表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
31/92

正法眼蔵 大悟

 仏から仏への大いなる道は、伝えられて、綿密である。

 祖師から祖師への「功業」、「功績」は、現れて、平坦で広々としている。

 このため、「大悟」、「大いなる悟り」は形成されて現されるし、

「不悟」、「知らずに」、道に至るし、

「省悟」、「反省して悪い所や不十分な所を悟る」し、「弄悟」、悟りを(ろう)するし、

「失悟」、「悟りを離れて」、通過する。

 これが、仏祖の日常である。

 悟りを挙げて、ひねって取って、使う事ができ得る一日が有るし、

悟りを離れて、使われる一日が有る。

 さらに、悟りという「関棙」、「ぜんまい」、「からくり仕掛け」、「原動力」を超越する、泥の(かたまり)(ろう)する事も有るし、精魂を(ろう)する事も有る。

 (「泥の塊」は「無価値なもの」や「人の肉体」を意味する場合が有る。)

 「大いなる悟りによって、仏祖は、必ず、この様に形成されて現される」という学への参入を究めるが、大いなる悟りを(ふる)って、仏祖としている訳ではないし、

仏祖が仏祖を(ふる)っているのを、大いなる悟りを(ふる)っている、としている訳ではない。

 仏祖は、大いなる悟りという(暫定的な)限界を超越しているし、

大いなる悟りとは、仏祖という(暫定的な)限界を向上して超越している「面目」、「有様(ありよう)」なのである。


 人の素質には多くの種類が有る。


 (一)「生知」(、「生まれながらにして知っている」人)

 「生まれながらにして知っている」人は、生まれながらにして生を「透脱している」、「透体脱落している」、「煩悩を透過して脱ぎ落としている」。

 生の最初も中間も最後も体得して究めるのである。


 (二)「学而知」(、「学んで知る」人)

 「学んで知る」人は、学んで自己を究める。

 学の「皮肉骨髄」、「理解」を体得して究めるのである。


 (三)「仏知者」

 「仏知者」は、「生まれながらにして知っている」人でもないし、「学んで知る」人でもない。

 自分や他のものという限界を超越して、「この中」で(はし)が無く、自分や他のものの知に、とらわれないのである。


 (四)「無師知者」

 「無師知者」は、善知識を持つ人々の善知識によらず、経典によらず、性質によらず、相によらず、自己を動かさず転じず、他のものとの相互関係によらず、堂々と現れるのである。


