正法眼蔵 諸法実相
仏祖が形成して現すのは、(仏祖が)究め尽した実の相である。
実の相とは、「諸法」、「全てのもの」である。
「諸法」、「全てのもの」とは、
ありのままの相であるし、
ありのままの性質であるし、
ありのままの身であるし、
ありのままの心であるし、
ありのままの世界であるし、
ありのままの、雲と雨であるし、
ありのままの「行住坐臥」、「歩いて動く、止まる、座る、横たわる」であるし、
ありのままの、憂いと喜びや、動静であるし、
ありのままの、杖や、害虫を払うための毛がついた棒である払子であるし、
ありのままの、釈迦牟尼仏の「拈華瞬目」と、初祖の迦葉の「破顔微笑」であるし、
ありのままの、仏法を嗣ぐ事や、成仏を予言される「授記」であるし、
ありのままの、学への参入や、仏道をわきまえる事であるし、
ありのままの、春でも松は常緑であるという志を変えない操と、竹の強い節のような節操である。
「法華経」の「方便品」で、釈迦牟尼仏は、「『諸法』、『全てのもの』の実の相は、仏と仏だけが能く究め尽せる。
『諸法』、『全てのもの』とは、
ありのままの相、
ありのままの性質、
ありのままの実体、
ありのままの力、
ありのままの作用、
ありのままの原因、
ありのままの『縁』、『つながり』、
ありのままの結果、
ありのままの報い、
ありのままの『本末究竟等』、『最初から最後までの全てのものは究極的に唯一普遍である事』である」と言った。
如来、釈迦牟尼仏の言葉の「本末究竟等」、「最初から最後までの全てのものは究極的に唯一普遍である事」とは、「諸法」、「全てのもの」の実の相の自らの言葉であるし、
あなた自らの言葉であるし、
唯一普遍の学への参入である。学への参入は唯一普遍であるので。
仏と仏だけが能く究め尽せるのは、「諸法」、「全てのもの」の実の相である。
「諸法」、「全てのもの」の実の相は、仏と仏だけが能く究め尽せる。
「仏と仏だけ」とは、実の相であるし、「諸法」、「全てのもの」である。
「諸法」、「全てのもの」という言葉を聞いて、唯一であると参入するべきではないし、多数であると参入するべきではない。
「実の相」という言葉を聞いて、虚ではないと学ぶべきではないし、心の性質ではないと学ぶべきではない。
実とは「仏と仏だけ」であるし、相とは「仏と仏だけ」である。
「能く」、「可能である」のは、「仏と仏だけ」であるし、「究め尽せる」のは、「仏と仏だけ」である。
「諸法」、「全てのもの」とは、「仏と仏だけ」であるし、実の相とは、「仏と仏だけ」である。
「諸法」、「全てのもの」が、まさに「全てのもの」であるのを、「仏と仏だけ」であると言うし、
「諸法」、「全てのもの」が今まさに実の相であるのを、「仏と仏だけ」であると言う。
「諸法」、「全てのもの」が自然に「全てのもの」である、ありのままの相が有るし、ありのままの性質が有る。
実の相が、まさしく実の相である、ありのままの相が有るし、ありのままの性質が有る。
「仏と仏だけ」として「この世」に出現するのは、「諸法」、「全てのもの」の実の相を説明して理解して取る事であるし、行って理解して取る事であるし、証して理解して取る事である。
「諸法」、「全てのもの」の実の相を説明して理解して取る事とは、「能く究め尽せる」事なのである。
「究め尽せる」が、「能く」、「可能である」なのである。(究め尽せるが、あくまでも可能なのであり、実際に究め尽す必要が有る。)
最初と中間と最後ではないので、ありのままの相であるし、ありのままの性質である。
このため、「最初も中間も最後も善い」と言うのである。
「能く究め尽せる」のは、「諸法」、「全てのもの」の実の相なのである。
「諸法」、「全てのもの」の実の相とは、ありのままの相なのである。
ありのままの相とは、ありのままの性質を能く究め尽せる事なのである。
ありのままの性質とは、ありのままの実体を能く究め尽せる事なのである。
ありのままの実体とは、ありのままの力を能く究め尽せる事なのである。
