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正法眼蔵 空華

 二十八祖の達磨は、「一華開五葉、結果自然成」、「一つの華が、五つの花びらを開き、実を結ぶのは、自然に成る」と言った。



 「華開」、「華が開く」時と、華の光明と色と相の、学に参入するべきである。

 一つの華は五つの花びらが重なっているのであり、五つの花びらが開くのは一つの華なのである。

 一つの華の道理が通じるのは、「吾本来此土、伝法救迷情」、「私(、達磨)が、(もと)より、この土地に来たのは、法を伝えて心が迷っている人を救うためである」からである。

 光と色を尋ねるのは、達磨の学への参入であるべきなのである。


 「結果任儞結果」、「実を結ぶのは、あなたが実を結ぶのに任せる」。

 「実を結ぶのは、あなたが実を結ぶのに任せる」とは、「自然に成る」のを言うのである。

 「自然に成る」とは、「修因感果」、「修行という原因は悟りを感得するという結果をもたらす事」、「修行をすれば悟りを得られる事」なのである。

 公共の原因が有るし、公共の結果が有る。

 公共の因果を修行し、公共の因果を感じるのである。

 「自」とは、自己である。

 自己とは、必ず、あなたの事なのである。

 あなたの自己とは、四大(元素)と、「色受想行識」という「五蘊」を言うのである。

 「使得無位真人」、「位の無い真の人を使う事ができ得る」ので、私ではないし、誰でもない。

 このため、必要ではないのを「自」と言うのである。

 「然」とは、聞き入れる事なのである。

 「自然に成る」とは、「華が開き実を結ぶ」時なのであるし、「法を伝えて心が迷っている人を救う」時なのである。

 例えば、優鉢羅華が開く時と場所は、火の時、火の中であるような物である。

 摩擦で発火させた火といった火は皆、優鉢羅華が一面に開く時と場所なのである。

 もし優鉢羅華が開く時と場所でなければ、一つの小さな火が生じ出る事は無いし、一つの小さな火が活きる事は無いのである。

 知るべきである。

 一つの小さな火には百、千の無数の花の優鉢羅華が有って、(くう)に一面に開くし、地に一面に開くのであるし、過去に一面に開くし、現在に一面に開くのである。

 火が現れる時と場所を見聞きするのは、優鉢羅華を見聞きする事に成るのである。

 優鉢羅華の時と場所を見過ごさず、見聞きするべきなのである。



 古代の先人は、「優鉢羅華は火の中で開く」と言った。



 そのため、優鉢羅華は必ず火の中で一面に開くのである。

 火の中を知ろうと思うならば、優鉢羅華が一面に開く場所なのである。

 人や天人の見解に執着して、火の中を習わない事なかれ。

 激しく疑うのであれば、水の中で蓮華が生じる事も激しく疑うべきである。

 樹の枝に諸々の華が有る事をも激しく疑うべきである。

 また、激しく疑うべきなのは、「器世間」、「器としての世界」が「安立」、「安心立命」、「心が安らぎ不動である事」も激しく疑うべきである。

 けれども、激しく疑う事をしない物である。

 仏祖でなければ、「華開世界起」、「華が開いて世界が起こる事」を知らない。

 華が開くとは、「前三三後三三」なのである。

 (「前三三後三三」は意味が諸説有る。)

 この数を十分に備えるために、森羅万象を集めて多くするのである。

 この道理を到来させて、春と秋をはかり知るべきである。

 春と秋だけに華や果実が有るわけではない。

 「有時」、「存在している、ある時」は必ず華や果実が有るのである。

 華と果実は共に時を保持し任している。

 時は共に華や果実を保持し任している。

 このため、百草には皆、華と果実が有るし、諸々の樹は皆、華と果実が有る。

 金、銀、銅、鉄、珊瑚(サンゴ)、水晶という樹などには皆、華と果実が有る。

 地水火風と(くう)という樹には皆、華と果実が有る。

 人という樹には華が有るし、人という華には華が有る。

 「枯木」には華が有る。



 このようである中で、釈迦牟尼仏が話した、虚空華が有るのである。



 しかし、学の無い輩は、空華の彩り、光、葉、華が、どのようであるか知らず、わずかに「空華」と聞くだけなのである。

 知るべきである。

 仏道には、空華についての話が有る。

 外道は、空華についての話を知らないし、まして、悟らない!

