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正法眼蔵 仏向上事

 筠州の洞山の悟本大師と呼ばれる三十八祖の洞山良价は、潭州の雲厳山の無住大師と呼ばれる三十七祖の雲巌曇晟の親しい正統な弟子である。

 如来、釈迦牟尼仏から(三十八祖の洞山良价までは)三十八人の祖師達の向上である。

 自己から向上の三十八人の祖師達である。



 洞山良价は、ある時、僧達に示して、「仏の向上の事を体得して、少し話が有る」と言った。

 ある僧が、「話とは、どの様な物でしょうか?」と質問した。

 洞山良价は、「話す時、あなたは、聞かない」と言った。

 ある僧は、「和尚様、洞山良价様は、聞くのですか?」と言った。

 洞山良价は、「私が話さない時を待って聞く」と言った。



 「仏の向上の事」という言葉は、洞山良价が初めて言った。

 他の仏祖は、洞山良价の言葉の学に参入して来て仏の向上の事を体得するのである。

 実に、知るべきである。

 仏の向上の事とは、「在因」、「修行中」の事ではないし、「果満」、「修行の結果としての悟りの完成」ではない。

 けれども、「話す時は、聞かない」事を体得して徹底的に参入する事が有るのである。

 仏の向上に到達しなければ、仏の向上を体得する事は無い。

 話さなければ、仏の向上の事を体得できない。

 話す事は、仏の向上の事を現すわけではないし、隠すわけではないし、与えるわけではないし、奪うわけではない。

 このため、話が形成されて現された時、話とは、仏の向上の事なのである。

 仏の向上の事が形成されて現された時、「あなたは、聞かない」のである。

 「あなたは、聞かない」と言うのは、仏の向上の事が自ら聞かないのである。

 既に、「話す時、あなたは、聞かない」のである。

 知るべきである。

 話は、聞かれても汚染されないし、聞かれなくても汚染されない。

 このため、話は、聞かれる事や聞かれない事とは無関係なのである。

 聞かない中に、あなたがいるのである。

 話す中に、あなたがいても、「人に出会っても人に出会わない」し、「これは、これではない」のである。

 あなたが話す時、あなたは、聞かないのである。

 「聞かない」という言葉の主旨は、舌骨に(さえぎ)られて聞かないのであるし、

耳の中に(さえぎ)られて聞かないのであるし、

「眼睛」、「見る眼」に照らされて見通されて聞かないのであるし、

身心に(ふさ)がれて聞かないのである。

 この様であるので聞かないのである。

 これらをひねって更に話とするべきではない。

 聞かないと、話と成らない。

 話す時は、聞かないだけなのである。

 洞山良价の「話す時、あなたは、聞かない」という言葉は、話の頭を言ったり尾を言ったりする事が、(葛)藤の様に(葛)藤に寄りかかっていても、話が話にまといつくだろうし、話に(さえぎ)られる。


 ある僧は、「和尚、洞山良价は、聞くのですか?」と言った。

 「和尚、洞山良价は、聞くのか?」という言葉は、和尚、洞山良价を挙げて「和尚、洞山良价が話を聞く」と思っているわけではないし、「聞く」のを挙げて「和尚、洞山良价が話を聞く」と思っているわけではない。話ではないので。