ありのままの力とは、ありのままの作用を能く究め尽せる事なのである。
ありのままの作用とは、ありのままの原因を能く究め尽せる事なのである。
ありのままの原因とは、ありのままの「縁」、「つながり」を能く究め尽せる事なのである。
ありのままの「縁」、「つながり」とは、ありのままの結果を能く究め尽せる事なのである。
ありのままの結果とは、ありのままの報いを能く究め尽せる事なのである。
ありのままの報いとは、ありのままの「本末究竟等」、「最初から最後までの全てのものは究極的に唯一普遍である事」を能く究め尽せる事なのである。
「本末究竟等」、「最初から最後までの全てのものは究極的に唯一普遍である事」と言うのは、まさに形成されて現されている、ありのままなのである。
そのため、結果と成った結果は、原因と結果の結果ではなく成ると言えるので、原因と結果の結果は、結果と成った結果と成ると言える。
(原文は「果果の果は因果の果にあらす。このゆえに因果の果は、すなわち果果の果なるへし」。)
原因と結果の結果は、相や性質や実体や力を遮るので、「諸法」、「全てのもの」の相や性質や実体や力などは、どれだけ無量、無限でも実の相なのである。
結果と成った結果は、相や性質や実体や力を遮らないので、「諸法」、「全てのもの」の相や性質や実体や力などは共に、実の相なのである。
「諸法」、「全てのもの」の相や性質や実体や力などを、原因や、「縁」、「つながり」や、結果や、報いなどを遮るように一任する時、八、九割の言葉が有る。
「諸法」、「全てのもの」の相や性質や実体や力などを、原因や、「縁」、「つながり」や、結果や、報いなどを遮らないように一任する時、十全の言葉が有る。
ありのままの相とは、唯一の相ではない。
ありのままの相とは、唯一のありのままではない。
ありのままの相とは、無数、無限、言い表せない、測り知れない、ありのままなのである。
百、千といった量をありのままの量とするべきではない。
「諸法」、「全てのもの」という量をありのままの量とするべきである。
実の相という量をありのままの量とするべきである。
なぜなら、「『諸法』、『全てのもの』の実の相は、仏と仏だけが能く究め尽せる」からである。
「『諸法』、『全てのもの』の実の性質は、仏と仏だけが能く究め尽せる」からである。
「『諸法』、『全てのもの』の実の実体は、仏と仏だけが能く究め尽せる」からである。
「『諸法』、『全てのもの』の実の力は、仏と仏だけが能く究め尽せる」からである。
「『諸法』、『全てのもの』の実の作用は、仏と仏だけが能く究め尽せる」からである。
「『諸法』、『全てのもの』の実の原因は、仏と仏だけが能く究め尽せる」からである。
「『諸法』、『全てのもの』の実の『縁』、『つながり』は、仏と仏だけが能く究め尽せる」からである。
「『諸法』、『全てのもの』の実の結果は、仏と仏だけが能く究め尽せる」からである。
「『諸法』、『全てのもの』の実の報いは、仏と仏だけが能く究め尽せる」からである。
「『諸法』、『全てのもの』の実の『本末究竟等』、『最初から最後までの全てのものは究極的に唯一普遍である事』は、仏と仏だけが能く究め尽せる」からである。
このような道理が有るので、十方の仏土には「仏と仏だけ」であり、さらに一人前や半人前の「仏と仏だけ」なのである。
「だけ」と「と」とは、例えば、実体に実体を備え、相が相を証しているのである。また、性質を実体として性質を存在させるような物である。
このため、「法華経」の「方便品」で、釈迦牟尼仏は、「我及十方仏、乃能知是事」、「私と十方の仏は、能く、この事を知っている」と言った。
そのため、「仏と仏だけが能く究め尽せる」時と、「私と十方の仏は、能く、この事を知っている」時は、同じく、諸仏の面々の「有時」、「存在している、ある時」なのである。
もし「私、釈迦牟尼仏」が「十方の仏」と全くの同一人物であるか不一致の異なる存在であれば、どうして「私と十方の仏は」という言葉を形成させて現させるだろうか? 「私、釈迦牟尼仏」は「十方の仏」と一致する異なる存在である!
