正法眼蔵 行仏威儀
諸仏は、必ず身のこなしを行い足らせる。
身のこなしを行い足らせる諸仏は、行っている仏である。
行っている仏は、「報仏」、「報身仏」、「報いによる仏」ではないし、
「化仏」、「応身仏」、「仏の化身」ではないし、
「自性身仏」、「法身仏」、「真理の実体である仏」ではないし、
「他性身仏」ではないし、
「始覚」、「思い立って心して、修行して、初めて迷いから覚めて悟りを開く事」による仏ではないし、
「本覚」、「本からの覚」による仏ではないし、
「性覚」による仏ではないし、
「無覚」、「覚などを離れる事」による仏ではない。
この様なもの等による仏は、決して、行っている仏に肩を並べる事はでき得ない。
知るべきである。
諸仏が仏道に存在する様子とは、覚を待たないのである。
仏の向上の道に行為を通達しているのは、行っている仏だけである。
「自性身仏」などは、夢にも未だ見た事が無い所なのである。
行っている仏は、各々で身のこなしが形成されて現されるので、身の前に身のこなしが形成されて現されるし、言葉の前に化す導く心が漏れるのは、諸々の時に行き渡るし、諸方に行き渡るし、諸仏に行き渡るし、諸々の行いに行き渡る。
行っている仏でなければ、「仏縛」、「仏にとらわれてしまう事」や「法縛」、「法にとらわれてしまう事」から未だ解脱しておらず、「仏縛」や「法縛」による「魔」、「仏敵」に分類されてしまう。
「仏縛」と言うのは、「菩提」、「覚」を「覚」として知見したり理解したりして、その知見や理解にとらわれてしまう事である。
「仏縛」に成ると、一心に年月を経てもなお未だ解脱の機会を待ち望めずに、いたずらに無駄に誤解してしまう。
「『菩提』、『覚』は『覚』である」という見解を抱くのは、「菩提」、「覚」に相応の知見かもしれないし、「誰も『邪見である』と言わない!」と思うが、「無縄自縛」、「縄も無いのに自ら縛られて、とらわれてしまう事」に成ってしまう。
「仏縛」に成ると、縛られて、とらわれて、長く続いて絶えず、樹が倒れて藤が枯れるだけではなく、いたずらに無駄に仏の近くの巣窟で生きるだけに成ってしまう。
「仏縛」に成る者は、「法身仏」、「真理の実体である仏」が(気を)病む事を知らないし、「報身仏」、「報いによる仏」が(自ら)窮まる事を知らない。
仏道を遠くで聞いている、他の宗派の経典の学者ですらなお「即於法性、起法性見、即是無明」、「『法性』、『法の本性』において、『法の本性である』という見解を起こすのは、『無明』、『邪見などにとらわれて真理に暗い無知』である」と言う。
他の宗派の経典の学者が、この言葉で、「法性」、「法の本性」で「法の本性である」という見解を起こす事を「法性の縛」と言わず、「無明の縛」に重ねているのは、「法性の縛」が有る事を知らないからである。
憐れむべきではあるが、他の宗派の経典の学者が、「無明の縛」に重なるのを知っているのは、「菩提」、「悟り」を求めて思い立って心する種、きっかけと成るかもしれない。
行っている仏は、かつて、「仏縛」、「法縛」、「法性の縛」などに縛られていない、とらわれていないのである。
このため、「法華経」の「如来寿量品」の「我本行菩薩道、所成寿命、今猶未尽、復倍上数」、「私は本より菩薩の道を行っていて、成している所による寿命は今なお未だ尽きないし、また、先の数の倍である」。
知るべきである。
菩薩の寿命が今も長く連続して絶えないのではないし、仏の寿命が過去へ遍く行き渡っているのではない。
「上数」、「先の数」とは、「所成」、「成している所」の全てである。
「今猶」、「今なお」とは、「寿命」の全てである。
「我本行」、「私は本より行っている」のが、たとえ万里の大きさの一個の鉄であっても、「百年抛却任縦横」、「百年、無数の年月を捨て去って、縦横無尽に任せる」のである。
そのため、修行と証は、無ではないし、「有」、「存在」ではないし、汚染ではない。
「無仏無人」、「仏も人も無い」行為が百、千、万の無数に有っても、行っている仏を汚染しない。
行っている仏は、修行と証に汚染されないのである。
修行と証が汚染されないからではない。
行っている仏が汚染されないのは、「不無」、「無ではない」からである。