 ある僧は、「『話す時に聞く』学に参入するべきか否か?」と洞山良价に質問しているのである。

 例えば、「『話』とは話であるのか?」と聞いて理解して取ろうと思っているし、「『聞く』とは聞く事であるのか?」と聞いて理解して取ろうと思っているのである。

 しかも、この様に言っていても、あなたの「舌先」、「言葉」ではない。


 洞山良价の「私が話さない時を待って聞く」という言葉に明らかに参入して究めるべきである。

 「話す時」は、「聞く」わけではない。

 「聞く」のが形成されて現されるのは、「話さない時」なのである。

 いたずらに無駄に、「話さない時」を差し置いて、「話さない」のを待ち望むわけではないのである。

 「聞く」時、「話」を無関係な物とするわけではない。「聞く」時、「話」を無関係な物としてしまうと、「話」は、真に無関係な物と成ってしまうので。

 「聞く」時、「話」を離れて、反対の、どこかの中に存在して、聞いて取るわけではない。

 「話す時」、「聞く」事は、親しく話の「眼睛」、「見る眼」の中に身を隠していて、雷鳴の様に突然に現れるわけではない。

 そのため、たとえ、あなたでも、「話す時」は「聞かない」のである。

 たとえ、私でも、「話さない時」は「聞く」のである。

 これが、「少し話が有る」なのである。

 これが、「仏の向上の事を体得した」なのである。

 例えば、「『話す時、聞く』のを体得した」のである。

 このため、「私が話さない時を待って聞く」なのである。

 けれども、仏の向上の事とは、過去七仏以前の事ではなく、過去七仏の向上の事なのである。



 洞山良价は、僧達に示して、「仏の向上の人がいる事を知るべきである」と言った。

 ある僧は、その時、「仏の向上の人とは、どの様な者なのですか?」と質問した。

 洞山良价は、「仏ではない」と言った。



 雲門文偃は、「名づける事ができ得ないし、様子を説明でき得ないので、(洞山良价は)『仏ではない』と言ったのである」と言った。

 保福従展は、「仏非」、「(仏の向上の人とは、)仏が仏ではない仮の姿をとった者である」と言った。

 大法眼禅師と呼ばれる清涼文益は、「(仏の向上の人を)方便で仏と呼んで仏となしている」と言った。



 仏祖を向上している仏祖であるのは、三十八祖の洞山良价である。

 なぜなら、その他の仏祖の面々は多いが、「仏の向上」という言葉は未だ夢にも見ていないからである。


 徳山宣鑑や臨済義玄などのために説いても受け継いで会得できない。

 巌頭全奯や雪峰義存などは身が粉砕しても拳をくらって目覚める事ができない。


 洞山良价の「仏の向上の事を体得して、少し話が有る」や「仏の向上の人がいる事を知るべきである」といった言葉は、一、二、三、四、五の「三阿僧祇劫」と「百大劫」の修行と証だけでは、証し究める事ができない。

 (仏に成るには「三阿僧祇劫」と「百大劫」という長い年月がかかると言う場合が有る。)

 まさに、奥深い道の学に参入している者は、洞山良价の「仏の向上の事を体得して、少し話が有る」や「仏の向上の人がいる事を知るべきである」といった言葉を証する素質が有る。


 仏の向上の人がいると知るべきである。

 「仏の向上の人がいると知るべきである」と言うのは、精魂を(ろう)する手段なのである。

 けれども、古代の仏を挙げて、(仏の向上の人を)知るし、「拳頭」、「拳」をかかげて、(仏の向上の人を)知る。

 既に、この様に、「見得」、「会得」するような者は、仏の向上の人がいる事を知るし、(人と仏の身心を脱ぎ落としているので)仏の向上の人がいない(と言える)事を知る。

 洞山良价が僧達に示して言った「仏の向上の人がいる事を知るべきである」という言葉の意味は、「仏の向上の人に成るべきである」という訳ではなく、

「仏の向上の人に(まみ)えるべきである」という訳ではなく、

「ただ、(しばら)く、仏の向上の人がいると知るべきである」という意味なのである。

 「仏の向上の人がいると知るべきである」という「関棙」、「ぜんまい」、「からくり仕掛け」、「原動力」を使う事ができ得るような者は、(人と仏の身心を脱ぎ落としているので、)仏の向上の人がいる事を知らない(と言える)し、仏の向上の人がいない事を知らない(と言える)。


