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正法眼蔵 仏教

 諸仏の言葉が形成されて現されたのが、仏の教えである。

 仏の教えは、仏祖が仏祖のために教えているので、教えが教えのために正しく伝えているのである。

 仏の教えとは、「法輪を転じる」、「法を説く」事である。

 「法輪」、「説かれる法」の「眼睛」、「見る眼」の中に、諸々の仏祖を形成させて現させるし、諸々の仏祖を「般涅槃」、「完全な涅槃」、「完全な寂滅」にさせる。

 諸々の仏祖には、必ず、一つの(ちり)の出現が有るし、

一つの(ちり)の「涅槃」、「寂滅」が有るし、

尽界の出現が有るし、

尽界の「涅槃」、「寂滅」が有るし、

「一須臾」、「一瞬」の出現が有るし、

「多劫海」、「極めて長い年月の海」の出現が有る。

 けれども、一つの(ちり)や「一須臾」、「一瞬」の出現で、諸々の仏祖は、功徳を十分に備えているし、

尽界や「多劫海」、「極めて長い年月の海」の出現で、諸々の仏祖は、何も欠けていない。

 このため、「朝に『成道して』、『悟って』、夕方に『涅槃する』、『肉体が死ぬ』諸仏には功徳が欠けている」と未だに言わない。

 もし「一日では功徳が少ない」と言うならば、人間の八十年も長くは無い。

 人間の八十年を十劫や二十劫と比べると、一日と八十年を比べたように成るだろう。

 各々の仏の功徳をわきまえるのは難しい。

 長い劫の寿命の量である仏が所有している功徳と、八十年の寿命の量の仏の功徳を挙げて量を比べても、激しく疑う事はできない。

 このため、仏の教えとは、教えている仏なのである。仏祖が究め尽している功徳なのである。

 「諸仏は『高広』、『広大』で、法の教えは狭くて小さい」というわけではない。

 実に、知るべきである。

 仏が大きければ教えも大きいし、仏が小さければ教えも小さい。

 (仏が優れていれば教えも優れているし、仏が劣っていれば教えも劣っている。)

 このため、知るべきである。

 仏と教えは、「大小の量」、「優劣」ではないし、

「善性」や「悪性」や「無記性」、「善悪に分け難いもの」などの性質ではないし、

自己のためではないし、他のもののためではない。


 ある人は、誤って「釈迦牟尼仏は、かつて、一代で教えの経典を説いた他に、より優れた無上の一心の法を初祖の摩訶迦葉に正しく伝えて、正統に代々伝承してきている。

そのため、教えは『赴機』、『素質に応じている』無価値な言論である。

心は『理性(りしょう)』、『法性』、『法の本性』の真実である。

正しく伝えられている一心を『教えの外の特別な奥義の心』という意味で『教外別伝』と言う。

一心は、三乗十二分教で話されている事と同じではない。

一心は無上であるので、『直指人心、見性成仏』、『(教えの経典によってではなく、)人の心を直接に指し示して、人の心の本性を見させ、仏に成らせる』と言う」と言った。

 この誤った言葉は、未だ仏法の家の業ではない。

 この誤った言葉には、解脱の活路が無いし、「通身」、「全身」による身のこなしが無い。

 この様な言葉を言う人が、たとえ数百年後、数千年後に、「先人の達道者である」と呼ばれても、この様な言葉を言っているならば、「仏法、仏道を明らめていないし、『通じていない』、『理解していない』」と知るべきである。

 なぜならば、この様な言葉を言う人は、仏、教え、心、内、外を知らないからである。

 仏、教え、心、内、外を知らない理由は、かつて仏法を聞く事ができていないからである。

 「諸仏」と言ってはいるが、「『本末』、『どちらが重要か、という事』が、どのような物であるか?」を知らない人や、過去から未来までの全てを学ばない人は、「仏の弟子である」と自称する事はできない。

 誤って「一心だけを正しく伝えていて、仏の教えは正しく伝える必要が無い」と言う人は、仏法を知らないのである。

 似非(えせ)僧侶は、仏の教えの一心を知らないし、一心の仏の教えを聞く事ができない。

 誤って「一心の他に仏の教えが有る」と言う、あなたの一心は、未だ真の一心ではない。

 誤って「仏の教えの他に一心が有る」と言う、あなたの仏の教えは、未だ真の仏の教えではない。

 「『教外別伝』とは『教えの外の特別な奥義の心』である」という誤った説をあなたが伝えていても、あなたは未だ仏の教えの内も外も知らないので、言葉と論理が符号していない。


 仏の「正法眼蔵」、「正しくものを見る眼」を単一に伝えている仏祖は、仏の教えを単一に伝えている!