曹谿山の三十三祖の大鑑禅師は、南嶽の懐譲に「ただ、諸仏は汚染されない事を護ろうと念頭に置いているのである。
あなたもまた、そうである。
私も、またそうである。
西のインドの祖師達もまた、そうである」と言った。
そのため、「あなたもまた、そうである」ので、諸仏である。
「私も、またそうである」ので、諸仏である。
実に、私だけではなく、あなただけではなく、私が私であるように、諸仏は汚染されない事を護ろうと念頭に置いているのが、行っている仏の身のこなしなのである。
あなたがあなたであるように、諸仏は汚染されない事を護ろうと念頭に置いているのが、行っている仏の身のこなしなのである。
私もなので師も優れているし、あなたもなので弟子も優れているのである。
師も優れているし弟子も優れているのが、行っている仏が「明行足」、「三明の知と身口意の三業の行いを十分に備えている事」なのである。
知るべきである。
諸仏は汚染されない事を護ろうと念頭に置いているので、私も、また、汚染されない事を護ろうと念頭に置いているし、あなたも、また、汚染されない事を護ろうと念頭に置いているのである。
古代の仏と等しい大鑑禅師が会得した「道」、「真理」は、たとえ私には無くても、あなたには有るのではないか?
行っている仏は、汚染されない事を護ろうと念頭に置いているし、汚染されない事に通達している。
このため、「修行と証は、性質や、相や、『本末』、『どちらが重要か、という事』ではない」と知る事ができる。
行っている仏の進退は、結果として、仏を行わせるので、仏は行わせる。
法のために身を捨てる事が有るし、身のために法を捨てる事が有る。
身の命を惜しまない事が有るし、ただ身の命を惜しむ事が有る。
法のために法を捨てるだけではなく、心のために法を捨てる身のこなしが有る。
捨てるのは無量である事を忘れるべきではない。
仏の量をひねって取って来て大いなる道を測量し推測するべきではない。
仏の量は一隅であり、例えば、「華開」、「華開世界起」、「華が開いて世界が起こる」ような物である。
心の量を挙げて来て身のこなしを模索するべきではない。思いめぐらすべきではない。
心の量は一面であり、例えば、世界のような物である。
一茎の草の量は、明らかに仏祖の心の量である。
一茎の草の量は、行っている仏の行跡を認める一欠片である。
たとえ一心の量が無量の仏の量を包含すると見通しても、行っている仏の身のこなしや有様を量ろうとするには本より過分な様子である。
過分な様子なので、当たらないし、使う事ができ得ないし、量る事ができない。
行っている仏の身のこなしには、一つの究めるべき物が有る。
「『仏とは自らである』とは、どの様な物であるのか?」と来ているので、「私も、またそうである」し「あなたもまた、そうである」身のこなしは「ただ私は能く知っている」に関わっているが、「十方の仏も、またそうである」を脱ぎ落とすのは同一ではない。
このため、古代の仏と等しい人は、「あの辺りの事を体で理解して取って、この中に帰って来て、行いなさい」と言った。
既に、この様に保持させられ任せられると、「諸法」、「全てのもの」や「諸々の身」や「諸行」、「全ての事」や諸仏は、身近である。
「諸法」、「全てのもの」や「諸々の身」や「諸行」、「全ての事」や諸仏は、各々、受け入れて会得するのに障害があるだけなのである。
受け入れて会得するのに障害が有るので、受け入れて会得するには脱ぎ落とすだけなのである。
「見る眼」を遮る「明明百草頭」、「明らかな百草」、「森羅万象」によって、「一つの法も見えない」とか「一つのものも見えない」と動揺する事なかれ。
ある法に至ったり、別の法に至ったりできる。
「ひねって取って来たり、ひねって取って去ったりして、同じ門を出入りする」ように行うと、遍界は「最初」から隠していないので、釈迦牟尼仏の「密語」、「意味が込められた言葉」や「密証」や「密行」や「密附」などが有るのである。
「門を出れば草が有り、門を入っても草が有り、万里に草が長く伸びている」のである。
「『入る』という一言も、『出る』という一言も、『門』には不要である」のである。
今の把握は、通過するが、「夢幻」、「空華」である。
誰が今の把握という誤りを誤りとするだろうか?
