正法眼蔵 密語
諸仏が護ろうと念頭に置いている大いなる仏道を「公案」、「修行者の手がかりとしての祖師の言葉」として形成して現すと「あなたもまた、そうである。私も、またそうである。善く自ら護って保持しなさい」であり、今も証に適っている。
「尚書」を務める役人が、ある時、捧げ物をおくって、弘覚大師と呼ばれる三十九祖の雲居道膺に、「『釈迦牟尼仏には密語が有り、初祖の迦葉は隠さなかった』(と言われています)。釈迦牟尼仏の『密語』とは、どういった物ですか?」と質問した。
雲居道膺は、「尚書」と呼んだ。
「尚書」を務める役人は、「はい」と返事した。
雲居道膺は、「理解できましたか?」と言った。
「尚書」を務める役人は、「理解できません」と言った。
雲居道膺は、「もし、あなたが理解できなければ、それが釈迦牟尼仏の『密語』なのです。もし、あなたが理解できれば、それが初祖の迦葉は隠さなかった事なのです」と言った。
三十九祖の雲居道膺は、三十四祖の青原の行思から五代目の正統な法の子孫として形成されて現されて、天人と人の師であり、尽十方界で大いなる善知識を持つ者である。
雲居道膺は、情の有る者を化して導いたし、情の無いものも化して導いた。
三十九祖の雲居道膺は、過去七仏から四十六人目の正統な仏として、仏祖のために法を説いた。
(雲居道膺が昔、住んでいた時、)三峰庵の中に、天人が食べ物を捧げた。
雲居道膺は仏法を伝えられて「道」、「真理」を会得した時から食べ物を捧げられる境界を超越した(ため、天人には雲居道膺が見えなく成ったので、天人は食べ物を捧げる事ができなく成った)。
「釈迦牟尼仏には『密語』(、『意味が込められた言葉』、『意味が有る言葉』)が有り、初祖の迦葉は隠さなかった」という言葉は、雲居道膺は四十六人目の仏として、伝えられていたが、雲居道膺は四十六人目の仏の本来の「面目」、「有様」として、人によって得たわけではないし、
外から得たわけではないし、
本から得ていたわけではないし、
未だかつて新しい物ではない。
雲居道膺の話で「密語」(、「意味が有る言葉」)が形成されて現されたが、釈迦牟尼仏にだけ「密語」が有るわけではなく、諸々の仏祖には皆、「密語」が有る。
釈迦牟尼仏は既に仏であるので必ず「密語」が有る。
釈迦牟尼仏に「密語」が有れば、初祖の迦葉は必ず隠さない。
百、千の無数の釈迦牟尼仏がいれば、同じく百、千の無数の迦葉がいる道理を忘れないで学に参入するべきである。
学に参入するには、「一回で会得しよう」と思わず、百回でも千回でも何回でも明確に詳細に鍛錬して、硬い物を切ろうと営むように学に参入するべきである。
「『密語』(、『意味が有る言葉』)を話す人がいれば、すぐに会得できる」と思うべきではない。
雲居道膺は既に仏であるので「密語」(、「意味が有る言葉」)が備わっていて、「密語」を隠さない迦葉に相当する人がいる。
「雲居道膺が『尚書』と呼び、『尚書』を務める役人が『はい』と返事したのが、『密語』である」として学に参入する事なかれ。
雲居道膺は、「尚書」を務める役人に示して、「もし、あなたが理解できなければ、それが釈迦牟尼仏の『密語』である。もし、あなたが理解できれば、それが初祖の迦葉は隠さなかった事なのである」と言った。
この言葉について必ず長い時間、道をわきまえる鍛錬をする志を立てるべきである。
「もし、あなたが理解できなければ、それが釈迦牟尼仏の『密語』である」とは、呆然としているのを「理解できていない」と言っているわけではないし、知らないのを「理解できていない」と言っているわけではない。
「もし、あなたが理解できなければ、それが釈迦牟尼仏の『密語』である」と言う道理の学に静かに参入するべきである。
鍛錬して道をわきまえるべきである。
さらに、また、「もし、あなたが理解できれば、それが初祖の迦葉は隠さなかった事なのである」と言っているが、「今、既に理解できている」というわけではない。
仏法の学に参入するには多くの道が有る。
仏法の学に参入する中には、仏法を理解できたり仏法を理解できなかったりする「関棙」、「ぜんまい」、「からくり仕掛け」、「原動力」が有る。
正しい師に出会わなければ、有るとすらも知らず、いたずらに無駄に、見聞きできない眼と耳によって、「『密語』、『秘密の言葉』、『秘密の教え』が有る」と誤解してしまう。
あなたが理解できるので、初祖の迦葉は隠さなかった事に成るというわけではない。
「もし、あなたが理解できなければ、それも初祖の迦葉は隠さなかった事なのである」という事も有るのである。