 仏の向上の人とは、仏ではない。

 「どうして、仏の向上の人とは、仏ではないのか?」と激しく疑う時は、思い(はか)るべきである。

 「仏の向上の人とは、仏より前の者であるので、仏ではない」と言う訳ではなく、

「仏の向上の人とは、仏より後の者であるので、仏ではない」と言う訳ではなく、

「仏の向上の人とは、仏を超越するので、仏ではない」と言う訳ではなく、

ただ、ひとえに、「仏の向上の人とは、仏の向上であるので、仏ではない」のである。

 「仏の向上の人とは、仏ではない」と言うのは、「仏の向上の人とは、仏の『面目』、『有様(ありよう)』を脱ぎ落としているので、仏ではない」と言うのであるし、「仏の向上の人とは、仏の身心を脱ぎ落としているので、仏ではない」と言うのである。



 東京(トンキン)の、(四十五祖の芙蓉道楷の法を嗣いだ、)枯木禅師と呼ばれる浄因の法成は、僧達に示して、「仏祖の向上の事が有る事を知ったので、話が有る。

皆、『仏祖の向上の事とは、どの様な物なのか?』、言いなさい。

ある家に幼子が一人いて、『眼耳鼻舌身意』という『六根』を備えていないし、『第七識』も不全であるし、大いに『一闡提』、『仏法を信じない者』であるし、仏と成る種である性質が無い。

仏に出会っても、殺したかの様に、仏であるという意識が無いし、祖師に出会っても、殺したかの様に、祖師であるという意識が無い。

天上も収める事ができ得ないし、地獄も収める門が無い。

あなた達は、このような人を理解できるか?」と言って、少ししてから、「あなた達が、対面しているのは、『仙陀婆』ではない。

私は、たくさん眠って、寝言が多かったようである」と言った。

 (「仙陀婆」という言葉には「塩」、「器」、「水」、「馬」という四つの意味が有り、どの意味で相手が「仙陀婆」という言葉を使っているか理解する必要が有った。)



 「『眼耳鼻舌身意』という『六根』を備えていない」と言うのは、「眼睛被人換却木槵子了也」、「人によって『眼睛』が木槵子に換えられた」し、(木槵子の果実の種は数珠に用いられる。)

「鼻孔被人換却竹筒了也」、「人によって『(真理を嗅ぎ分ける)鼻の(あな)』が竹の(つつ)に換えられた」し、

「髑髏被人借作屎杓了也」、「人によって頭蓋骨が排泄物を()み取る柄杓(ひしゃく)()された」が、

「作麼生是換却底道理」、「『換えられた』、『()された』奥底の道理とは、どの様な物か?」。

 このため、「『眼耳鼻舌身意』という『六根』を備えていない」のである。

 備えていないのが「眼耳鼻舌身意」という「六根」であるので、(ふいご)の中を透過して金属の仏像と成るし、

大海の中を透過して泥の仏像と成るし、

火の中を透過して木の仏像と成る。


 「『第七識』も不全である」と言うのは、破れた木の柄杓(ひしゃく)である。

 殺したかの様に、仏であるという意識が無いが、仏に出会う。

 仏に出会ったので、殺したかの様に、仏であるという意識が無い。

 天上に入ろうと思えば、天上が崩壊するし、地獄に向かえば、地獄が突然に破裂する。


 このため、浄因の法成は対面すれば破顔(微笑)し、さらに「仙陀婆」は無い。

 (「仙陀婆」という言葉には「塩」、「器」、「水」、「馬」という四つの意味が有り、どの意味で相手が「仙陀婆」という言葉を使っているか理解する必要が有った。)

 浄因の法成は、たくさん眠っていてもなお、寝言が多かった。

 知るべきである。

 この道理は、「挙山帀地両知己」、「全ての山と、(あまね)く地は、両方共、自己を知っている」し、「玉石全身百雑砕」、「宝玉も石も、全身が、『全てのものが()()微塵(みじん)に成る』」のである。


