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正法眼蔵 恁麼

 雲居山の弘覚大師と呼ばれる三十九祖の雲居道膺は、三十八祖の洞山良价の正統な弟子である。

 三十九祖の雲居道膺は、釈迦牟尼仏から三十九代目の法の子孫である。

 雲居道膺は、洞山良价の流れを()む正統な祖師である。



 雲居道膺は、ある日、僧達に示して、「恁麼の事を会得したいと欲する人は、恁麼の人なのである。既に恁麼の人であるので、どうして恁麼の事を(うれ)うだろうか? いいえ!」、「無上普遍正覚を一途に会得したいと欲する人は、無上普遍正覚に一途な人なのである。既に無上普遍正覚に一途な人であるので、どうして無上普遍正覚が無い事を(うれ)うだろうか? いいえ!」と言った。



 「恁麼の事を会得したいと思う人は、恁麼の人なのである。既に恁麼の人であるので、どうして恁麼の事を(うれ)うだろうか? いいえ!」という言葉の主旨は、無上普遍正覚に一途である事を暫定的に「恁麼」と言っているのである。


 無上普遍正覚の有様(ありよう)とは、尽十方界も無上普遍正覚にとっては少しの物でしかないのである。

 無上普遍正覚は尽界よりも余り有る。

 私達は、尽十方界の中に有る日常の器具である。

 何によって無上普遍正覚が有ると知るのか?

 身と心が共に尽界に現れて、自分の物ではないから、無上普遍正覚が有ると知るのである。

 身は既に自分の物ではない。

 命は時間に移されて一時も留める事ができない。

 若い血色の良い顔は、どこかへか去ってしまい、探そうとしても跡が無い。

 よくよく観察すると、過去と同様の事には再び巡り会えない事が多い。

 真心も留まらず、途切れ途切れに行き来する。

 たとえ真実が有っても、私の近くに留まる物ではない。

 この様であるのに、きっかけが無くても無上普遍正覚を求める事を思い立って心する者がいる。

 無上普遍正覚を求める心が起こってから、従来、(もてあそ)んでいたものを投げ捨てて、未だ聞いていない物を聞きたいと願い、未だ証していない物を証したいと求めるのは、ひとえに、自分が原因であるだけではない。

 知るべきである。

 無上普遍正覚に一途な人であるので、そう成るのである。

 何によって無上普遍正覚に一途な人であると知るのか?

 無上普遍正覚を一途に会得したいと思う事によって、無上普遍正覚に一途な人であると知るのである。

 既に無上普遍正覚に一途な人である「面目」、「有様(ありよう)」が有るので、今、無上普遍正覚が無い事を(うれ)うべきではない。

 無上普遍正覚が無い事を(うれ)うのも無上普遍正覚に一途な事であるので、(うれ)いではないのである。

 また、無上普遍正覚に一途な事とは、無上普遍正覚が無い事を(うれ)う事であるのも驚くべきではない。

 たとえ驚き疑う事ができる無上普遍正覚への一途が有っても、無上普遍正覚への一途なのである。

 驚くべきではないと言われる無上普遍正覚への一途が有るのである。

 無上普遍正覚への一途は、仏の量で量る事ができないし、

心の量で量る事ができないし、

法界の量で量る事ができないし、

尽界の量で量る事ができない。

 ただ、まさに、「既に無上普遍正覚に一途な人であるので、どうして無上普遍正覚が無い事を(うれ)うだろうか? いいえ!」なのである。

 このため、音声や色形による無上普遍正覚への一途は無上普遍正覚への一途であるし、

身心による無上普遍正覚への一途は無上普遍正覚への一途であるし、

諸仏の無上普遍正覚への一途は無上普遍正覚への一途である。

 例えば、「ある者が地によって倒れた時」を無上普遍正覚への一途であると「会得」、「理解」すると、「必ず地によって起きる」のが無上普遍正覚への一途である時、「地によって倒れる」事を疑わないのである。

 昔から言われて来ている、西のインドから言われて来ている、天上から言われて来ている言葉が有る。



「もし地によって倒れた時は、また地によって起きる。地を離れて起きようと求める者には、(つい)に、この理が無いであろう」



 「もし地によって倒れた時は、また地によって起きる。地を離れて起きようと求める者には、(つい)に、この理が無いであろう」という言葉の意味は、「地によって倒れる者は必ず地によって起きる。地によらずに起きようと求める者は起きる事ができ得ない」と成る。