 これら、人の素質の数種類のうち、ある種類の者を利発と認め、別の種類の者を愚鈍と認める、訳ではないのである。

 人の素質の多くの種類は、共に、多くの種類の「功業」、「功績」を形成して現すのである。

 そのため、どの、情の有る者も、情が無いものも、「生知」、「生まれながらにして知っている」ものである、として学に参入するべきである。

 「生知」、「生まれながらにして知っている」事が有れば、

「生悟」、「生まれながらにして悟っている」事が有るし、

「生証明」、「生まれながらにして証明している」事が有るし、

「生修行」、「生まれながらにして修行している」事が有る。

 そのため、仏祖が既に「調御丈夫」、「生者を素質などに応じて悟らせる者」であるのを「生悟」、「生まれながらにして悟っている」と呼んで来ている。

 仏祖の生は悟りをひねって取って来ている生であるので、仏祖を「生悟」、「生まれながらにして悟っている」と呼ぶのである。

 仏祖は、大いなる悟りを十分に会得している、「生悟」、「生まれながらにして悟っている」者なのである。

 悟りをひねって学んでいるので、仏祖は、大いなる悟りを十分に会得しているのである。

 このため、仏祖は、三界をひねって大いに悟るし、

百草をひねって大いに悟るし、

(地水火風という)四大(元素)をひねって大いに悟るし、

仏祖をひねって大いに悟るし、

「公案」、「修行者に考えさせるための話」をひねって大いに悟る。

 仏祖は皆、共に、大いなる悟りをひねって取って来て、さらに大いに悟るのである。

 大いに悟る時は、今なのである。



 慧照大師と呼ばれる臨済義玄は、「中国の中で、一人の『悟らない者』、『悟る事ができない者』を探し求めても得るのは難しいのである」と言った。



 臨済義玄の言葉は、正統に伝えられて来ている「皮肉骨髄」、「理解」であり、正しい。

 「中国の中」と言うのは、自己の「眼睛」、「見る眼」の中であるし、

尽界とは無関係であるし、

「塵刹」、「塵の様に無数の国土が有る俗世」に留まらない。

 「『この中』で、一人の悟る事ができない者を探し求めても得るのは難しいのである」。

 自己の昨日の自己も悟る事ができない者ではないし、他人の今日の自己も悟る事ができない者ではない。

 「山」の人や「水」の人が、古今に、悟る事ができない者を探し求めても未だ得る事ができない。

 この様に、臨済義玄の言葉の学に参入する学徒は、虚しく時間を過ごすべきではない。

 さらに、代々の祖師達の考えの学に参入するべきである。

 次の様に、臨済義玄に質問するべきである。

「悟る事ができない者を得るのは難しい事だけを知っていて、悟っている者を得るのは難しい事を知らないのは、正しいとするには未だ不足が有るし、悟る事ができない者を得るのは難しい事に参入して究めているとは言い難い。

たとえ一人の悟る事ができない者を探し求めても得るのは難しくても、半人前の悟っていない者がいて、『面目』、『有様(ありよう)』がゆったりとして静かであり、堂々としているのを見た事が有るのか? 未だ無いのか?」

 「中国の中で、一人の悟る事ができない者を探し求めても得るのは難しい」事を究極とする事なかれ。

 一人の悟る事ができない者や半人前の悟っていない者の中に、二、三個の中国を探し求めるのを試みるべきである。得るのは難しいか否か?

 この「眼目」、「見る眼」を備えた時、「十分に会得している仏祖である」と認めるべきである。



 ある僧が、ある時、(三十八祖の洞山良价の法を()いだ)京兆の華厳寺の宝智大師と呼ばれる華厳の休静に、「奥底まで大いに悟った人が、逆に迷った時は、どう成るのでしょうか?」と質問した。

 華厳の休静は、「破れた鏡が元に戻って元の様に照らす事は無いし、散り落ちた華が元に戻って樹に上る事は無い」と言った。



 華厳の休静達の問答は、問答だが、僧達に示して話すのに似ている。

 華厳の休静の会でなければ開演しなかった。

 華厳の休静が三十八祖の洞山良价の正統な法の子でなければ、授ける事ができなかった。

 実に、華厳の休静の会は、十分に会得している仏祖の会である。


 「奥底まで大いに悟った人」は、「(もと)から大いに悟っている」のではないし、「自分の外で大いに悟って蓄えている」のではない。

 大いなる悟りは、公共の物であるのを、最後の老年に(まみ)える、という物ではない。

 自己から強引に引き出して来るわけではないが、(大いに悟る者は)必ず大いに悟るのである。

 迷わない事を大いなる悟りとするわけではない。

 大いなる悟りの種を()くために迷っている者に成ろうとするべきではない。

 大いに悟っている人が更に大いに悟る事が有るし、

大いに迷っている人が大いに悟る事が有る。

 大いに悟っている人がいる様に、

大いに悟っている仏がいるし、

大いに悟っている地水火風と(くう)が有るし、

大いに悟っている寺の円柱と灯籠が有る。

 ある僧は華厳の休静に「奥底まで大いに悟った人」について質問した。

 「奥底まで大いに悟った人が、逆に迷った時は、どう成るのか?」という質問は、実に、質問するべき事を質問したのである。

 華厳の休静が嫌わずに寺で古代を慕って答えたのは、仏祖の「勲業」、「功業」、「功績」である。

 鍛錬するべきである。

 「奥底まで大いに悟った人が、逆に迷った時は」、奥底まで悟っていない人と同じだろうか?

 「奥底まで大いに悟った人が、逆に迷った時は」、大いなる悟りをひねって取ってきて迷いを作ったのか?

 他のどこかの中から迷いをひねって取って来て、大いなる悟りを(おお)って、「逆に迷った」のか?

 一人の「奥底まで大いに悟った人が」、大いなる悟りは破らないで、別に、「逆に迷った」のか?

 「奥底まで大いに悟った人が、逆に迷った」と言うのは、更に一枚の大いなる悟りをひねって取って来る事を「逆に迷った」としているのか?

 この様に、あれこれと参入して究めるべきである。

 また、大いなる悟りは一方の手であり、「逆に迷う」のは他方の手であるのか?