 ただし、諸々の仏祖だけが、空華と地華が開く事と散り落ちる事を知っているし、世界華などが開く事と散り落ちる事を知っているし、「空華や地華や世界華などは経典である」と知っている。

 これが、仏を学ぶ時の基準なのである。

 仏祖が乗っているのは空華であるので、仏の世界と諸仏の仏法は空華なのである。


 それなのに、如来、釈迦牟尼仏の「眼がかすんでいる人が空中に華を見るような物である」という言葉を伝え聞いて、凡人の愚者は、誤って「『眼がかすんでいる』と言うのは、『生者の転倒している見る眼』を言うのである」と思ってしまう。

 凡人の愚者は、誤って「病んでいる見る眼は既に転倒しているので、清浄な虚空に空華を見聞きするのである」と思ってしまう。

 凡人の愚者は、この誤った言葉の理解に執着するので、誤って「三界、『地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上』という『六道』、仏の有無は皆、『存在しないものを存在している』と誤って(みだ)りに見解を抱いている」と思ってしまう。

 凡人の愚者は、誤って「もし(みだ)りに迷っている見る眼のかすみが()めば、空華は見えなく成る。このため、『(くう)には(もと)は華は無い』と言っているのである」と思ってしまう。

 憐れむべきである。

 このような輩は、如来、釈迦牟尼仏の言葉の、空華の時の全てを知らないのである。

 諸仏の言葉の、「眼がかすんでいる人が空中に華を見るような物である」道理は、未だ凡人や外道の所見とは異なるのである。


 諸仏、如来は、空華を修行して、「衣座室」、「『柔和と忍辱の心』という『如来の衣』、『一切の全てのものは(くう)である』という『如来の座』、『一切の全ての生者の中の大いなる慈悲の心』という『如来の室』」を得るのであるし、「道」、「真理」を会得したり修行の結果を得たりするのである。

 釈迦牟尼仏が「拈華瞬目」、「華をひねったり、目を(またた)かせたりした事」は皆、「眼がかすんでいる人が空中に華を見るような物である事」が形成されて現されている「公案」、「修行者の手がかりとしての仏祖の言動」なのである。

 「正法眼蔵涅槃妙心」、「正しくものを見る眼を持ち寂滅した妙なる心を持つ事」が今に正しく伝えられて断絶していないのを「眼がかすんでいる人が空中に華を見るような物である」と言っているのである。

 「菩提」、「覚」や、「涅槃」、「寂滅」や、「法身」、「真の実体」や、「自性」、「自体の本来の性質」などは、空華が開いている五つの花びらのうち二、三枚の花びらなのである。



 釈迦牟尼仏は、「また、眼がかすんでいる人が空中に華を見るような物である。もし眼がかすむ病気が除かれれば、華は空において滅ぶ」と言った。



 この釈迦牟尼仏の言葉を明らめる事ができた似非(えせ)学者は未だいない。


 (くう)を知らないので空華を知らないし、空華を知らないので「眼がかすんでいる人」を知らないし、見ないし、「眼がかすんでいる人」と出会わないし、「眼がかすんでいる人」ではないのである。

 「眼がかすんでいる人」と(まみ)えて、空華をも知るべきであるし、空華をも見るべきである。

 空華を見た後に、「華が空において滅ぶ」のをも見るべきなのである。


 誤って「一度、空華が()めば更に存在する事ができない」と思ってしまうのは、「小乗」、「矮小な乗り物」、「劣悪な段階」の見解なのである。


 空華が見えない時は、どのようであるのだろうか?

