らない!

 まして、法衣による身のこなしを夢にも未だ見た事が無いのである。



 法衣を古くから「除熱悩服」と呼ぶし、「解脱服」と呼ぶ。


 法衣の功徳は計り知れないのである。


 竜といった鱗を持つ者は、「三熱」という竜や蛇への苦しみを、法衣の功徳によって解脱するのである。


 諸仏は仏道を成就する時は、必ず、法衣を用いるのである。


 実に、日本という辺境の僻地(へきち)に生まれ、末法の世に出くわしても、伝承の有るものと、伝承が無いものを比べるならば、伝承が正統であるものを信じて受け入れて護って保持するべきである。


 どの家門が、私、道元が正しく伝えているように、釈迦牟尼仏の法衣と仏法を共に正しく伝えているのか?


 仏道だけに正しい正統な伝承が有るのである。


 法衣と仏法に出会った時、誰が(うやうや)しく敬い捧げものを捧げる事を(ゆる)めるのか?


 たとえ一日に無量恒河沙の身の命を捨てても法衣と仏法に捧げものを捧げるべきである。


 「生から生へ、世から世へ、法衣と仏法に出会えて頂戴できますように」という願いを起こすべきである。


 私達、日本人は、釈迦牟尼仏が生まれた国インドと十万里余り隔てていて、インドの「山海」、「陸と海」の外に生まれて、日本という辺境の僻地(へきち)の暗愚さが有るが、釈迦牟尼仏の正しい仏法を聞き、法衣を一昼夜でも受けて保持し、真理の一つの詩でも、真理の詩の一つの句でも学に参入して究めているが、一人や二人の仏に捧げものを捧げている、幸福をもたらす功徳に成るだけではなく、百千億の無数の仏に捧げものを捧げて(まみ)えている、幸福をもたらす功徳に成るのである。

 たとえ自己であっても、尊ぶべきであるし、愛するべきであるし、重んじるべきである。


 祖師が仏法を伝えてくれている大いなる恩に真心で報いて感謝するべきである。

 人以外の動物ですらなお恩に報いる。

 人は恩を知っている!

 もし恩知らずであれば、人以外の動物よりも劣っているし、愚かである。


 仏の法衣の功徳を、仏の正しい仏法を伝えている祖師ではない他の人は、夢にも未だ知らないのである。

 まして、祖師ではない人は、法衣の「体、色、量」、「素材、色、量」を明らめる事ができない!


 諸仏の跡を(した)うのであれば、法衣と仏法を(した)うべきである。


 たとえ百、千、万代の後も、法衣と仏法の正しい伝承を正しく伝える事が、仏法なのである。


 証拠は明らかなのである。


 俗人ですら「先王の服でなければ着ないし、先王の法でなければ行わない」と言う。


 仏道もまた同様なのである。

 前の仏の法衣でなければ用いるべきではない。

 もし前の仏の法衣でなければ、何を着て仏道を修行するのか? 何を着て諸仏に(まみ)えるのか?

 前の仏の法衣を着ない人は、仏の集まりに入り難いのである。



 後漢の、諡号が孝明皇帝である明帝の時代の、五十八年頃から今まで、西のインドから東の地の中国へ来る僧侶は、「(くびす)を接するように」、「人々が連続するように」、絶えないし、中国からインドへ(おもむ)く僧侶の話が時々聞こえるが、「誰々に出会って仏法を『面授した』、『言い表せないものを顔と顔を合わせて(さず)かった』」と言う人はいない。

 いたずらに無駄に、経典の学者に習って学んでいる、名前と相にとらわれている人ばかりなのである。

 インドと中国を行き来する僧の中で、仏法の正統な後継者に成った人の話を聞かない。

 このため、「仏の法衣を正しく伝えるべきである」と言い伝える事もできない人であるし、「仏の法衣を正しく伝えている人に出会った」と言う人はいないし、「『伝衣』、『法衣を伝える』人を見聞きした」と語る人はいない。

 (仏教という)仏の家の奥義に入っていない、と測り知る事ができる。

 これらの(たぐい)の僧侶は、法衣を衣服としか認識せず、「法衣は仏法が尊重する物である」と知らない。

 実に、憐れむべきである。


 仏の「法蔵」、「仏の教え」を伝えている正統な後継者に、仏の法衣も伝承するのである。


 「法蔵」、「仏の教え」を正しく伝えている祖師が仏の法衣を見聞きしている主旨は、人の中でも、天上でも、(あまね)く知られている物なのである。


 そのため、仏の法衣の「体、色、量」、「素材、色、量」を正しく伝えて来たり、正しく見聞きして来たり、仏の法衣の大いなる功徳を正しく伝えたり、仏の法衣の身心と骨髄を正しく伝えたりする事は、正しく伝えられている(仏教という仏の家の)家業だけに存在するのである。

