表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
72/92

正法眼蔵 三十七品菩提分法

 古代の仏の「公案」、「修行者の手がかりとしての仏祖の言動」が有り、「三十七品菩提分法」という仏の教えに従って修行して証する事なのである。


 昇り降りする段階により葛藤する事は、さらに葛藤による「公案」、「修行者の手がかりとしての言動」なのであるし、

「諸仏」と呼んで諸仏と成すのであるし、

「諸々の祖師」と呼んで諸々の祖師と成すのである。



 「四念住」。「四念処」とも言う。


 (一)身の不浄を観る。

 (二)「受は苦しみである」と観る。

 (三)心の無常を観る。

 (四)「法」、「もの」の無我を観る。



 「身の不浄を観る」とは、観ている身である一つの皮袋である人は尽十方界なのである。

 尽十方界は真実の体であるので、活路に跳ねる「身の不浄を観る」事なのである。

 活路に跳ねないのは、観る事ができ得ていないのであろう。


 もし身が無ければ、(おこな)って理解して取る事ができ得ないであろうし、

説明して理解して取る事ができ得ないであろうし、

観て理解して取る事ができ得ないであろう。


 既に観る事ができ得る事が形成されて現されている。

 知るべきである。

 跳ねる事ができ得るのである。


 「観る事ができ得る」とは、毎日の生活、地や床の掃除なのである。


 「第何番目の月か?」を挙げて地を掃除し、「正に第二の月である」のを挙げて地や床を掃除するので、尽大地が、こうなのである。


 「身を観る」とは、「身が観る」のである。

 「身が観る」ので、他の物が観るわけではない。

 「観る」とは、卓越しているのである。

 「身が観る事」が形成されて現される時、「心が観る事」は全く未だ探り当てられないのであるし、形成されて現されないのである。

 そのため、「金剛定」、「不壊の定」なのであるし、

「首楞厳定」、「将軍が兵を率いるように、一切の定が従う定」、「転輪聖王が敵をひれ伏せさせるように、『魔』、『仏敵』を降伏させる勇猛で堅固な定」なのであるし、

共に、「身の不浄を観る事」なのである。


 夜中に明けの明星を見る道理を「身の不浄を観る」と言うのである。

 綺麗、汚い、を比べて論じているわけではないのである。


 「有身是不浄」、「存在する身は不浄なのである」し、

「現身便不浄」、「現されている身は不浄なのである」。


 このような学への参入では、魔が仏に成る時は、魔をひねって魔を(くだ)して仏に成るのであるし、

仏が仏に成る時は、仏をひねって仏を意図して仏に成るのであるし、

人が仏に成る時は、人をひねって人を調教して仏に成るのである。

 まさに、ひねると通路が有る道理に参入して究めるべきである。


 例えば、衣を洗う法のような物なのである。

 水は衣に汚染され、衣は水に侵される。

 汚染された水を用いて洗う。

 汚染された水を換えるが、なお水を用いるのであるし、なお衣を洗うのである。

 一度洗い、二度洗いで清浄に見えなければ、止めて停滞を重ねる事なかれ。

 水が尽きれば、更に水を用いるのである。

 衣が清浄に成っていても、更に衣を洗うのである。

 水は諸々の種類の水を共に用いても、衣を洗うのに善いのである。

 水が(にご)って魚がいるのを知る道理に参入して究めるのである。

 衣は諸々の種類の衣で共に洗う事が有る。

 このように鍛錬して、衣を洗う「公案」、「修行者の手がかりとしての仏祖の言動」が形成されて現されるのである。

 けれども、清浄、清潔を見て理解して取るのである。

 この主旨は、必ずしも衣を水に(ひた)すのを本来の期待としていないし、水が衣によって汚染されるのを本来の期待としていない。

 汚染水を用いて衣を洗う事に、衣を洗う、本来、期待している事が有るのである。

 更に、地水火風空を用いて衣を洗い、物を洗う法が有る。

 地水火風空を用いて地水火風空を洗い清める法が有る。

 「身の不浄を観る」主旨は、また、このようなのである。


 このため、身を覆い、観る事を覆い、不浄を覆う、母が生じた袈裟なのである。

 もし袈裟が母が生じた袈裟でなければ、仏祖は用いなかったであろう。

 三祖の商那和修だけではない!

 (「正法眼蔵」の「袈裟功徳」で三祖の商那和修は衣と共に生まれたと記されている。)

 この道理をよくよく心に留めて学に参入して究め尽くすべきである。



 「『受は苦しみである』と観る」とは、苦しみとは「受」なのである。


 自分だけの「受」ではないし、

他のものの「受」ではないし、

(真実の)存在による「受」ではないし、

無による「受」ではない。


 生きている身が「受」なのであるし、

生きている身が苦しみなのである。


 「『受は苦しみである』と観る」とは、甘く熟した(うり)を「苦い夕顔(ユウガオ)」、「苦い葛藤」に換える事を言うのである。


 葛藤は、「皮肉骨髄」、「理解」で苦いのであるし、

「有心」、「心」や、「無心」などで苦いのである。


 葛藤は、「一つ上の『神通』、『理解』」なのであるし、修行と証なのである。


 葛藤という「神通」、「理解」は、「『へた』まで(とお)して」からを超越するし、「根まで連綿と」からを超越する「神通」、「理解」なのである。


 このため、「まさに『全ての生者は苦しんでいる』と言えるし、更に、苦しんでいる全ての生者がいる」のである。


 生者は自分だけではないし、

生者は他の者ではない。


 「更に、苦しんでいる全ての生者がいる」事は、(つい)に、他の者をだます事ができ得ない。


 「甘い(うり)は『へた』まで(とお)して甘い」のであるし、「苦い(うり)は根まで連綿と苦い」のであるが、苦しみは、簡単には、模索しても探り当てる事ができないのである。


 苦しみとは、どういった物であるのか? と自己に問うべきである。



 「心の無常を観る」とは、曹谿山の、古代の仏と等しい、三十三祖の大鑑禅師は、「無常とは仏に成れる性質なのである」と言った。



 そのため、諸々の(たぐい)の者が理解している無常とは共に、仏に成れる性質なのである。



 真覚大師と呼ばれる永嘉の玄覚は、「『諸行無常である』、『全てのものは変化する』し、一切は(くう)であるのは、如来の大いなる『円覚』、『完全で円満な悟り』なのである」と言った。