 釈迦牟尼仏は、仏の家の家業で有るべきである教えと法を(ほどこ)(もう)けている!

 釈迦牟尼仏は、既に、単一に伝えるべき教えと法を存在させている。

 全ての仏祖も、釈迦牟尼仏の単一に伝えるべき教えと法を存在させている!

 このため、「無上の一心」と言うのは、三乗十二分教であるし、「小蔵と大蔵」、「声聞と独覚のための小乗の声聞蔵と、菩薩のための大乗の菩薩蔵」、「仏教の経典を二つに分けた物」、「経典」である。

 知るべきである。

 仏の心とは、仏の「眼睛」、「見る眼」であるし、

破れた木の柄杓(ひしゃく)であるし、

「諸法」、「全てのもの」であるし、

三界であるので、山と海と、国土と、太陽と月と星々である。

 仏の教えとは、森羅万象である。

 「外」とは、「這裏」、「この中」であり、「這裏来」、「この中から来る」のである。

 「正しく伝えている」とは、自己から自己へ正しく伝えているので、正しく伝えている中に自己が有るのである。

 一心から一心へ正しく伝えているので、正しく伝えている中に一心が有る。

 無上の一心とは、土石、砂礫である。

 土石、砂礫は一心であるので、土石、砂礫とは、土石、砂礫である。

 もし「無上の一心を正しく伝えている」と言うならば、この様であるべきである。


 けれども、「『教外別伝』とは『教えの外の特別な奥義の心』である」という誤った説を言う人は、未だ、この様な意味を知らない。

 このため、「『教外別伝』とは『教えの外の特別な奥義の心』である」という誤った説を信じて、仏の教えを誤解する事なかれ。

 もし、あなたが言う通り「『教外別伝』とは『教えの外の特別な奥義の心』である」ならば、「『仏の教え』とは『心外別伝』、『奥義の心の外の、別に伝えられている物』である」とでも言うのだろうか?

 もし「『仏の教え』とは『心外別伝』、『奥義の心の外の、別に伝えられている物』である」と言ってしまったら、一句も半分の詩も仏の教えは伝えられなかっただろう。

 もし「『仏の教え』とは『心外別伝』、『奥義の心の外の、別に伝えられている物』である」と言えないならば、「『教外別伝』とは『教えの外の特別な奥義の心』である」と言うべきではない。