 ともかく、「奥底まで大いに悟った人が逆に迷う事が有る」と聴いて理解して取る事が、徹底的に参入して究めて来ている事である、と知るべきである。

 「逆に迷う」のを近づける大いなる悟りが有る、と知るべきである。

 そのため、賊を認めて子となすのを「逆に迷う」とするわけではないし、

子を認めて賊となすのを「逆に迷う」とするわけではない。

 賊を認めて賊となすのが大いなる悟りである。

 子を認めて子となすのが「逆に迷う」事である。

 多い所に少し付け加えるのを「大いなる悟り」とする。

 少ない所から少し減らすのが「逆に迷う」事である。

 このため、「逆に迷う」者を探り当てて、とらえると、「奥底まで大いに悟った人」に出会う。

 今の自己が、「逆に迷っている」のか? 迷っていないのか? 点検して詳細に調べるべきである。

 「今の自己が、『逆に迷っている』のか? 迷っていないのか?」調べる事を、仏祖の所に行って仏祖に(まみ)える事とする。


 華厳の休静は、「破れた鏡が元に戻って元の様に照らす事は無いし、散り落ちた華が元に戻って樹に上る事は無い」と言った。

 「破れた鏡が元に戻って元の様に照らす事は無いし、散り落ちた華が元に戻って樹に上る事は無い」という言葉は、鏡が破れた時を言っているのである。


 それなのに、鏡が未だ破れていない時を想像して「破れた鏡が元に戻って元の様に照らす事は無い」という言葉の学に参入するのは正しくない。どういう事かと言うと、

華厳の休静の「破れた鏡が元に戻って元の様に照らす事は無いし、散り落ちた華が元に戻って樹に上る事は無い」という言葉の意味は、「奥底まで大いに悟った人は、破れた鏡が元に戻らないように、散り落ちた華が元に戻らないように、元の迷いに戻る事は無い」、「奥底まで大いに悟った人が逆に迷う事は無い」という意味であると誤解してしまうかもしれない。

 けれども、この様な誤った意味であるとして、学に参入してはいけない。

 もし人が誤解した通りならば、「奥底まで大いに悟った人の日常とは、どの様な物か?」と質問するべきであったし、「逆に迷う時が有る」と答えただろう。

 しかし、この話は、そうではないのである。


 「奥底まで大いに悟った人が、逆に迷った時は、どう成るのか?」と質問しているので、「逆に迷った時」を質問しているのである。

 「逆に迷った時」の言葉が形成されて現されたのが、「破れた鏡が元に戻って元の様に照らす事は無いし、散り落ちた華が元に戻って樹に上る事は無い」なのである。

 華が散り落ちた時は、「百尺の竿の先」、「極致」に昇っても、散り落ちた華である。

 鏡が破れた時なので、いくつかの手段が形成されて現されても、元に戻って元の様に照らす事は無い。

 「破れた鏡」と言ったり、「散り落ちた華」と言ったりしている意味をひねって取って来て、「奥底まで大いに悟った人が、逆に迷った時」の学に参入して理解して取るべきである。


 誤って「大いに悟るとは仏に成るような物であるし、『逆に迷う』とは仏ではない生者のような物であるし、『仏は、この世に帰還して仏ではない生者と成る』と言うし、『従本垂迹』、『本地垂迹』、『仏は、この世に化身を現す』と言う」といったように学ぶべきではない。

 「仏は大いなる覚を破って仏ではない生者と成る」といったように誤って言う人がいる。しかし、

華厳の休静達は、「大いなる悟りが破られる」と言わなかったし、「大いなる悟りが失われた」と言わなかったし、「迷いが来た」と言わなかった。

 華厳の休静達を「仏は大いなる覚を破って仏ではない生者と成る」といったように誤って言う人と同一視してはいけない。


 実に、「大いなる悟り」は(はし)が無いし、「逆に迷う」事は(はし)が無い。

 (「大いなる悟り」は始まりも終わりも無いし、「逆に迷う」事は始まりも終わりも無い。)