 諸々の「阿笈摩教」、「小乗」、「矮小な乗り物」、「劣悪な段階」の家風では、知る事ができない物なのである。


 各々が「今案」、「今、新しく考案した物」として自立する事は、正しい伝承ではないし、正統な後継者ではない。


 大いなる師である釈迦牟尼如来、釈迦牟尼仏は、「正法眼蔵」、「正しくものを見る眼」と無上普遍正覚を初祖の摩訶迦葉に付属して授ける時に、仏の法衣も共に伝えて付属してから、正統に代々伝承して、曹谿山の三十三祖の大鑑禅師にまで至ったが、三十三祖の大鑑禅師は釈迦牟尼仏から第三十三代目の祖師なのである。


 仏の法衣の「体、色、量」、「素材、色、量」を親しく見て伝えて、家門に長い間、伝えて、受けて保持している事は今でも明らかなのである。


 「法眼宗、潙仰宗、曹洞宗、雲門宗、臨済宗」という「五宗」の開祖である高徳の僧達が各々、受けて保持している物は正しく伝えられている物なのである。

 「法眼宗、潙仰宗、曹洞宗、雲門宗、臨済宗」という「五宗」が五十代余り、または、四十代余り、各々、師弟が乱れず、前の仏の法によって法衣を着て、前の仏の法によって法衣を製作している事は、「仏と仏だけ」が伝えて証に(かな)って代々を経ている事と、同じく、明らかなのである。



 正統に代々伝承している仏の教訓によると、九条衣は、三枚か四枚の長い布と一枚の短い布による物である。

 十一条衣は、三枚か四枚の長い布と一枚の短い布による物である。

 十三条衣は、三枚か四枚の長い布と一枚の短い布による物である。

 十五条衣は、三枚の長い布と一枚の短い布による物である。

 十七条衣は、三枚の長い布と一枚の短い布による物である。

 十九条衣は、三枚の長い布と一枚の短い布による物である。

 二十一条衣は、四枚の長い布と一枚の短い布による物である。

 二十三条衣は、四枚の長い布と一枚の短い布による物である。

 二十五条衣は、四枚の長い布と一枚の短い布による物である。

 二百五十条衣は、四枚の長い布と一枚の短い布による物である。

 八万四千条衣は、八枚の長い布と一枚の短い布による物である。


 今、略して挙げている。


 この他にも、色々な法衣が有るが、共に、大衣である。



 在家信者でも法衣を受けて保持するし、出家者でも法衣を受けて保持する。

 「法衣を受けて保持する」とは、法衣を着て用いる事なのである。

 いたずらに無駄に、法衣をたたんで持っているわけではないのである。


 たとえ髪と(ひげ)()っても、法衣を受けて保持せず、法衣を憎み嫌い、法衣を恐れる人は、「天魔」、「魔」、「仏敵」や外道なのである。



 大智禅師と呼ばれる百丈の懐海は、「前世で善の種を植えるように善行をした事が無い者は、法衣を恐れるし、法衣を嫌うし、正しい仏法を恐れ嫌う」と言った。



 次のように、釈迦牟尼仏は言った。


 もし、ある生者が、私の仏法の中に入ったが、重罪を犯してしまったり、邪悪な見解に堕ちてしまったりしても、一念でも、敬う心で大衣の法衣を尊重したら、諸仏と私(、釈迦牟尼仏)は、必ず、三乗において「授記」、「成仏の予言」を授ける。

 この人は、仏に成る事ができ得る。


 もし天人、竜、人、鬼が()く「袈裟」、「法衣」の一部の功徳を(うやうや)しく敬ったら、三乗に不退転に成る事ができ得る。


 鬼神、諸々の生者が、()く四寸でも「袈裟」、「法衣」を得たら、飲食物に満ち足りる事ができる。

 (一寸は約三センチメートル。)


 生者が、共に背を向け合って、邪悪な見解に堕ちようとしても、「袈裟」、「法衣」の力に念じれば、「袈裟」、「法衣」の力によって、すぐに、(慈)悲の心を生じて、清浄に成る事ができ得る。


 もし人が「兵の陣地」、「戦争の中」にいても、「袈裟」、「法衣」をわずかでも持って(うやうや)しく敬って尊重すれば、解放されて()け出す事ができ得る。



 そのため、知る事ができる。

 法衣の功徳は無上に不可思議なのである。

 法衣を信じて受け入れて護って保持すると、必ず、「授記」、「成仏の予言」を得られるし、不退転に成る事ができ得る。

 釈迦牟尼仏だけではなく、一切の諸仏もまた、このように説いているのである。


 知るべきである。

 諸仏の「体相」、「有様(ありよう)」とは法衣なのである。



 このため、釈迦牟尼仏は、「地獄などの『悪道』に堕ちる者は法衣の大衣を嫌い憎悪する」と言った。



 そのため、法衣を見聞きすると、嫌い憎悪する思いが起こるならば、「自身は地獄などの『悪道』に堕ちる」と憐れみ悲しむ心を生じるべきなのであるし、恥じ入って懺悔(ざんげ)するべきなのである。



