正法眼蔵 夢中説夢
諸々の仏祖が「この世」に出現する道は、ものが生じる兆しすら無い創世以前からの物であるので、旧来、論じられてきた所の物ではない。
諸々の仏祖が「この世」に出現する道によって、仏祖の境地、仏の向上などの功徳が有る。
諸々の仏祖が「この世」に出現する道は、時とは無関係であるので、寿命の長短とも無関係である。
諸々の仏祖が「この世」に出現する道は、凡人の推測とは遥かに異なる。
また、「法輪を転じる事」、「法を説く事」も、ものが生じる兆しすら無い創世以前からの規則による物である。
このため、法を説く事は、「大功不賞、千古榜様」、「功績が大きくて報いる事ができない、非常に古くからの手本である」。
これを夢の中で夢として説くのである。
証の中で証を見るので、夢の中で夢を説くのである。
夢の中で夢を説く場所は、仏祖の国であるし、仏祖の会である。
仏の国、仏の会、祖師の会では、証の上で証するし、夢の中で夢を説くのである。
夢の中で夢を説く、言葉、説明に出会いながら「仏の会ではない」とするべきではない。
夢の中で夢を説くのは、仏が「法輪を転じている」、「法を説いている」のである。
夢の中で夢を説くという「法輪」、「説法」は十方、八面であるので、大海や、須弥山や、国土や、「諸法」、「全てのもの」が形成されて現される。
説法は、諸々の夢以前の、夢の中で夢を説く事なのである。
遍く世界の全てが現れるのは、夢なのである。
遍く世界の全てが現れる夢は、明らかな「百草」、「森羅万象」なのである。
激しく疑うのは、正しい。
複雑であるのは、正しい。
この時、夢の中で「百草」、「森羅万象」を説く等なのである。
夢の中で「百草」、「森羅万象」を説く等の学に参入すると、根、茎、枝、葉、華、果実、光、色は共に、大いなる夢なのである。
「森羅万象は夢のように儚い」と誤るべきではない。
仏道を習おうとしない人は、「夢の中で夢を説く事」に出会っても、いたずらに無駄に、あってはならない誤りで「夢の『百草』、『森羅万象』とは、あり得ないのを存在させる事を言うのであろう」と思ってしまうし、「迷いに迷いを重ねるような物であろう」と思ってしまう。
しかし、そうではない。
たとえ「迷いの中で更に迷う」と言う事が有っても、「迷いの上の迷い」と言われている言葉による天に通じる道によって、まさに鍛錬して学に参入するべきである。
夢の中で夢を説くとは、諸仏である。
諸仏は、風や雨や、水や火である。
諸仏は、あれこれの名称を受けて保持している。
夢の中で夢を説くとは、古代の仏である。
この宝の乗り物に乗って、直ぐに道場に至るのである。
直ぐに道場に至るのは、この宝の乗り物に乗っている中なのである。
「夢曲夢直、把定放行、逞風流」、「夢が曲がっていたり夢が正直であったり、留めたり通過させたりする事は、風流をたくましくする」のである。
また、この「法輪」、「説法」が大いなる法輪の世界を転じる事は、無量、無限である。
また、一微塵でも転じ、塵の中での動静は休まないのである。
この道理によって、
どの無上普遍正覚の事の法を転じても、敵は笑って頷くのである。
どの所でも、無上普遍正覚の事の法を転じるので、風流を転じるのである。
このため、尽地は皆、突然の、きっかけが無い、「法輪」、「説法」なのである。
遍く世界は皆、暗くない因果であるし、諸仏の無上(普遍正覚)である。
知るべきである。
諸仏の化の導きや「説法蘊」は共に、きっかけが無く建化し、きっかけが無く法の位に住んでいる。
来たり去ったりする、きっかけを求める事なかれ。
「尽従這裏去」、「尽く、この中に従って去る」のである。
「尽従這裏来」、「尽く、この中に従って来る」のである。
このため、葛藤を植えて葛藤を纏うのは、無上普遍正覚の性質と相なのである。
無上普遍正覚が、きっかけが無いように、全ての生者は、きっかけが無いし、無上(普遍正覚)である。
鳥かごが、きっかけが無くても、解脱は、きっかけが無い。
「公案」、「修行者の手がかりとしての仏祖の言動」が形成されて現れているのが、「あなたに三十回、棒を放つ」なのであるが、これは形成されて現されている「夢の中で夢を説く事」なのである。
「無根樹、不陰陽地、喚不響谷」、「根が無い樹、太陽と月といった陰陽が無い地、叫んでも響かない谷」は、形成されて現されている「夢の中で夢を説く事」なのである。
夢の中で夢を説く事は、人や天人の境地ではないし、凡人の推測ではない。
夢が「菩提」、「覚」、「無上普遍正覚」である事を誰が激しく疑うであろうか?