 「心の無常を観る」とは、「如来の大いなる『円覚』、『完全で円満な悟り』」なのであるし、

大いなる「円覚」、「完全で円満な悟り」による如来なのである。


 もし心を見ないようにしても、他のものに従って去るので、もし心が有れば、観る事も有るのである。


 無上普遍正覚に至り、無上普遍正覚が形成されて現される事は、「無常」、「変化」なのであるし、心を観る事なのである。


 心は必ずしも常である物ではないし、「肯定、否定、肯定かつ否定、肯定でも否定でもない」という「四句分別」を離れる事なのであるし、「百非」を絶する事なので、牆壁や瓦礫や、大小の石は、心なのであるし、「無常」、「変化」なのであるし、観る事なのである。



 「『法』、『もの』の無我を観る」とは、長いものは長い法身なのであるし、短いものは短い法身なのである。


 形成されて現される生活の様子なので、無我なのである。


 犬には仏の性質は無いのであるし、

犬には仏に成れる性質は有るのである。


 一切の全ての生者には、仏の性質が無いのであるし、

一切の仏の性質には、全ての生者がいないのであるし、

一切の諸仏には、全ての生者がいないのであるし、

一切の諸仏には、諸仏がいないのであるし、

一切の仏に成れる性質には、仏の性質が無いのであるし、

一切の全ての生者には、全ての生者がいないのである。

 このため、「一切の『法』、『もの』には、一切の『法』、『もの』が無い」のを「『法』、『もの』の無我を観る」として学に参入するのである。


 知るべきである。

 超越した渾身は葛藤である。



 釈迦牟尼仏は、「一切の諸仏と菩薩は、長く、この法に安らいで、聖胎と()すのである」と言った。



 そのため、諸仏と菩薩は共に、この「四念住」、「四念処」を聖胎としている。

 知るべきである。

 等覚の聖胎なのであるし、妙覚の聖胎なのである。


 既に「一切の諸仏と菩薩」と有り、妙覚ではない諸仏も、「四念住」、「四念処」を聖胎としている。


 等覚より上に、妙覚より上に、超越している菩薩もまた、この「四念住」、「四念処」を聖胎とするのである。


 実に、諸々の仏祖の「皮肉骨髄」、「理解」は、「四念住」、「四念処」だけなのである。



 「四正断」。または「四正勤」と言う。


 (一)未だ生じていない悪を生じさせない。

 (二)既に生じている悪を滅ぼす。

 (三)未だ生じていない善を生じさせる。

 (四)既に生じている善を増上させる。



 「未だ生じていない悪を生じさせない」とは、「悪」と呼ばれている物には必ずしも定まった形状は無い。

 ただ地に従って、世界によって、「悪」と呼んで来ている。

 けれども、「未だ生じていない悪を生じさせない」のを「仏法」と呼び、正しく伝えて来ている。


 外道の誤解では「悪は『未萌我』、『未だ芽生えていない()』を根本としている」と言ってしまっている。

 仏法では、そうではない。


 悪が未だ生じない時、どこに存在するのか? と一時、質問するべきである。

 もし「悪は未来に存在する」と言ってしまえば、長く「断滅見」、「断見」、「死ぬと身体が断滅するので因果や善悪の言動の報いは無いという誤った邪見」の外道に成ってしまうであろう。


 もし「未来が来て現在と成る」と言ってしまえば、仏法が話している真実ではないし、過去、現在、未来が混乱してしまうであろう。

 過去、現在、未来が混乱してしまえば、「諸法」、「全てのもの」が混乱してしまうであろう。

 「諸法」、「全てのもの」が混乱してしまえば、実の相が混乱してしまうであろう。

 実の相が混乱してしまえば、「仏と仏だけが()く究め尽せる」事が混乱してしまうであろう。

 このため、「未来は後に現在と成る」と言わないのである。


 「未だ生じていない悪」とは、何の事を言っているのか? 誰が「未だ生じていない悪」を知ったり見たりして理解して取るのか? と更に質問するべきである。

 もし「未だ生じていない悪」を知ったり見たりして理解して取る事が有れば、悪が未だ生じていない時が有るであろうし、悪が未だ生じていないのではない時が有るであろう。

 もし、そうであれば、「未だ生じていない物」と言うべきではなく、「既に滅んでいる物」と呼ぶべきである。

 外道や、「小乗」、「矮小な乗り物」、「劣悪な段階」の声聞などに学ばないで、「未だ生じていない悪を生じさせない」学に参入するべきである。


 天に満ちている積み蓄えられている悪を「未だ生じていない悪」と言い、「不生悪」、「生じるのではない悪」なのである。

 「不生」、「生じるのではない」とは、「昨日は定法を説き、今日は不定法を説く」事なのである。



 「既に生じている悪を滅ぼす」とは、「既に生じている」とは、(ことごと)くの生なのである。

 「(ことごと)くの生なのである」とは、半生なのである。

 「半生なのである」とは、この生なのである。

 この生は、生に(さえぎ)られるのであるし、生の頂上を超越するのである。


 この生で「滅ぼす」とは、提婆達多(デーヴァダッタ)は生身で地獄に入るのであるし、提婆達多(デーヴァダッタ)は生身で成仏を予言される「授記」を得るのである。

 生身で驢馬(ロバ)の胎内に入るのであるし、生身で仏に成るのである。

 この道理をひねって来て、「滅ぼす」主旨の学に参入するべきである。

 「滅ぶ」とは、滅ぶのを超越し透過して脱ぎ落とす事を「滅ぶ」とする。



 「未だ生じていない善を生じさせる」とは、父と母から生まれる前の「面目」、「有様(ありよう)」の十分な会得なのであるし、

前兆以前の明らかに挙げる事なのであるし、

威音王仏以前の理解して取る事なのである。



 「既に生じている善を増上させる」とは、「『既に生じている善を生じさせる』と言わず、『増上させる』のである」と知るべきである。

 自分が明けの明星を見るに至って、更に他の者に明けの明星を見る事を教えるのである。

 「眼睛」、「見る眼」を明けの明星となすのである。

 「胡乱後三十年、不曾闕塩醋」、「不確かなまま、以後、三十年だが、塩と酢をかつて欠かさなかった」のである。

 例えば、増上するので、「既に生じている」のである。

 このため、「谷が深いので、谷の川の水を()(しゃく)()も長く成る様な物である」し、

「只為有所以来」、「ただ、存在するため、(二十八祖の達磨は西のインドから中国へ)来たのである」。



 「四神足」(「四神足」とは、四つの基礎である。)