 釈迦牟尼仏が初めて王宮を出て(出家して)山に入ろうとした時、樹神は、一枚の僧衣の大衣をかかげて、釈迦牟尼仏に「この衣を頭の上に捧げ持てば、諸々の『魔』、『仏敵』によって乱される事を免れる」と言った。

 釈迦牟尼仏は、この時、法衣を受けて、頭の上に捧げ持って十二年間、修行して経て、しばらく差し置く事が無かった、と阿含経などの説では言われている。



 法衣は、吉祥服なのである、と言われている。

 法衣を着る者は、必ず、優れた境地に到達できる。


 世界に法衣の大衣は常に目の前に現れているのである!


 法衣が、一時、目の前に現れるとは、長い時間の中の事なのである。

 長い時間の中の事とは、法衣が、一時、来る事なのである。


 法衣を得る事は、仏の旗印を得る事なのである。

 このため、諸仏、如来は、必ず、法衣を受けて保持している!

 法衣を受けて保持している仲間は、必ず、仏に成るのである!



 「袈裟」、「法衣」を(まと)う法


 「偏袒右肩」、「右肩の片側だけ脱ぐ事」が、日常的な方法、作法なのである。


 「通両肩搭」、「法衣を両肩に(まと)う」という作法も有る。


 法衣を(まと)う時は、両端共、左の(ひじ)と肩に重ねて掛けて、法衣の右端を前面として左端と重ね、法衣の左端を背面として右端と重ねるが、釈迦牟尼仏は、このような身のこなしをされた事が一時、有る。

 この釈迦牟尼仏の話は、諸々の声聞の段階の人達が見聞きして伝える事ができる話ではないし、諸々の「阿笈摩教」、「小乗」の経典で説き()らした話ではない。


 仏道では、法衣を(まと)う身のこなしは、目の前に現れている、正しい仏法を伝えている祖師が、必ず、受けて保持している物なのである。

 法衣を(まと)う身のこなしを受けて保持したいのであれば、必ず、祖師から受けて保持する必要が有る。



 仏祖が正しく伝えている法衣は、仏から仏へ正しく伝えていて(みだ)りではない。

 前の仏と後の仏の法衣なのである。

 古代の仏と新しい仏の法衣なのである。


 法衣は、仏道を化して導くし、仏を化して導く。


 法衣は、過去、現在、未来を化して導いて、

法衣は、過去から現在へ正しく伝えられるし、

法衣は、現在から未来へ正しく伝えられるし、

法衣は、現在から過去へ正しく伝えられるし、

法衣は、過去から過去へ正しく伝えられるし、

法衣は、現在から現在へ正しく伝えられるし、

法衣は、未来から未来へ正しく伝えられるし、

法衣は、未来から現在へ正しく伝えられるし、

法衣は、未来から過去へ正しく伝えられて、仏と仏だけが、法衣を、正しく伝えているのである。


 このため、「祖師西来から」、「二十八祖の達磨が西のインドから中国へ来てから」今までの、唐から宋までの数百年間、経典の講義の達人のうち、自分の業を見通した者は多いし、他の宗派、「律宗」などの者は、仏法に入る時、従来の古巣の破れた衣である法衣を捨てて、仏道が正しく伝えている法衣を正しく受けるのである。

 このような話は、「景徳伝燈録」、「天聖広燈録」、「建中靖国続燈録」、「嘉泰普燈録」などに並んでいる。

 「教律」、「他の宗派」の「局量」、「とらわれた限られた思量」の「小見」、「矮小な見解」を解脱して、仏祖が正しく伝えている大いなる仏道を尊ぶ者は皆、仏祖と成っている。(仏教の宗派を「禅、教、律」の三つに分類する見方をする人がいる。)

 今の人も、昔の祖師を学ぶべきである。


 法衣を受けて保持するのであれば、正しく伝えられている法衣を正しく伝えられるべきであるし、信じて受け入れるべきである。


 偽作の法衣を受けて保持するべきではない。


 正しく伝えられている法衣とは、二十八祖の達磨と三十三祖の大鑑禅師から正しく伝えられている法衣であり、如来、釈迦牟尼仏から正統に代々伝承されて、一代も欠けていない。