「『初祖の迦葉が隠さなかった事』は、誰でも見聞きして理解できる」と学ぶべきではない。
既に「隠されていない」のである。
「隠されている」時に試みに参入して究めるべきである。
そのため、「自分が知らない境地が『密語』、『秘密の言葉』、『秘密の教え』である」と学に参入して来たわけではないのである。
仏法を理解できない時も、わずかではあるが、ある意味、「密語」(、「意味が有る言葉」)なのである。
釈迦牟尼仏には必ず「密語」が有るし、「密語」には必ず釈迦牟尼仏(の教え)が有る。
しかし、正しい師の教えを聴いて理解していない輩は、たとえ「獅子の座」、「仏の座」の上にいても、この道理を夢にも未だ見ていないのである。
似非僧侶は、妄りに誤って「『釈迦牟尼仏には密語が有る』とは、霊山で百万の者達の前で(無言で)『拈華瞬目』した事なのである。
なぜなら、言葉で仏が説いた教えは浅はかだからである。
言葉とは、名前や『相』、『外見』だからである。
無言で『拈華瞬目』した時が、『密語』を施し設けた時なのである。
百万の者達は理解できなかった。
百万の者達が理解できなかったために『密語』、『秘密の言葉』、『秘密の教え』と成ったのである。
『初祖の迦葉は隠さなかった』とは、釈迦牟尼仏の『拈華瞬目』を、初祖の迦葉は以前から知っていたかのように『破顔微笑』したので、初祖の迦葉によって『隠さなかった』と言うのである。
『密語』、『秘密の言葉』、『秘密の教え』は仏法の真の秘訣である。
釈迦牟尼仏の『密語』、『秘密の言葉』、『秘密の教え』を祖師達は代々伝えて来ているのである」と言ってしまう。
似非僧侶の誤った言葉を聞いて「真実である」と思ってしまった輩は、稲、麻、竹、葦の様に多数いて、中国全土の九つの州で林の様に群れをなしている。
憐れむべきである。
仏祖の仏道が廃れる事は、このような事を元にして起こる。
明らかな見る眼を持つ人は、正に、一つ一つ見破るべきである。
もし釈迦牟尼仏の言葉を浅はかとするならば、無言の「拈華瞬目」も浅はかと成るはずである。
釈迦牟尼仏の言葉とは「名前や『相』、『外見』である」とする人は、仏法を学んだ人ではない。
(釈迦牟尼仏の言葉には意味が有る。)
「言葉とは、名前や『相』、『外見』である」と知っても、釈迦牟尼仏は名前や「相」、「外見」にとらわれていない事を未だ知らないのである。
似非僧侶は、凡人の情を未だ脱ぎ落としていないのである。
仏祖は、身心で通じた所の物は皆、脱ぎ落としていて、仏法を説き、言葉で仏法を説き、法輪を転じる。
仏祖の言葉を見聞きして利益を得る者は多い。
仏法を信じて行う愚鈍な僧も、「仏法」、「真理」を知って行う利発な僧も、仏祖がいる所では化の導きを受けるし、仏祖がいない所でも(言葉によって)化の導きを受けられるのである。
「百万の者達」は、「拈華瞬目」を「拈華瞬目」として見聞きした!
「百万の者達」は、初祖の迦葉と肩を並べていたし、釈迦牟尼仏と同じ時代に生きていた。
「百万の者達」は、自分以外の「百万の者達」と、同じく参入したし、同じ時代に悟りを求める事を思い立って心した。
仏道は同一であるし、(この世という仏の)国土も同一である。
有知の知によって仏法を見聞きするのであるし、無知の知によって仏法を見聞きするのである。
初めて一人の仏を見てから、進んで、恒河沙のように無数の仏を見るのである。
各々の仏の会には共に「百万の者達」がいるはずである。
諸仏の各々が共に「拈華瞬目」を開演するのが同じ時であるのを見聞きするべきである。
「見る眼」は暗くないし、「聞く耳」は聡明で利発である。
心に「見る眼」が有るし、身に「見る眼」が有る。
心に「聞く耳」が有るし、身に「聞く耳」が有る。
初祖の迦葉の「破顔微笑」をあなたは、どのように理解したのか? 試しに言ってみなさい。
あなた達、似非僧侶の言う通りであれば、初祖の迦葉の「破顔微笑」も「密語」、「秘密の言葉」、「秘密の教え」と言えてしまう。
けれども、似非僧侶は初祖の迦葉の「破顔微笑」を(「密語」ではなく)「隠さなかった」と言うので、最悪の愚かさを重ねているのである。
釈迦牟尼仏は、後に、「私には『正法眼蔵涅槃妙心』、『正しくものを見る眼と寂滅した妙なる心』が有り、初祖の迦葉に付属する」と言った。
この釈迦牟尼仏の言葉は、言葉であったのか? 無言であったのか?
もし釈迦牟尼仏が言葉を嫌い(無言の)「拈華瞬目」を愛していれば、後にも「拈華瞬目」したであろう。
初祖の迦葉は、釈迦牟尼仏の言葉によって、仏法を理解していた!
釈迦牟尼仏の会の「百万の者達」は、釈迦牟尼仏の言葉によって、仏法を聴いて理解していた!