 (一)「欲神足」

 (二)「心神足」

 (三)「進神足」(「進神足」とは、精進という基礎である。)

 (四)「思惟神足」



 「欲神足」とは、仏に成る事を意図する身心なのであるし、

快眠を意図する事なのであるし、

「そのため、私(、如浄)は、あなたを礼拝する」なのである。(「正法眼蔵」の「家常」を参照してください。)


 「欲神足」は、さらに身心の因縁ではないのであるし、

「空が果てしなく広く、鳥は(微かに見えるほど遠くを)飛んでいる」のであるし、

「水が(清らかなので)底まで透き通っていて、魚は(ゆっくりと)進んでいる」のである。

 (「正法眼蔵」の「坐禅箴」を参照してください。)



 「心神足」は、牆壁や瓦礫なのであるし、

山や河や大地なのであるし、

個々の三界なのであるし、

明らかな椅子(イス)や、竹や木なのである。


 (ことごと)く使う事ができ得るので、仏祖の心が有るし、

凡人や聖者の心が有るし、

「草木心」が有るし、

変化する心が有る。


 (ことごと)くの心は、「心神足」なのである。



 「進神足」は、「『百尺の竿(さお)の先』、『極致』に乗って一歩、進む」事なのである。

 どの場所が「百尺の竿(さお)の先」、「極致」であるのか?

 (どの場所でも、)乗らない事はでき得ないのである。

 (どの場所でも、乗っているのである。)

 「乗って一歩、進む」事は無いわけではないが、「ここが、どこだと思って、『進む』とか『後退する』とか説くのか?」。

 「進神足」の時、尽十方界へ「進神足」に従って到達するのであるし、尽十方界が「進神足」に従って到来するのである。



 「思惟神足」とは、一切の仏祖は、「(ごう)による理解が果てしないが、(もと)より()るべきではない」のである。


 身の思惟が有るし、

心の思惟が有るし、

「識」、「理解」の思惟が有るし、

履物の思惟が有るし、

創世前の無である長い時間である「空劫」以前の自己の思惟が有る。



 「四神足」をまたは「四如意足」と言うが、ためらわないのである。

 (「如意」は「思いのままに成る事」を意味する。)



 釈迦牟尼仏は、「未だ(足を)運ばずに到来するのを『(四)如意足』と名づける」と言った。



 そのため、鋭さは、(きり)の先端のようであるし、

角ばっているのは、(のみ)の刃のようである。



 「五根」(「五根」とは、五つの能力である。)


 (一)「信根」

 (二)「精進根」

 (三)「念根」

 (四)「定根」

 (五)「慧根」



 「信根」は、知るべきである、自己だけの物ではないし、

他の者の物ではないし、

自己の強引な(おこな)いではないし、

自己が結成し構成する物ではないし、

他のものにより引かれているだけの物ではないし、

自立の規則ではないので、「東西密相付」、「東の地の中国へ、西のインドから、(ひそ)かに付属した」のである。


 渾身が信じるのに似ているのを「信じる」と呼んでいるのである。


 必ず、修行の結果の仏の位として、他のものに従って去るし、自分に従って去る。


 修行の結果の仏の位でなければ、信じる事は形成されて現されない。


 このため、「仏法の大海は信じる事で入る事が可能であると()す」と言われているのである。


 信じる事が形成されて現される場所は、仏祖が形成されて現される場所なのである。



 「精進根」は、反省して、ひたすら打ち坐る事なのであるし、

「休也休不得」、「止める事ができない」のであるし、

「休得更休得」、「止める事ができたら、止める事ができる」のであるし、

「太区区生」、「大いに忙しい」のであるし、

「不区区者」、「忙しく(思わ)ない者」なのであるし、

「大いに忙しいのと忙しく(思わ)ない者は、第一の月と第二の月なのである」。



 釈迦牟尼仏は、「私(、釈迦牟尼仏)は常に勤めて精進している。このため、私(、釈迦牟尼仏)は既に無上普遍正覚を成就する事ができ得ている」と言った。



 「常に勤めて」とは、過去、現在、未来の(ことごと)くで「頭が正しいので尾も正しい」事なのである。


 「私(、釈迦牟尼仏)は常に勤めて精進している」のを「私(、釈迦牟尼仏)は既に無上普遍正覚を成就する事ができ得ている」としている。

 「私(、釈迦牟尼仏)は既に無上普遍正覚を成就する事ができ得ている」ので、「私(、釈迦牟尼仏)は常に勤めて精進している」のである。

 「既に無上普遍正覚を成就する事ができ得て」いなければ、どうして「常に勤めて精進している」であろうか?

 「常に勤めて精進して」いなければ、どうして「私(、釈迦牟尼仏)は既に無上普遍正覚を成就する事ができ得ている」であろうか?

 経典の似非(えせ)学者は、この主旨を見聞きできないし、まして、学に参入している者はいない!



 「念根」は、「枯木」の「赤い肉の(かたまり)」、「肉体」なのである。

 「赤い肉の(かたまり)」、「肉体」を「枯木」と言うのである。

 「枯木」とは「念根」なのである。


 模索して探り当てた自己が、「念」、「記憶」なのである。


 身が存在する時の「念」、「記憶」が有るし、無心の時も「念」、「記憶」が有る。

 心が存在する時の「念」、「記憶」が有るし、身が無くても「念」、「記憶」が有る。


 尽大地の人の「命根」、「命の能力」を「念根」としている。


 尽十方の仏の「命根」、「命の能力」は「念根」、「記憶能力」なのである。


 一つの「念」、「記憶」には、多くの人がいるし、

一人には、多くの「念」、「記憶」が有る。


 けれども、ある「念」、「記憶」が存在する人がいるし、

ある「念」、「記憶」が無い人がいる。


 人には、必ずしも、ある「念」、「記憶」が有るわけではない。


 「念」、「記憶」は、必ずしも、人にかかっているわけではない。(記憶は人次第ではない。)