 浄因の法成の言葉に静かに参入して究める鍛錬をするべきである。軽率にする事なかれ。



 雲居山の弘覚大師と呼ばれる三十九祖の雲居道膺は、三十八祖の洞山良价の所に行った。

 洞山良价は、「あなたの名前は何ですか?」と質問した。

 雲居道膺は、「雲居道膺です」と言った。

 洞山良价は、「向上して更に言いなさい」と質問した。

 雲居道膺は、「向上して言えば、雲居道膺と名づけない」と言った。

 洞山良价は、「私、洞山良价が三十七祖の雲巌曇晟の所にいた時に答えた答えと同じである」と言った。



 洞山良价と雲居道膺、師弟の言葉を、必ず、明確に詳細にするべきである。

 「向上して雲居道膺と名づけない」とは、雲居道膺の向上なのである。

 向上した時の雲居道膺には、「向上して雲居道膺と名づけない」物が有る事の学に参入するべきである。

 「向上して雲居道膺と名づけない」道理が形成されて現されてからが、真の雲居道膺なのである。

 けれども、「向上しても雲居道膺である」と言う事なかれ。

 洞山良价の「向上して更に言いなさい」という言葉を聞いた時、話についての理解を表すために、たとえ「向上して更に雲居道膺と名づける」と言い表したとしても、向上の言葉なのである。

 なぜ、「たとえ『向上して更に雲居道膺と名づける』と言ったとしても、向上の言葉なのである」と言うのか?