「ここ」に十方は無いので、十方は「ここ」と成るのである。
(原文は「這頭に十方なきかゆえに、十方は這頭なり」。)
このため、「実の相が『諸法』、『全てのもの』に見える」とは、春は華に入り、人は春に出会う、ような物であるし、
月は月を照らし、人は自己に出会う、ようなものである。
また、「人が水を見る」とは、同様に、奥底まで「見える」道理なのである。
このため、実の相が実の相の学に参入するのを「仏祖が仏祖の法を嗣ぐ」とする。
「仏祖が仏祖の法を嗣ぐ」とは、「諸法」、「全てのもの」が「全てのもの」に「授記する」、「成仏を予言する」のである。
「仏と仏だけ」が「仏と仏だけ」のために仏法を伝え、「仏と仏だけ」が「仏と仏だけ」のために仏法を嗣ぐのである。
このため、生と死が来たり去ったりするし、
「発心、修行、菩提、涅槃」、「心する事、修行、覚、寂滅」が有る。
「発心、修行、菩提、涅槃」、「心する事、修行、覚、寂滅」を挙げて、「生死が去ったり来たりするのは、真実の人の体である」のに参入して究めて受け取って、とらえたり放ったりする。
これを、命として華が開き実を結ぶし、「骨髄」、「理解」として初祖の迦葉や二祖の阿難陀がいる。
風や雨や、水や火のありのままの相は、「仏と仏だけが能く究め尽せる」のである。
青、黄、赤、白のありのままの性質は、「仏と仏だけが能く究め尽せる」のである。
「仏と仏だけが能く究め尽せる」実体と力によって、凡人の心を転じて聖者の心境に入る。
「仏と仏だけが能く究め尽せる」結果と報いによって、仏祖を超越する。
「仏と仏だけが能く究め尽せる」原因と「縁」、「つながり」によって、土を握って黄金と成す事が有る。
「仏と仏だけが能く究め尽せる」結果と報いによって、衣と共に仏法を伝える事が有る。
如来、釈迦牟尼仏は、「人々の為に、実の相の印を説く」と言った。
周知の事を言ったのである。
(原文は「いはゆるをいふへし」。)
人々の為に、実の相の印を行う。
人々の為に、実の性質の印を聴く。
人々の為に、実体の印を証する。
このように参入して究めるべきなのであるし、このように究め尽すべきなのである。
その主旨とは、例えば、「珠」、「碁石」が「碁盤」を走るような物であるし、「碁盤」が「珠」、「碁石」を走るような物である。
日月灯明仏は、「『諸法』、『全てのもの』の実の相の意義は、既に、あなた達の為に説いた」と言った。
この日月灯明仏の言葉の学に参入して、「仏祖は必ず実の相の意義を説く事を一大事としている」と参入して究めるべきである。
仏祖は、「眼耳鼻舌身意と色声香味触法と眼(識)耳(識)鼻(識)舌(識)身(識)意識」という「十八界」で共に、実の相の意義から説き始める。
身心を受けるより前、身心を捨てた後、身心を受けている時に、実の相や性質や実体や力などを説くのである。
実の相を究め尽さず、説かず、理解せず、(厳密には)理解できない物であるとしない者は、仏祖ではないし、「魔」、「仏敵」の仲間であるし、「畜生」、「動物的人間」である。
「法華経」の「法師品」で、釈迦牟尼仏は、「一切の菩薩の無上普遍正覚は皆、この(法華)経に属している。この(法華)経は、方便の門を開き、真の実の相を示す」と言った。
一切の菩薩とは、一切の諸仏である。
諸仏と菩薩は異なる者ではない。
諸仏や菩薩には、老いている、若い、は無い。
諸仏や菩薩には優劣が無い。
ある菩薩と別の菩薩は、二人ではないし、自分と他人ではない。
過去、現在、未来の各個とは無関係であるが、仏と成るのは、菩薩の道を行う事によるのが決まりなのである。
初めて心した時に仏と成るし、仏に成った妙覚地に成った時に仏と成る。
百、千、万、億の無数回、仏と成る菩薩もいる。
