正法眼蔵 祖師西来意
香厳寺の、襲燈大師と呼ばれる香厳の智閑は、大潙禅師と呼ばれる潙山霊祐の仏法を嗣いだ。
香厳の智閑は、僧達に示して、「人が千尺の切り立った崖の樹に上るような物である。
口で樹の枝をくわえて、脚で樹を踏まず、手で樹の枝をつかまない。
突然、樹の下に人がいて、『祖師西来意、達磨が西のインドから中国へ来た意図とは、どういった物であろうか?』と質問して来る。
この時、もし口を開いて他人に答えたら、身の命を喪失する。
もし他人に答えなければ、他人が質問した心意気に背いてしまう。
この時、どうすれば良いのか? 言ってみなさい」と言った。
(一尺は約三十センチメートル。)
その時、虎頭の照という長老がいて、前に進み出て、「お願いします、和尚様、香厳の智閑様。樹に上っている時は質問せず、樹に上っていない時に質問してください。どうでしょうか?」と言った。
香厳の智閑は、「ハハ」と大笑いした。
この話を、多くの人々が推測して、ひねっているが、「道」、「真理」を会得した人は稀なのである。
恐らくは、全ての人々は呆然としてしまっているようである。
けれども、「不思量」、「今は思考できない思考」をひねって来て思量し、
「非思量」、「思考できるであろうか等と思考しないで、とにかく思考する事」、「できるか心配せずに、とにかく行う事」をひねって来て思量すると、
自然に、香厳の智閑と同一の座布団の上で、こつこつと坐禅する鍛錬が有るであろう。
既に香厳の智閑と同一の座布団の上で、こつこつと坐禅すれば、香厳の智閑が口を開く以前に、この話に参入して詳しく見ているはずである。
香厳の智閑の「眼睛」、「見る眼」を(良い意味で)盗んで、この話に参入して詳しく見るだけではない。
釈迦牟尼仏の「正法眼蔵」、「正しくものを見る眼」をひねり出して、この話を見破っているはずである。
「人が千尺の切り立った崖の樹に上るような物である」
この言葉に静かに参入して究めるべきである。
何を「人」と言っているのか?
「寺の円柱でなければ、木の杭である」と言うべきではない。
仏祖の面々が「破顔微笑」であっても、自己や他者が見える事を誤るべきではない。
「人が樹に上る」場所は、尽大地ではなく、「百尺の竿の先」、「極致」ではなく、「千尺の切り立った崖」なのである。
たとえ脱ぎ落とし去っても、「千尺の切り立った崖」の中なのである。
落ちる時が有るし、上る時が有る。
「人が千尺の切り立った崖の中の樹に上るような物である」と言っているので、「上る時が有る」と知るべきである。
そのため、向上もまた「千尺」なのであるし、後退もまた「千尺」なのであるし、
左もまた「千尺」なのであるし、右もまた「千尺」なのであるし、
この中もまた「千尺」なのであるし、あの中もまた「千尺」なのであるし、
「人のような物である」のもまた「千尺」なのであるし、「樹に上る」のもまた「千尺」なのである。
従来の「千尺」とは、このような物なのである。
「千尺」の量とは、どのくらいであるのか?
「古くからの鏡」の量のような物なのであるし、「炉」の量のような物なのであるし、僧の墓である「無縫塔」の量のような物なのである。
「口で樹の枝をくわえる」
「口」とは、どういった物であるのか?
たとえ「口」の全ての広さや、全ての「口」を知らなくても、「樹の枝」から「枝」へ尋ねて行って、葉を選び取って行って、「口」が存在する場所を知るべきである。
「樹の枝」をとらえて、ひねって、「口」を作る事が有る。
このため、全ての「口」が「枝」なのであるし、全ての「枝」が「口」なのである。
「通身」、「全身」が「口」なのであるし、「通口」、「口全体」が「身」なのである。
「樹、自らが樹を踏む」ので、「脚で樹を踏まない」と言っているのである。
「脚、自らが脚を踏む」ような物なのである。
「枝、自らが枝をつかむ」ので、「手で樹の枝をつかまない」と言っているのである。
「手、自らが手をつかむ」ような物なのである。
けれども、「かかと」ですらなお進歩や後退が有るし、
「手」ですらなお「『拳』を作る」事や、「『拳』を開く」事が有る。
人々は「虚空に掛かっている」と思う。
けれども、「虚空に掛かっている」事は、「樹の枝をくわえる」ような物であろうか?