 雲居道膺が突然に頂上に飛び込んで身を隠すからである。

 ただし、雲居道膺は身を隠しても影を現しているのである。



 曹山本寂は、三十八祖の洞山良价の所に行った。

 洞山良价は、「あなたの名前は何ですか?」と質問した。

 曹山本寂は、「曹山本寂です」と言った。

 洞山良价は、「向上して更に言いなさい」と質問した。

 曹山本寂は、「言いません」と言った。

 洞山良价は、「なぜ言わないのですか?」と言った。

 曹山本寂は、「曹山本寂と名づけないからです」と言った。

 洞山良价は、うなずいた。



 向上に言葉が無いわけではないが、言わないのである。

 なぜ言わないのか? 例えば、曹山本寂と名づけないからである。

 そのため、向上の言葉は言わないのであるし、向上を言わないのは名づけないからである。

 例えば、「曹山本寂と名づけない」のは、向上の言葉なのである。

 このため、曹山本寂は名づけないのである。

 そのため、曹山本寂ではないものがあるし、名づけないのを脱ぎ落とす事が有るし、曹山本寂を脱ぎ落とす事が有る。



 盤山宝積は、「向上の一路は、諸々の聖者は伝えない」と言った。



 「向上の一路」とは、盤山宝積だけの言葉である。

 盤山宝積は、「向上の事」と言わず、「向上の人」と言わず、「向上の一路」と言うのである。

 「向上の一路は、諸々の聖者は伝えない」という言葉の主旨は、「諸々の聖者は、競って現れても、向上の一路は伝えない」という意味なのである。

 「伝えない」と言うのは、諸々の聖者は「伝える事ができない」分を保護しているのである。

 この様にも学ぶべきである。

 さらに、言うべき所が有る。

 諸々の聖者や賢者がいないわけではないが、たとえ聖者や賢者であっても、向上の一路は聖者や賢者の範囲に留まらない。



 ある僧が、ある時、智門山の、智門の光祚に「仏の向上の事とは、どの様な物なのですか?」と質問した。

 智門の光祚は、「(仏の向上の事とは、)杖の頭上に太陽と月をかかげる(ような物である)」と言った。



 杖が太陽と月に(さえぎ)られるようなのが、仏の向上の事なのである。

 太陽と月が杖の学に参入する時、「乾坤」、「天地」の(ことごと)くが暗く成るようなのが、仏の向上の事なのである。

 太陽と月が杖であるという訳ではない。

 杖の頭上とは、全ての杖の上である。



 天皇寺の、天皇道悟は、無際大師と呼ばれる三十五祖の石頭希遷の会で、「仏法の大意とは、どの様な物なのですか?」と質問した。

 石頭希遷は、「不得、不知」、「(仏法の大意とは、厳密には、)『会得』、『理解』できない物であるし、『知る』事はできない物である」と言った。

 天皇道悟は、「向上には更に(心を)転じる所が有りますか? 無いですか?」と言った。

 石頭希遷は、「大空は白い雲が飛ぶのを(さまた)げない」と言った。



 三十五祖の石頭希遷は、三十三祖の大鑑禅師の法の孫である。

 天皇道悟は、三十六祖の薬山惟儼の兄弟弟子である。

 天皇道悟は、ある時、「仏法の大意とは、どの様な物なのか?」と質問した。

 「仏法の大意とは、どの様な物なのか?」という質問は、初心者や後進の者は耐える事ができない質問である。

 仏法の大意を聞けば会得できる時に、「仏法の大意とは、どの様な物なのか?」と言うのである。


 石頭希遷は、「不得、不知」、「(仏法の大意とは、厳密には、)『会得』、『理解』できない物であるし、『知る』事はできない物である」と言った。

 知るべきである。

 仏法は、最初の一念にも大意が有るし、究極の位にも大意が有る。

 仏法の大意は、「不得」、「(厳密には、)理解できない物である」。

 「発心、修行、取証」、「思い立って心する事、修行、証の取得」が無いわけではないが、「不得」、「(厳密には、)理解できない物である」。

 仏法の大意は、「不知」、「(厳密には、)『知る』事はできない物である」。

 修行と証は、無ではなく、「有」、「存在」ではなく、「不知」、「(厳密には、)『知る』事はできない物である」し、「不得」、「(厳密には、)理解できない物である」。

 仏法の大意は、「不得、不知」、「(厳密には、)理解できない物であるし、『知る』事はできない物である」。

 「聖諦」、「神聖な真理」と、修行と証が無いわけではないが、「不得、不知」、「(厳密には、)理解できない物であるし、『知る』事はできない物である」。

 「聖諦」、「神聖な真理」と、修行と証は、有るだけではなく、「不得、不知」、「(厳密には、)理解できない物であるし、『知る』事はできない物である」。


 天皇道悟は、「向上には更に(心を)転じる所が有るのか? 無いのか?」と言った。

 もし(心を)転じる所が形成されて現される事があれば、向上が形成されて現される。

 (心を)転じる所とは「方便」、「手段」であり、「方便」、「手段」とは諸仏であるし諸々の祖師である。

 これを言葉にすると、「更に有るのか?」と成る。

 たとえ、更に有っても、更に無い事を()らすべきではない。言葉にできるべきである。


 「大空は白い雲が飛ぶのを(さまた)げない」と言うのは、石頭希遷の言葉である。

 大空は更に大空を(さまた)げない。

 大空は大空が飛ぶのを(さまた)げないが、更に白い雲は自ら白い雲を(さまた)げない。

 白い雲が飛ぶのが(さまた)げない。

 白い雲が飛ぶのが大空が飛ぶのを(さまた)げない。


 他のものを(さまた)げないものは自らをも(さまた)げない。

 各々が(さまた)げない事を必要とするわけではない。

 各々が(さまた)げない事を保持しているわけではない。

 このため、(さまた)げないのである。


 「大空は白い雲が飛ぶのを(さまた)げない」性質と相を挙げて、ひねっているのである。

 「大空は白い雲が飛ぶのを(さまた)げない」性質と相を挙げて、ひねっている時、「大空は白い雲が飛ぶのを(さまた)げない」学に参入する眼の(まゆ)()げて、仏が来るのをも見るし、祖師が来るのをも見るし、自己が来るのをも見るし、他のものが来るのをも見る。

 これを一つを質問されて十を答える道理とする。

 一つを質問されて十を答える時、一つを質問されるのも、達道者であるし、十を答えるのも、達道者である。



 黄檗希運は、「出家した人には、『従上来事』、『仏から仏へ、祖師から祖師へ、正しく伝えられて来ている、従来の事』の分が有る事を知るべきである。三十一祖の道信の弟子の牛頭法融は、縦横無尽に説いたけれども、向上の『関棙』、『ぜんまい』、『からくり仕掛け』、『原動力』をなお未だ知らない。向上の眼と脳が有って初めて、善悪の主と仲間をわきまえる事ができ得る」と言った。



