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正法眼蔵 如来全身

 その時、釈迦牟尼仏は、王舎城の北東の霊山に住んでいて、薬王菩薩摩訶薩に「薬王菩薩よ、至る所に、説いたり、読んだり、唱えたり、書いたり、経典が有ったりする所、全てに、『七宝』、『七種類の宝』による塔を建てて、極めて高く広く荘厳に飾らせるべきである。

必ずしも『舎利』、『如来の遺骨』を置く必要は無い。

なぜなら、この(塔の)中に既に如来の全身が有るからである。

この塔に、一切の、華や、香や、『瓔珞』、『宝玉などを(ひも)(つな)いだ首飾りや腕輪といった飾り』や、『繒蓋』、『絹の天蓋』や、『幢幡』という(はた)や、『妓楽』、『妓女の奏でる音楽』や、『歌頌』、『徳をほめたたえる歌』を捧げて、(うやうや)しく敬い、尊重し、ほめたたえるべきである。

もし人が、この塔を見る事ができ得て礼拝し捧げものを捧げれば、皆、『無上普遍正覚に近づけた』と知るべきである」と言った。



 経典とは、「説いたり、読んだり、唱えたり、書いたりする物」なのである。

 経典とは、実の相なのである。


 「『七宝』、『七種類の宝』による塔を建てる」とは、実の相を「塔」と言っているのである。


 「極めて高く広く飾らせるべきである」の「高く広く」の量とは、必ず、実の相の量なのである。


 「この(塔の)中に既に如来の全身が有る」とは、「経典は如来の全身である」という事なのである。


 そのため、「説いたり、読んだり、唱えたり、書いたりする事など」は、「如来の全身」なのである。


「一切の、華や、香や、『瓔珞』、『宝玉などを(ひも)(つな)いだ首飾りや腕輪といった飾り』や、絹の天蓋や、『幢幡』という(はた)や、妓女の奏でる音楽や、徳をほめたたえる歌を捧げて、(うやうや)しく敬い、尊重し、ほめたたえるべきである」

 または、天の華や、天の香や、天の絹の天蓋などを捧げるべきである。

 これらは皆、実の相なのである。

 または、人の中で上等な華や、上等な香や、上等な衣服などを捧げるべきである。

 これらは皆、実の相なのである。


 「捧げものを捧げて、(うやうや)しく敬う」のは、実の相なのである。


 「塔を建てる」べきである。


 「必ずしも『舎利』、『如来の遺骨』を置く必要は無い」と言っているので、「経典は、如来の『舎利』、『遺骨』であるし、如来の全身である」と知る事ができる。


 「経典は、如来の全身である」とは、正しく、仏の(くち)から出た黄金の言葉なのである。


 仏の(くち)から出た黄金の言葉を見聞きするよりも優れた大いなる功徳は無いのである。

 急いで功徳を積み重ねるべきである。


「もし人が、この塔を礼拝し捧げものを捧げれば、皆、『無上普遍正覚に近づけた』と知るべきである」

 「この塔を見た」時、誠心誠意で「この塔を礼拝し捧げものを捧げる」べきである。

 この塔を礼拝し捧げものを捧げれば、皆、無上普遍正覚に近づけるであろう。


 「(無上普遍正覚に)近づく」とは、(無上普遍正覚が)来たり去ったりして近く成るわけではない。

 「皆、無上普遍正覚に近づいた」と言っているのである。


 今、私達が経典を受け取って保持したり、読んだり、唱えたり、解説したり、書き写したりするのを見るのは、「この塔を見る事ができ得た」事に成るのである。

 喜ぶべきである。

 「皆、無上普遍正覚に近づけた」のである。


 そのため、経典は如来の全身なのである。

 経典を礼拝するのは、如来を礼拝した事に成るのである。

 経典に出会うのは、如来に(まみ)えた事に成るのである。

 経典は如来の「舎利」、「遺骨」なのである。


 このため、「舎利」、「如来の遺骨」は経なのである。

 たとえ「経典は『舎利』、『如来の遺骨』である」と知っていても、「『舎利』、『如来の遺骨』は経典である」と知らなければ、未だ仏道ではないのである。

 今の「諸法実相」、「全てのものの実の相」は経典なのである。

 人の間、天上、海中、虚空、この世、他の世界は皆、実の相なのであるし、経典なのであるし、「舎利」、「如来の遺骨」なのである。

 「舎利」、「如来の遺骨」を受け取って保持したり、読んだり、唱えたり、解説したり、書き写したりして悟りを開くべきである。

 これは、経典によって、悟りを開く事に成るのである。


 古代の仏の「舎利」、「遺骨」が有るし、

今の仏の「舎利」、「遺骨」が有るし、

独覚の「舎利」、「遺骨」が有るし、

転輪聖王の「舎利」、「遺骨」が有るし、

獅子(ライオン)の「舎利」、「遺骨」が有るし、(仏を獅子に例える事が有る。)

木の仏像の「舎利」、「遺骨」が有るし、

絵の仏の「舎利」、「遺骨」が有るし、

人の「舎利」、「遺骨」が有る。


 中国の諸代の仏祖の中には、生きている時に「舎利」、「遺骨」を出現させた仏祖もいるし、火葬の後で「舎利」、「遺骨」を生じた仏祖も多くいるが、これらの「舎利」、「仏祖の遺骨」は皆、経典なのである。



 「法華経」の「如来寿量品」で、釈迦牟尼仏は、集まっている者達に、「我本行菩薩道、所成寿命、今猶未尽、復倍上数」、「私(、釈迦牟尼仏)は(もと)より菩薩の道を(おこな)っていて、成している所の寿命は、今なお未だ尽きないし、また前述の数の倍である」と言った。



 八斛四斗の量の「舎利」、「釈迦牟尼仏の遺骨」はなお仏の寿命なのである。

 「本行菩薩道」、「(もと)より菩薩の道を(おこな)っている」寿命は、三千大千世界だけではなく、多いであろう。

 これが如来の全身なのであるし、経典なのである。



 「法華経」の「提婆達多品」で、智積菩薩は、「私(、智積菩薩)が、釈迦如来(、釈迦牟尼仏)を見たら、(釈迦牟尼仏は、)無量の劫において、難行苦行して功徳を積み重ねて、菩薩の道を求めて未だかつて止めて休息しない。

三千大千世界を観たら、菩薩が身の命を捨てた場所ではない場所は芥子(からし)の種ほども無い。

全ての生者の(ため)なのである。

そうした後で、菩薩の道の成就を得たのである」と言った。



 測り知る事ができる。

 この三千大千世界は、一つの真心なのであるし、一つの虚空なのであるし、如来の全身なのである。


 (如来、釈迦牟尼仏が身の命を、)捨てた、未だ捨てていない、に関わるべきではない。


 「舎利」、「仏の遺骨」は、仏の前、仏の後、ではないし、仏と(同時に)並べる、ではない。


 「無量の劫の、難行苦行」は、仏の(はら)の生活の様子なのであるし、仏の「皮肉骨髄」、「理解」なのである。


 既に「未だかつて止めて休息しない」と言っている。

 仏に至っても、ますます精進なのである。

 大千世界を化して導いてもなお精進するのである。



 如来の全身の生活の様子とは、このようなのである。



 正法眼蔵 如来全身


 その時、千二百四十四年、越州の吉田県の吉峰精舎にいて僧達に示した。

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