 初祖の摩訶迦葉は、既に釈迦牟尼仏の正統な法の子として「法蔵」、「仏の教え」、「経典」の「教主」、「祖師」である。

 初祖の摩訶迦葉は、「正法眼蔵」、「正しくものを見る眼」を正しく伝えて仏道の「住持」のような者である。


 それなのに、誤って「仏の教えは正しく伝えるべきではない」と言うのは、仏道を学ぶのにおける、(かたよ)った誤った説である。


 知るべきである。

 仏の教えの一句を正しく伝えれば、一つの法が正しく伝えられるのである。

 仏の教えの一句を正しく伝えれば、「山」と「水」が伝えてくれる事が有る。

 「不能離却這裏」、「この中を離れる事など不可能である」のである。


 釈迦牟尼仏の「正法眼蔵」、「正しくものを見る眼」と「無上普遍正覚」は、初祖の摩訶迦葉だけに正しく伝えられたのである。

 釈迦牟尼仏は、「正法眼蔵」、「正しくものを見る眼」と「無上普遍正覚」を初祖の摩訶迦葉以外の弟子には正しく伝えていない。

 釈迦牟尼仏の「正法眼蔵」、「正しくものを見る眼」と「無上普遍正覚」を正しく伝えている者は、初祖の摩訶迦葉だけなのである。

 このため、古今の仏法の真実を学ぶ者達は、共に皆、従来の教えの中から、どれを学ぶか判断して選ぶ時には、必ず、仏祖に参入して究めるのである。

 「決」、「判断」を仏祖以外には、たずねない。

 もし仏祖の「正決」、「正しい判断」を得ていなければ、未だ「正決」、「正しい判断」ではないのである。

 「どの教えに依るべきか?」の正しい、正しくないを判断しようと思うならば、仏祖で判断するべきである。

 なぜなら、(ことごと)くの「法輪」、「説かれた法」の(もと)からの主は仏祖であるので。

 「有」、「存在」の言葉と「無」の言葉、色の言葉と(くう)の言葉を、仏祖だけが明らめ、正しく伝えて来て、古今の仏と成っている。



 ある僧は、ある時、巴陵顥鑑に「『祖意』、『祖師の心』と『教意』、『仏の教えの心』は同じでしょうか? 別でしょうか?」と質問した。

 巴陵顥鑑は、「鶏は寒いと樹に上る。鴨は寒いと水に入る」と言った。



 巴陵顥鑑の言葉の学に参入して、仏道の代々の祖師達に(まみ)え、仏道の教えと法を見聞きするべきである。

 「『祖意』、『祖師の心』と『教意』、『仏の教えの心』は同じなのか? 別なのか?」と質問する事は、「『祖意』、『祖師の心』と『祖意』、『祖師の心』は同じなのか? 別なのか?」と質問する事に成る。

 「鶏は寒いと樹に上る。鴨は寒いと水に入る」という言葉は、「同じなのか? 別なのか?」を言っていると言えるが、「同じなのか? 別なのか?」を見聞きする人に一任しているわけではない。

 そのため、「同じなのか? 別なのか?」を論じているわけではないので、「同じなのか? 別なのか?」を「鶏は寒いと樹に上る。鴨は寒いと水に入る」という言葉から理解して取るべきである。

 このため、「鶏は寒いと樹に上る。鴨は寒いと水に入る」という言葉は、「『同じなのか? 別なのか?』と質問するべきではない」と言っているような物である。



 ある僧が、ある時、玄沙師備に「三乗十二分教は不要です。『祖師西来』、『達磨が西のインドから中国へ来た事』の意図は、どういう物でしょうか?」と質問した。

 玄沙師備は、「(三乗十二分教は『祖師西来』、『達磨が西のインドから中国へ来た事』の意図であるので、仮に三乗十二分教が不要であるならば、)三乗十二分教は全て不要に成ってしまうだろう」と言った。



 ある僧の質問の「三乗十二分教は不要です。『祖師西来』、『達磨が西のインドから中国へ来た事』の意図は、どういう物だろうか?」というのは、普通の人が思うように、「三乗十二分教は個々の岐路である。その他に、『祖師西来』、『達磨が西のインドから中国へ来た事』の意図が有るでしょう?」と質問しているのである。

 ある僧は、「三乗十二分教は、『祖師西来』、『達磨が西のインドから中国へ来た事』の意図である」と認めていない。

 まして、ある僧は、「八万四千の法の門である蘊は、『祖師西来』、『達磨が西のインドから中国へ来た事』の意図である」と知らない!

 「どうして、三乗十二分教は全て不要に成ってしまうのか?」という学に参入して究めるべきである。

 もし三乗十二分教が必要な時は、どの様な基準が存在するのか?

 三乗十二分教が全て不要である所で、「祖師西来」、「達磨が西のインドから中国へ来た事」の意図の学への参入は形成されて現されるのか?

 いたずらに無駄に、この質問が出現しているわけではない。

 玄沙師備の「(三乗十二分教は『祖師西来』、『達磨が西のインドから中国へ来た事』の意図であるので、仮に三乗十二分教が不要であるならば、)三乗十二分教は全て不要に成ってしまうだろう」という言葉は、「法輪」、「説かれた法」である。

 この「法輪を転じる」、「法を説く」所で、仏の教えは仏の教えに存在する事に参入して究めるべきである。

 その意味とは、三乗十二分教は、仏祖の「法輪」、「説かれた法」であり、仏祖が存在する時と場所でも転じるし、仏祖がいない時と場所でも転じるし、前の祖師でも後の祖師でも同じく転じるし、さらに仏祖を転じる功徳が有る。

 「祖師西来」、「達磨が西のインドから中国へ来た事」の意図が実現している時は、三乗十二分教という「法輪」、「説かれた法」は全て不要であると言える。

 「三乗十二分教は全て不要であると言える」と言うのは、三乗十二分教を用いないわけではないし、三乗十二分教を破るわけではない。

 「祖師西来」、「達磨が西のインドから中国へ来た事」の意図が実現している時は、三乗十二分教という「法輪」、「説かれた法」は、「全て不要であると言える」という「法輪」を転じるだけなのである。