誤って「仏に成った後は、修行を止めて更に行う事は無い」と言ってしまう人は、未だ仏祖の仏道を知らない凡人である。
一切の菩薩とは、一切の諸仏の本の祖であるし、
一切の諸仏とは、一切の菩薩の本の師である。
たとえ諸仏の無上普遍正覚を、過去に修行して証しても、
現在に修行して証しても、
未来に修行して証しても、
身を受けるより前に修行して証しても、
心を受けた後に修行して証しても、
最初も中間も最後も共に、この法華経に属しているのである。
属するのも、属させられるのも、同じく、この法華経に属しているのである。
この法華経に属している時、この法華経の一切の菩薩を証しているのである。
経は情の有る者ではないし、経は情の無いものではない。
経は「有為」、「人為的に作られている事」、「生じたり滅んだりする変化する『この世』のもの」ではないし、
経は「無為」、「自然のままである事」、「人為的に作られていない事」、「消滅しない不変の絶対の真理」ではない。
けれども、菩薩を証し、人を証し、実の相を証し、この(法華)経を証する時、方便の門を開くのである。
方便の門は、仏という結果の無上の功徳なのである。
方便の門は、法に住んでいる、法の位である。
方便の門は、「この世の相は常に住んでいる」なのである。
方便の門は、一時の技量ではない。
方便の門は、尽十方界の学への参入なのである。
「諸法」、「全てのもの」の実の相をひねって学に参入するのである。
方便の門が現れて、尽十方界を覆っても、一切の菩薩でなければ、この境地に無い。
雪峰義存は、「尽大地は解脱の門である。人を引き寄せても入ってくれない」と言った。
そのため、知るべきである。
地の尽く、世界の尽くが、たとえ門であっても、出入りは簡単ではない。
出入りする個々は多くない。
人を引き寄せても入ってくれないし、出てくれない。
人を引き寄せないと入ってくれないし、出てくれない。
前進する者は誤る。
後退する者は停滞する。
どうすれば良いだろうか?
人を挙げて門に出入りさせようとすれば、いよいよ門と遠ざかってしまう。
門を挙げて人に入れると、出入りする可能性が有る。
「(法華経が、)方便の門を開く」とは、「(法華経が、)真の実の相を示す」事なのである。
「(法華経が、)真の実の相を示す」のは、時を覆っていて、最初も中間も最後も無いのである。
(原文は「示真実相は蓋時にして初中後際断なり」。)
方便の門を開く道理は、尽十方界に方便の門を開くのである。
尽十方界に方便の門を開く時、正しく尽十方界を見ると、未だかつて見た事が無い様子が有るのである。
尽十方界を一枚、二枚、三個、四個、ひねって来て「方便の門を開く事」と成らせるのである。
これによって、唯一普遍に「方便の門を開いた」と見えるが、多数の尽十方界は「方便の門を開いた」利益を少し得て形成されて現される「面目」、「有様」としている、と見えるのである。
このような「風流」、「有様」は、(法華)経に属している力による物なのである。
「真の実の相を示す」とは、「諸法」、「全てのもの」の実の相の言葉を尽界に広める事であるし、
尽界で仏道を成就する事であるし、
実の相が「諸法」、「全てのもの」である道理を尽くの人に理解させる事であるし、
尽くの「法」、「もの」で(実の相を)出現させる事である。
そのため、過去七仏から三十三祖の大鑑禅師までの四十人の仏祖の無上普遍正覚は皆、この(法華)経に属している。
この(法華)経に属しているし、この(法華)経も属している。
座布団と禅板の上の坐禅による無上普遍正覚は皆、この(法華)経に属している。
釈迦牟尼仏の「拈華瞬目」と初祖の迦葉の「破顔微笑」と、礼拝して髄を会得する事は共に皆、この(法華)経に属しているし、