 けれども、「念根」には、よく保持して究め尽くす功徳が有る。



 「定根」は、眉毛(まゆげ)を大事にする事なのであるし、

眉毛(まゆげ)を起こす」事なのである。


 このため、「因果に暗くない」のであるし、「因果に落ちない」のである。


 そのため、驢馬(ロバ)の胎内に入るし、馬の胎内に入るのである。

 石が宝玉を包含しているような物である。「石の全てが宝玉なのである」と言う事はできない。

 地が山を(いただ)くような物である。「地の(ことごと)くが山なのである」と言う事はできない。


 けれども、頂上から飛び出すし、飛び込む。



 「慧根」は、過去、現在、未来の諸仏は存在を知らないのであるし、

野生の猫や牛は逆に存在を知っているのである。

 「なぜ、このようであるのか?」と言うべきではないし、言う事ができないのである。


 「(真理を嗅ぎ分ける)鼻の(あな)」には「消息」、「様子」が存在するのであるし、

「拳頭」、「拳」には指先が存在するのである。


 驢馬(ロバ)驢馬(ロバ)を保持し任せられるし、井戸の水は井戸の水に(まみ)える。



 「根が根を()ぐのである」、「能力が能力を()ぐのである」。



 「五力」(「五力」とは、悟りに至らせる五つの力である。)


 (一)「信力」

 (二)「精進力」

 (三)「念力」

 (四)「定力」

 (五)「慧力」



 「信力」は、自ら、だまされて、回避する場所が無いのであるし、

他の者に呼ばれて必ず振り向くのであるし、

生まれてから老いに至るまで、ただ、これだけなのであるし、

七回も転倒して通過するのであるし、八回も転倒して、ひねって来るのである。


 このため、信じる事は「水清珠」のような物なのである。


 法と衣を伝える事を信じる事とする。仏祖を伝えるのである。



 「精進力」は、「行い得ない奥底は、説明によって、理解して取る」事なのであるし、

「説明し得ない奥底は、(おこな)って、理解して取る」事なのである。


 そのため、わずかに説明し得たならば、わずかに説明し得た(ほう)が良いのであるし、

一句を行い得たならば、一句を行い得た(ほう)が良いのである。


 力の中で力を得るのが、「精進力」なのである。



 「念力」は、人の「(真理を嗅ぎ分ける)鼻の(あな)」を引き寄せるのは、ひどい人なのである。


 このため、「(真理を嗅ぎ分ける)鼻の(あな)」が人を引き寄せるのであるし、

宝玉を捨てれば、宝玉を引き寄せるのであるし、

(かわら)を捨てれば、(かわら)を引き寄せるのである。

 さらに、未だ捨てない者は、三十回、棒で軽く叩くのである。


 天下の人々が用いても、未だ摩耗しないのである。



 「定力」は、子が母を得たような物なのであるし、

母が子を得たような物なのであるし、

子が子を得たような物なのであるし、

母が母を得たような物なのである。

 けれども、頭で顔を換えるわけではないし、

黄金で黄金を買うわけではない。


 唱えて、いよいよ高くなるのみなのである。



 「慧力」は、「年代」、「年月」は、深く遠く長いのであるし、

船が(仏土への)渡りに出会うような物なのである。

 このため、古代の「法華経」の「薬王菩薩本事品」で、「渡りに船」、「(仏土への)渡りに船を得たような物なのである」と言われている。

 「渡りに船」という言葉の主旨は、(仏土へ)渡るには必ず船によるのである。

 (仏土へ)渡る事が(仏土へ)渡る事を(さまた)げないのを「船」と言っているのである。

 「春氷自消氷」、「春に氷は自然に消える」のである。



 「七等覚支」(「七等覚支」とは、普遍の悟りを七つに分けた物である。)


 (一)「択法覚支」

 (二)「精進覚支」

 (三)「喜覚支」

 (四)「除覚支」

 (五)「捨覚支」

 (六)「定覚支」

 (七)「念覚支」



 「択法覚支」は、わずかな違いが有れば、天と地ほど、かけ離れてしまうのである。

 このため、「道」、「真理」に到達するのは難しいのでもないし簡単でもない。ただ、自ら選択する必要が有るのみなのである。



 「精進覚支」は、相場で、かつて狡猾に奪った事は無いのである。

 売ったり買ったりするのに共に、定価が有るし、価値を知っている。

 自己を屈して他人を推すのに似ているが、「通身」、「全身」は叩いても(くだ)けないのである。

 心を一転させる言葉を売っている事を未だやめていないのに、心を一転させる心を買う客に出会う。

 驢馬(ロバ)の事が未だ終わらないのに、馬の事が到来するのである。



 「喜覚支」は、老婆心が切で血が点々と(したた)るのである。

 「大悲菩薩」、「千手観音」の千の「眼が有る手」は、不本意ではあるが、とても多忙である。

 冬の雪の中から梅の華が先に漏洩(ろうえい)し、来春の様子は全体的に寒いのである。

 けれども、魚の様に活発に「ハハ」と笑うのである。



 「除覚支」は、自分の中では自分と群れないし、他人の中にいる時は他人と群れない。

 私が得ると、あなたは得られないのである。

 明らかに言い表すと、「異類中行」、「多様な種類の者達の中を行く事」、「多様な種類の者達を救うために仏が『この世』に身を投じる事」、「多様な種類の手段で導く事」なのである。



 「捨覚支」は、「たとえ、もたらしても、他もまた受けない」のである。

 中国人は裸足で中国風の歩き方を学ぶし、南の海のペルシャでは象牙を求めるのである。



 「定覚支」は、「機先」、「物事が起こる前」に、機先を見る眼を保護するのであるし、

自分の「(真理を嗅ぎ分ける)鼻の(あな)」は自分で穿(うが)って開くのであるし、

自分の(なわ)を取って自分で引くのである。

 けれども、さらに、一頭の神の使いである牛、水牛を放し飼いにし得ているのである。



 「念覚支」は、寺の円柱は空を歩行するのである。

 このため、(くち)(つち)のようであるし、眼は眉毛(まゆげ)のようであるが、「栴檀林」とも呼ばれる「寺」の中では「栴檀」という香をたくし、獅子(ライオン)の穴の中では「獅子吼」、「獅子(ライオン)()える」のである。

 (「獅子吼」には「獅子が吼えるように法を説く」という意味が有る。)



 「八正道支」。または「八聖道」とも呼ぶ。


 (一)「正見道支」

 (二)「正思惟道支」

 (三)「正語道支」

 (四)「正業道支」

 (五)「正命道支」

 (六)「正精進道支」

 (七)「正念道支」

 (八)「正定道支」



 「正見道支」は、「眼睛」、「見る眼」の中に身を隠すのである。

 けれども、身より先に、身より先の「眼」、「見る眼」を備えるべきなのである。

 (身より前から存在する「見る眼」を備えるべきなのである。)

 向かって前に堂々と形成されて現されるが、「公案」、「修行者の手がかりとしての仏祖の言動」は形成されて現されるし、(仏祖に、)かつて親しく(まみ)えているのである。