激しく疑う範囲の物ではないので、明らかに認める者が誰かいるであろうか? 明らかに認めて転じる物ではないので。
夢である無上普遍正覚は無上普遍正覚であるので、夢を夢と言うのである。
夢の中の夢が有るし、夢が説く事が有るし、夢を説く事が有るし、夢の中が有るのである。
夢の中でなければ夢を説く事は無い。
夢を説く事が無ければ夢の中は無い。
夢を説く事が無ければ諸仏はいない。
夢の中でなければ諸仏が「この世」に出現し妙なる「法輪を転じる」、「法を説く」事は無い。
「法輪」、「説法」とは、「仏と仏だけ(が能く究め尽せる、諸法の実の相)」であるし、夢の中で夢を説く事である。
夢の中で夢を説く事に、無上普遍正覚者達の諸々の仏祖がいるだけなのである。
「法身」、「真の実体」の向上の事とは、夢の中で夢を説く事なのである。
夢の中で夢を説く事に、仏と仏だけが見える事が有る。
頭、眼、髄、脳、身、肉、手、足を愛して惜しむ事ができないし、愛されて惜しまれないので、「黄金を売る人は黄金を買う人であるはずである」のを、奥の奥と言うし、「妙なるものの妙なるもの」と言うし、証の証と言うし、「頭の上に頭を置く」、「頭が有るのに別の頭を置こうとする」とも言うのである。
「頭の上に頭を置く」、「頭が有るのに別の頭を置こうとする」とは、仏祖の日常の行為である。
(未熟な人は、)「頭の上に頭を置く」、「頭が有るのに別の頭を置こうとする」事の学に参入しても、「頭とは、人の頂上である」と思うだけである。
さらに、「頭とは、毘盧遮那如来の頂上である」と思わない。
まして、「頭とは、明らかな『百草』、『森羅万象』である」と思うであろうか? いいえ!
頭を知らないのである。
昔から「頭の上に頭を置く」、「頭が有るのに別の頭を置こうとする」という一句の言葉は伝わって来ている。
愚かな人は「頭の上に頭を置く」、「頭が有るのに別の頭を置こうとする」という言葉を聞いて、誤って「余計なものを戒める言葉である」と思ってしまう。
「有り得ない」と言おうとして「どうして頭の上に頭を置く事が有るだろうか?」と言うのを俗世の普通の習慣としてしまっている。
実に、それは、誤っていないか? はい! 誤っている!