 このため、仏道修行とは法衣を受ける事であるし、仏道修行は仏の法衣を親しく手に入れる事による物なのである。


 仏道は仏道に正しく伝える。


 仏道は、(ひま)な人が伝えてくれる可能性に一任しないのである。


 俗のことわざでは、「千聞は一見にしかず(。千回、聞く事は、一回、見る事に及ばない)。千見は一経にしかず(。千回、見る事は、一つの経に及ばない)」と言う。



 この、ことわざで(かえり)みれば、たとえ千回、万回の無数回の見聞きが有っても、一回、法衣を得るには及ばない。仏の法衣を正しく伝えられる事には及ばないのである。


 正しい伝承の存在を疑うのであれば、正しい伝承を夢にも見た事が無い人は、ますます疑う。


 仏の経を伝聞するより、仏の法衣を正しく伝えられる事は親しい。


 千の経、万の法衣の獲得が有っても、一つの証には及ばない。

 仏祖は証に(かな)っているのである。


 「教律」、「他の宗派」の凡人に習うべきではない。(仏教の宗派を「禅、教、律」の三つに分類する見方をする人がいる。)


 祖師の門の法衣の功徳は、正しい伝承が伝承している。


 法衣の「本様」、「基本の様式」が、目の当たりにして伝えられている。


 法衣を受けて保持し、仏法を()いで、千二百四十年現在まで断絶していない。


 法衣を正しく受けている人は皆、証に(かな)っている、仏法を伝えている、祖師なのである。


 祖師は、「十聖三賢」よりも優れている。


 祖師に(まみ)えて(うやうや)しく敬い、法衣を礼拝して頭の上に捧げ持つべきである。


 一度でも、仏の法衣が正しく伝えられている道理を身心で信じて受け入れる事は、仏に出会える前兆なのであるし、仏道を学び修行する道なのである。


 「この法を受ける事に耐える事ができない」のは、悲しい。


 一度でも法衣で身体を覆う事は、悟りを必ず成就する護身の護符に成る、と深く受け入れるべきである。


 真理の一つの詩、真理の詩の一句を信心に染めれば、長い時間の光明と成って欠かす事が無い、と言われている。

 一つの法を身心に染めれば、同様に、長い時間の光明と成って欠かす事が無い。

 心の思いも、留める事ができないし、自分と、自分の所有物と無関係であるが、功徳は、長い時間の光明と成って欠かす事が無いのである。

 身体も、留める事ができないが、功徳は、長い時間の光明と成って欠かす事が無いのである。


 法衣は、来る場所も無いし、

去る場所も無いし、

自分と、自分の所有物ではないし、

他者と、他者の所有物ではないが、

所持している場所に現に住んで存在するし、

受けて保持している人に作用するし、

得られる功徳もまた、長い時間の光明と成って欠かす事が無いのである。


 法衣を作る行為は、凡人や聖者などの行為ではないのである。


 その主旨を、「十聖三賢」は究め尽くす事ができない。


 前世で仏道の種を植えるように善行した事が無い者は、一生、二生、無数の生を経歴しても、法衣を見る事ができないし、法衣について聞く事ができないし、法衣について知る事ができない。

 まして、法衣を受けて保持する事ができない!

 一度でも法衣を身体で触れる功徳を、得る者もいるし、得られない者もいる。

 既に得た者は喜ぶべきであるし、未だ得ていない者は願うべきであるし、得る事ができない者は悲しむべきである。


 大千世界の内外で、仏祖の門下だけに仏の法衣が伝えられている事を、人も天人も共に見聞きして普遍に知っている。

 仏の法衣の様子を明らめている事も、祖師の門だけなのである。


 他の門では法衣について良く知らない。


 法衣については良く知らない者が、自己を恨まなければ、愚かな人なのである。


 たとえ八万四千の三昧と陀羅尼を知っていても、仏祖の法衣と仏法を正しく伝えてもらえず、法衣の正しい伝承を明らめていない人は、諸仏の正統な後継者ではない。


 他の世界の生者は「中国で正しく伝えられているように、仏の法衣を正しく伝えてもらえますように」と、どれほど願うであろうか?