 大いなる悟りを(さえぎ)る迷いは無い。

 大いなる悟りを三枚ひねって取って来て、矮小な迷いを半枚つくるのである。

 これによって、雪山は雪山のために大いに悟る事が有るし、

木や石は、木や石を借りて大いに悟る。


 諸仏の大いなる悟りは全ての生者のために大いに悟る。

 全ての生者の大いなる悟りは諸仏の大いなる悟りを大いに悟る。

 前後は無関係である。


 今の大いなる悟りは、自己の物ではないし、

他の者の物ではないし、

来たわけではないが、「(みぞ)を埋めて塞ぐ」のであるし、

去るわけではないが、「他のものに従って探し求める事を(せつ)()(きら)う」のである。どうして、そうなのか? 「他のものに従って去る」からである。



 京兆米胡は、ある僧に仰山の慧寂に「今の人も、また悟りを借りるか否か?」と質問させた。

 仰山の慧寂は、「悟りは、無いわけではないが、一つ下の位に落ちるのをどうしようか?」と言った。

 僧が帰って京兆米胡に仰山の慧寂の言葉を挙げると、京兆米胡は、深く、うなずいた。



 「今」とは、人々の今である。

 「私に過去、現在、未来を記憶させても」、私に過去、現在、未来を思わせるのが何千万回であっても、「今」であるし、今である。

 人の分け前は、必ず、「今」なのである。

 「眼睛」、「見る眼」を「今」とする事が有るし、

「(真理を嗅ぎ分ける)鼻の(あな)」を「今」とする事が有る。


 「また悟りを借りるか否か?」。

 「また悟りを借りるか否か?」という言葉に静かに参入して究めて、心にも換えるべきであるし、「頂上」にも換えるべきである。


 千二百四十年頃の中国の似非(えせ)僧侶などは「『道』、『真理』を悟るのを(もと)から待ち望んでいる」と言って、いたずらに無駄に、悟りを待ち望んでしまう。

 悟りを待ち望んでしまうのは、仏祖の光明に照らされていないような物である。

 悟りを待ち望んでしまう人は、ただ、真の善知識を持つ人の所に行って理解して取るべきであるのを、怠惰に見過ごしてしまう。

 悟りを待ち望んでしまう人は、古代の仏が「この世」に出現しても、解脱できない。


 「また悟りを借りるか否か?」という言葉は、「悟りは無い」と言っておらず、

「悟りは有る」と言っておらず、

「悟りが来た」と言っておらず、

「悟りを借りるか否か?」と言っている。

 「今の人が悟る時は、どの様にして悟るのか?」と言うような物である。

 例えば、「悟りを得た」と言ってしまうと、「日頃は、悟りは無かったのか?」と思ってしまう。

 「悟りが来た」と言ってしまうと、「日頃は、悟りは、どこに有ったのか?」と思ってしまう。

 「悟りに成った」と言ってしまうと、「悟りには始まりが有る」と思ってしまう。

 この様には言わないし、この様には成らない。

 悟りの有様(ありよう)を言う時には、「悟りを借りるか?」と言うのである。


 それにもかかわらず、「悟りが、一つ下の位に落ちるのをどうしようか?」と言っているのは、「『一つ下の位』も悟りである」と言っているのである。

 「『一つ下の位』も悟りである」と言うのは、「悟りに成った」と言っているのか? 「悟りを得た」と言っているのか?

 「悟りが来た」と言っているような物であるし、「『悟りに成った』と言うのも、『悟りが来た』と言うのも、悟りである」と言っているのである。

 そのため、「悟りが、一つ下の位に落ちる」事を嘆き悲しみながらも、「一つ下の位」を無くすような物である。

 「悟りが成った『一つ下の位』もまた、真に、『一つ下の位』の悟りである」とも思われる。

 このため、たとえ「一つ下の位」であっても、百、千の無数の下の位であっても、悟りである。

 「一つ下の位」が有っても、「一つ上の位」が有った事を残せるわけではない。

 例えば、昨日の私を私として、昨日の私が今日の私を「一つ下の位の人」と言うような物に成ってしまう。

 「今の悟りが昨日は無かった」と言わない。なぜなら、「悟りを今、始めた」わけではないからである。

 この様に、悟りの学に参入して理解して取るのである。

 そのため、大いなる悟りという「位」は黒かったり白かったりする。



 正法眼蔵 大悟


 その時、千二百四十二年、観音導利院興聖宝林寺に住んでいて僧達に示した。


 千二百四十四年、越宇の吉峰古寺に滞在して書き、人や天人や僧達に示した。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