進むのも誤りであるし、後退するのも誤りであるし、一歩も誤りであるし、二歩も誤りであるので、誤りに誤りを重ねる事に成る。
「天と地は、かけ離れている」ので、「道に到達するのは難しくない」のである。
「威儀、儀威」、「身のこなしと、身」によって、「大道体寛」、「大いなる道の実体は寛大なものである」と究めるべきである。
「出生合道出」、「生じて出る時も道に合った形で出る」のであるし、「入死合道入」、「死に入る時も道に合った形で入る」のである、と知るべきである。
「頭が正しいので尾も正しい」様に、「球が回転する」様に、身のこなしが目の前に現れるのである。
仏の身のこなしの一隅を「遣有」、「存在させる」のは、「乾坤」、「天地」や「大地」の尽くであるし、
生死が来たり去ったりする尽くなのであるし、
「塵刹」、「塵の様に無数の国土が有る俗世」であるし、
「蓮華」である。
「塵刹」、「塵の様に無数の国土が有る俗世」や「蓮華」の各々が、仏の身のこなしの一隅なのである。
未だ学ぶべき物が有る人の多くは、誤って「『乾坤、天地の尽く』と言うのは、『南瞻部洲』、『南閻浮提』、『この世』を言っているのだろう」と思ってしまうし、
また、誤って「『乾坤、天地の尽く』と言うのは、『南瞻部洲』、『南閻浮提』、『この世』といった、『四大洲』のうち一つを言っているのだろう」と思ってしまうし、
また、誤って「『乾坤、天地の尽く』と言うのは、中国一国を言っているのだろう」と思ってしまうし、
誤って「『乾坤、天地の尽く』と言うのは、日本一国を言っているのだろう」と思ってしまう様である。
また、誤って「『大地の尽く』と言うのは、『三千大千世界』を言っているのだろう」と思ってしまう様であるし、
誤って「『大地の尽く』と言うのは、わずかに、『四大洲』のうち一つや、一つの県を言っているのだろう」と思ってしまう様である。
「『乾坤』、『天地』や『大地』の尽く」という言葉の学に参入するには、三回でも五回でも考えるべきであるし、「広さを言っているのだろう」として考える事を止めるなかれ。
「『乾坤』、『天地』や『大地』の尽く」という言葉を会得、理解すると、極大は極小と同様であるし、極小は極大と同様である、仏祖の超越なのである。
「『有』、『存在』の『大小』、『優劣』ではない」と言うと激しく疑うかもしれないが、「『有』、『存在』の『大小』、『優劣』ではない」のが身のこなしである、行っている仏なのである。
仏から仏へ、祖師から祖師へ、言われている「『乾坤』、『天地』や『大地』の尽く」という言葉の意味である、身のこなしを「最初」から隠していないのが遍界である、として学に参入するべきである。
遍界は、「『最初』から隠していない」だけではない。
これが、行っている仏の一座の身のこなしである。
仏道を説明する時に、胎生や化生などは仏道の日常であるが、未だ湿生や卵生などの言葉を理解して取らない。
まして、「胎卵湿化」という「四生」の他にも生が有る事は夢にも未だ見ないのである。
まして、どうして、「胎卵湿化」とは別の「胎卵湿化」が有る事を見聞きしたり覚知したりするだろうか? いいえ!
仏から仏へ、祖師から祖師への大いなる道では、「胎卵湿化」とは別の「胎卵湿化」が有る事を、「最初」から隠していないで正しく伝えているし、親しく意味を込めて正しく伝えている。
「『胎卵湿化』とは別の『胎卵湿化』が有る」という言葉の会得、理解を、聞かなかったり、習わなかったり、知らなかったり、明らめなかったりする人は、何の仲間であるとするのか?
既に「胎卵湿化」という「四生」は聞いているが、死は何種類あるのか?
「胎卵湿化」という「四生」には「四死」が有るべきなのか? 二死、三死、五死、六死、千、万の無数の種類の死が有るべきなのか?
「死は何種類あるのか?」という道理をわずかにでも疑う人は、学に参入する素質が有る。
鍛錬するべきである。
「胎卵湿化」という「四生」の者達の中に、生まれるが死なない者はいるのか?