 この言葉を挙げて、ひねって、大いなる悟りを会得する橋とするし、身心をも脱ぎ落とす道とする。

 このため、もし「諸仏が仏と成る事ができた道理とは、どの様な物であるのか?」と質問されたら、「地によって倒れた者は、地によって起きるような物である」と言う。

 この言葉に参入して究めて、従来をも「透脱する」、「透体脱落する」、「煩悩を透過して脱ぎ落とす」べきであるし、

最後をも「透脱する」、「透体脱落する」、「煩悩を透過して脱ぎ落とす」べきであるし、

今をも「透脱する」、「透体脱落する」、「煩悩を透過して脱ぎ落とす」べきである。

 大いに悟っても悟らなくても、迷っても迷わなくても、悟りに(さまた)げられても迷いに(さまた)げられても、共に、地によって倒れる者は地によって起きるのが、道理なのである。

 これが、天上と天下の「道」、「真理」の「会得」、「理解」であるし、

西のインドと東の地である中国の「道」、「真理」の「会得」、「理解」であるし、

古今の「道」、「真理」の「会得」、「理解」であるし、

古代の仏と新しい仏の「道」、「真理」の「会得」、「理解」である。

 この「道」、「真理」の「会得」、「理解」には、未だ尽していない物は無いし、欠けている物は無い。


 けれども、この様にだけ理解して、更に他の様に理解しないのは、「もし地によって倒れた時は、また地によって起きる。地を離れて起きようと求める者には、(つい)に、この理が無いであろう」という言葉に参入して究めていないような物である。

 たとえ古代の仏が言い得た「もし地によって倒れた時は、また地によって起きる。地を離れて起きようと求める者には、(つい)に、この理が無いであろう」という言葉が、この様に伝わっていても、更に古代の仏と等しい者として古代の仏の言葉を聞いた時に、向上して聞く事が有るべきである。

 未だ、西のインドで言われていなくても、天上で言われていなくても、更に言い表すべき道理が有るのである。



「地によって倒れた者が、もし地によって起きようと求めたら、無量劫を経ても、起きる事ができない」



 ある活路によって起きる事ができ得るのである。



「地によって倒れる者は、必ず、空によって起きるし、空によって倒れる者は、必ず、地によって起きる」



 もし、この様でなければ、(つい)に起きる事はできない。

 諸仏、諸々の祖師は、皆、この様であったのである。

 もし、ある人が「地と空は、どれだけ離れているのか?」と質問したら、「地と空は、『十万八千里』離れている」と言うべきである。



「もし地によって倒れた時は、必ず、空によって起きる。

空を離れて起きようと求める者には、(つい)に、この理が無いであろう。

もし空によって倒れた時は、必ず、地によって起きる。

地を離れて起きようと求める者には、(つい)に、この理が無いであろう」



 もし、未だ、この様に「道」、「真理」を理解して取っていない者は、仏道での地と空の量を未だ知らないし、未だ見ていないのである。



 十七祖の僧伽難提は、ある時、建物に掛けてある鐘状の鈴が風に吹かれて鳴るのを聞いて、後の十八祖の伽耶舎多に「風が鳴るとするのか? 鈴が鳴るとするのか?」と質問した。

 伽耶舎多は、「風が鳴るのではなく、鈴が鳴るのではなく、自分の心が鳴るのである」と言った。

 僧伽難提は、「心とは何か?」と言った。

 伽耶舎多は、「(全てのものは)共に、『寂静』、『涅槃』、『寂滅』であるので(、心は『寂静』、『涅槃』、『寂滅』である)」と言った。

 僧伽難提は、「善きかな、善きかな。私の道を継ぐ事ができるのは、あなた、伽耶舎多だけである!」と言った。

 (つい)に、僧伽難提は、「正法眼蔵」、「正しくものを見る眼」を伽耶舎多に伝えて付属させた。



 これは、風が鳴るのではない所で、自分の心が鳴るのを学ぶのであるし、鈴の成るのではない時に、自分の心が鳴るのを学ぶのである。

 たとえ、この様であっても、自分の心が鳴るのは、全てのものと共に「寂静」、「涅槃」、「寂滅」である。


 西のインドから東の地の中国に伝わり、古代から今日に至るまで、僧伽難提と伽耶舎多の話を仏道を学び修行する手本としているが、誤る輩が多い。

 「伽耶舎多の言葉の『風が鳴るのではなく、鈴が鳴るのではなく、自分の心が鳴るのである』と言うのは、鳴っているのを聞いた時に、『鳴っているのを聞いた』という思いが起こるが、『鳴っているのを聞いた』という思いを『心』と言っているのである。

もし『鳴っているのを聞いた』という思い、『心』が無ければ、どうして『鳴っている』という結果が起きただろうか? 『鳴っているのを聞いた』という思い、『心』が有るので、『鳴っている』という結果が起きた!