夢の中で夢を説くと形成されて現されているが、凡人も聖者も共に用いるのに相違は無い。
このため、凡人も聖者も共に、夢の中で夢を説くのは、昨日でも生じているし、今日でも成長している。
知るべきである。
昨日、夢の中で夢を説いたのは、「夢の中で夢を説いた」事は「夢の中で夢を説いた」事であると認めて来ている。
今、夢の中で夢を説くのは、「夢の中で夢を説く」事は「夢の中で夢を説く」事であるとして参入している。
これは、仏に出会う喜びなのである。
悲しむべきである。
仏祖の明らかな「百草」、「森羅万象」の夢が明らかである事は、百、千の無数の月日よりも明らかであるが、生まれながらの盲人は見ない事を憐れむべきである。
「頭の上に頭を置く」、「頭が有るのに別の頭を置こうとする」という言葉の「頭」とは、「百草」、「森羅万象」であるし、
千の無数の種類の頭であるし、
全てのものの頭であるし、
「通身」、「全身」である頭であるし、
全ての世界は「最初」から隠していない頭であるし、
尽十方界の頭であるし、
当てはまる一句の言葉であるし、
「百尺の竿の先」、「極致」である。
置くのも、上であるのも、これらの頭であると参入するべきであるし、究めるべきである。
そのため、「一切の全ての諸仏や、諸仏の無上普遍正覚は、皆、この経によって出現する」のも、「頭の上に頭を置いて来た」、「頭が有るのに別の頭を置こうとして来た」、夢の中で夢を説く事なのである。
「この経」によって夢の中で夢を説くと無上普遍正覚の諸仏をこの世に出現させる。
無上普遍正覚の諸仏が更に「この経」を説くと、必ず、夢の中で夢を説く事に成る。
夢である原因に暗くなければ、夢である結果に暗くないのである。
ただ、まさに、槌の一打は千、万に無数に当たるが、槌の千、万の無数の乱打は一つ当たるか半端に当たるのである。
このため、無上普遍正覚の事である、夢の中で夢を説く事が有るし、
無上普遍正覚者である、夢の中で夢を説く事が有るし、
無上普遍正覚の事ではない、夢の中で夢を説く事が有るし、
無上普遍正覚者ではない、夢の中で夢を説く事が有る、と知るべきである。
知られて来ている道理は明らかなのである。
知られて来ている道理とは、一日中の、夢の中で夢を説く事が、夢の中で夢を説く事なのである。
このため、古代の仏と等しい人は、「私は今あなたの為に夢の中で夢を説く。過去、現在、未来の諸仏もまた夢の中で夢を説く。二十八祖の達磨から三十三祖の大鑑禅師までの六人の祖師達もまた夢の中で夢を説く」と言った。
この言葉を明らめて学ぶべきである。
釈迦牟尼仏の「拈華瞬目」は、夢の中で夢を説く事なのである。
「礼拝得髄」、「礼拝して会得する事」は、夢の中で夢を説く事なのである。
一句の言葉の「道」、「真理」を会得したり、会得できなかったり理解できなかったりするのは、夢の中で夢を説く事なのである。
「『千手千眼観音』、『千手観音』は、多数の『眼が有る手』を用いて、どうするのか?」なので、色形や音声を見聞きする功徳を十分に備えている。
仏が「この世」に出現する事である、夢の中で夢を説く事が有る。
「説夢説法蘊」である、夢の中で夢を説く事が有る。
とらえたり放ったりする、夢の中で夢を説く事が有る。
直接的に指し示す事は、夢を説く事なのである。
「的当」、「言い当てる事」、「直接的に指し示す事」は、夢を説く事なのである。
とらえても、放っても、平常の天秤を学ぶべきである。
学んで会得すると、必ず「目銖機金兩」、「目方の重り」が現れて、夢の中で夢を説き出すのである。(「金兩」は一文字の漢字として見てください。)
「銖金兩」、「重り」を論ぜず、「平衡」、「つり合い」に至らなければ、「平衡」、「つり合い」が形成されて現される事は無い。(「金兩」は一文字の漢字として見てください。)
「平衡」、「つり合い」を得るには、「平衡」、「つり合い」を見るのである。
「平衡」、「つり合い」を得ると、物に依存していないし、天秤に依存していないし、機関に依存していない。
空にかかっているといえども、「平衡」、「つり合い」を得なければ、「平衡」、「つり合い」を見ていない、と参入して究めるべきである。
自ら空にかかっているように、物と接して取って、空に遊戯させる、夢の中で夢を説く事が有る。
空の中で「平衡」、「つり合い」をこの世に出現する。
「平衡」、「つり合い」は天秤の大いなる道なのである。
空をかけ、物をかけ、たとえ空であっても、たとえ色であっても、「平衡」、「つり合い」に合う、夢の中で夢を説く事が有る。
解脱する事は、夢の中で夢を説く事である!