死ぬ事だけが単一に伝えられていて、生まれる事を単一に伝えられていない者はいるのか?
生まれる事だけが単一に伝えられている類の者や、死ぬ事だけが単一に伝えられている類の者の、有無の学に必ず参入するべきである。
わずかに「無生」、「生じない」という言葉を聞くだけで明らめる事が無い、身心の鍛錬を置いておくような者がいるが、とても愚鈍な者であるし、「信機」、「信じるしかない素質の者」か「法機」、「仏法を聞いて修行できる優れた素質の者」かや、「頓漸」、「修行が遅いか速いか」を論じる事もできない、「畜類」、「動物的人間」と言うべき者である。
なぜならば、たとえ「無生」、「生じない」という言葉を聞いても、言葉の意味が、どの様な物か、知らないからである。
さらに、「無仏」、「無道」、「無心」、「無滅」だろうか? 「無無生」だろうか? 「無法界」、「無法性」だろうか? 「無死」だろうか? と鍛錬しないで、いたずらに無駄に「水と草」、「飲食物」の事だけを思っているからである。
知るべきである。
生死は仏道の日常である。
生死は仏の家の日常の道具である。
生死は、使えば使えるし、明らめれば明らめる事ができ得る。
そのため、諸仏は、生死に通じる事と通じない事に明々に明らかであるし、生死を思い通りに使える。
生死の時に暗くて知らない人を、誰が「あなたは、あなたである」と言うだろうか? 誰が「あなたは生死を悟った人である」と言うだろうか? いいえ!
「生死に沈んでいる」と聞くべきではないし、
「生死に存在する」と考えるべきではないし、
「生死を生死である」と信じて受け入れるべきではないし、
生死を会得、理解しないのはいけないし、
生死を知らないのはいけない。
誤って「諸仏は『人道』、『この世』だけに出現する」と言う人は、誤って「諸仏は他の世界には出現しない」と思ってしまう。
それならば、仏が存在する場所は全て「人道」、「この世」なのか? いいえ!
これは、人と成った仏である釈迦牟尼仏の「唯我独尊」、「ただ私、独りだけが尊い」という言葉への誤解による物である。
天の仏もいるし、仏の仏もいる。
「諸仏は『人間世界』、『この世』だけに出現する」と言う人は、仏祖の奥義に入門していない。
祖師達は、「釈迦牟尼仏は、迦葉仏の仏土で正しい法を伝えてから、『兜率天』へ行って、『兜率天』を化して導き、今も存在する」と言っている。
実に、知るべきである。
人間の釈迦牟尼仏は肉体が死ぬ事を現す化の導きを敷いたが、天上の釈迦牟尼仏は今も存在して天を化して導いているのである。
学徒は知るべきである。
人間での釈迦牟尼仏による千、万の無数の変化する言葉や行いや説明が有ったのは、人間での一隅での光を放つ喜ばしい徴に過ぎなかった。
天上の釈迦牟尼仏の化の導きは更に千、万の無数である事を、愚かにも知らないのはいけない。
仏から仏へ正しく伝えている大いなる道が、断絶を超越し、始まりと終わりが無いのを脱ぎ落としている意味は、仏道だけに正しく伝えられている。
仏教以外の諸々の類の者は知らないし聞けない功徳である。
行っている仏が化の導きを設けている場所には、「胎卵湿化」という「四生」ではない「生者」がいるし、天上や人間や法界などではない場所が有る。
行っている仏の身のこなしを見る時は、天上や人間での眼を用いる事なかれ。天上や人間での量を用いるべきではない。天上や人間での量を挙げて測量しようと思う事なかれ。
行っている仏の身のこなしは、未熟な修行者ですら知らないし明らめていない。まして天上や人中での測量が及ぶ事が有るだろうか? いいえ!
人の度量が短小である人は理解や知も短小である。
寿命が短い人は思慮も短い。
どうして行っている仏の身のこなしを測量できるだろうか? いいえ!