『聞いた』という思いによって、『聞く』事が成就するため、『聞く』事の根本と言えるので、伽耶舎多は『心が鳴るのである』と言ったのである」というのは誤った理解である。

 正しい師の力を会得していないので、この様に誤って理解するのである。

 例えば、サンスクリット語の複合語の解釈である「六合釈」の「依主釈」や「隣近釈」を論じる経典の似非(えせ)学者の誤った解釈のような物である。

 この様な誤った理解は、仏道の奥深い学ではない。


 仏道の正統な法の子孫に学んで来ていると、「無上普遍正覚」や「正法眼蔵」、「正しくものを見る眼」を、「寂静」、「涅槃」、「寂滅」と言うし、

「無為」、「自然のままである事」、「人為的に作られていない事」、「消滅しない不変の絶対の真理」と言うし、

「三昧」、「定」、「静慮」と言うし、

「陀羅尼」、「真理の保持」と言う道理は、わずかに、一つの法が「寂静」、「涅槃」、「寂滅」であれば、「万法」、「全てのもの」も共に「寂静」、「涅槃」、「寂滅」であるからである。

 風が吹くのが「寂静」、「涅槃」、「寂滅」であれば、鈴が鳴るのも「寂静」、「涅槃」、「寂滅」であるのである。

 このため、伽耶舎多は、「(全てのものは)共に、『寂静』、『涅槃』、『寂滅』であるので(、心は『寂静』、『涅槃』、『寂滅』である)」と言ったのである。

 「心が鳴るのは風が鳴るからではないし、心が鳴るのは鈴が鳴るからではないし、心が鳴るのは心が鳴るからではない」と「道」、「真理」を理解して取るのである。

 身近な物が、この様であるのをわきまえ究めるよりは、更に、ただ、「風が鳴っているのであるし、鈴が鳴っているのである」と言うべきであるし、「吹いている物が鳴っているのであるし、鳴っている物が鳴っている」とも言うべきである。

 「どうして恁麼の事を(うれ)うだろうか? いいえ!」であるので、「風が鳴っているのであるし、鈴が鳴っているのである」と言うべきであるのではなく、「どうして恁麼の事に関わるだろうか? いいえ!」であるので、「風が鳴っているのであるし、鈴が鳴っているのである」と言うべきであるのである。



 三十三祖の大鑑禅師が未だ出家していない時に広州の法性寺に泊まっていた際に、二人の僧が(風が幡を動かしているのを見て)議論していた。

 ある僧は、「(はた)が動いている」と言った。

 別の僧は、「風が動いている」と言った。

 この様に、二人の僧の議論が平行して止まらなかった。その時、

大鑑禅師は、「風が動いているのでもなく、(はた)が動いているのでもなく、あなた達の心が動いているだけである」と言った。

 二人の僧は、大鑑禅師の言葉を聞いて(すみ)やかに信じて受け入れた。

 二人の僧は、西のインドから来ていた。



 誤って「大鑑禅師が『風が動いているのでもなく、(はた)が動いているのでもなく、あなた達の心が動いているだけである』と言い表したのは、大鑑禅師が『風も、(はた)も、動いているのも、共に、心によってである』と『道』、『真理』を理解して取ったからである」と言う人は、大鑑禅師の言葉を聞いても、大鑑禅師の言葉の意味を知らないのである。まして大鑑禅師の会得した「道」、「真理」を理解して取る事ができ得るだろうか? いいえ!

 私、道元は、どうして、この様に言うのか?

 なぜなら、「あなた達の心が動いているだけである」という言葉を聞いて、「あなた達の心が動いているだけである」という意味として「あなた達の心が動いているだけである」という言葉を理解して取る人は、大鑑禅師を見ていないし、知らないし、大鑑禅師の法の子孫ではない。


 大鑑禅師の法の子孫として、大鑑禅師の「道」、「真理」を理解して取るためには、大鑑禅師の身体髪膚を会得して理解して取るためには、次の様に言うべきである。

 「あなた達の心が動いているだけであるし、さらに、あなた達が動いている」と言うべきである。

 どうして、この様に言うのか?