 誤って「空華は捨てられたのだろう」とだけ思ってしまい、空華の(のち)の大事さを知らないし、空華による「種熟脱」、「心に種を()き熟させ解脱させる事」を知らない物なのである。


 凡人の学者の多くは、「陽の気が住んで(潜在して)いる場所が空であろう」と思っているし、

「太陽と月と星々がかかっている場所が空であろう」と思っているので、

「例えば、空華とは清浄な大気の中の浮雲のようであって、風に吹かれて飛び散る花びらが東西に飛んだり昇降したりするような彩色が出来るのを空華と言う」と思っている。


 特に、「造ったり造られたりする四大(元素)や、『器世間』、『器としての世界』の『諸法』、『全てのもの』や、『本覚』、『(もと)からの覚』や、『本性』、『(もと)からの性質』などを空華と言う」とは知らないのである。

 また、「『諸法』、『全てのもの』によって、造る四大(元素)などが存在する」と知らないし、

「『諸法』、『全てのもの』によって、『器世間』、『器としての世界』は法の位に住んでいる」と知らない。

 「『器世間』、『器としての世界』によって、『諸法』、『全てのもの』は存在する」とだけ知見するのである。

 「眼がかすんでいるので、空華が存在する」としか知らず、

「空華が眼のかすみを存在させている」道理を知らないのである。


 知るべきである。

 釈迦牟尼仏の言葉の「眼がかすんでいる人」とは、「本覚の人」、「(もと)から悟っている人」であるし、

仏に成った妙覚の人であるし、

諸仏である人であるし、

三界の人であるし、

仏の向上の人である。


 愚かにも「眼のかすみを(みだ)りな物である」として、誤って「眼のかすみによるものの他に、真のものが存在する」と学ぶ事なかれ。

 このような見解は狭量な見解なのである。

 もし(「眼のかすみによる華」を含む)花々が(みだ)りなものであれば、「(『眼のかすみによる華』を含む)花々は(みだ)りなものである」と誤って執着したり、とらわれる事は皆、(みだ)りなものと成るのである。

