正法眼蔵 転法輪
道元の亡き師である、天童山の、古代の仏と等しい、五十祖の如浄は、堂に上って、「釈迦牟尼仏は、『一人が真を発して源に帰れば、十方の虚空は悉く皆、消滅する』と言った。
師である、四十九祖の智鑑は、ひねって、『既に、この言葉は釈迦牟尼仏の所説なのである。(釈迦牟尼仏が)尽く特に優れている考えをなされ(て言っ)た事は未だ免れる事ができない』と言った。
私、如浄は、そうは思わない。
一人が真を発して源に帰れば、乞食は食器を打ち破る」と挙げて言った。
五祖山の法演禅師は、「一人が真を発して源に帰れば、十方の虚空は『築著磕著』、『突き当たり、ぶつかり当たる』」と言った。
仏性法泰は、「一人が真を発して源に帰れば、十方の虚空は十方の虚空なのである」と言った。
夾山の圜悟克勤は、「一人が真を発して源に帰れば、十方の虚空は錦の上に華を添える」と言った。
(私、)大仏寺の道元は、「一人が真を発して源に帰れば、十方の虚空は真を発して源に帰る」と言う。
今、挙げた「一人が真を発して源に帰れば、十方の虚空は悉く皆、消滅する」とは、「(大仏頂如来密因修証了義諸菩薩万行)首楞厳経」の中の言葉なのである。
この言葉は、かつて数人の仏祖が同じく挙げて来ている。
今から、この言葉は、実に、仏祖の「骨髄」、「理解」なのであるし、仏祖の「眼睛」、「見る眼」なのである。
このように言う意図は、「(大仏頂如来密因修証了義諸菩薩万行)首楞厳経」全十巻を、「偽経である」と言ったり、「偽経ではない」と言ったりするからである。
両方の説が既に昔から今にまで至っている。
旧訳が有るし、新訳が有るが、(七百五年である)神龍元年からの訳を疑うのである。
けれども、今、既に、五祖山の法演禅師、仏性法泰、如浄が共に、この言葉を挙げて来ている。
そのため、この言葉は、既に、仏祖の「法輪」、「説いた法」によって転じられているし、仏祖の「法輪」、「説いた法」が転じているのである。
このため、この言葉は、既に、仏祖を転じているし、
この言葉は、既に、仏祖を説いている。
仏祖によって転じられているし、仏祖を転じるので、たとえ偽経であっても、もし仏祖が転じて挙げて来たら、真の仏祖の経なのであるし、親しい仏祖の「法輪」、「説いた法」なのである。
たとえ瓦礫であっても、たとえ黄色い落ち葉であっても、たとえ優曇華であっても、たとえ「金襴衣」、「金糸で模様を織り入れた法衣」であっても、仏祖が既にひねって来ていれば、仏の「法輪」、「説いた法」なのであるし、仏の「正法眼蔵」、「正しくものを見る眼」なのである。
知るべきである。
もし生者が超越して無上普遍正覚を成就すれば、仏祖に成るのであるし、
仏祖の師弟に成るのであるし、
仏祖の「皮肉骨髄」、「理解」を会得した者に成るのである。
さらに、従来の兄弟の生者を兄弟とせず、仏祖が兄弟に成るように、たとえ「(大仏頂如来密因修証了義諸菩薩万行)首楞厳経」全十巻の言葉が偽りであっても、今の言葉は超越している言葉なので、仏祖の言葉に成るのであるし、他の言葉と同じではないのである。
ただし、たとえ、この言葉は超越している言葉であっても、「(大仏頂如来密因修証了義諸菩薩万行)首楞厳経」全十巻の言葉や性質や相を仏祖の言葉とするべきではないし、学に参入するための「眼睛」、「見る眼」とするべきではない。
今の言葉を、諸々の言葉と比べて論じる事ができない道理は多いが、その中の一端を挙げて、ひねってみよう。
「法輪を転じる」、「法を説く」とは、仏祖の手本なのである。
仏祖が「法輪を転じない事」、「法を説かない事」は未だ無いのである。
「法輪を転じる」、「法を説く」様子は、音声や色形を挙げて、ひねって、音声や色形を見えなくする(し、聞こえなくする)し、
音声や色形を超越して、「法輪を転じる」、「法を説く」し、
「眼睛」、「見る眼」を抉り出して、「法輪を転じる」、「法を説く」し、
「拳頭」、「拳」を立てて、「法輪を転じる」、「法を説く」し、
「(真理を嗅ぎ分ける)鼻の孔」を取ったり、虚空を取ったりすると、「法輪」、「法」が自然に転じるのである。
今の言葉を取る事は、今、明けの明星を取り、「(真理を嗅ぎ分ける)鼻の孔」を取り、桃の華を取り、虚空を取る事に成るのであるし、仏祖を取り、「法輪」、「法」を取る事に成るのである。
この主旨は、明らかに、「法輪を転じる」、「法を説く」事なのである。
「法輪を転じる」、「法を説く」とは、鍛錬して学に参入して「一生、寺や林を離れない(で坐禅する)事」なのであるし、「長連牀」、「坐禅する床」の上で(坐禅して)「請益し」、「重ねて教えを請い」仏道をわきまえる事を言うのである。
正法眼蔵 転法輪
時に、千二百四十四年、越宇の吉峰精舎にいて僧達に示した。




