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正法眼蔵 三昧王三昧

 突然に尽界を超越して、仏祖の家の中で大いなる尊い(たっと)い物は、結跏趺坐なのである。

 外道や「魔」、「仏敵」の仲間の頭を踏み飛ばして、仏祖の奥義の中の人に成る事は、結跏趺坐による物なのである。

 仏祖の究極の究極を超越するのは、結跏趺坐という唯一の物だけなのである。

 このため、仏祖は結跏趺坐を営んで、更に他の務めは無いのである。


 正に、知るべきである。

 坐禅による尽界と、他による尽界は、遥かに異なるのである。

 この道理を明らめて、仏祖の「発心、修行、菩提、涅槃」、「悟りを求める事を思い立って心する事、修行、覚、寂滅」をわきまえ受け入れるのである。


 坐禅している時は、尽界は縦であるのか? 横であるのか? と参入して究めるべきである。


 坐禅している時、坐禅は、どのようであるのか?

 「翻筋斗(もんどり)()っているのか?」、「空中で一回転しているのか?」。

 魚の様に活発であるのか?

 思量であるのか?

 「不思量であるのか?」、「今は思考できない思考であるのか?」。

 「作であるのか?」、「何かしているのか?」、「何か生じているのか?」。

 「無作であるのか?」、「何もしないのか?」、「何も生じないのか?」、「自然なままであるのか?」、「ありのままであるのか?」。

 坐禅の中で坐禅しているのか?

 身心の中で坐禅しているのか?

 坐禅の中、身心の中などを脱ぎ落として坐禅しているのか?

 これらのような千、万の無数の手段で参入して究めるべきなのである。


 身の結跏趺坐をするべきである。

 心の結跏趺坐をするべきである。

 (古い)身心を脱ぎ落とす結跏趺坐をするべきである。



 道元の亡き師である、古代の仏と等しい、五十祖の如浄は、「禅に参入するとは(古い)身心を脱ぎ落とす事なのであり、ひたすらに打ち坐って初めて得られる。焼香、礼拝、念仏、懺悔(ざんげ)の修行、経を()る事は不要である」と言った。



 (如浄は、)明らかに仏祖の「眼睛」、「見る眼」を(えぐ)り出して来ている。

 仏祖の「眼睛」、「見る眼」の中で打ち坐っている者は、七、八百年頃から今まで、如浄だけなのである。

 中国で如浄に肩を並べる事ができる者は少ない。

 打ち坐る事が仏法である事と、仏法とは打ち坐る事である事を明らめている者は(まれ)なのである。

 たとえ「打ち坐る事が仏法である」と理解して自分の物にしても、打ち坐る事を(真の意味で)打ち坐る事として知っている者は未だいない。

 まして、仏法を(真の意味で)仏法として保持し任せられている者はいない!