 法衣と仏法を、自分の国に正しく伝えてもらえない事を、恥じる思いが有るであろうし、悲しむ心は深いであろう。


 実に、如来、釈迦牟尼仏の法衣の法を正しく伝えている仏法に出会う事は、前世で植えた知の大いなる功徳の種による物なのである。


 今の、末法の世、悪い時代では、自分が正しく伝えてもらえない事を恥じず、他者が正しく伝えてもらえる事を嫉妬(しっと)する「魔の党派者」、「仏敵の党派者」が多い。


 自分が所有している物や、住んでいる場所は、(前世の業による物であるため、)真実に自分の物ではないのである。


 正しい伝承だけを正しく伝えてもらう事は、仏道を学び修行する「直道」、「近道」なのである。



 知るべきである。

 法衣は仏の身なのであるし、仏の心なのである。


 法衣を、「解脱服」と呼ぶし、

「福田衣」(、「幸福を生じる源である田畑のような衣」)と呼ぶし、

「忍辱衣」と呼ぶし、

「無相衣」(、「執着を超越する衣」)と呼ぶし、

「慈悲衣」と呼ぶし、

「如来衣」と呼ぶし、

「阿耨多羅三藐三菩提衣」(、「無上普遍正覚の衣」)と呼ぶ。

 法衣を、正に、このように受けて保持するべきである。


 宋の時代の中国の「律学の学者」を名乗る輩は、声聞という酒に酔って狂って、自分の家門に、知らない家の物を伝えて来る事を恥じないし、恨まないし、覚知できない。


 西のインドから伝来している法衣が久しく漢の時代から唐の時代まで中国に伝わっていたのに、改変して、小量の法衣に従わせているが、「小見」、「矮小な見解」による物なのである。

 「小見」、「矮小な見解」を恥ずべきである。

 あなたは小量の法衣を用いるが、仏の身のこなしの多くが欠けているであろう。

 仏の作法を学んで伝えてもらう事が不完全であるので、この様なのである。

 如来、釈迦牟尼仏の身心は、祖師の門にだけ正しく伝えられていて、律学の学者の家業に流れていない事は明らかなのである。

 もし万が一にも仏の作法を知っていれば、仏の法衣の法を破るはずが無い。

 文書すらなお明らめていないし、主旨を未だ聞く事ができていないのである。


 また、法衣の素材を粗い布だけに定めているが、深く仏法に(そむ)いている。

 特に仏の法衣の法を破っている。

 仏の弟子は着るべきではない。

 なぜなら、「法衣の素材は、絹以外の布である」という誤った見解を挙げて、法衣の法を破っている。

 「小乗」、「矮小な乗り物」、「劣悪な段階」の声聞の見解が曲がっている事を憐れむべきである。

 「法衣の素材は、絹以外の布である」という誤った見解が破れた後に、仏の法衣が形成されて現されるのである。

 絹の布を法衣に用いたのは、一人や二人の仏である、と言うわけではない。

 諸仏の大いなる仏法として、「糞掃」、「ぼろきれ」を無上に清浄な法衣の素材としているのである。


 (しばら)く十種類の「糞掃」、「ぼろきれ」を(つら)ねる中に、絹も有るし、絹以外も有るし、白色の絹以外も有る。

 絹の「ぼろきれ」を取るべきではないのか? もし、そうであるならば、仏道に違反している。

 絹を嫌うのであれば、絹以外の物も嫌うべきである。

 絹の布を嫌うべき理由が何か有るのか?

 「絹の糸を取る時、(カイコ)という生物を殺してしまう」と嫌うが、大いに笑うべきなのである。

 絹以外は生物と「(えん)」、「(つな)がり」が無いのか?

 情の有る者と、情の無い者の情と、凡人の情を未だ解脱できない人が、仏の法衣を知る事ができるわけが無い!


 また、「『化糸』、『霊的に生じさせた糸』を法衣の素材にするべきである」という誤った説を出して仏道を乱す人がいる。笑うべきである。


 どの素材も(神による)「化糸」、「霊的に生じさせた糸」である(と言える)!


 あなたには、「化(生)」、「霊的に生じる事」を聞く耳が有ると信じる事ができても、「化(生)」を(正しく)見る目が有るかを疑う。

 目に「聞く耳」が無く、耳に「見る目」が無いようなものである。

 「聞く耳」と「見る目」は、どこに存在するのか?


 知るべきである。


 「糞掃」、「ぼろきれ」を(ひろ)う中で、絹に似た物も有るし、絹以外の物に似ている絹も有る。

 「糞掃」、「ぼろきれ」を素材として用いる時には、絹と呼ぶべきではなく、絹以外と呼ぶべきではなく、「糞掃」、「ぼろきれ」と呼ぶべきなのである。

 「糞掃」、「ぼろきれ」であるので、絹ではないし、絹以外ではない。


 たとえ人や天人が「糞掃」、「ぼろきれ」を生じて成長させても、情の有るものではなく、「糞掃」、「ぼろきれ」なのである。

 たとえ松や菊が「糞掃」、「ぼろきれ」と成っても、情の無いものではなく、「糞掃」、「ぼろきれ」なのである。


 「糞掃」、「ぼろきれ」が、絹ではないし、絹以外ではないし、真珠や宝石を超越している道理を知る時、「糞掃衣」、「ぼろきれによる衣」は形成されて現されるのであるし、「糞掃衣」、「ぼろきれによる衣」に生まれて出会うのである。