似非僧侶の誤った話を用いるべきではない。
釈迦牟尼仏には、「密語」(、「意味が有る言葉」)が有るし、
「密行」(、「意味が有る行い」)が有るし、
「密証」(、「意味が有る証」)が有る。
愚かな人は誤って「『密語』などの『密』とは、『他人は知らず、自分は知り、知っている人がいて、知らない人がいる』という意味である」と思ってしまう。
このように誤って思ってしまったり言ってしまったりする人は、西のインドから東の地の中国までで、古今で、未だ仏道の学に参入していないのである。
もし言う通りであれば、在俗者や出家者の、学が無い者には「密」、「秘密」、「謎」は多く、広く学んでいる者には「密」、「秘密」、「謎」は少ないはずである。
広く学び良く知っている僧には「密」、「秘密」、「謎」、「神秘」は有り得ないのか? いいえ!
まして、誤って「(神通力の)天眼通や天耳通や、菩薩の『法眼』や『法耳』や、仏の眼や耳などを備えた時は、『密語』、『秘密の言葉』や『密意』、『秘密の思い』は全く有り得ない」と言えてしまう。
仏法の「密語」や、「密意」(、「意味が有る思い」)や、「密行」などは、このような道理の物ではない。
人に出会った時、正に「密語」(、「意味が有る言葉」)を聞き、「密語」を解く。
自己を知る時、「密行」(、「意味が有る行い」)を知るのである。
(自己を知った時、行いに意味が有った事を知るのである。)
まして、仏祖は良く前記の「密意」、「密語」をわきまえ究める。
知るべきである。
仏祖である時、正に「密語」、「密行」を競って形成して現すのである。
「密語」などの「密」は、親密の道理なのであるし、
絶え間が無いし、
仏祖を覆っているし、
あなたを覆っているし、自己を覆っているし、
行いを覆っているし、
時代を覆っているし、
功績を覆っているし、
「密」(、「意味」)を覆っている。
「密語」(、「意味が有る言葉」)が「密人」(、「意味が有る人」)に出会うのは、仏の眼でも見えないのである。
「密行」(、「意味が有る行い」)は自分や他人が知る所ではない。
「密我」は独り知る事が可能である。
「密他(者)」の各々は理解できない者である。
「『密語』などの『密』は、かえって逆に、あなたの近くに存在する」ので、全てのものは「密」に依っているし、一つのものや半端なものも「密」に依っている。
このような道理について明らかに鍛錬して学に参入するべきである。
仏祖が人々の為に仏法を説き、人々が仏法をわきまえて受け入れる、所々や時に、必ず、「意味が有る例え」で例える者が、仏から仏へ、祖師から祖師への正統な後継者である仏祖なのである。
今は「密時」(、「意味が有る時」)であるので、自己にも「密」なのであるし、
他人の自己にも「密」なのであるし、
仏祖にも「密」なのであるし、
人ではない者にも「密」なのである。
このため、「密」の頭の上に新たに「密」が有るのである。
このように、仏の教えに従って修行して証する人は、仏祖であるので、「仏祖密」(、「仏祖の意味」)を透過するのである。
であれば、「密」(、「意味」)を透過するのである。
四十九祖の雪竇智鑑は、僧達に示して、「『釈迦牟尼仏には密語が有り、初祖の迦葉は隠さなかった』。ある夜、雨が降り、華が散り落ちたが、花びらを流している水による華の香りが城下町に満ちた」と言った。
四十九祖の雪竇智鑑の「ある夜、雨が降り、華が散り落ちたが、花びらを流している水による華の香りが城下町に満ちた」という言葉は、「親密」を意味しているのである。
「ある夜、雨が降り、華が散り落ちたが、花びらを流している水による華の香りが城下町に満ちた」という例えによって、仏祖の「眼睛」、「見る眼」と「(真理を嗅ぎ分ける)鼻の孔」を点検して詳細に調べるべきである。
臨済義玄や徳山宣鑑では及ぶ事ができない。
「眼睛」、「見る眼」の中の「(真理を嗅ぎ分ける)鼻の孔」に参入して開くべきである。
「(聞く)耳」の「(真理を嗅ぎ分ける)鼻先」を先鋭化して聡明にさせるのである。
まして、「(聞く)耳」や「(真理を嗅ぎ分ける)鼻」や「眼睛」、「見る眼」の中は古くなく、新しくない「渾身」、「渾心」にさせる。
これを「華雨世界起」、「華が雨で散り落ちて世界が起こる」道理とする。
四十九祖の雪竇智鑑の「花びらを流している水による華の香りが城下町に満ちた」という言葉の意味は、「身を隠して(逆に)影は身を隠す前よりも露わと成る」なのである。
このようであるので、仏祖の家の中の日常では、「釈迦牟尼仏には密語が有り、初祖の迦葉は隠さなかった」という言葉に参入して究めて透過するのである。
釈迦牟尼仏を含む過去七仏や、諸仏は、このように、学に参入する。
釈迦牟尼仏と初祖の迦葉も、同じく、このように、わきまえて究めて来ている。
正法眼蔵 密語(意味が有る言葉)
その時、千二百四十三年、越州の吉田県の吉峰古精舎にいて僧達に示した。