この(法華)経の「同属」、「仲間」なのであるし、
「方便の門を開き、真の実の相を示す」事なのである。
それなのに、宋の時代の中国の杜撰な輩は、「落所」、「思考が落ち着き決着する所」を知らず、「宝の在処」を見ず、「実の相」という言葉を空虚な説のように誤って思ってしまい、さらに、老子や荘子の言葉を学んでしまう。
「老子や荘子の言葉は、仏祖の大いなる仏道と等しい」と誤って言ってしまう。
また、「『道教、儒教、仏教』という『三教』は一致する」と誤って言ってしまう。
あるいは、「『道教、儒教、仏教』という『三教』は三脚の器の三脚のような物であり、一つでも無ければ転覆してしまう」と誤って言ってしまう。
とても愚かであり、例える物が無いほどである。
「このように言ってしまう輩も仏法を聞いている」と許すべきではない。
なぜなら、仏法は西のインドを本としている。
釈迦牟尼仏は、八十年間も存命し、五十年間も法を説いて、盛んに人や天人を化して導いた。
釈迦牟尼仏は、一切の全ての生者を化して導き、皆、仏道に入れさせたのである。
釈迦牟尼仏から二十八祖の達磨まで、インドでは二十八人の祖師達が仏法を正しく伝えた。
釈迦牟尼仏から二十八祖の達磨まで、インドで、仏法は盛んであり、仏法は素晴らしく最も尊い物であるとされた。
釈迦牟尼仏から二十八祖の達磨まで、インドでは、諸々の外道や「天魔」、「魔」、「仏敵」は尽く降伏させられた。
釈迦牟尼仏から二十八祖の達磨まで、インドでは、仏祖と成った人や天人は数え切れないほどいた。
「道教と儒教を中国でたずねなければ、仏道だけでは不足が有る」とは未だ言わない。
もし必ず三教一致であるならば、仏法が出現した時、西のインドで道教と儒教も同時に出現したはずである。
仏法は、天上と天下で唯一単独で尊いのである。
釈迦牟尼仏の時や、釈迦牟尼仏から二十八祖の達磨までの時を思うべきであり、忘れて誤るべきではない。
「三教一致」という誤った説は矮小な似非僧侶の誤った説にも及ばない。
仏法を壊したい輩が「三教一致」という誤った説を唱えるのである。
「三教一致」という誤った説を言ってしまう輩ばかりが多いのである。
「三教一致」という誤った説を言ってしまう輩が、人や天人の導師と成る様相を現し、帝王の師匠と成ってしまっている。
宋の時代に中国で仏法が衰退しているのである。
道元の亡き師である、古代の仏と等しい、五十祖の如浄は、これらの事を深く戒めていた。
「三教一致」という誤った説を言ってしまう輩は、「二つの乗り物」の段階の人や外道の種のような者なのである。
「三教一致」という誤った説を言ってしまう類の輩は実の相が有る事すらも知らない状態で既に、二、三百年を経ているのである。
仏祖の正しい仏法の学に参入しても、「生と死のくり返しを離れ出るべきである」としか言えない。
また、どのように仏祖の正しい仏法の学に参入するべきかも知らない者が多い。
似非僧侶は「寺の主として寺に住む稽古をしている」としか思っていない。
祖師の仏道が廃れている事を憐れむべきである。
正しい道に適っている高徳の長老の僧は大いに嘆いている。
このような輩が言い出す言葉を聞くべきではない。
憐れむべきである。
圜悟克勤は、「生死が去ったり来たりするのは、真実の人の体である」と言った。
この言葉をひねって挙げて、自らを知り、仏法を考えるべきである。
長沙景岑は、「尽十方界は、真実の人の体である。
尽十方界は、自己の光明の中に在る」と言った。
宋の時代の中国の諸方の老人の僧などは、長沙景岑が言ったような言葉の学に参入するべきである道理をなお知らず、まして、学に参入しない!