 「絹か? 絹以外か?」という誤った見解が未だ無く成っていない人は、「糞掃」、「ぼろきれ」を未だ夢にも見た事が無いのである。


 たとえ粗い布を法衣として一生、保持していても、「法衣の素材は、絹以外の布である」という誤った見解を思う人は、仏の法衣を正しく伝えてもらえていないのである。


 いくつか種類が有る法衣の中には、絹以外の法衣も有るし、絹の法衣も有るし、皮の法衣も有るが、共に、諸仏が用いる法衣であるし、仏の法衣であるし、仏の功徳なのである。

 正しく伝えられている法衣の素材の主旨が有り、未だ断絶していない。


 それなのに、凡人の情を未だ解脱できない輩は、仏法を軽んじ、仏の言葉を信じず、凡人の情で、他のものに従って去ろうとするが、「仏法を付属された外道である」と言えるし、正しい仏法を壊す(たぐい)の者なのである。


 誤って「天人の教えによって仏の法衣を改変した」と言う。

 それならば、天人の仏を願うべきである。

 また、天人の仲間と成った(、とでも言う)のか?


 釈迦牟尼仏の弟子は仏法を天人のために説いている。

 仏道を天人に質問するべきではない。


 憐れむべきである。

 仏法を正しく伝えてもらえない人は、この様なのである。


 天人達の見解と、仏の弟子の見解は、大小、遥かに異なるが、天人は、この世へ降下して仏法を仏の弟子にたずねる。

 なぜなら、仏の見解と、天人の見解は、遥かに異なるからである。


 「律宗」の声聞の「小見」、「矮小な見解」を捨てて学ぶ事なかれ。「小乗」、「矮小な乗り物」、「劣悪な段階」なのである、と知るべきである。



 釈迦牟尼仏は、「父殺しと、母殺しは懺悔(ざんげ)できる。仏法への悪口は懺悔(ざんげ)できない」と言った。



 「小見」、「矮小な見解」の、(キツネ)のように疑う言葉は、仏の本意ではない。

 仏法の大いなる仏道は、「小乗」、「矮小な乗り物」、「劣悪な段階」の人が及ぶ事ができない物なのである。


 諸仏の大いなる戒を正しく伝えているのは、「法蔵」、「仏の教え」を付属された祖師の仏道の他には無いのである。



 昔、黄梅山で夜中に、三十二祖の弘忍は、仏の法衣と仏法を三十三祖の大鑑禅師の頂上に正しく伝えた。

 実に、仏法と法衣を伝える、正しい伝統なのである。

 三十二祖の弘忍が人を知る事ができた事による物なのである。


 四果三賢の輩、十聖などの(たぐい)の人、他の宗派の経典の学者の(たぐい)の人であれば、神秀に授けてしまったであろうし、大鑑禅師に正しく伝えなかったであろう。


 仏祖が仏祖を選ぶのは、凡人や聖者の道を超越しているので、大鑑禅師は三十三祖と成ったのである。


 知るべきである。

 仏祖の正統な代々の人や自己を知る道理は、おろそかな心では、測り知る事ができない物なのである。



 ある僧が、後に、三十三祖の大鑑禅師に、「黄梅山の三十二祖の弘忍が夜中に仏法と共に伝えた法衣の素材は、絹以外でしょうか? 絹でしょうか? 白色の絹以外でしょうか? 究極的に、どういった物でしょうか?」と質問した。

 三十三祖の大鑑禅師は、「絹以外ではないし、絹ではないし、白色の絹以外ではない(。『糞掃』、『ぼろきれ』である)」と言った。



 三十三祖の大鑑禅師の言葉は、「(法衣の素材は、)絹以外ではないし、絹ではないし、白色の絹以外ではない(。『糞掃』、『ぼろきれ』である)」と知るべきである。


 仏の法衣の素材は、絹ではないし、絹以外ではないし、「屈眴布」、「大細布」、「木綿の花心による布」ではないのである。

 (「糞掃」、「ぼろきれ」である。)


 それなのに、いたずらに無駄に、絹と認めたり、絹以外と認めたり、「屈眴布」、「大細布」、「木綿の花心による布」と認めたりする人は、仏法の悪口を言う(たぐい)の人なのであり、仏の法衣を知る事ができないのである。


 まして、「善来得戒」、「釈迦牟尼仏が『出家者よ、来なさい』と言って戒を得る」という「機縁」、「きっかけ」が有る。

 釈迦牟尼仏が「出家者よ、来なさい」と言うと、いつの間にか法衣が体を覆っていたが、得られた法衣の素材が「絹か? 絹以外か?」という話ではない事は、仏道の仏の教訓なのである。