 共に(みだ)りであるようならば、道理は成立できない。

 成立する道理が無いので、「眼のかすみによる華」は(みだ)りなものではないのである。


 悟りが「眼のかすみ」による物である時には、悟りの全てのものは共に、「眼のかすみ」による荘厳によるものなのである。

 迷いが「眼のかすみ」による物である時には、迷いの全てのものは共に、「眼のかすみ」による荘厳によるものなのである。


 暫定的に言うと、「眼のかすみ」が普遍であれば、空華も普遍なのである。

 「眼のかすみ」が「無生」、「生じる事の超越」であれば、空華も「無生」、「生じる事の超越」なのである。

 全てのものが実の相であれば、「眼のかすみによる華」も実の相なのである。

 過去、現在、未来を論じるべきではない。

 最初とも中間とも最後とも無関係である。

 生じたり滅んだりする事によって(さえぎ)られないので、()く生じたり滅んだりする事を生じさせたり滅ぼさせたりさせるのである。

 空中に生じ、空中に滅ぶ。

 「眼のかすみ」の中に生じ、「眼のかすみ」の中に滅ぶ。

 華の中に生じ、華の中に滅ぶ。

 また、諸々の他の時と場所でもまた同様である。


 空華を学ぶには、まさに、諸々の種類が有る。

 「かすんでいる眼」による所見が有るし、

明らかに見通す「見る眼」による所見が有るし、

仏の眼による所見が有るし、

祖師の眼による所見が有るし、

仏道の眼による所見が有るし、

盲目による所見が有るし、

三千年による所見が有るし、

八百年による所見が有るし、

百劫による所見が有るし、

無量の劫による所見が有る。

 これらは共に皆、空華を見るが、(くう)は既に色々であるし、華もまた重ね重ね色々である。


 まさに知るべきである。

 (くう)は一つの草であり、(くう)には必ず華が咲くのは、「百草」、「森羅万象」に華が咲くのと同様である。

 この道理を言うために、如来、釈迦牟尼仏は「(くう)には(もと)は華は無い」と言っているのである。

 「(もと)は華は無い」が、今、華が存在するのは、桃も(スモモ)も同様であるし、梅も(ヤナギ)も同様である。

 「梅が、昨日は華が無かったが、春は華が有る」と言うような物である。

 時が到来すれば華が咲く。

 華の時なのであるし、華が到来するのである。


 華が到来する時が(みだ)りである事は未だ無い。

 梅と(ヤナギ)の華は必ず梅と(ヤナギ)に咲く。

 華を見て梅と(ヤナギ)を知るし、梅と(ヤナギ)を見て華をわきまえる。

 桃と(スモモ)の華が梅と(ヤナギ)に咲く事は未だ無い。

 桃と(スモモ)の華は桃と(スモモ)に咲き、梅と(ヤナギ)の華は梅と(ヤナギ)に咲くのである。

 空華が(くう)に咲くのもまた同様である。

 さらに、空華は他の草に咲かないし、他の樹に咲かないのである。

 空華の諸々の色を見て(くう)の果実が無限であるのを測量するのである。

 空華が咲くのと散り落ちるのを見て空華の春と秋を学ぶべきなのである。

 空華の春と、他の華の春は、同様である。

 空華が色々であるように、春も多様である。

 このため、古今の春と秋は存在するのである。


 「空華は実ではない。他の華は実である」と学ぶ者は、仏教を(正しく)見聞きしていない者なのである。

 「(くう)(もと)は華は無い」という言葉を聞いて、「(もと)から存在しない空華が今、存在する」と学ぶ者は、思考が浅はかであるし学が無いのである。

 進歩して、深慮遠謀が有るべきである。



 祖師は、「華もまた、かつて生じない」と言った。



 この言葉の主旨が形成されて現されると、例えば、華もまた、かつて生じないし、華もまた、かつて滅びない、なのである。

 華もまた、かつて華ではないし、(くう)もまた、かつて(くう)ではない、道理なのである。


 華の時の前後を乱雑にして、有無についての無益な議論をするべきではない。


 華は必ず諸々の色に染まるような物である。

 しかし、諸々の色は必ずしも華だけに限らない。

 諸々の時にもまた青、黄、赤、白などの色が有るのである。

 春は華を引くし、華は春を引く物なのである。



 張拙秀才は、石霜慶諸の在俗者の弟子である。