宋の時代の中国の諸方の老人の僧などは、もし長沙景岑が言ったような言葉を挙げて来られると、ただ赤面して無言に成るしかないのである。
道元の亡き師である、古代の仏と等しい、五十祖の如浄は、「宋の時代の、諸方の老人の僧は、古代を照らしてみる事が無く、今を照らしてみる事が無く、仏法の道理が未だかつて無いのである。『尽十方界』などの言葉をこの人たちに挙げてみても何も知らない! 彼らの中には(『尽十方界』などの言葉を)未だかつて聴いた事が無いような人もいる」と言った。
この如浄の言葉を聞いた後、諸方の老人の僧に質問してみたら、「尽十方界」などの言葉を真に聴いて来ている人は少なかった。
諸方の老人の僧が空虚な説を説いて聖職を汚している事を憐れむべきである。
応庵曇華は、ある時、徳徽という僧に、誤って「もし(仏道を)会得しやすく求めるならば、一日中、心や思いが動くのに、ただ向かい合いなさい。
(そして、)大いなる虚空のように会得するのは不可能である、と直ぐに了解しなさい。
虚空には形状が無いし、表裏が無く唯一普遍絶対である。
(そのため、)知覚と知覚の対象は双方共に無く成るし、奥深さと理解は共に無く成るし、過去、現在、未来も無く成る。
このような境地に到達した人を、学ぶべき物が絶えて無い、『無為』、『自然』な、『閑静』、『寂静』な仏道者と言う」と言ってしまった。
このような物が応庵曇華が奥底まで力を尽くして言い得た言葉なのである。
これでは、ただ影を背負って休息を知らないような物である。
「表裏が無く唯一普遍絶対である」時は、仏法は有り得ないのか?
(応庵曇華が言っている)「表裏」とは何なのか?
応庵曇華は、「仏祖が『虚空には形状が有る』と言った」としてしまっている。
応庵曇華は、何を「虚空である」としているのか?
思うに、応庵曇華は、未だ虚空を知らないし、
虚空を「見ていない」、「理解していない」し、
虚空を「とらえていない」、「理解していない」し、
虚空を「打っていない」。
(応庵曇華は)「心や思いが動く」と言ってしまっているが、心は未だ動かない道理が有る。
どうして一日の中で心が動く事が有るだろうか?
一日の中に心が来て入る事は有り得ない。
一つの心の中に一日は来ない。
(原文は「十二心中に十二時きたらす」。)
まして、どうして心が動く事が有るだろうか?
「思いが動く」とは、どういった事か?
思いは動いたり動かなかったりするのか?
思いは、動く、動かない、ではないのか?
「動く」とは、どういった事か?
「動かない」とは、どういった事か?
(応庵曇華は)何を「思い」と呼んでいるのか?
思いは一日の中に存在するのか?
思いの中に一日が存在するのか?
思いが一日の中に無いし、思いの中に一日が無い場合が有り得るのか?
(応庵曇華は)「一日中ただ向かい合えば、(仏道を)会得しやすいだろう」と言っているが、何を会得しやすいのだろうか?
もしかして(応庵曇華は)「(一日中ただ向かい合えば、)仏祖の仏道を会得しやすい」と言っているのか?
そうであるとしたら、仏道は、会得しやすい、会得し難い、ではないので、三十四祖の南嶽の懐譲も江西の三十五祖の馬祖道一も長い間、師に従って仏道をわきまえたのである。
(応庵曇華は)「会得するのは不可能である、と直ぐに了解しなさい」と言ってしまっているが、(応庵曇華は)仏祖の仏道を未だ夢にも見ていないのである。
(応庵曇華は、)このような力量で、どうして「(仏道を)会得しやすく求める」事が可能だろうか? いいえ!
「(応庵曇華は)未だ仏祖の大いなる仏道に参入して究めて来ていない」と知る事ができる。
もし仏法が応庵曇華の言うような代物であったら、どうして今日にまで至るだろうか?