 (見る)眼の中に身を隠さなければ、仏祖ではないのである。



 「正思惟道支」は、「この思惟をなす時、十方の仏は皆、現れる」のである。

 そのため、十方が現れたり、諸仏が現れたりするのは、「この思惟をなす時」なのである。

 「この思惟をなす時」は、自己だけの物ではないし、他者を超越しているが、今も、この事を思惟し終わった者は、波羅奈(ヴァーラーナシー)(おもむ)くのである。

 (「波羅奈」、「ヴァーラーナシー」という国には、釈迦牟尼仏が初めて法を説いた「鹿野苑」、「サールナート」が有る。)

 思惟が存在する場所は波羅奈(ヴァーラーナシー)なのである。



 古代の仏と等しい三十六祖の薬山惟儼は、「かの不思量の奥底を思量している」、「今は思考できない思考を思考しようとしている」と言った。

 「不思量の奥底なんて、どうしたら思考できるのですか?」、「思考できないものなんて、どうしたら思考できるのですか?」。

 薬山惟儼は、「非思量」、「思考できるであろうか等と思考しないで、とにかく思考するのである」、「できるか心配せずに、とにかく行うのである」と言った。



 これが「正思量」、「正しい思量」、「正思惟」、「正しい思惟」なのである。

 (こつこつと坐禅して)座布団を破る事が、「正思惟」、「正しい思惟」なのである。



 「正語道支」は、話す事ができない者は、自分では話す事ができる者なのである。

 諸々の人々の中の、話す事ができない者は、「未道得」、「未だ言い得ない」のである。

 話す事ができない者の世界の諸々の人々は、話す事ができない者ではない。

 諸々の聖者を(した)わないのであるし、自己の霊を重んじないのである。

 「(くち)が壁に掛かっている」事に参入して究めるのである。

 「一切の(くち)は一切の壁に掛かっている」のである。



 「正業道支」は、出家して仏道を修行するのであるし、山に入って「証を取る」、「悟る」のである。



 釈迦牟尼仏は、「三十七品(菩提分法)は、『僧業』、『僧の務め』なのである」と言った。



 「僧業」、「僧の務め」は、大乗ではないし、「小乗」、「矮小な乗り物」、「劣悪な段階」ではない。

 僧には、仏の僧、菩薩の僧、声聞の僧などがいる。



 未だ出家していない者が仏法の「正業」、「正しい行い」を()いでいる事は無いし、仏法の大いなる道を正しく伝えられている事は無い。

 在家信者には、わずかに「近事男女」、「『近事男』と『近事女』」、「『仏、法、僧』という『三宝』に近づき仕える在家信者の男女」が仏道を学び修行しているが、「達道」、「仏道の奥義に到達」した先人の行跡は無い。

 「達道する」、「仏道の奥義に到達する」時、必ず、出家するのである。

 出家に耐えられない輩が、どうして仏の位を()げるであろうか? いいえ!

 それなのに、九百年頃から千二百四十四年現在までの間、中国で「禅宗の僧」を自称する輩の多くは、誤って「在家信者が仏道を学び修行するのと、出家者が仏道を学び修行するのは、同一なのである」と言ってしまっている。

 このように言う輩は、ただ、在家信者の排泄物という富を飲食物とするために「犬」、「動物的人間」と成った(たぐい)なのである。

 (「正法眼蔵」の「行持」には「仏祖は富を排泄物として見る」という主旨の言葉が記されている。)

 または、国王や大臣に向かって、誤って「政治の心は仏祖の心なのであり、更に別の心は無い」と言ってしまう。

 そう言われると、王や大臣は、未だ正しい説法をわきまえず、大喜びして、師の称号などを与えてしまう。

 このような誤った言葉を言ってしまう諸々の似非(えせ)僧侶は、(仏が近くで教えてあげたのに、裏切った邪悪な)提婆達多(デーヴァダッタ)のような者なのである。

 涙や鼻水や(つば)という富を食べるために、このような幼子のような狂った言葉を言うのである。

 「泣き(わめ)いている」と言える。

 過去七仏の眷属ではなく、「魔」、「仏敵」の仲間や「畜生」、「動物的人間」なのである。

 未だ、身心で仏道を学び修行する事を知らないし、学に参入しないし、身心の出家を知らない。

 王や大臣の法や政治に暗く、仏祖の大いなる仏道を夢にも見た事が無いので、このような誤った事を言ってしまうのである。


 在家者の修行者の維摩は、釈迦牟尼仏の「この世」への出現に出会ったが、未だ言い尽くす事もできない仏法は多かったであろうし、未だ学び至る事ができない仏法は少なくなかったであろう。


 蘊公と呼ばれる龐居士は、三十五祖の石頭希遷と馬祖道一という二人の祖師達の会への参入を経歴したが、三十六祖の薬山惟儼のように奥義を許されなかったし、江西の馬祖道一に及ぶ事ができなかった。

 蘊公と呼ばれる龐居士は、わずかに学への参入という名声を盗んだ形に成っただけで、学への参入の実績は無かったのである。


 その他の李駙馬、楊文公と呼ばれる楊億などは各々、仏法を十分に会得したと思っていたが、乳餅(という知)を未だ食べていない。

 まして、「絵に描いた餅」(という知)を食べていない!

 まして、(仏祖の知という)仏祖の朝食や昼食を食べていない!

 出家者の器が未だ無いのである。

 人という皮袋の一生が、いたずらに無駄に成った事を憐れむべきである。


 普遍に(すす)めると、尽十方の天人、人、竜、諸々の生者は、遥かな古代の如来の仏法を(した)って、急いで出家して仏道を修行し、仏祖の位を()ぐべきである。


 「禅師」を自称する者などの、仏道の奥義に未だ到達していない言葉を聞く事なかれ。

 身を知らないし、心を知らないので、誤って「在家者の心と、出家者の心は、同一なのである」と言ってしまうのである。

 または、全く生者を憐れむ心が無く、仏法を守る思いが無く、ただ一筋に在家信者の排泄物という富を食べようとして「悪い犬」と成っている「人面犬」、「人の皮をかぶった犬」、「動物的人間」が、誤って「在家者の心と、出家者の心は、同一なのである」と言ってしまうのである。