そのため、人間での物事を挙げて仏法としてしまったり、人の法を挙げて仏法を限ろうとしてしまったりする宗派の人を全て「仏の子」として許し認める事なかれ。悪業の報いを受ける生者に過ぎないので。未だ身心によって法を聞かないし、未だ仏道修行する身心が無いので。
法に従って生きていない、法に従って死なない、法に従って見ない、法に従って聞かない、法に従って日常の行いをしない類の仲間には、かつて法の潤いが無いのである。
行っている仏は、「本覚」、「本からの覚」に愛着しないし、
「始覚」、「思い立って心して、修行して、初めて迷いから覚めて悟りを開く事」に愛着しないし、
「無覚」、「覚などを離れる事」に愛着しないし、
「有覚」、「覚が有る事」に愛着しない、と言うのは、この道理からである。
凡人が手段としている、「有念」、「意識する事」や、
「無念」、「無意識である事」や、
「本覚」、「本からの覚」や、
「始覚」、「思い立って心して、修行して、初めて迷いから覚めて悟りを開く事」や、
「無覚」、「覚などを離れる事」や、
「有覚」、「覚が有る事」などは、凡人の手段に過ぎず、仏から仏へ伝承している物ではない。
凡人の「有念」、「意識」と、諸仏の「有念」、「意識」は、遥かに異なるし、比較する事なかれ。
凡人が「本覚」、「本からの覚」を手段としているのと、諸仏が「本覚」、「本からの覚」を証しているのは、天と地ほど、かけ離れているし、比較などできない。
未熟な修行者の行いですら、諸仏の言葉に及ばない。
いたずらに無駄に、砂を数えている凡人が、どうして量る事ができるだろうか? いいえ!
それなのに、凡人や外道の本末転倒の邪悪な見解をわずかに行って、誤って「諸仏の境地である」と思ってしまう輩が多い。
諸仏は、「この輩の罪悪は深く重い。憐れむべき者である」と言っている。
深く重い罪悪は、果てが無いのに、この輩は深く重く担いでしまっているのである。
罪悪を深く重く担いでしまっている輩を、通過して、見守るしかない。
深く重い罪悪を把握して自己を遮ってみても何も始まらない。
行っている仏の身のこなしが、とらわれないのは、仏に遮られても、「拕泥帯水」、「人を救うために泥水にまみれる」活路に通達しているので、とらわれないのである。
行っている仏の身のこなしは、天上では天を化して導くし、人間では人を化して導く。
行っている仏の身のこなしには、「華開世界起」、「華が開いて世界が起こる」功徳が有る。
行っている仏の身のこなしには、かつて間隙が無い。
このため、行っている仏は、「自己」や「他者」を超越して脱ぎ落とし、往来に抜き出ている。
行っている仏は、「兜率天」へ行ける者であるし、「兜率天」から来れる者であるし、「兜率天」自体のような者である。
行っている仏は、「安楽浄土」へ行ける者であるし、「安楽浄土」から来れる者であるし、「安楽浄土」自体のような者である。
行っている仏は、「兜率天」を超越して脱ぎ落としている者であるし、「安楽浄土」を超越して脱ぎ落としている者である。
行っている仏は、「兜率天」と「安楽浄土」の全てのものを木っ端微塵に打ち破るし、「兜率天」と「安楽浄土」を把握したり通過したりするし、一口で飲み込み尽す。
知るべきである。
「兜率天」や「安楽浄土」といった所と、他の浄土や天上は、共に、輪廻転生の行き先という意味では「この世」などと同様である。
日常の行いを行うのであれば、浄土や天上でも同様に、日常の行いを行うのである。
大いに悟るのであれば、浄土や天上でも同様に、大いに悟るのである。
大いに迷うのであれば、浄土や天上でも同様に、大いに迷うのである。
日常の行いや、大いに悟る事や、大いに迷う事は、行っている仏が履物の中で指を動かす事である。
日常の行いや、大いに悟る事や、大いに迷う事は、ある時は、行っている仏の、一音の腸のガスの排気音であるし、排泄物臭である。
「(真理を嗅ぎ分ける)鼻の孔」が有る者は嗅ぎ分ける事ができ得るし、耳や身や日常の行いが有る者は聴いて理解して取る事ができ得る。
行っている仏は、「私の皮肉骨髄を得た」(、「私を得た」)時が有り、行っても、さらに他から得ないのである。
行っている仏は、生死を悟る大いなる道に、既に、とらわれないので、「大いなる聖者は、生死を心に任せるし、生死を身に任せるし、生死を道に任せるし、生死を生死に任せる」と古くから言われている。