「突然、樹の下に人がいて、『祖師西来意、達磨が西のインドから中国へ来た意図とは、どういった物であろうか?』と質問して来る」
「突然、樹の下に人がいる」とは、「樹の中に人がいる」と言うような物なのであるし、「人が樹である」ような物なのである。
そのため、「突然、人の下に人がいて、質問して来る」ような物なのである。
このため、「樹が樹に質問する」のであるし、
「人が人に質問する」のであるし、
「樹を挙げて質問を挙げる」のであるし、
「『祖師西来意』、『達磨が西のインドから中国へ来た意図』を挙げて『祖師西来意』、『達磨が西のインドから中国へ来た意図』を質問する」のである。
質問者もまた「口で樹の枝をくわえて質問して来る」のである。
「口で樹の枝をくわえ」なければ、「質問する」事ができないのであるし、「口の中に満ちている音声」が無いのであるし、「言葉に満ちている口」が無いのである。
「祖師西来意」、「達磨が西のインドから中国へ来た意図」を質問する時は、「祖師西来意」、「達磨が西のインドから中国へ来た意図」によって質問するのである。
「もし口を開いて他人に答えたら、身の命を喪失する」
「もし口を開いて他人に答えたら」という言葉に親しむべきである。
「『口を開かないで他人に答える』事も有り得る」と聞こえる。
「もし口を開かないで他人に答えたら、身の命を喪失しない」のである。
たとえ「口を開く」事や「口を開かない」事が有っても、「口で樹の枝をくわえる」事を妨げる事はできない。
開閉は必ずしも「口の全て」ではない。「口」には開閉も有るのである。
そのため、「樹の枝をくわえる」事は「全ての口」の日常なのである。
開閉は「口」を妨げる事はできない。
「口を開いて他人に答える」とは、「樹の枝を開いて他人に答える」事を言うのか? 「『祖師西来意』、『達磨が西のインドから中国へ来た意図』を開いて他人に答える」事を言うのか?
もし「『祖師西来意』、『達磨が西のインドから中国へ来た意図』を開いて他人に答え」なければ、「『祖師西来意』、『達磨が西のインドから中国へ来た意図』を答える」事ではないのである。
既に「他人に答える」事ではないので、「身の命を保全する」のであるし、「身の命を喪失する」とは言えない。
先に「身の命を喪失」すれば、「他人に答える」事は有り得ない。
けれども、香厳の智閑の心は「他人に答える」事を辞さないので、恐らくは、「身の命を喪失する」のみなのである。
知るべきである。
「他人に答えない時は、身の命を保護する」のであるし、「突然、他人に答える時は、身を翻して命を活かす」のである。
測り知る事ができる。
人々の「口の中に満ちているもの」は「言葉」なのである。
「他人に答える」べきであるし、
「自分に答える」べきであるし、
「他人に質問する」べきである。
これが、「口で言葉をくわえる」事なのである。
「口で言葉をくわえる」事を「口で樹の枝をくわえる」と言っているのである。
もし「他人に答える時」は、「口の上に更に単一の口を開く」のである。
「他人に答えない」のは、「他人が質問した心意気に背いてしまう」が、「自分が質問した心意気には背かない」のである。
そのため、知るべきである。
「『祖師西来意』、『達磨が西のインドから中国へ来た意図』を答える」一切の全ての仏祖は皆、「樹に上って、口で樹の枝をくわえている時」に「答えて来る」のである。
「『祖師西来意』、『達磨が西のインドから中国へ来た意図』を質問して来る」一切の全ての仏祖は皆、「樹に上って、口で樹の枝をくわえている時」に「質問して来る」のである。
明覚大師と呼ばれる雪竇重顕は、「『樹に上って言う』のは簡単である。
『樹の下で言う』のは難しい。
老僧である私、雪竇重顕は『樹に上る』。
一つの質問を持って来なさい」と言った。
「一つの質問を持って来なさい」と言うが、たとえ力を尽くして来ても、「質問」は来るのが遅いので、「答え」よりも後に「質問」が来る事が残念である。
遍く古今の、錐の先が使い古されて丸く成る様に円熟した長老に質問する。
「香厳の智閑は、『ハハ』と大笑いした」が、「樹に上って言った」のであろうか?
「樹の下で言った」のであろうか?
「『祖師西来意』、『達磨が西のインドから中国へ来た意図』を答えた」のか?
「『祖師西来意』、『達磨が西のインドから中国へ来た意図』を答えていない」のか?
試しに言ってみなさい。
正法眼蔵 祖師西来意
その時、千二百四十四年、越宇の奥深くの山の中にいて示した。