 共に坐るべきではないし、

共に語るべきではないし、

共に「依止」、「力や徳が有る者に依存し頼る」べきではない。

 似非(えせ)僧侶は既に生きたまま生身で「畜生」、「動物的人間」に堕ちているのである。

 もし出家者が排泄物という富に豊かであれば、「出家者は優れている」と言うであろう。

 出家者の排泄物という富が、この「畜生」、「動物的人間」の富に及ばないので、誤って「在家者の心と、出家者の心は、同一なのである」と言ってしまうのである。


 誤った「在家者の心と、出家者の心は、同一なのである」という言葉は、証拠といい、道理といい、五千巻余りの仏の経の文に記されていないし、二千年余りの仏教の歴史で行跡は無いし、五十人の仏祖達、四十人余りの祖師達が言った事は無い。


 たとえ、戒を破った出家者や、戒を受けていない出家者と成って、仏道から外れているし智慧が無くても、智慧が有って戒を守って保持している在家者よりは優れているはずなのである。

 「僧業」、「僧の務め」、「出家者という務め」は、智慧なのであるし、悟りなのであるし、仏道なのであるし、仏法なので。


 在家者は、たとえ分相応の「善根」、「善の種と成る善行」や功徳が有っても、身心による「善根」、「善の種と成る善行」や功徳は(おろそ)かに成ってしまうのである。


 釈迦牟尼仏の一代の化の導きで、在家者だが「得道した」、「悟った」者は全くいない。

 在家者の家は仏道を学び修行する道場ではないからである。

 (さまた)げが多いからである。


 誤って「政治の心と、祖師の心は、同一なのである」と言ってしまう輩の身心を探ると、未だ仏法の身心ではないであろうし、仏祖の「皮肉骨髄」、「理解」は伝わっていないであろう。

 仏の正しい法に出会いながら、「畜生」、「動物的人間」と成ってしまった事を憐れむべきである。


 このため、曹谿山の、古代の仏と等しい、三十三祖の大鑑禅師は、たちまち母を(泣く泣く)置いて師をたずねたが、「正業」、「正しい行い」なのである。

 大鑑禅師は、金剛経を聞いて発心していない時は木こりとして家にいて在家者であったが、金剛経を聞いて仏法の「薫力」、「感化力」が有る時は重い負担を(泣く泣く)放り下ろして出家した。

 「身心に仏法が有る時は、在家者に留まる事はできない」と知るべきである。

 諸々の仏祖は皆、このようであったのである。


 誤って「出家するべきではない」と言ってしまう輩は、最も重い罪である五逆罪を犯すよりも重い罪を犯しているのであるし、(仏が近くで教えてあげたのに、裏切った邪悪な)提婆達多(デーヴァダッタ)よりも凶悪であると言えるのである。

 誤って「出家するべきではない」と言ってしまう輩は、似非(えせ)僧侶の「六群比丘」、「六群尼」、「十八群比丘」などよりも罪が重い者であると知って、共に語るべきではない。

 一生の寿命は、どれだけか分からない。

 このような「魔の子」、「仏敵の子」や、「畜生」、「動物的人間」などと共に語っている時間は無い。

 まして、この人の身は、前世に仏法を見聞きした種によって受けているのである。

 人の身とは、僧の公共の日常の道具のような物なのである。

 人の身を「魔」、「仏敵」の仲間となすべきではないし、「魔」、「仏敵」の仲間と共にいさせるべきではない。

 仏祖の深い恩を忘れず、「法乳」、「母乳に例えられる師からの教え」による徳を保護して、「悪い犬」、「動物的人間」の声を聞く事なかれ。

 「悪い犬」、「動物的人間」と共に坐ったり、共に食べたりする事なかれ。


 蒿山の、古代の仏と等しい、二十八祖の達磨が、西のインドの仏教国を遥かに離れて、西のインドから僻地(へきち)の国の中国へ来た時に、仏祖の正しい法が目の当たりに伝わったのである。

 達磨が出家して「得道して」、「悟って」いなければ、このようには成らなかったであろう。

 「祖師西来」、「二十八祖の達磨が西のインドから中国へ来る」以前は、東の地の中国の人や天人といった生者は、未だかつて正しい仏法を見聞きしていなかったのである。

 そのため、知るべきである。

 正しい仏法を正しく伝えられるのは、出家の功徳だけなのである。


 釈迦牟尼仏が、かたじけなくも父の王位を捨てて()がなかったのは、父の王位が高貴でなかったわけではなく、最も高貴な仏の位を()ぐためであったのである。

 仏の位は、出家者の位なのであるし、

三界の人や天人といった全ての生者が共に頭を下げて(うやうや)しく敬う位なのである。

 梵天や、帝釈天が共に坐る事ができる位ではないのである。

 まして、下界の諸々の人の王や、諸々の龍王が共に坐る事ができる位ではない!

 仏の位は、無上普遍正覚の位なのである。

 仏の位の者は、法を説いて生者を仏土へ渡す事ができるし、光を放って吉兆を現す事ができる。

 仏の位という出家者の位の諸々の「業」、「行い」は、「正業」、「正しい行い」なのであるし、過去七仏を含む諸仏の思いなのである。

 「仏と仏だけが、究め尽くす事ができる」物なのである。

 未だ出家していない仲間は、既に出家している仲間に、(まみ)えて給仕し、頭を下げて敬礼し、身の命を投げ捨てて捧げものを捧げるべきである。



 釈迦牟尼仏は、「出家して戒を受ければ、仏の種のような者なのであるし、既に『得度した』、『仏土へ渡った』人なのである」と言った。



 そのため、知るべきである。

 「得度」、「仏土へ渡る」とは、出家なのである。

 未だ出家していない者は、深く沈んでいる。

 悲しむべきである。

 釈迦牟尼仏が一代で説いた中で、出家の功徳をたたえた事は、数え切れない。

 釈迦牟尼仏は真に法を説いているし、諸仏は証明している。

 出家者は戒を破ってしまったり修行していなかったりしても「得道する」、「悟る」。

 在家者が「得道した」、「悟った」事は未だ無い。

 権力者が出家者を礼拝する時、出家者は応じて礼拝しない。

 諸々の天人が出家者を礼拝しても、出家者は応じて礼拝する事は全くしない。

 これらは、出家の功徳が優れているからなのである。

 もし出家者に礼拝されたら、諸々の天人の宮殿、光明、果報などは、たちまち破壊されて堕ちてしまうので、このようにするのである。

 仏法が東に広まってから現在まで、「得道した」、「悟った」出家者は、稲、麻、竹、(アシ)の様に多数いる。

 在家者でありながら「得道した」、「悟った」者は、未だ一人もいない。

 既に仏法が眼や耳に及んだ時は、急いで出家を営む物なのである。

 測り知る事ができる。

 在家者の家は仏法が存在する場所ではないのである。

 それなのに、誤って「政治の身心は、仏祖の身心なのである」と言ってしまう輩は、未だかつて仏法を見聞きできていないのであるし、「黒闇獄」、「暗黒の地獄」の罪人なのである。