 なぜなら、「動いている者が動いているので、あなた達は、あなた達である」からである。

 既に、この様な人であるので、この様に言うのである。


 三十三祖の大鑑禅師は、昔は、新州の木こりであり、山をも究めていたし、水をも究めていた。

 大鑑禅師は、昔は、たとえ生い茂っている松の下で鍛錬して根源を裁断したとしても、どうして、明るい窓辺で落ち着いて、心を照らす古代の教えが有ると知ったのだろうか?

 大鑑禅師は、雪を払い除ける(みさお)、意思の堅固さを、誰に習ったのか?

 大鑑禅師は、市場で経を聞いたが、自ら待ち望んだわけでもないし、他人が(すす)めたわけでもない。

 大鑑禅師は、幼い時に父を亡くし、成長してからは母を養っていた。

 大鑑禅師は、自分の「衣の裏に掛けられていた一粒の宝玉」が「乾坤」、「天地」を照らし破る事を知らなかった。

 大鑑禅師が(市場で経を聞いて)突然に悟り、老いた母を(泣く泣く)捨てて善知識を持つ人をたずねたのは、「人の世」、「この世」で(まれ)な事である。

 誰にとっても恩愛は軽くない!

 大鑑禅師は、法を重んじるがゆえに恩愛を(泣く泣く)軽んじて恩を(泣く泣く)捨てたのである。


 大鑑禅師の話は、「法華経」の「薬草喩品」の「有智若聞、即能信解」、「知が有る者は、もし(法の要を)聞けば、()く信じて理解する」という道理なのである。


 知は、他人に学ぶ物ではないし、自ら(新たに)起こす物ではない。

 知は()く知に伝わるし、知が知をたずねるのである。

 (経の朗読を聞いていたために焼け死んだが人に生まれ変わった)「五百の蝙蝠(コウモリ)」は、知自体が身を作った。

 (知のほかに、)さらに身は無いし、心は無い。

 (水が干上がって死にかけていた時に経を聞いて三十三天に生まれ変わる事ができた)「金光明最勝王経」の「長者子流水品」の「十千魚」、「無数の魚」は、知が親しく身に有るので、(えん)が無くても、原因が無くても、仏法を聞いて理解したのである。

 知は、来るわけではないし、入ってくるわけではない。

 例えば、「東君」、「春」が春に出会うような物である。

 知は「有念」、「意識」ではない。

 知は「無念」、「無意識」ではない。

 知は「有心」、「心」ではない。

 知は「無心」ではない。

 まして、知は「大小」、「優劣」と無関係である!

 まして、知は迷いや悟りの論理ではない!

 なぜなら、「仏法は、どう在る事か?」と知らなくて、仏法を以前から聞いて理解して取っていなくて、慕わなくても、願わなくても、仏法を聞くと、恩を(泣く泣く)軽んじ身を惜しむのを忘れるのは、知が有る身心が既に自分の物ではないので、そうさせるのである。これを「即能信解」、「()く信じて理解する」と言うのである。


 知を持ちながら、いたずらである無駄である煩悩の中で、何周の生死をまわったのか知らない。

 石が宝玉を内包しているが、宝玉も石に内包されていると知らないし、石も宝玉を内包していると知らないような物である。

 人が、宝玉を内包している石を知り、取るのは、宝玉も石も待ち望んでいたわけではないし、宝玉の思量による物ではないし、石の知見による物ではない。

 人と知が互いに知らなくても、知は必ず「道」、「真理」を聞くような物である。


 「無智疑怪、即為永失」、「知が無い者は、(法の要を)疑い怪しむために、長く失う」という言葉が有る。

 知は、必ずしも、「有」、「存在」ではないし、無ではないが、一時の、春でも松は常緑であるという志を変えない(みさお)が有る「有」、「存在」が有るし、秋には菊の花が最も秀でて美しい無が有る。

 一時の無知の時、無上普遍正覚を皆、疑い怪しんでしまうし、尽諸法を皆、疑い怪しんでしまう。

 この時、「疑い怪しむために、長く失う」のである。

 聞くべき仏道も、証するべき仏法も、疑い怪しんでしまうのである。

 自分の物ではないが、遍界は「最初」から隠れていない。

 誰の物でもないが、万里は一個の鉄である。

 たとえ疑い怪しんで枝を伸ばしても、「十方の仏土の中には、ただ一乗の法だけが有る」。

 たとえ疑い怪しんで葉を落としても、「この法は法の位に住んでいて、世間の相は常に不変で住んでいる」。

 既に、この様な事であるので、知が有る事と、知が無い事は、日面と月面である。


 この様な人であるので、三十三祖の大鑑禅師も悟ったのである。


 後の三十三祖の大鑑禅師は、黄梅山に行って、大満禅師と呼ばれる三十二祖の弘忍を礼拝すると、寺の雑務を行う在俗者である「行者(あんじゃ)」として身を投じた。

 大鑑禅師が昼夜、米をついて、わずか八か月を経た時の、ある夜更けに、弘忍は、自ら(ひそ)かに米つき場に行って、大鑑禅師に「米は白く成りましたか? 未だですか?」と質問した。