応庵曇華ですらなお、このようなのである。
千二百四十三年現在、諸々の山の寺の老人の僧の中に、応庵曇華のような者を求めても、長い時間をかけても、出会えない。
穴が開くほど見ても、応庵曇華と等しい老人の僧を見る事ができないのである。
応庵曇華の近くの人々の多くは「応庵曇華が仏法を知り及んでいる」と誤って認めてしまっているが、「応庵曇華が仏法を知り及んでいる」と許す事はできない。
応庵曇華は僧の中の後進の者であり、普通であると言える。
なぜなら、応庵曇華は人を知る事ができる気力が有るからである。
今の輩は人を知る事ができない。自らを知らないので。
応庵曇華は、仏道には未到達であるが、仏道を学び修行していた。
今の老人の僧は、仏道を学び修行していない。
応庵曇華は、善い言葉を聞いても、耳に入らず、耳で見ず、眼に入らず、眼で聞かないだけなのである。
応庵曇華は、昔は、このようであったが、今は、自ら、悟りが存在するかもしれない。
宋の時代の中国の諸々の山の寺の老人の僧などは、応庵曇華の内外を見ず、応庵曇華の言葉と様子を全て知覚の対象としていないのである。
このような輩は、仏祖が言った「実の相」という言葉が、仏祖の言葉であるのか、仏祖の言葉ではないのか、すらも知る事ができない。
このため、九百年頃や千年頃から、老人の僧といった杜撰な輩は全て、実の相を「見ない」、「理解しない」で話してしまって来ているのである。
道元の亡き師である、古代の仏と等しい、天童山の五十祖の如浄は、ある夜、一丈四方の部屋で説法して、「如浄が今夜、子牛のようにいたら、黄金の釈迦牟尼仏が実の相をひねってくれた。
買おうと求めたが、価値が決められない!
孤雲の上でホトトギスが一声、鳴いた」と言った。
このように、仏道で優れている高徳の長老の僧は実の相を言うのである。
仏法を知らず仏道の学に参入していない人は実の相を言わないのである。
この如浄の言葉が言われた時は、千二百二十六年の春、午前一時に成ろうとする夜間で、上方で太鼓の音が三回、聞こえた。
私、道元が、坐具を取り、袈裟を着て、僧堂の前門から出ると、「入室」、「師への仏法の質問」の札が掛けられていた。
僧達に従って法堂に至った。
法堂の西の壁のそばを経て、寂光堂の西の階段を上った。
寂光堂の西の壁の前を過ぎて、大光明蔵の西の階段を上った。
大光明蔵が一丈四方の部屋であった。
西の「屏風」、「仕切り」の南から、香炉を乗せた台の近くに至って、焼香して礼拝した。
「入室した僧達が、ここに列を成しているだろう」と思ったが、一人も見えなかった。
妙高台には簾が下ろされていた。
かすかに如浄の説法の言葉が聞こえる。
その時、西川の祖坤という「維那」を務めている僧が来て、同じく焼香して礼拝し終わって、(一緒に、)妙高台を密かに覗いてみると、僧達で満員であった。
その時、如浄が説法を始めたので、密かに僧達の後ろに立って聴いた。
如浄は、大梅山の法常禅師が山に住んでいた時の話を挙げた。
法常禅師が蓮の葉を衣にし松の実を食べていた逸話の所で、僧達の多くは涙を流した。
如浄は、霊山での釈迦牟尼仏の安居の話を詳細に挙げた。聞いている者の多くが涙を流した。
如浄は、「天童山の、この寺も安居が近く有る。
今は春であり、寒くないし、暑くないし、坐禅に好ましい時である。
兄弟達よ、どうして坐禅しないのか?」と説法してから、「如浄が今夜、子牛のようにいたら、黄金の釈迦牟尼仏が実の相をひねってくれた。
買おうと求めたが、価値が決められない!