 自分の言葉ですらなお見聞きできていない愚かな人なのであるし、国賊なのである。

 誤って「政治の心は、仏祖の心と、同一である」と言ってしまうのは、結局は、仏法が優れているので、誤って「政治の心は、仏祖の心と、同一である」と言ってしまうと、権力者が喜ぶからである。

 仏法は優れている、と知るべきである。

 たとえ政治の心が自ずから仏祖の心と同じに成っても、仏祖の身心が自ずから政治の身心と成った時は、政治の身心ではなく成る。

 誤って「政治の心と、仏祖の心は、同一なのである」と言ってしまう「禅師」を自称する者などの似非(えせ)僧侶は、心の行き方、様子を全く知らないのである。

 まして、仏祖の心を夢にも見た事が無いのである!

 梵天、帝釈天、人の王、龍王、鬼神王などは各々、三界の果報に執着する事なかれ。

 早く出家して戒を受けて、諸々の仏祖の仏道を修行するべきである。

 「曠大劫」、「広大な時間」の仏に成れる原因と成るであろう。

 見なさい!

 もし維摩が出家していたら、在家者の修行者の維摩よりも優れている出家者の維摩を見る事ができたであろう。

 今日では、わずかに、須菩提(スブーティ)舎利子(シャーリプトラ)、文殊菩薩、弥勒菩薩などを見られるだけであり、未だ半分も維摩は見られない。

 まして、三、四、五の維摩は見られない!

 もし三、四、五の維摩が見られないし、知られなければ、一人の維摩も未だ見られないし、知られないし、保持し任せられないのである。

 一人の維摩も未だ保持し任せられなければ、仏の維摩も見られないし、仏の維摩を見られなければ、須菩提(スブーティ)の維摩、舎利子(シャーリプトラ)の維摩、文殊菩薩の維摩、弥勒菩薩の維摩なども未だいないのである。

 まして、山や河や大地の維摩、草木や瓦礫の維摩、風や雨や水や火の維摩、過去と現在と未来の維摩などもいないのである!

 維摩には未だ、これらの光明や功徳が見えないのは、出家しなかったからなのである。

 もし維摩が出家していたら、これらの功徳が有ったのである。

 唐の時代と、宋の時代の「禅師」を自称する者などの似非(えせ)僧侶は、これらの主旨に到達できず、(みだ)りに維摩を挙げて、誤って「維摩の所作は正しい」と思ってしまったり、誤って「維摩の言葉は正しい」と言ってしまったりする。

 これらの輩は、憐れむべきである。釈迦牟尼仏の言葉による教えを知らないし、仏法に暗いのである。

 また、あまつさえ、誤って「維摩の言葉と釈迦牟尼仏の言葉は同一である」と思ってしまったり言ってしまったりする輩が多い。

 これらの輩もまた、未だ仏法を知らないし、「祖師の言葉」や「祖師の仏道」を知らないし、維摩をも知らないし測る事ができないのである。

 彼らは、誤って「維摩は沈黙して無言で諸々の菩薩に示したが、如来、釈迦牟尼仏が無言で人々の(ため)に教えたのと同一なのである」と言ってしまう。

 このように誤って言ってしまう者は、大いに仏法を知らないし、仏道を学び修行する力量が無いと言える。

 如来、釈迦牟尼仏の言葉による教えは、既に他の者と異なるし、無言による教えもまた他の諸々の(たぐい)の者と異なる。

 そのため、如来、釈迦牟尼仏の一つの沈黙による教えと、維摩の一つの沈黙による教えは、「似ている」と比べて論じる事すらできないのである。

 誤って「維摩と釈迦牟尼仏の言葉で説いた教えは異なっていても、沈黙による教えは同一であろう」と推測して妄想してしまう輩の力量を探ると、「仏に近い人」とする事もできないのである。

 悲しむべきである。

 彼らには、未だ色形や音声による見聞きが無いのである。

 まして、色形や音声を超越している光明も無いのである!

 まして、「沈黙の中の(真の)沈黙を学ぶべきである」とすらも知らないし、「沈黙の中の(真の)沈黙が有る」とすらも聞く事ができないのである。

 諸々の(たぐい)の者同士の動静ですら異なる。

 どうして、釈迦牟尼仏と、諸々の(たぐい)の者は、同一である、同一ではない、と比べて論じる事ができるであろうか? いいえ!

 仏祖の奥義の学に参入できない輩は、このような誤った事を言ってしまうのである。

 また、邪悪な人の多くは、誤って「言動は仮の『法』、『物』なのであり、沈黙や不動は真実なのである」と思ってしまう。

 この言葉もまた仏法ではない。

 梵天(ブラフマー)自在天(シヴァ)などのバラモンの経典ヴェーダの教えを伝え聞いた輩が誤って思考した物なのである。

 どうして、仏法が動静に関わるであろうか? いいえ!