 張拙秀才は、悟道についての詩を作って、「光明寂照遍河沙」、「光明は静かに照らして恒河沙のような無数のものに遍在する」などと言った。



 光明は、新たに「僧堂、仏殿、廚庫、三門」を形成させて現している。

 恒河沙のような無数のものでの遍在は、光明が形成されて現されているのであるし、形成されて現されているものの光明なのである。



 また、張拙秀才は、悟道についての詩で、「凡人、聖者、霊を含有する全てのものは共に、私の家にいる」と言った。



 凡人や、賢者や聖者がいないわけではない。

 しかし、これによって、凡人や、賢者や聖者をそしる事なかれ。



 また、張拙秀才は、悟道についての詩で、「一念不生全体現」、「一つの思いは、生じる事を超越していて、全体が現れる」と言った。



 「念念一一」、「思いと思いは、それぞれなのである」し、生じる事を超越しているのであり、全体が全て現れるのである。

 このため、「一つの思いは、生じる事を超越している」と言っているのである。



 また、張拙秀才は、悟道についての詩で、「『眼耳鼻舌身意』という『六根』がわずかに動けば、雲によって(さえぎ)られる」と言った。



 六根は、たとえ眼耳鼻舌身意であっても、必ずしも六ではなく、「前後三三」なのである。


 「動く」のは、須弥山のようにであるし、

大地のようにであるし、

「眼耳鼻舌身意」という「六根」のようにであるし、

わずかに動くようになのである。


 「動く」のは既に須弥山のようにであるので、動かないのもまた須弥山のようになのである。

 例えば、雲を成すし、水を成すのである。



 また、張拙秀才は、悟道についての詩で、「煩悩を断って除くと、病を重ねて増す」と言った。



 従来、病む事が無いわけではない。

 仏祖という病が有る。

 「智断」、「知という徳と、煩悩を断つという徳」は、病を重ねて増してしまう。

 煩悩を断って除く時、必ず、煩悩を断って除こうという思考自体が煩悩と成っている。

 煩悩と、煩悩を断って除こうという煩悩は、同時であったり、同時ではなかったりするが、煩悩は必ず、煩悩を断って除こうという煩悩を付帯させるのである。



 また、張拙秀才は、悟道についての詩で、「『真如』、『真理』への(おもむ)き、意向もまた(よこしま)、いけないのである」と言った。



 「真如」、「真理」に(そむ)くのは、(よこしま)、誤りなのである。

 「真如」、「真理」に(、いつまでも)向かおうとするのは、(よこしま)、いけないのである。

 「真如」、「真理」とは、従ったり(そむ)いたりする事なのである。

 従ったり(そむ)いたりする事の各々は「真如」、「真理」なのである。

 「『真如』、『真理』に(、いつまでも)向かおうとする(よこしま)、いけない事もまた『真如』、『真理』なのである」と誰が知っているだろうか?



 また、張拙秀才は、悟道についての詩で、「俗世における(えん)、俗世における関係に従って(さまた)げが無い」と言った。



 俗世における関係と、俗世における関係は、従い合い、従う事と、従う事は、俗世における関係と成る。

 これを「(さまた)げが無い」と言っているのである。

 (さまた)げる、(さまた)げない、は、眼によって(さまた)げられている事に慣れるべきなのである。



 また、張拙秀才は、悟道についての詩で、「『涅槃』、『寂滅』と生死は空華なのである」と言った。



 「涅槃」、「寂滅」と言うのは、無上普遍正覚なのである。

 仏祖や、仏祖の弟子が住んでいるのは、「涅槃」、「寂滅」であるし、無上普遍正覚である。


 生死は真実の人の体なのである。


 「涅槃」、「寂滅」と生死は、その物なのであるが、空華なのである。


 空華の根、茎、枝、葉、華、果実、光、色は共に、空華の「華開」、「華が開く事」なのである。

 空華は必ず(くう)の果実という実を結ぶし、(くう)の種を()くのである。

 今、見聞きしている三界は、空華が開いている五つの花びらであるので、「不如三界、見於三界」、「(如来が見ている三界は、)三界における凡人が、三界を見るようではない」のである。

 (「不如三界、見於三界」は意味が諸説有る。)