 「三乗十二分教が無い」とは言っていないのである。

 「三乗十二分教は全て不要であると言える」時を見るべきである。

 「『祖師西来』、『達磨が西のインドから中国へ来た事』の意図が実現している時は、三乗十二分教は全て不要であると言える」ので、三乗十二分教なのである。そのため、三乗十二分教というだけではないのである。

 このため、玄沙師備は「(三乗十二分教は『祖師西来』、『達磨が西のインドから中国へ来た事』の意図であるので、仮に三乗十二分教が不要であるならば、)三乗十二分教は全て不要に成ってしまうだろう」と言ったのである。



 三乗十二分教の、いくつか有る中の一隅を挙げると、次の様に成る。



 三乗



 (一)声聞乗


 「四諦」、「四聖諦」、「四つの聖なる真理」によって「道」、「真理」を会得する。

 「四諦」とは、「苦諦と集諦と滅諦と道諦」、「苦集滅道」、「この世は苦であり、執着が苦を招き集めており、執着を滅する事ができ、執着を滅する道が有る事を知る事ができる」である。

 「四諦」を聞いて、「四諦」を修行すると、生老病死から解脱して、「般涅槃」、「完全な涅槃」、「完全な寂滅」を究める。


 「四諦」、「苦集滅道」を修行する時に、「『苦』と『集』は劣悪な俗の物であり、『滅』と『道』は第一の真理、無上の真理である」と言うのは、経典の似非(えせ)学者の誤った見解である。


 もし仏法によって修行すれば、「四諦」、「苦集滅道」は共に「仏と仏だけが能く究め尽せる、諸法の実の相」である。

 「四諦」、「苦集滅道」は共に、法に住んでいる、法の位である。

 「四諦」、「苦集滅道」は共に、真実の相である。

 「四諦」、「苦集滅道」は共に、仏に成れる性質である。

 このため、「無性」、「仏の性質が無い事」や「無作」、「ありのままである事」などを論じるには及ばない。

 「四諦」、「苦集滅道」は共に、「(『四諦』は『祖師西来』、『達磨が西のインドから中国へ来た事』の意図であるので、仮に『四諦』が不要であるならば、)『四諦』は全て不要に成ってしまうだろう」と成るので。



 (二)縁覚乗(または独覚乗)


 「十二因縁」によって「般涅槃」、「完全な涅槃」、「完全な寂滅」を究める。


 「十二因縁」とは、

(一)無明

(二)行

(三)識

(四)名色

(五)六入

(六)触

(七)受

(八)愛

(九)取

(十)有

(十一)生

(十二)老死

である。


 「十二因縁」を修行するのに、過去、現在、未来で、「十二因縁」を各因縁に分けて、観察する、観察されるを論じるが、「十二因縁」の一つ一つの因縁を挙げて参入して究めると、「(『十二因縁』は『祖師西来』、『達磨が西のインドから中国へ来た事』の意図であるので、仮に『十二因縁』が不要であるならば、)『十二因縁』は全て不要に成ってしまうだろう」という「法輪が転じられる」、「法が説かれる」し「因縁」である。


