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正法眼蔵 海印三昧

 諸々の仏祖が諸々の仏祖として存在するのは、必ず、海印三昧によってである。

 海印三昧という海を泳ぐ時には、説いている時が有るし、証している時が有るし、(おこな)っている時が有る。

 海印三昧という海の上を行く功徳には、徹底して行く事が有る。

 徹底して行く事を、深々と海底を行くのであるとして、海印三昧という海の上を行くのである。

 「生死を流浪するのを源に帰還させようと願い求める」というような心の動きだけではない。

 従来の「(さえぎ)る入口である(せき)を透過し、固定観念を破る」のが、諸々の仏祖の面々であるが、海印三昧という海に合流する事による物である。



 仏は、「ただ全ての物によって、この身は合成されている。

この身が起こる時は、ただ法が起こるのである。

この身が滅ぶ時は、ただ法が滅ぶのである。

この法が起こる時、私が起こるとは言わない。

この法が滅ぶ時、私が滅ぶとは言わない。

前の念と後の念は、無関係である。

前の法と後の法は、無関係である。

これを海印三昧と名づける」と言った。



 この仏の言葉の学に詳しく参入して鍛錬するべきである。

 道を会得して証に入るには、必ずしも、多く聞く事によらないし、多くの言葉によらないのである。

 多く聞き広く学んでいた人が一つの詩によって道を会得する事が有るし、恒河沙のように無数に(あまね)く学んでいた人が詩の一句によって証に入る事が有る。

 まして、この仏の言葉は、「本覚」、「(もと)からの覚」を前提条件として求めないし、「始覚」、「思い立って心して、修行して、初めて迷いから覚めて悟りを開く事」を証の中で、ひねって取って来ない。

 「本覚」などを形成させて現させるのは仏祖の功徳であるが、「本覚」や「始覚」などの諸々の覚を仏祖とするわけではない。


 海印三昧の時は、「ただ全ての物による」時であるし、「ただ全ての物による」道の会得である。

 海印三昧の時、「この身は合成されている」と言うのである。

 「全ての物」が「合成している」、一つの合わさった相が、「この身」なのである。

 「この身」が一つの合わさった相としているわけではない。「全ての物」が「(この身を)合成している」のである。

 「『合成されている、この身』が『この身』である」と道を会得しているのである。


 「この身が起こる時は、ただ法が起こるのである」。

 「この法が起こる時」、「起こる事」を残していない。

 このため、「起こる事」は知覚できないし、知見できない。

 「起こる事」は知覚できないし、知見できないのを「(この法が起こる時、)私が起こるとは言わない」と言うのである。

 「(この法が起こる時、)私が起こるとは言わない」時に、別の人は「この法が起こる」と見聞きしたり覚知したり思量分別したりできるわけではない。


 さらに向上して見る時、まさに、見る事を脱ぎ落とす機会が有るのである。


 「起こる」のには必ず時が到来するのである。時は「起こる事」なので。

 「起こる」とは何か?