 黄檗希運の言葉の「従上来事」とは、「従来、仏から仏へ、祖師から祖師へ、正しく伝えられて来ている事」である。

 「従来、仏から仏へ、祖師から祖師へ、正しく伝えられて来ている事」を「正法眼蔵涅槃妙心」、「正しくものを見る眼を持ち寂滅した妙なる心を持つ事」と言う。

 「正法眼蔵涅槃妙心」、「正しくものを見る眼を持ち寂滅した妙なる心を持つ事」は、自己に有っても知るべきであるし、自己に有ってもなお未だ知らないのである。

 「正法眼蔵涅槃妙心」、「正しくものを見る眼を持ち寂滅した妙なる心を持つ事」は、仏から仏へ正しく伝えられていなければ、夢にも未だ見る事ができなかったのである。


 黄檗希運は、百丈の懐海の法の子として百丈の懐海よりも優れているし、馬祖道一の法の孫として馬祖道一よりも優れている。

 代々の祖師達のうち、三、四代の間、黄檗希運に肩を並べる祖師はいない。

 黄檗希運だけが、牛頭(法融)に角が無い事を明らめたのである。他の仏祖は未だ知らないのである。


 牛頭山の牛頭法融は、三十一祖の道信の弟子である、高徳の長老の僧である。

 牛頭法融は、縦横無尽に説いた事、実に、西のインドから東の地の中国の、経典の似非(えせ)学者どもと比べる事はできないが、残念ながら、向上の「関棙」、「ぜんまい」、「からくり仕掛け」、「原動力」を未だ知らなかったし、言葉にできなかった。


 もし「従上来」、「従来、仏から仏へ、祖師から祖師へ、正しく伝えられて来ている事」の「関棙」、「ぜんまい」、「からくり仕掛け」、「原動力」を知らなければ、どうして仏法の善悪をわきまえ会得する事ができるだろうか? いいえ!

 もし「従上来」、「従来、仏から仏へ、祖師から祖師へ、正しく伝えられて来ている事」の「関棙」、「ぜんまい」、「からくり仕掛け」、「原動力」を知らなければ、ただ、言語を学んでいる人と成ってしまうだけである。

 そのため、向上の「関棙」、「ぜんまい」、「からくり仕掛け」、「原動力」を知る事、修行する事、証する事は、凡人が(およ)べる所ではない。


 真の鍛錬が有る所では、必ず、向上が形成されて現されるのである。


 「仏の向上の事」とは、仏に到達して、進んで更に仏を見る事なのである。

 生者が仏を見るのと同様であるが、仏を見る事が、生者が仏を見る事と全く同じであれば、仏を見る事ではないのである。

 仏を見る事が、生者が仏を見る事と全く同じであれば、仏を見る事を誤っているのである。

 まして、仏を見る事が、生者が仏を見る事と全く同じであれば、仏の向上の事であると言えるだろうか? いいえ!


 知るべきである。

 黄檗希運の言葉の「向上」の事は、今の杜撰(ずさん)な輩は理解して見通す事などできない。

 仏法の教えの理解が牛頭法融に(およ)ばない者がいたり、仏法の教えの理解が牛頭法融に等しい者がいたりしても、牛頭法融の法の兄弟でしかなく、どうして向上の「関棙」、「ぜんまい」、「からくり仕掛け」、「原動力」を知っているだろうか? いいえ!

 他の、未熟な修行者なども向上の「関棙」、「ぜんまい」、「からくり仕掛け」、「原動力」を全く知らないのである。

 まして、向上の「関棙」、「ぜんまい」、「からくり仕掛け」、「原動力」を開閉できるだろうか? いいえ!


 向上の主旨は、学への参入の眼目である。

 向上の「関棙」、「ぜんまい」、「からくり仕掛け」、「原動力」を知る人を、仏の向上の人とするのである。

 向上の「関棙」、「ぜんまい」、「からくり仕掛け」、「原動力」を知る人は、仏の向上の事を体得しているのである。



 正法眼蔵 仏向上事


 その時、千二百四十二年、観音導利興聖宝林寺にいて僧達に示した。

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