 三祖の商那和修の衣は、在家者の時は俗服であり、出家すると法衣と成った。

 この道理を静かに思量して鍛錬するべきである。

 見聞きしていないかのように置いておくべきではない。


 まして、仏から仏へ、祖師から祖師へ、正しく伝えている主旨が有る。


 文字を数える(たぐい)の人は、覚知できないし、測り知る事ができない。


 実に、仏道が色々と変化させる事は、凡庸な人の境地ではない。


 三昧が有るし、陀羅尼が有る。


 砂を数える輩は、「法華経」の「五百弟子受記品」の「(親友である釈迦牟尼仏が)衣の裏に掛けてくれた宝玉」を見る事ができない。


 仏祖が正しく伝えている法衣の「体、色、量」、「素材、色、量」を諸仏の法衣の「正本」、「原本」とするべきである。

 その例は、西のインドから東の地の中国まで、昔から今まで、多数、有る。


 善悪を分別した人は、「超証している」、「善悪などを超越して証している」。


 祖師の仏道の他に、法衣を説く人がいても、「枝、葉である」と許す「本祖」、「祖師」はいない。


 祖師の仏道以外で、善の種は芽生えない!

 まして、祖師の仏道以外で、善の果実は無い!


 私達は今、長い年月、出会えなかった仏法を見聞きしただけではなく、仏の法衣を見聞きして習って学び、受けて保持する事ができ得たのであるが、仏を見たのであるし、

仏の音声を聞いたのであるし、

仏が光明を放ったのであるし、

仏が受用しているものを受用しているのであるし、

仏の心を単一に伝えているのであるし、

仏の髄を得たのである。



 法衣を作る素材は、必ず、清浄な物を用いる。


 清浄な法衣の素材は、布施をする、清浄な信心の在家信者が捧げた法衣の素材や、

(「浄財」、「寄付された金銭」で)市場で買って得た法衣の素材や、

天人達が捧げてくれた法衣の素材や、

龍神が布施してくれた法衣の素材や、

鬼神が布施してくれた法衣の素材や、

国王や大臣が布施してくれた法衣の素材や、

清浄な皮といった法衣の素材を用いるべきである。


 また、十種類の「糞掃衣」、「ぼろきれによる衣」を「清浄である」とする。


 十種類の「糞掃衣」、「ぼろきれによる衣」


 (一)牛嚼衣

 (二)鼠噛衣

 (三)火焼衣

 (四)月水衣

 (五)産婦衣

 (六)神廟衣

 (七)塚間衣

 (八)求願衣

 (九)王職衣

 (十)往還衣


 十種類の「糞掃衣」、「ぼろきれによる衣」を「特に清浄な法衣の素材である」とするのである。


 世俗では捨てるが、仏道では用いるのである。

 世間の家業と、仏道の家業を測り知る事ができる。


 そのため、清浄な法衣の素材を求める時は、十種類の「糞掃衣」、「ぼろきれによる衣」を求めるべきである。


 十種類の「糞掃衣」、「ぼろきれによる衣」を得て、清浄を知るべきであるし、

不浄をわきまえて受け入れるべきであるし、

心を知るべきであるし、

身をわきまえて受け入れるべきである。


 十種類の「糞掃衣」、「ぼろきれによる衣」を得て、たとえ絹であっても、たとえ絹以外であっても、「清浄か? 不浄か?」を思量するべきなのである。


 「『糞掃衣』、『ぼろきれによる衣』を用いるのは、いたずらに無駄に、破れた衣で、やつれるためである」と学ぶのは、愚かさの至りである。


 荘厳で綺麗であるために、仏道では「糞掃衣」、「ぼろきれによる衣」を用いて着て来ているのである。


 仏道で、やつれた衣服と成るのは、(にしき)刺繍(ししゅう)を施した衣服、模様が織られた絹の衣服、金銀や珍しい宝石の衣服などのうち、不浄な由来の衣服を「やつれた衣服」と言うのである。


 この世や他の世界で、仏道で、清浄な綺麗な法衣の素材を用いるには、十種類の「糞掃衣」、「ぼろきれによる衣」を用いるのである。


 「清浄か? 不浄か?」という境地を超越しているだけではないし、煩悩の有無の境地ではない。


 「色(形)の物であるのか? 心の物であるのか?」を論じる事なかれ。


 利益と損失とは無関係なのである。


 正しく伝えられている法衣を受けて保持する者は、仏なのである。


 仏である時、正しく伝えられている法衣を受けるので、仏として法衣を受けて保持する事は、身を現す、現さない、によらず、心を動かす、動かさない、によらず、正しく伝えられて行くのである。


 日本では、僧が法衣を着ない事を悲しむべきである。

 (そんな)今、法衣を受けて保持できる事を喜ぶべきである。


 在家信者は、仏の戒を受けたのであれば、五条、七条、九条の法衣を着るべきである。

 まして、出家者は法衣を着るべきである!