 「起こる」とは「起こる事」である。

 「起こる」とは、既に時である「起こる事」なのであり、「皮肉骨髄」、「理解」を(ひと)りでに現す。

 「起こる」とは、「合成されて、起こる」ので、「この身が起こる」である、「私が起こる」である、「ただ全ての物による物」なのである。

 音声や色形として見聞きできるだけではなく、「私が起こる、全ての物」であるし、「言わない、私が起こる」のである。

 「言わない」とは「言えない」のではない。会得、理解した「道」、「真理」は「言う事ができ得る」(、「言い表せる」)わけではないので。

 「起こる時」とは、「この法」であり、一日だけではない。

 「この法」とは、「起こる時」であり、三界が競って起こるだけではない。



 古代の仏は「突然に火が起こる」と言った。



 無関係に「起こる」事を「(突然に)火が起こる」と言っているのである。



 古代の仏と等しい人は「起こる事と滅ぶ事が()まない時は、どうするのか?」と言った。



 そのため、「起こる事と滅ぶ事」は、私の「私が起こる事」であるし、私の「私が滅ぶ事」であるのに、「()まない」のである。

 「起こる事と滅ぶ事」が「()まない」道を理解して取るには、「起こる事と滅ぶ事」に一任して、わきまえ受け入れるべきである。

 「起こる事と滅ぶ事が()まない時」を仏祖の命として断続させるのである。

 「『起こる事と滅ぶ事が()まない時』は、誰が起こったり滅んだりするのか?」なのである。

 「『起こる事と滅ぶ事が()まない時』は、誰が起こったり滅んだりするのか?」と言えば、

(まさ)に、この身によって『得度するべき』、『(仏土へ)渡すべき』者には、この身を現して、その者の(ため)に法を説く」のであるし、

「過去心不可得」、「過去の心を得る事は不可能」であるし、

「あなたは私の髄を得た」、「あなたは私の骨を得た」(、「あなたは私を会得した」)である。

 「『起こる事と滅ぶ事が()まない時』は、誰が起こったり滅んだりするのか?」なので。


 「この法が滅ぶ時、私が滅ぶとは言わない」。

 「私が滅ぶとは言わない」時は、「この法が滅ぶ時」である。

 滅ぶとは法が滅ぶのである。

 滅ぶといえども、法なのである。

 滅ぶとは、法であるので、「客塵」、「外から来る煩悩」ではない。

 滅ぶとは、「客塵」、「外から来る煩悩」ではないので、汚染されない。

 汚染されない者が、諸々の仏祖なのである。

 「(ただ、諸仏は汚染されない事を護ろうと念頭に置いているのである。)あなたもまた、そうである」と言われているが、「あなた」と言われていない者が誰かいるであろうか? いいえ!

 「前の念と後の念」が有る者は皆、「(ただ、諸仏は汚染されない事を護ろうと念頭に置いているのである。)あなたもまた、そうである」と言われている者なのである。

 「(ただ、諸仏は汚染されない事を護ろうと念頭に置いているのである。)私も、またそうである」と言われているが、「私」と言われていない者が誰かいるであろうか? いいえ!

 「前の念と後の念」は皆、「私」の物であるので。


 滅ぶ事に、多くの種類の、千手観音の眼が有る手を荘厳している。

 滅ぶ事とは、無上の大いなる「涅槃」、「寂滅」であるし、

「死と呼ばれる物」であるし、

「執為断」、「執着しても断たれる事」であるし、

「住む所と()す事」なのである。

 この様な多くの種類の、千手観音の眼が有る手は、しかしながら、滅ぶ事の功徳なのである。

 滅ぶのが私である時に「(私が滅ぶとは)言わない事」と、起こるのが私である時に「(私が起こるとは)言わない事」は、「言わない事」が同じく生じても、同じく死ぬ事を「言わない」わけではない。