 大鑑禅師は「米は白く成りましたが、未だ(ふるい)にかけていません」と言った。

 弘忍が杖で(うす)を三回たたくと、大鑑禅師は穀物から(から)やゴミを(ふる)い分ける農具である「箕」に米を入れて三回、(ふる)い分けた。

 この時、弘忍と大鑑禅師、師弟は仏道に適ったと言われている。

 自らも知らなくても、他の者も理解できなくても、この時、弘忍から大鑑禅師へ仏法が伝えられたのである。



 三十六祖の薬山惟儼は、ある時、南嶽山の無際大師と呼ばれる三十五祖の石頭希遷に「私、薬山惟儼は、三乗十二分教を粗方(あらかた)、知っています。かつて聞いた南方の『直指人心、見性成仏』、『人の心を直接に指し示して、人の心の本性を見させ、仏に成らせる』事については未だ明らめていません。伏して願わくば、和尚様、石頭希遷様、慈悲をもって指し示してください」と質問した。



 これが薬山惟儼の質問である。

 薬山惟儼は(もと)は講者であった。

 薬山惟儼は、三乗十二分教には良く通じていた。

 そのため、薬山惟儼は、仏法には暗くなかったようである。

 昔は仏教は宗派に分かれておらず、ただ三乗十二分教を明らめるのを仏教の教義と学の家風としていた。

 今の人の多くは最悪に愚鈍で各宗派の主旨を立てて仏法を(はか)るが、仏道の法ではない。



 石頭希遷は「(『直指人心、見性成仏』、『人の心を直接に指し示して、人の心の本性を見させ、仏に成らせる』なんて、)そんな物など会得できない。(そんな事を言うようでは、三乗十二分教という、)そうではない物も会得できていないのです。(『直指人心、見性成仏』も、三乗十二分教も、)そんな物も、そうではない物も全て会得できていないのです。あなた、薬山惟儼は、どう思いますか?」と言った。



 これが、石頭希遷による薬山惟儼のためにした言葉である。

 実に「(『直指人心、見性成仏』も、三乗十二分教も、)そんな物も、そうではない物も会得できていない」ので、(「直指人心、見性成仏」、「人の心を直接に指し示して、人の心の本性を見させ、仏に成らせる」なんて、)そんな物など会得できないし、(三乗十二分教という、)そうではない物も会得できていないのである。

 原文の「恁麼」は「直指人心、見性成仏」、「人の心を直接に指し示して、人の心の本性を見させ、仏に成らせる」事を言っているのである。

 「恁麼」を、有限の物を言うのに用いるだけではないし、無限の物を言うのに用いるわけではない。

 「直指人心、見性成仏」、「人の心を直接に指し示して、人の心の本性を見させ、仏に成らせる」なんて「会得できない」として学に参入するべきである。

 「直指人心、見性成仏」、「人の心を直接に指し示して、人の心の本性を見させ、仏に成らせる」事に「会得できないのは、なぜか?」質問するべきである。

 「直指人心、見性成仏」、「人の心を直接に指し示して、人の心の本性を見させ、仏に成らせる」なんて「会得できない」のは、仏の量とは無関係である。

 「直指人心、見性成仏」、「人の心を直接に指し示して、人の心の本性を見させ、仏に成らせる」なんて「会得できない」し「悟れない」のである。



 曹谿山の三十三祖の大鑑禅師は、ある時、大慧禅師と呼ばれる三十四祖の南嶽の懐譲に示して、「何ものかが、どの様にかして来ている」と言った。



 「どの様にかして来ている」のは疑う事ができないのである。理解できないため。「何ものか」であるので。

 実に、必ず、万物は「何ものか」であるとして学に参入して究めるべきである。

 実に、必ず、一つの物は「何ものか」であるとして学に参入して究めるべきである。

 「何ものか」は激しく疑う事ができないのである。「どの様にかして来ている」のである。



 正法眼蔵 恁麼


 その時、千二百四十二年、観音導利興聖宝林寺にいて僧達に示した。

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