 知るべきである。

 「十二因縁」の「無明」が一心であれば、「行」や「識」などの「十二因縁」も一心なのである。

 「十二因縁」の「無明」が滅であれば、「行」や「識」などの「十二因縁」も滅なのである。

 「十二因縁」の「無明」が「涅槃」、「寂滅」であれば、「行」や「識」などの「十二因縁」も「涅槃」、「寂滅」なのである。

 「生も滅である」、「この世の生も死である」ので、この様に言うのである。

 「十二因縁」の「無明」も言い表した一句なのであり、「識」や「名色」などの「十二因縁」も言い表した一句なのである。


 知るべきである。

 「無明」や「行」などの「十二因縁」は、「私には、この斧が有るので、あなたと共に山に住もう」なのである。

 「無明」や「行」や「識」などの「十二因縁」は、「出発する時に和尚様に斧の許しを(こうむ)り、斧を受け取る」なのである。



 (三)菩薩乗


 「六波羅蜜」で、仏の教えに従って修行して証して、無上普遍正覚を成就する。

 「無上普遍正覚を成就する」とは、「造作」、「作る事」ではなく、

「無作」、「ありのままである事」ではなく、

「始起」、「始める事」ではなく、

「新成」、「新しく形成される事」ではなく、

「久成」、「久遠実成」、「果てしない昔から悟りを開いている事」ではなく、

「本行」、「(もと)より(おこな)っている」ではなく、

「無為」、「自然のままである事」、「人為的に作られていない事」、「消滅しない不変の絶対の真理」ではなく、

ただ「無上普遍正覚を成就する」のである。


 「六波羅蜜」、「六つの到達」とは、「檀(那)波羅蜜、尸羅波羅蜜、羼提波羅蜜、毘梨耶波羅蜜、禅那波羅蜜、般若波羅蜜」、「布施の到達、持戒の到達、忍辱の到達、精進の到達、静慮の到達、知の到達」、「布施、持戒、忍辱、精進、静慮、知」である。

 「布施、持戒、忍辱、精進、静慮、知」は共に、無上普遍正覚である。

 「無生」、「生じない事」や「無作」、「ありのままである事」といった論理ではない。


 必ずしも、布施を最初とし知を最後としない。



 ある経には、「利発な菩薩は、知を最初とし布施を最後とする。愚鈍な菩薩は、布施を最初とし知を最後とする」と記されている。



 けれども、忍辱も最初であるべきであるし、静慮も最初であるべきである。

 「六波羅蜜」による三十六通りが形成されて現されるべきである。

 鳥かごから鳥かごを得るのである。


 「波羅蜜」とは「(この世から仏土という)彼岸への到達」などを意味する。

 「(仏土という)彼岸」は古くからの様子や行跡ではないが、「到達」は形成されて現されるし、手がかりである。

 「修行が(仏土という)彼岸へ至(って修行は不要に成)るだろう」と思う事なかれ。

 (仏土という)彼岸に修行が有るので、修行すれば(仏土という)彼岸へ到達するのである。

 修行は、必ず、遍界が形成されて現される力量を十分に備えているので。



 十二分教または十二部経



 (一)修多羅または契経

 如来、釈迦牟尼仏が、生者の為に直接的に「陰界入」、「『五陰』、『五蘊』と十八界と十二入」、「色受想行識と、眼耳鼻舌身意と色声香味触法と眼(識)耳(識)鼻(識)舌(識)身(識)意識と、眼耳鼻舌身意と色声香味触法」などの「仮」、「実体が無い『この世』のもの」と「実」、「実体」の法を説いたのを、修多羅と名づける。