 既に、「前の法」が滅ぶのであるし、「後の法」が滅ぶのである。

 法の「前の念」であるし、法の「後の念」である。

 法と()す前後の法であるし、法と()す前後の念である。

 「無関係である」のは法と()すのであるし、「無関係である」のは法が()すのである。

 「無関係」にさせるのは、八、九割の未熟な、道の会得である。

 滅ぶ事の「四大(元素)」と「『色受想行識』という『五蘊』」を、千手観音の眼が有る手とする、ひねって取ったり手中に収めたりする事が有る。

 滅ぶ事の「四大(元素)」と「『色受想行識』という『五蘊』」を、行程とする、進歩したり(まみ)えたりする事が有る。

 この時、「(千手観音は、)『通身』、『全身』が、千手観音の眼が有る手なのである」と言っても「また、不足である」なのであるし、

「(千手観音は、)『遍身』、『体中』が、千手観音の眼が有る手なのである」と言っても「また、不足である」なのである。

 滅ぶ事は仏祖の功徳なのである。


 「無関係である」と言うが、知るべきである、「無関係である」と言うのは、「起きている」のが「最初も中間も最後も」、「起きている」事なのである。

 「官には針も()れないが、私には車や馬を通す」、「公的には針も()れないが、私的には車や馬を通す」なのである。

 「滅ぶ事」は、「最初も中間も最後も」、「無関係」である。

 従来、滅ぶ所で、突然に法が起こっても、滅ぶ事が起きたわけではなく、法が起きたのである。法が起きたので、無関係なのである。

 また、ある滅びと別の滅びは無関係である。

 滅んでいる時も「最初も中間も最後も」滅んでいるのである。

 「相逢不拈出、挙意便知有」、「出会っていても、ひねり出せないが、心に挙げれば、有る事を知る」のである。

 従来、起きている所で、突然に滅んでも、起きていた事が滅んだわけではなく、法が滅んだのである。法が滅んだので、無関係なのである。

 たとえ起こる事や滅ぶ事が無関係であっても、全ての物を海印三昧と名づけるのである。

 無関係である事の修行と証は無いわけではないが、汚染されない事を海印三昧と名づけるのである。


 三昧とは、形成されて現される物であるし、

「道」、「真理」の会得なのであるし、

背中で手で(まくら)を模索する夜間なのである。

 三昧として夜間に背中で手で(まくら)を模索するが、(まくら)の模索は、億や億万の無数の劫だけではなく、「私は海中で、ただ常に妙なる法華経を説く」なのである。

 「私が起こるとは言わない」ので、「私は海中で法華経を説く」のである。

 「前面」も「一つの波が、わずかに動けば、万の無数の波が従う」ように「ただ常に説く」のであるし、

「後面」も「万の無数の波が、わずかに動けば、一つの波が従う」ような「妙なる法華経」なのである。

 たとえ千、万の無数の尺の糸、()り糸や(おび)のような王の言葉を進退させても、直下に()れている事を残念に思う。

 「前面」や「後面」とは、「私が海面において」なのである。

 「頭の前」や「頭の後ろ」と言うような物である。

 「頭の前」や「頭の後ろ」とは、「頭の上に頭を置く」、「頭が有るのに別の頭を置こうとする」事なのである。

 「海中」には、人はいない。

 「私が、海において」は、この世の人が住む所ではないし、聖者が好む所ではない。

 「私は、(海に)おいて」、独り「海中」にいる。

 これが、「ただ常に説く」事なのである。

 「海中」は、中間に属さず、内外に属さず、「鎮常在説法華経」、「安らかに常に存在して法華経を説く」のである。

 東西南北にいないが、「満船空載月明帰」、「船全体は空虚に月明かりを載せて帰る」のである。

 この様に、実へ帰る事は、帰って来た事(、戻った事)に成るのである。

 これを、誰が「停滞した水の様子である」と言うだろうか? いいえ!

 ただ、仏道が「剤限」、「整え限る事」によって形成されて現されるだけなのである。

 これを、水を象徴する「印」、「象徴」とする。

 さらに言うと、(そら)を象徴する印である。

 さらに言うと、泥を象徴する印である。

 水を象徴する印は、必ずしも海を象徴する印ではないが、向上すれば海を象徴する印と成る。

 これを「海印」、「海の印」と言うし、水の印と言うし、泥の印と言うし、心の印と言う。

 心の印を単一に伝えて、水を表すし、泥を表すし、(そら)を表す。



 ある僧が、ある時、曹山本寂に「『大海は死体を留めない』と仏の教えで言われているのを聞いた事が有ります。『海』とは、どの様な物なのですか?」と質問した。

 曹山本寂は、「(『海』とは、)全ての存在を包含している(ものである)」と言った。

 ある僧は、「どうして『(大海は)死体を留めない』のですか?」と言った。

 曹山本寂は、「気が絶えたものは表れない」と言った。

 ある僧は、「(『海』は)全ての存在を包含している(ものな)のに、どうして、『気が絶えたものは表れない』のですか?」と言った。

 曹山本寂は、「万有非其功絶気」、「全ての存在は存在の功能として『気が絶えない』からである」と言った。



 曹山本寂は、三十九祖の雲居道膺と兄弟弟子である。

 三十八祖の洞山良价の主旨が、曹山本寂の言葉に「正的」、「正しく表れている」。


 「仏の教えで言われているのを聞いた事が有る」と言うのは、仏祖の正しい教えの事であり、凡人や聖者の教えではないし、仏法に誤って付け加えられた矮小な劣悪な教えではない。


 「大海は死体を留めない」。

 「大海」とは、内海や外海などではないし、須弥山の周囲の「八海」などではない。

 「大海」が普通の海ではない事を、学徒は疑っていない。

 海ではないものを「海」と認めるだけではなく、海も「海」と認めているのである。

 たとえ「海」であると強引に()していても、「大海」とは言えないのである。

 「大海」は、必ずしも「八功徳水」、「甘、冷、軟、軽、清浄、不臭、飲時不損喉、飲已不傷腸の八つの功徳を備えている仏土などの水」の深淵ではないし、必ずしも塩水などの深淵ではない。

 全ての物は合成されている。

 「大海」は、必ずしも深淵だけであろうか? いいえ!