 空華は、「諸法の実の相」、「全てのものの実の相」なのであるし、諸々の法華の相なのである。

 また、「測り知れない諸々のものも共に、空華や(くう)の果実であり、桃と(スモモ)と、梅と(ヤナギ)と同様なのである」として学に参入するべきである。



 唐の時代の中国の、福州の芙蓉山の、芙蓉の霊訓は、帰宗寺の、至真禅師と呼ばれる帰宗の智常の所に初めて行って、「仏とは、どういった者なのでしょうか?」と質問した。

 帰宗の智常は、「私が、あなたに向かって言っても、あなたは信じるかどうか……」と言った。

 芙蓉の霊訓は、「和尚様、帰宗の智常様の真心からの言葉をどうして、あえて信じない事が有るでしょうか? いいえ! 信じる!」と言った。

 帰宗の智常は、「あなたは仏なのである」と言った。

 芙蓉の霊訓は、「どのように保持させられ任されるのでしょうか?」と言った。

 帰宗の智常は、「一つのかすみが眼に有れば、空華は乱れ散り落ちる」と言った。



 帰宗の智常の「一つのかすみが眼に有れば、空華は乱れ散り落ちる」という言葉は、仏を保持させ任せる言葉なのである。

 そのため、知るべきである。

 眼のかすみによって空華が乱れ散り落ちるのは、諸仏が形成されて現されているのである。

 眼の(くう)の華と果実は、諸仏が保持させ任せているのである。

 かすみによって、眼を形成させて現すし、眼の中に空華を形成させて現すし、空華の中に眼を形成させて現す。

 「空華が眼に有れば、一つの眼のかすみが乱れ散り落ちる」し、「一つの眼が(くう)に有れば、諸々の眼のかすみが乱れ散り落ちる」のである。

 ここに、眼のかすみの全ての機関が現れているし、

眼の全ての機関が現れているし、

(くう)の全ての機関が現れているし、

華の全ての機関が現れているのである。

 乱れ散り落ちるのは、千眼なのであるし、「通身」、「全身」の眼なのである。

 一つの眼が存在する時と場所には必ず、空華が有るし、眼の華が有るのである。

 眼の華を空華とは言うのである。

 眼の華の言葉は必ず「開明」、「知によって開かれていて明らかなのである」。



 このため、広照大師と呼ばれる琅邪の慧覚は、「不思議であるのは、十方の仏は元から眼の中の華である。

眼の中の華を理解しようと(ほっ)したら、眼の中の華は元から十方の仏なのである。

十方の仏を理解しようと(ほっ)したら、十方の仏は眼の中の華ではない(、と言える)。

眼の中の華を理解しようと(ほっ)したら、眼の中の華は十方の仏ではない(、と言える)。

ここで、明らめる事ができ得たら、既に十方の仏に存在するのである。

もし明らめる事が未だでき得ないならば、声聞の段階の者は舞うし、独覚の段階の者は顔を作る」と言った。



 知るべきである。

 十方の仏は、実在し、元から眼の中の華なのである。

 十方の諸仏が位に住んでいる場所は、眼の中なのである。

 眼の中ではなければ、諸仏が住んでいる場所ではない。

 眼の中の華は、無ではなく、存在ではなく、(くう)ではなく、実ではなく、自然に、十方の仏なのである。

 今、(ひとえ)に、十方の諸仏を理解しようと(ほっ)したら、十方の諸仏は眼の中の華ではない(、と言える)し、

(ひとえ)に、眼の中の華を理解しようと(ほっ)したら、眼の中の華は十方の諸仏ではない(、と言える)。

 このため、明らめる事ができ得ても、明らめる事が未だでき得なくても、共に、眼の中の華なのであるし、十方の仏なのである。

 「理解しようと(ほっ)する事」と「そうではない(、と言える)事」は、形成されて現されている「不思議である」なのであるし、大いなる不思議なのである。

 仏から仏へ、祖師から祖師へ、言われている、「空華」と「地の華」という言葉の主旨は、このように風流をたくましくするのである。

 空華の名前は経典の似非(えせ)学者もなお聞き(およ)んでいても、地の華の命は仏祖でなければ見聞きできる因縁が無いのである。



 地の華の命を知り(およ)んでいる仏祖の言葉が有る。

 宋の時代の中国の石門山の、石門の慧徹は、梁山縁観の会の高徳の長老である。

 ある僧が、ある時、石門の慧徹に、「山中の宝とは、どういった物なのでしょうか?」と質問した。



 この質問の主旨は、例えば、「仏とは、どういった者なのでしょうか?」と質問するのと同じであるし、

「『道』、『真理』とは、どういった物なのでしょうか?」と質問するような物なのである。



 石門の慧徹は、「空華従地発、蓋国買無門」、「地によって空華は開くが、国の全てをあげて買おうとしても窓口が無い」と言った。



 この言葉は、(ひとえ)に自他の言葉を基準にして思考するべきではない。

 普通の諸方の僧達は、空華によって空華を論じる時には、「(くう)で生じて、更に、(くう)で滅ぶ」としか言わない。

 「(くう)によって空華が開く」と知っている人すらなお未だいない。

 まして、(人々は、)「地によって空華が開く」と知っているだろうか? いいえ!

 石門の慧徹ただ独りが、「地によって空華が開く」と知っていた。

 「地によって空華が開く」とは、「最初も中間も最後も地によって空華が開く」のである。

 原文の「発」とは「開く」なのである。

 「地によって空華が開く」時、「大地の(ことごと)くによって空華が開く」のである。


 「国の全てをあげて買おうとしても窓口が無い」とは、「国の全てをあげて買おうとする事」が無いわけではないが、「買おうとしても窓口が無い」のである。


 地によって開く空華が有るし、華が開く事によって開く地の(ことごと)くが有る。

 そのため、知るべきである。

 空華とは、(くう)と地を共に開発させる主旨なのである。



 正法眼蔵 空華


 時に、千二百四十三年、観音導利興聖宝林寺にいて僧達に示した。

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