夢は尽大地である。
尽大地は「平衡」、「つり合い」である。
このため、頭と脳を回転する事の無限は、夢の中で夢を証する、信じて受け入れる事と、(仏の教えを受け入れて)行う事なのである。
釈迦牟尼仏は、「諸仏は、身が金色であり、百の無数の福の相が荘厳である。
諸仏の法を聞いて、人々の為に説くと、常に、このような好ましい夢が有った。
また、夢で国王と成ったが、宮殿、眷属、および、上等で絶妙な『色声香味触』への『五欲』を捨てて、道場に行った。
菩提樹の下にいて、獅子に例えられる仏のように坐し、道を求め、七日を過ぎて、諸仏の知を得た。
無上の道を成就し終わって、立って、『法輪を転じた』、『法を説いた』。
『男性の出家者、女性の出家者、男性の在家信者、女性の在家信者』という『四衆』の為に法を説いて、千万億劫を経て、『漏』、『煩悩』を無くす妙なる法を説いて、無数の生者を仏土へ渡した。
後に、『涅槃』、『肉体の死』に入る様子は、煙が尽きて灯が消滅するようであろう。
もし、後の、悪い世の中で、この第一の法を説けば、この人が大いなる利益を得る様子は、前述の諸々の功徳のようであろう」と言った。
この釈迦牟尼仏の説いた教えの学に参入して、諸仏の会を究め尽すべきである。
これは例え話ではない。
諸仏の妙なる法は「仏と仏だけ(が能く究め尽せる、諸法の実の相)」であるので、夢と「覚」、「夢の外」の「諸法」、「全てのもの」は共に実の相なのである。
「覚」、「夢の外」の中の「発心、修行、菩提、涅槃」、「心する事、修行、覚、寂滅」が有る。
夢の中の「発心、修行、菩提、涅槃」、「心する事、修行、覚、寂滅」が有る。
「発心、修行、菩提、涅槃」、「心する事、修行、覚、寂滅」は、夢と「覚」、「夢の外」における、各々、実の相なのであり、大小、優劣は無い。
それなのに、「また、夢で国王と成った」等の前後の言葉を見聞きした、古今の人は、誤って「『この第一の法を説く』事による力によって、夜、夢が、このように成る」と誤解している。
このように誤解する人は、未だ釈迦牟尼仏の説いた教えを明らめて理解していないのである。
夢と「覚」、「夢の外」は本から唯一普遍絶対なのであるし、実の相なのである。
仏法は、たとえ例え話であっても、実の「相」、「見え方」なのである。
既に例え話ではなく、夢で成るのは、仏法の真実なのである。
釈迦牟尼仏といった一切の全ての諸々の仏祖は皆、夢の中で心して修行して、無上普遍正覚を成就しているのである。
そのため、今の「娑婆」、「苦しみを耐え忍ぶ場所」である「この世」の釈迦牟尼仏の一つの化の導きによる仏道は、夢で成っている事なのである。
「七日」と言うのは、仏の知を得る量なのである。
「『法輪を転じて』、『法を説いて』」、「生者を仏土へ渡して」、既に「千万億劫を経た」と言う。
夢の中の動静は辿る事ができない。
「諸仏は、身が金色であり、百の無数の福の相が荘厳である。諸仏の法を聞いて、人々の為に説くと、常に、このような好ましい夢が有った」と言う。
明らかに知る事ができる。
「『好ましい夢』とは諸仏の事なのである」と証明されているのである。
「常に、このような好ましい夢が有った」と言う如来、釈迦牟尼仏の言葉が有り、百年の夢だけではないのである。
「人々の為に説く」とは、釈迦牟尼仏が「この世」に出現した事なのである。
「諸仏の法を聞いて」とは、眼で声を聞く事であるし、
心で声を聞く事であるし、
古巣で声を聞く事であるし、
創世前の無である長い時間である「空劫」以前から声を聞く事である。
「諸仏は、身が金色であり、百の無数の福の相が荘厳である」と言う。
「『好ましい夢』とは諸仏の身である」という事は、今更、疑えない。
「覚」、「夢の外」の中で仏の化の導きは止まない道理が有るといえども、仏祖が形成されて現される道理は、必ず、夢で為す事であるし、夢の中での事なのである。
「仏法の悪口を言う事なかれ」の学に参入するべきである。
「仏法の悪口を言う事なかれ」の学に参入する時、如来、釈迦牟尼仏の、この言葉が、すぐに形成されて現されるのである。
正法眼蔵 夢中説夢
その時、千二百四十二年、秋、雍州の宇治郡の観音導利興聖宝林寺にいて僧達に示した。