 仏道には、動静が有るのか? 動静が無いのか? 仏法は動静と(つな)がっているのか? 動静によって(つな)がれているのか? と明確に詳細に学に参入するべきである。

 今の後進の者は怠る事なかれ。


 千二百四十四年現在の宋の時代の中国を見ると、仏祖の大いなる仏道の学に参入している仲間は、断絶しているようである。

 二、三人もいない。

 誤って「維摩は正しくて一つ沈黙した。今の、一つ沈黙しない者達は維摩よりも劣っている」と思ってしまっている輩しかいない。

 さらに仏法の活路が無いのである。

 また、誤って「維摩が一つ沈黙したのは、釈迦牟尼仏が一つ沈黙したのと、同一なのである」と思ってしまっている輩しかいない。

 さらに分別の光明が無いのである。

 これらを誤って思ってしまったり言ってしまったりする輩は全て、未だかつて仏法を見聞きできた事による学への参入が無いと言える。

 誤って「大国の宋の時代の中国の人の言葉であるので、仏法なのであろう」と思う事なかれ。

 その道理は明らめやすいであろう。



 「正業」、「正しい行い」とは「僧業」、「僧の務め」なのである。

 経典の似非(えせ)学者は知る事ができない。


 「僧業」、「僧の務め」とは、「雲堂」、「僧堂」の中での鍛錬なのであるし、

仏殿の中での(仏への)礼拝なのであるし、

「後架」、「僧堂の後ろに架け渡して造られている洗面所」の中での洗面なのである。


 合掌し低頭し安否を尋ね、焼香し、湯を沸かして手を洗浄するのが、「正業」、「正しい行い」なのである。


 頭で尾を換えるだけではなく、頭で頭を換えるのであるし、

心で心を換えるのであるし、

仏で仏を換えるのであるし、

「道」、「真理」、「言葉」で「道」、「真理」、「言葉」を換えるのである。


 これらが、「正業道支」なのである。


 誤って仏法を推測すると、眉毛(まゆげ)(ひげ)が落ち、面目が破顔するのである。



 「正命道支」とは、早朝に朝食を食べる事であるし、昼に昼食を食べる事である。


 寺や林にいて精魂を(ろう)するのである。


 曲木の椅子の座の上の仏祖が、(心を)直接的に指し示すのである。


 「趙州真際大師の寺は、僧が、二十人に満たない」のは、「正命」、「正しい生き方」が形成されて現されているのである。

 「薬山惟儼の寺は、僧が、十人に満たない」のは、「正命」、「正しい生き方」による命なのである。

 「汾陽善昭の寺は、僧が、七、八人である」のは、「正命」、「正しい生き方」がかかっている場所なのである。

 諸々の「邪命」、「邪悪な生き方」を離れているので。



 釈迦牟尼仏は、「諸々の声聞の段階の人々は、『正命』、『正しい生き方』を未だ得ていない」と言った。



 そのため、声聞の段階の人々が仏の教えに従って修行して証しているのは、未だ「正命」、「正しい生き方」ではないのである。


 それなのに、千二百四十四年頃の凡庸な人々は、誤って「声聞と菩薩を区別するべきではない。共通の身のこなし、戒律を用いるべきである」と言ってしまって、「小乗」、「矮小な乗り物」、「劣悪な段階」の声聞の法で、大乗の菩薩の法の身のこなし、()()いを判断してしまう。



 釈迦牟尼仏は、「声聞が戒を保持して守る事は、菩薩にとって戒を破ってしまう事に成ってしまう」と言った。



 そのため、声聞が「戒を保持して守っている」と思っている事は、もし菩薩が「戒を保持して守っている」と思っている事に比べて見れば、声聞は戒を皆、破ってしまっている事に成ってしまうのである。

 「戒」の他の、「定」と「慧」でもまた同様なのである。


 たとえ「生きものを殺さない」などの「相」、「見え方」が、自然に、声聞と菩薩で似ていても、必ず声聞と菩薩では別なのである。

 「天と地ほど、かけ離れている」という言葉でも言い表す事ができないのである。


 まして、仏から仏へ、祖師から祖師へ、正しく伝えている主旨と、諸々の声聞の主旨は、異なる!


 「正命」、「正しい生き方」だけではなく、「清浄命」が有る。


 仏祖の学に参入する事だけが、「正命」、「正しい生き方」なのである。


 経典の似非(えせ)学者などの誤った見解を用いるべきではない。


 「(諸々の声聞の段階の人々は、)『正命』、『正しい生き方』を未だ得ていない」ので、本来の務めの生き方ではないのである。



 「正精進道支」とは、「通身」、「全身」を(えぐ)り出す旅なのであるし、

「通身」、「全身」を(えぐ)り出して、人の「面」を打つ事なのである。


 転倒して仏殿に騎乗して一周、二周、三、四、五周するので、「九、掛ける、九」を数えると(「八十一」ではなく)「八十二」に成る。


 くり返し重ねて、あなたに知らせれば、千万個なのである。


 頭を換えるのは十字に縦横無尽なのであるし、

顔を換えるのは縦横無尽に十字なのである。


 弟子は師の部屋に入室するのであるし、

師は堂に上るのである。


 望州亭と鳥石嶺で(まみ)えたのである。

 僧堂の前と仏殿の中で(まみ)えたのである。


 二つの鏡が相対(あいたい)して三枚の影が有る事を言うのである。



 「正念道支」は、自ら、だまされる事が八、九割なのである。


 「念から更に智慧が起こる」と学ぶ事は、父を捨てて逃げ去ってしまう事なのである。

 「念の中で智慧が起こる」と学ぶ事は、とても縛られてしまっている事なのである。


 誤って「念が無いのが『正念』、『正しい念』である」と言ってしまう者は、外道なのである。


 また、地水火風の精霊を「念」とするべきではない。

 「心、意、識」、「心、意識、理解」の転倒を「念」と呼ばない。


 正に、「あなたは、私の『皮肉骨髄』、『理解』を会得した」のが、「正念道支」なのである。



 「正定道支」とは、仏祖を脱ぎ落とす事なのであるし、

「正定」を脱ぎ落とす事なのである。


 「他是能挙」、「他者は、これを挙げる事ができる」のであるし、

頭を裂いて「(真理を嗅ぎ分ける)鼻の(あな)」となすのであるし、

「正法眼蔵」、「正しくものを見る眼」の中で優曇華をひねるのであるし、

優曇華の中に、百、千枚の迦葉がいて「破顔微笑」するのであるし、

手段を長く用いて来て、破れた木の柄杓(ひしゃく)に成っているのである。


 このため、六年、「落草して」、「山賊に成って」、一夜で華が花開いたのである。

 (

 釈迦牟尼仏は六年、山に入って、苦行した。

 「落草」は宋の時代の中国語で「山賊に成る」などを意味する。

 )


 劫火が激しく燃えて、大千世界は諸共に壊れて、他のものに従って去るのである。



 この三十七品菩提分法は、仏祖の「眼睛」、「見る眼」や、「(真理を嗅ぎ分ける)鼻の(あな)」や、「皮肉骨髄」、「理解」や、手足や、「面目」、「有様(ありよう)」なのである。


 仏祖という一枚を三十七品菩提分法として学に参入して来ている。


 けれども、千三百六十九品の「公案」、「修行者の手がかりとしての仏祖の言動」が形成されて現されているのであるし、「菩提分法」、「悟りに到達するための物を分けた物」なのである。

 (三十七、掛ける、三十七は、千三百六十九である。)


 坐禅して煩悩を断つべきであるし、(古い身心を)脱ぎ落とすべきである。



 正法眼蔵 三十七品菩提分法


 その時、千二百四十四年、越宇の吉峰精舎にいて僧達に示した。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