 (二)祇夜または重頌

 四、五、六、七、八、九の言葉の詩で、くり返し、世界と「陰」、「五陰」、「五蘊」と「入」、「十二入」などの事を説いたのを、祇夜と名づける。


 (三)和伽羅那または授記

 直接的に全ての生者の未来の事を記したり、(はと)や雀が仏に成る事を記したりしたのを、和伽羅那と名づける。


 (四)伽陀または諷頌

 「孤起偈」、「散文を伴わない韻文での教え」で、世界と「陰」、「五陰」、「五蘊」と「入」、「十二入」などの事を説いたのを、伽陀と名づける。


 (五)優陀那または無問自説

 人から質問される事無しに、自ら世界の事を説いたのを、優陀那と名づける。


 (六)尼陀那または因縁

 世界の善くない事を要約して禁戒を結論したのを、尼陀那と名づける。


 (七)阿波陀那または譬喩

 例えで世界の事を説いたのを、阿波陀那と名づける。


 (八)伊帝曰多伽または本事

 「(もと)の昔」、「前世」の世界の事を説いたのを、伊帝曰多伽と名づける。


 (九)闍陀伽または本生

 「(もと)の昔」、「前世」の生を釈迦牟尼仏が受けた時の事を説いたのを、闍陀伽と名づける。


 (十)毘仏略または方広

 世界が広大である事を説いたのを、毘仏略と名づける。


 (十一)阿浮陀達磨または未曾有

 世界の未曾有の事を説いたのを、阿浮陀達磨と名づける。


 (十二)優婆提舎または論議

 世界の事を問い詰めるのを、優婆提舎と名づける。



 十二分教または十二部経は、「世界悉檀」、「生者が聞こうと欲するのに応じて、分別して、正しい因縁による世界の法を説いて、世界の正しい見方を得させる事」である。

 生者を喜ばせるために、十二分教または十二部経を起こしたのである。


 十二分教または十二部経という名前を聞く事ができるのは(まれ)である。

 仏法が世の中に広まっている時に、十二分教または十二部経という名前を聞く事ができる。

 仏法が既に滅んだ時には、十二分教または十二部経という名前を聞く事ができない。

 仏法が未だ広まっていない時も、十二分教または十二部経という名前を聞く事ができない。

 長く善の種を植えて仏を見る事ができる者は、十二分教または十二部経という名前を聞く事ができる。

 十二分教または十二部経という名前を既に聞いた者は、遠からず、無上普遍正覚を得る事ができる。


 十二分教または十二部経の各々は経と呼ばれる。

 十二分教とも言うし、十二部経とも言うのである。

 十二分教の各々は十二分教を十分に備えているので、百四十四分教であると言える。

 十二分教の各々は十二分教を共有して含んでいるので、一分教だけであると言える。

 けれども、億の前後といった数量ではない。

 十二分教または十二部経は皆、仏祖の「眼睛」、「見る眼」であるし、

仏祖の「骨髄」、「理解」であるし、

仏祖の家業であるし、

仏祖の光明であるし、

仏祖の荘厳であるし、

仏祖の国土である。

 十二分教または十二部経を見る事は、仏祖を見る事である。

 仏祖の「道」、「真理」を理解して取る事は、十二分教または十二部経の「道」、「真理」を理解して取る事である。



 そのため、三十四祖の青原の行思が「垂一足」、「片足を垂らした事」は、三乗十二分教である。

 三十四祖の南嶽の懐譲の「ある物を似ている物によって説明しても、言い当てられない」という言葉は、三乗十二分教である。



 玄沙師備の「(三乗十二分教は『祖師西来』、『達磨が西のインドから中国へ来た事』の意図であるので、仮に三乗十二分教が不要であるならば、)三乗十二分教は全て不要に成ってしまうだろう」という言葉の意味とは、この様な物なのである。

 この主旨を挙げて、ひねって取ると、仏祖だけなのである。さらに半分の人もいないし、一つの物も無いし、一つの事も未だ起こらないのである。

 この時、どうするのか?

 「(三乗十二分教は『祖師西来』、『達磨が西のインドから中国へ来た事』の意図であるので、仮に三乗十二分教が不要であるならば、)三乗十二分教は全て不要に成ってしまうだろう」と言うべきである。



 また、九部経という分類が有る。九分教とも言うべきである。



 九部経または九分教



 (一)修多羅または契経

 如来、釈迦牟尼仏が、人の為に直接的に「陰界入」、「『五陰』、『五蘊』と十八界と十二入」、「色受想行識と、眼耳鼻舌身意と色声香味触法と眼(識)耳(識)鼻(識)舌(識)身(識)意識と、眼耳鼻舌身意と色声香味触法」などの「仮」、「実体が無い『この世』のもの」と「実」、「実体」の法を説いたのを、修多羅と名づける。