この言葉の意味が現れると、古今の時ではなくても、行っている仏の身のこなしは、突然に、行い尽すのである。
道は環に成っていて、この言葉の意味を速やかに、わきまえ受け入れるのである。
行い尽すし、明らめ尽すが、強引な行いではない。
「迷頭認影」、「些細な事に気を取られて、本当に大切な事を見失う事」に大いに似ているが、「回光返照」、「夕日の照り返し」、「日没直前に一時、空が明るく成る事」、「滅びる直前に一時的に勢いを取り戻す事」、「自分の本来の姿を振り返り、反省して、修行する事」と唯一普遍絶対である。
「回光返照」、「自分の本来の姿を振り返り、反省して、修行する事」による、明らめている上に更に明らめるのは、行っている仏が全て統治している。
これは、行って理解して取る事に一任しているのである。
行って理解して取る事に一任している道理によって、心に参入して究めるべきである。
心に参入して究める「兀爾」、「一心の努力」は、万回のどの回も心を明白にする事である。
「三界とは、ただ、心の大いなる隔たりである」と知るし、会得、理解して取る。
「三界とは、心の大いなる隔たりである」という知と理解は、さらに「万法」、「全てのもの」に及ぶ。
しかし、「三界とは、心の大いなる隔たりである」という知と理解は、自己の家を行って理解して取るし、当人の生活である。
そのため、言葉の中の意味を言葉に則って理解して取り、言外の意味を巧みに求め、再三、掬い取って濾す時、把握に余る把握が有るし、通過に余る通過が有る。
その鍛錬とは、生とは、どの様な物であるのか?
死とは、どの様な物であるのか?
身心とは、どの様な物であるのか?
与えたり奪ったりするとは、どの様な物であるのか?
任せられたり背いたりするとは、どの様な物であるのか?
同一の門を出入りしても出会わないのか?
「一著落在」、「一つのものとして表れていると、とらわれている」時に、身を隠しても角を現しているのか?
「大慮而解」、「大いに思慮して理解できる」のか?
「老思而知」、「思慮を老熟させて知る」のか?
「一顆明珠」、「一粒の光明に輝く宝玉」なのか?
一つの「大蔵経」なのか?
一つの杖なのか?
一つの「面目」、「有様」なのか?
三十年後なのか?
「一念万年」なのか? なのである。
点検して詳細に調べるべきであるし、点検を点検して詳細に調べるべきである。
点検を点検して詳細に調べるにあたって、「満眼聞声、満耳見色」、「眼の全てで声を聞くし、耳の全てで色形を見る」。
さらに、「沙門」、「修行者」の単眼が開いて明らかにすると、目の前の法だけではなく、目の前の事だけではなく、ゆったりとした静かな「破顔」が有るし、「瞬目」が有る。
これが、行っている仏の身のこなしの一時である。
物に引かれないし、物を引かないのである。
「縁起」による「無生」、「生じない」、「生じる等を超越した悟り」や「無作」、「何もしない」、「何も生じない」、「自然なまま」ではなく、
「本性」、「本からの性質」や「法性」、「法の本性」ではなく、
法の位に住んでいるわけではなく、
「本有然」、「本からの、ありのまま」ではなく、
ありのままを正しいとするだけではなく、
ただ、身のこなしは、行っている仏の物であるだけなのである。
そのため、法のために、身のために、何かを捨てる事情は、よく心に任せる。
生死を解脱する身のこなしは、暫定的に、仏に一任している。
このため、「万法唯心」、「全てのものは唯一の心である」や「三界唯心」、「三界は唯一の心である」という言葉を理解して取る事ができる。
さらに、向上して「道」、「真理」を会得するので、「唯心、牆壁、瓦礫」、「唯一の心は牆壁、瓦礫である」という「道」、「真理」を会得する。
「唯一の心ではないので、牆壁、瓦礫だけではない」のである。
「唯一の心ではないので、牆壁、瓦礫だけではない」のは、行っている仏の身のこなしである、生死などを心に任せたり法に任せたりする、法のために身のために何かを捨てる、道理である。
「始覚」、「思い立って心して、修行して、初めて迷いから覚めて悟りを開く事」の段階の人や、「本覚」、「本からの覚」の段階の人が及べる所ではない。
まして、外道や「二つの乗り物」の段階の人や未熟な修行者が及べる所ではない!