孤雲の上でホトトギスが一声、鳴いた」と詩で言った。
如浄は、言い終わると、右手で椅子の右の辺りを一回、打って、「入室しなさい」、「私に仏法を質問しなさい」と言った。
如浄は、「ホトトギスが鳴くと、山の竹は裂ける」と言った。
このような如浄の言葉が有った。この他には特別な話は無かった。
多くの僧がいたが、如浄の言葉を批評せず、如浄を畏敬するばかりであった。
このような「入室」、「師への仏法の質問」の仕方は、諸方で未だ無い。
如浄だけが、このような仕方を行った。
如浄が説法する時は、如浄の椅子と仕切りの周りに僧達は立った。
そのまま立ちながら、質問が有る僧は質問し、質問が終わった人は部屋を出た。
残る人達は、立ったまま、質問者の様子や如浄の様子と問答を共に皆、見聞きするのである。
このような仕方は未だに他で、諸方で、無い。
他の老人の僧には、この仕方はでき得ないだろう。
他の仕方での質問では、他人より先に質問しようとしてしまう。
この仕方での質問では、他人よりも後に質問しようとする。
(他人の問答を見聞きするためにである。)
このような、人心の道理の違いを忘れないべきである。
この時、千二百二十六年から千二百四十三年までの十八年間は、速やかに風と光の中に過ぎ去っていった。
天童山の寺から、この山の寺まで、いくつの山と河を超えたか覚えていないが、実の相についての如浄の美しい不思議な言葉を身心と「骨髄」、「理解」に深く記憶して来ている。
あの時の如浄の話は、他の多くの僧達も忘れられないだろう、と思う。
あの夜は、三日月がわずかに楼閣からのぞき、ホトトギスがしきりに鳴いていたが、静かな夜であった。
宗一大師と呼ばれる玄沙師備は、集まりの時に(座に上っていて)ツバメの鳴き声を聞いたので、「実の相を深く話しているし、仏法の要を善く説いている」と言ってから、座を下った。
ある僧が、後に、重ねて教えを請い、「私は理解できませんでした」と言った。
玄沙師備は、「去りなさい。他の人は、あなた(の『理解できませんでした』という言葉)を信じない」と言った。
「実の相を深く話している」とは、「ツバメが独り実の相を深く話している」と玄沙師備の言葉は聞こえてしまうだろう。
けれども、そうではないのである。
玄沙師備は集まりの時にツバメの鳴き声を聞いたが、ツバメが実の相を深く話したわけではないし、玄沙師備も実の相を深く話したわけではない。
ツバメも玄沙師備も実の相を深く話したわけではないが、玄沙師備がツバメの鳴き声を聞いたのは、「実の相を深く話している」事と成るのである。
この話に参入して究めるべきである。
玄沙師備の集まりが有り、
玄沙師備がツバメの鳴き声を聞く事が有り、
玄沙師備の「実の相を深く話しているし、仏法の要を善く説いている」という言葉が有り、
玄沙師備が座を下る事が有り、
ある僧が後に重ねて教えを請い「私は理解できなかった」と言う事が有り、
玄沙師備は「去りなさい。他の人は、あなた(の『理解できなかった』という言葉)を信じない」と言う事が有った。
「私は理解できなかった」という言葉は、必ずしも実の相の教えを重ねて請う事には成らなかった。
けれども、「私は理解できなかった」という言葉は、仏祖の命であるし、「正法眼蔵」、「正しくものを見る眼」の「骨髄」、「理解」である。
知るべきである。
この僧が、たとえ重ねて教えを請い「私は理解できた」と言おうが、「私は説く事ができた」と言おうが、玄沙師備は必ず「去りなさい。他の人は、あなた(の『理解できた』または『説く事ができた』という言葉)を信じない」と、この僧の為に言うべきなのである。
この僧が理解しているのを「理解していない」として重ねて教えを請うので玄沙師備は「去りなさい。他の人は、あなた(の『理解できなかった』という言葉)を信じない」と言ったわけではないのである。
実に、この僧ではない「ありふれた人」であっても、全てのものが実の相であっても、仏祖の命が正直に通じている時と場所では、実の相の学への参入は、このように形成されて現されるのである。
青原の行思の系譜の集まりの下で、実の相の学への参入は、既に形成されて現されている。
知るべきである。
実の相は、仏法の正統な代々の伝承が正しい事なのである。
「諸法」、「全てのもの」は、仏と仏だけが参入して究め尽せるもの、仏と仏だけが能く究め尽せるものなのである。
「仏と仏だけが能く究め尽せる、『諸法』、『全てのもの』の実の相」とは、ありのままの仏の相なのである。
正法眼蔵 諸法実相
その時、千二百四十三年、日本の越州の吉峰寺にいて僧達に示した。