 このため、「『海』とは、どの様な物なのか?」と質問するのは、「大海」が未だ人や天人に知られていないので「大海」を言い表すのである。

 「海」を質問する人は、「海」への執着を動揺させようとしているのである。

 「(大海は)死体を留めない」と言うが、「留めない」とは、「明頭来明頭打、暗頭来暗頭打」、「利発な頭の者が来たら、それに合わせて軽く打って指導し、愚鈍な頭の者が来たら、それに合わせて軽く打って指導する」事である。

 「死体」とは、「死灰」、「火が消えて冷えた灰」のような物であるし、「幾度か春に逢ったが、心を変えなかった」事である。

 「死体」とは、全ての人々が未だ見た事が無い物の事なのである。

 このため、知らないのである。


 曹山本寂の「(『海』とは)全ての存在を包含している(ものである)」という言葉は、「海」を言い表しているのである。

 主旨の「道」、「真理」を理解すると、「何か一つのものが全ての存在を包含している」と言う意味ではなく「(『海』とは)全ての存在を包含している(ものである)」と言っているのであり、「『大海』が全ての存在を包含している」と言っているわけではない。

 「全ての存在を包含している」のを言い表せるのは、「大海」という言葉だけなのである。

 「何ものか?」と知っているわけではないけれども、暫定的に「全ての存在(を包含しているもの)」なのである。

 仏祖の面々と(まみ)える事も、暫定的に「全ての存在」と認めるのである。

 「包含されている」時は、たとえ山であっても高々と山の(いただき)に立つだけではないし、たとえ水であっても深々と海底を行くだけではない。

 「手中に収める」とは「包含している」事であるし、「手放す」とは「包含している」事なのである。

 「仏性海」、「仏に成れる性質の海」と言う物も、「毘盧蔵海」、「毘盧遮那仏を包含している海」と言う物も、ただ、「全ての存在(を包含しているもの)」なのである。

 海面は見えなくても、泳ぐ様子を激しく疑う事は無い。

 例えば、杭州多福は、「一群の竹」という言葉を選び取って、「一、二本の竹は曲がっているし、三、四本の竹は斜めである」と言ったが、「全ての存在(を包含しているもの)」を失わせるための()()いであったとしても、どうして「千、万に無数に曲がっている」と未だ言わなかったのか? どうして「千、万の無数の群れ」と言わなかったのか?

 杭州多福の「一群の竹」が「全ての存在(を包含しているもの)」である道理を忘れないべきである。

 曹山本寂が「全ての存在を包含している(もの)」と言い表したものは、「全ての存在(を包含しているもの)」である。

 ある僧の「どうして『気が絶えたものは表れない』のか?」という言葉は、誤って激しく疑う「面目」、「有様(ありよう)」ではあるが、このような心の動きなのである。

 従来このものを激しく疑っている時は、従来このものを激しく疑っている事に出くわすだけである。

 「どのような場所に、どうして『気が絶えたものは表れない』のか?」。

 「どうして『(大海は)死体を留めない』のか?」。

 これが、「(『海』は)全ての存在を包含している(ものな)のに、どうして『気が絶えたものは表れない』のか?」なのである。

 知るべきである。

 「包含」は、「表す」わけではないし、「留めない」。

 たとえ「全ての存在」が「死体」であっても、「留めない」のは万年と成る。

 「(気が絶えたものは)表れない」という言葉は、曹山本寂の「一著子」、「一手」なのである。


 曹山本寂は、「万有非其功絶気」、「全ての存在は存在の功能として『気が絶えない』からである」と言った。

 全ての存在は、たとえ気が絶えていても、たとえ気が絶えていなくても、「表れない」のである。

 死体は、たとえ死体であっても、全ての存在に同じく参入する様子が有るようなものは包含されるし、包含されている。

 全ての存在である前後には存在の功能が有り、全ての存在は「気が絶えない」。

 「一盲引衆盲」、「一人の盲人が多くの盲人を導く」ような物である。

 「一盲引衆盲」、「一人の盲人が多くの盲人を導く」道理は、さらに、「一盲引一盲」、「一人の盲人が一人の盲人を導く」事が有るし、

「衆盲引衆盲」、「多くの盲人が多くの盲人を導く」事が有る。

 「衆盲引衆盲」、「多くの盲人が多くの盲人を導く」時、「全ての存在を包含している(もの)」は「全ての存在を包含している(もの)」において包含しているのである。

 さらに、どれだけの大いなる道でも全ての存在ではないように、未だ、その鍛錬が形成されて現されていないのが、海印三昧なのである。



 正法眼蔵 海印三昧


 千二百四十二年、観音導利興聖宝林寺で記した。

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