 (二)伽陀または諷頌

 「孤起偈」、「散文を伴わない韻文での教え」で、世界と「陰」、「五陰」、「五蘊」と「入」、「十二入」などの事を説いたのを、伽陀と名づける。


 (三)伊帝曰多伽または本事

 「(もと)の昔」、「前世」の世界の事を説いたのを、伊帝曰多伽と名づける。


 (四)闍陀伽または本生

 「(もと)の昔」、「前世」の生を釈迦牟尼仏が受けた時の事を説いたのを、闍陀伽と名づける。


 (五)阿浮陀達磨または未曾有

 世界の未曾有の事を説いたのを、阿浮陀達磨と名づける。


 (六)尼陀那または因縁

 世界の善くない事を要約して禁戒を結論したのを、尼陀那と名づける。


 (七)阿波陀那または譬喩

 例えで世界の事を説いたのを、阿波陀那と名づける。


 (八)祇夜または重頌

 四、五、六、七、八、九の言葉の詩で、くり返し、世界と「陰」、「五陰」、「五蘊」と「入」、「十二入」などの事を説いたのを、祇夜と名づける。


 (九)優婆提舎または論議

 世界の事を問い詰めるのを、優婆提舎と名づける。



 九部経の各々は九部経を十分に備えているので、八十一部経であると言える。

 九部経の各々は一部経を十分に備えているので、九部経である。

 一部経へ帰る功徳が無ければ、九部経ではない。

 一部経へ帰る功徳が有るので、一部経は一部経へ帰るのである。

 このため、八十一部経であると言える。


 九部経は、「『これ』の部経」であるし、

「私の部経」であるし、

「害虫を払うための毛がついた棒である払子の部経」であるし、

「杖の部経」であるし、

「正法眼蔵の部経」、「正しくものを見る眼の部経」である。



 釈迦牟尼仏は、「私は、この九部経の法を、生者に応じて説く。九部経の法は、大乗に入る(もと)である。そのため、この九部経を説く」と言った。



 知るべきである。

 「私(、釈迦牟尼仏)の、これ(、九部経)」は、如来、釈迦牟尼仏であり、釈迦牟尼仏の「面目」、「有様(ありよう)」と身心が現れて来ている。

 「私(、釈迦牟尼仏)の、これ」とは、九部経の法であるし、

九部経の法とは、「私(、釈迦牟尼仏)の、これ」である。

 今の一句や一つの詩は、九部経の法である。

 「私(、釈迦牟尼仏)の、これ(、九部経)」であるので、「生者に応じる」のである。

 そのため、一切の全ての生者の生が「この中」で生じるのは、「この九部経を説く」事である。

 死が「この中」で死ぬのは、「この九部経を説く」事である。

 一時の()()いは、「この九部経を説く」事である。

 一切の全ての生者を化して導き、皆、仏道に入らせるのは、「この九部経を説く」事である。

 この全ての生者とは、「私が、この九部経の法を、応じて」説く相手である。

 「応じる」とは、「他のものに応じて去る」事であるし、

「自己に応じて去る」事であるし、

「生者に応じて去る」事であるし、

「生に応じて去る」事であるし、

「私に応じて去る」事であるし、

「これに応じて去る」事である。

 その全ての生者とは、必ず、「私(、釈迦牟尼仏)の、これ(、九部経)」であるので、九部経の法の個々なのである。

 「九部経の法は、大乗に入る(もと)である」と言う事は、「九部経の法は、大乗を証する」と言う事であるし、

「九部経の法は、大乗を修行する」と言う事であるし、

「九部経の法は、大乗を聞く」と言う事であるし、

「九部経の法は、大乗を説く」と言う事である。

 そのため、「生者は天然のまま『道』、『真理』を会得している」と言うわけではない。

 九部経の法は、「道」、「真理」を会得するための一端、手がかりなのである。

 「入る」のは「(もと)」へである。

 「(もと)」とは、「頭が正しいので尾も正しい」なのである。

 仏は法を説く。

 法は仏を説く。

 法は仏によって説かれる。

 仏は法によって説かれる。

 「火」は、仏を説くし、法を説く。

 仏は、「火」を説くし、法は、「火」を説く。

 「この九部経」を「説くため」の良い理由が有るし、「そのため説く」良い理由が有る。

 「この九部経」を説かないと思っても、説かない事は不可能である。

 このため、「そのため、この九部経を説く」と言うのである。

 「そのため説く」とは、「天に行き渡る」事である。

 「天に行き渡る」とは、「そのため説く」事である。

 各々の仏は共に、「この九部経」と単一に呼ぶし、自分の世界も他の世界も共に、「この九部経」を「そのため説く」。

 このため、「この九部経を説く」のであるし、「この九部経」は、仏の教えである。


 知るべきである。

 「恒沙」、「恒河沙」、「無数」の仏の教えは、修行者を打って戒める竹の細長い板である竹箆(しっぺ)や害虫を払うための毛がついた棒である払子である。

 仏の教えが「恒沙」、「恒河沙」、「無数」であるのは、杖や「拳頭」、「拳」である。


 知るべきである。

 三乗十二分教などは、仏祖の「眼睛」、「見る眼」である。

 仏祖の「眼睛」、「見る眼」を開眼していない者が、どうして、仏祖の法の子孫であろうか? いいえ!

 仏祖の「眼睛」、「見る眼」をひねって取って来ない者が、どうして、仏祖の「正眼」、「正しい見識」を単一に伝えられているだろうか? いいえ!

 「正法眼蔵」、「正しくものを見る眼」を体得していない者は、過去七仏の法を()いでいる者ではない。



 正法眼蔵 仏教


 時に、千二百四十一年、雍州の興聖精舎にいて僧達に話した。

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