 「大梵天王や六欲天の天人から、淫蕩な男女や奴隷に至るまで、仏の戒を受けるべきであるし、法衣を着るべきである」と言われている。



 出家者は法衣を着るべきである!



 「畜生も、仏の戒を受けるべきであるし、法衣を(まと)うべきである」と言われている。



 仏の弟子は法衣を着るべきである!


 そのため、仏の弟子と成った者は、天上や人の間や、国王や役人や、在家者や出家者や、奴隷や畜生を問わず、仏の戒を受けるべきであるし、法衣を正しく伝えてもらうべきである。


 法衣を着る事は、仏の位に正しく入る「直道」、「近道」なのである。



 私、道元が、宋の時代の中国にいた昔、床で坐禅して鍛錬していた時、肩を並べている隣人を見ると、毎日、夜明けに、「開静の」、「坐禅を止めて床を離れる」時に、法衣を捧げ持って頭より上の高い場所に安置して、合掌して(うやうや)しく敬い、ある詩を暗唱していた。

 私、道元は、その時、「未だかつて見た事が無い物を見る事ができた」と思い、喜びが身に余り、感激の涙が(ひそ)かに落ちて法衣の(えり)(うるお)した。

 阿含経を開いて調べて見た時、「法衣を頭の上に捧げ持つ」という文を見たが、未だ明らめていなかったのである。

 私、道元は、目の当たりにして見る事ができた。

 私、道元は、喜び、次のように、思った。


 憐れむべきである。

 郷土にいた時は、教えてくれる師匠もいなかったし、教えてくれる「善友」、「善知識を持つ人々」にも出会えなかった。

 どれほど、いたずらに無駄に、過ぎる時間を惜しまなかったのか?

 悲しくないか?

 見聞きできた前世の善行を喜ぶべきである。

 もし、いたずらに無駄に、日本の諸々の寺で、日本の僧と肩を並べていたら、仏の法衣を着ている僧と肩を並べる事はでき得なかったであろう!

 悲しみと喜びは尋常ではない。

 感激の涙が千、万に無数に流れて行く。


 私、道元は、その時、(ひそ)かに願いを起こした。


 どうにかして、私は「不肖である」、「師に似ず愚かである」が、仏法の正統な後継者と成り、郷土の生者を憐れんで、仏から仏へ正しく伝えている法衣と仏法を見聞きさせよう。


 この時の願いは虚偽には成らず、法衣を受けて保持している在家信者や出家者の修行者は多いので、喜んでいる。


 法衣を受けて保持している仲間は、必ず、昼夜に、頭の上に捧げ持つべきである。

 特に優れている、最も優れている功徳に成る。


 真理の一つの詩、一つの句を見聞きする事は、経が樹や石に記された因縁も有る。


 法衣を正しく伝えられた功徳は、十方で出会い難いのである。


 千二百二十三年か千二百二十四年に、「三韓」の僧が二人、中国の慶元府に来た。

 一人は智玄と言い、もう一人は景雲と言う。

 二人は、しきりに仏の経の意味を話していて、あまつさえ、文学者であった。

 けれども、法衣は無いし、器も無いし、俗人のようであった。

 憐れむべきである。

 出家者の姿形であっても出家者の作法が無いのである。

 辺境の僻地(へきち)の小国のせいであろう。


 日本の出家者の姿形の仲間は、外国へ行ったら、智玄と景雲と同様であろう。


 釈迦牟尼仏は、十九歳から十二年間、法衣を頭の上に捧げ持って、差し置かなかった。

 既に、釈迦牟尼仏の法の遠い子孫なのである。

 法衣を頭の上に捧げ持つ事を学ぶべきである。


 いたずらに無駄に、名声や利益のために、天を礼拝したり、天人を礼拝したり、王を礼拝したり、役人を礼拝したりしている頭を、仏の法衣を頭の上に捧げ持つ事に「回向したら」、「布施などの功徳を分け与える相手について祈ったら」、喜ぶべきなのである。



 正法眼蔵 伝衣


 時に、千二百四十年、観音導利興聖宝林寺で記した。


 宋の時代の中国に入り、仏法を伝えている沙門である道元



 法衣を洗浄する時は、諸々の粉末状の香を水に合わせて用いる。

 法衣を乾かした後、たたんで、高い場所に安置して、香と華を捧げる。

 坐具を展開して三回礼拝した後、右ひざを地につけて左ひざを立てて合掌して、法衣を捧げ持って、合掌して深く信じながら、次の詩を唱える。

「大いなるかな、『解脱服』よ、『無相衣』よ、『福田衣』よ(、『法衣』よ)。如来、仏の教え(として法衣)を着れば、諸々の生者を広く仏土へ渡す」

 詩を三回、唱えた後、立って、法衣を着る。

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