 そのため、心で打ち坐る事が有り、身で打ち坐る事とは同じではないし、

身で打ち坐る事が有り、心で打ち坐る事とは同じではないし、

ある、身心を脱ぎ落として打ち坐る事が有り、他の、身心を脱ぎ落として打ち坐る事とは同じではない。

 これらを既に会得した者は、仏祖の「修行と理解を結びつけた」のである。

 仏祖の「修行と理解を結びつけた」、「念、想、観」、「記憶、想像、観察」を保持し任せられるべきであるし、

仏祖の「修行と理解を結びつけた」、「心、意、識」、「心、意識、理解」に参入して究めるべきである。



 釈迦牟尼仏は、僧達に、「結跏趺坐すれば、身心は三昧を証する。

威厳と徳で人々は(うやうや)しく敬う。

太陽が世界を照らすような物なのである。

心を覆う眠気と怠惰を除く。

身が軽くて疲れない。

悟った心もまた軽くて素早い。

安らかに坐禅するのは、竜が、とぐろを巻くような物なのである。

結跏趺坐を描いた絵を見ると、魔王もまた驚き恐怖する。

まして、仏道を証して悟った人が安らかに坐禅して傾いたり動いたりしないのを見ると、魔王は驚き恐怖する!」と言った。



 そのため、結跏趺坐を描いている絵を見聞きするのを、魔王ですらなお驚き、憂い、恐れるのである。

 まして、真に結跏趺坐する功徳は測り知れないのである。

 このため、普通に打ち坐る事による幸福と功徳は無限なのである。



 釈迦牟尼仏は、僧達に、「このため、結跏趺坐するのである」と言った。



 また、次に、如来、釈迦牟尼仏は、諸々の弟子に、「まさに、このように坐るべきである。

外道の輩は、常に、つま先で立って、道を求めたり、常に、立って、道を求めたり、足を肩の上に乗せて、道を求めたりする。

このような狂った頑固な心は邪悪という海に沈没するし、形が安らかで穏やかではない。

このため、仏は弟子に結跏趺坐で()()ぐな身で坐禅する事を教えるのである。

なぜなら、()()ぐな身では、心を正しくしやすいからである。

その身を()()ぐにして坐禅すれば、心は怠惰ではなく成る。

心が端正に成り、一つの物事への集中が目の前に存在するように成る。

もし心が急いだり乱れたり、身が傾いたり動いたりしたら、これを収拾して正しい身心に帰らせる事ができる。

三昧を証したいと欲したり、三昧に入りたいと欲したりするならば、種々の急ぐ思いと、種々の散乱する思いを皆、(ことごと)く収拾するべきである。

このように、習い身につければ、三昧の王の三昧を証したり入ったりする」と教えた。



 明らかに、知る事ができる。

 結跏趺坐は、三昧の王の三昧に成るのであるし、三昧を証したり入ったりするように成るのである。


 一切の三昧は、この、王の三昧の眷属なのである。


 結跏趺坐とは、()()ぐな身なのであるし、

()()ぐな心なのであるし、

()()ぐな身心なのであるし、

()()ぐな仏祖なのであるし、

()()ぐな修行と証なのであるし、

()()ぐな頂上なのであるし、

()()ぐな命なのである。


 人間の「皮肉骨髄」、「理解」を結跏趺坐して、三昧の中の王の三昧を結跏趺坐するのである。


 釈迦牟尼仏は、常に結跏趺坐を保持し任せられていたし、

諸々の弟子にも結跏趺坐を正しく伝えたし、

人や天人にも結跏趺坐を教えたのである。


 過去七仏が正しく伝えている心の印とは、結跏趺坐なのである。


 釈迦牟尼仏は菩提樹の下で結跏趺坐して、五十小劫を経歴し、六十劫を経歴し、無量の劫を経歴した。

 または、二十一日、結跏趺坐した。

 または、何時間か結跏趺坐した。

 これが、「妙なる法輪を転じる事」、「妙なる法を説く事」なのである。

 これが、釈迦牟尼仏の一代の化の導きなのであり、欠けていないのである。(不足は無いのである。)

 これが、経なのである。

 仏が仏を見るのは、この時なのである。

 これが、全ての生者が仏に成る時なのである。



 二十八祖の達磨は、西のインドから中国へ来た最初から、蒿山の少室峰の少林寺で、壁に向かって結跏趺坐して坐禅している間に、九年を経歴した。

 それから、「頂上」や、「眼睛」、「見る眼」は、現在にまで中国に(あまね)く広まっている。

 二十八祖の達磨の「命」とは、結跏趺坐のみなのである。

 二十八祖の達磨が西のインドから中国へ来る前は、東の地の中国の生者は未だかつて結跏趺坐を知らなかった。

 「祖師西来」、「二十八祖の達磨が西のインドから中国へ来た」後、結跏趺坐を知ったのである。



 そのため、一生、全ての生、尾をとらえ頭をとらえて、寺や林を離れず、昼夜、ひたすらに結跏趺坐して坐禅して、他の務めは無いのが、三昧の王の三昧なのである。



 正法眼蔵 三昧王三昧


 その時、千二百四十四年、越宇の吉峰精舎にいて僧達に示した。

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