行っている仏の身のこなしは、面々の理解できない物であるし、一枚一枚の理解できない物である。
行っている仏の身のこなしは、たとえ魚の様に活発であっても個々なのである。
行っている仏の身のこなしは、一個の鉄なのか? 「二つに成ったミミズの両方の頭が共に動く事」なのか?
一個の鉄は長短ではない。
「二つに成ったミミズの両方の頭が共に動く事」は自分や他のものではない。
この「『展事』、『投機』」、「事を展開して広げ、機会に投じる」力は、鍛錬を得ると、「威掩万法」、「威徳で全てのものを覆う」し、「眼高一世」、「一生を見抜く能力が高い」。
「僧堂、仏殿、廚庫、三門」は、「収放」、「手中に収めたり、手放したりする」のを遮らない光明である。
「僧堂、仏殿、廚庫、三門」は、「収放」、「手中に収めたり、手放したりする」ではない光明である。
さらに、十方に通じる眼が有るし、大地を全て収める眼が有る。
心の前が有るし、心の後ろが有る。
この様な眼耳鼻舌身意は、光明の功徳が燃える様に盛んであるので、存在を知らないで保持させられ任せられている過去、現在、未来の諸仏がいるし、却って存在を知って「投機」、「機会に投じる」、野生の猫や牛がいる。
(原文の「狸奴」は「野生の猫」を意味する。)
この「巴鼻」、「要点の把握」が有るし、この「眼睛」、「見る眼」が有る者は、法を行っている仏を説くし、法を行っている仏を聴くのである。
(原文の「ゆるす」は「聴す」と解釈できる。)
雪峰山の、真覚大師と呼ばれる雪峰義存は、僧達に示して、「過去、現在、未来の諸仏は、『火』の中にいて、『大いなる法輪を転じる』、『大いなる法を説く』」と言った。
宗一大師と呼ばれる玄沙師備は、「『火』は過去、現在、未来の諸仏のために法を説く。過去、現在、未来の諸仏は地に立って聴く」と言った。
圜悟克勤は、「ある者は猿は白いと言うし、別の者は猿は黒いと言う。『互換』、『どちらも当てはまる』し、『投機』、『機会に投じる』。神出鬼没である。激しい『火』が天に行き渡ると、仏は法を説く。天に行き渡っているのが激しい『火』であると、法が仏を説く。風が当たって、葛藤の巣を切断する。一言で、維摩を明らかにする」と言った。
過去、現在、未来の諸仏とは、一切の全ての諸仏である。
行っている仏とは、過去、現在、未来の諸仏である。
十方の諸仏とは、同時に、過去、現在、未来の諸仏である。
仏道では、過去、現在、未来を説く時に、この様に、説き尽すのである。
「行っている仏とは何者であるか?」と尋ねると、「行っている仏とは、過去、現在、未来の諸仏である」。
たとえ、存在を知っていても、存在を知らなくても、必ず、「行っている仏とは、過去、現在、未来の諸仏である」。
三人の古代の仏と等しい人達は、同じ「過去、現在、未来の諸仏」を言った時に、この様に言ったのである。
雪峰義存の「過去、現在、未来の諸仏は、『火』の中にいて、『大いなる法輪を転じる』、『大いなる法を説く』」という言葉の道理を習うべきである。
過去、現在、未来の諸仏が「法輪を転じる」、「法を説く」道場は、必ず、「火」の中なのである。
「火」の中は、必ず、仏の道場なのである。
経典の似非学者は聞く事ができないし、外道や「二つの乗り物」の段階の人は知る事ができない。
知るべきである。
諸仏の「火」は、諸々の種類の火ではない。
(仏の「火」は、普通の火ではない。)
また、「諸々の種類のものには、『火』が有るのか? 無いのか?」とも照らして見て顧みるべきである。
「過去、現在、未来の諸仏が『火』の中にいる」という化の導きの事を習うべきである。
「火」の中にいる時、「火」と諸仏は近いのか? 遠いのか?
身体が依り所とする環境としての報いである「この世」と過去の行いの正に報いである身心は、存在するのか? 唯一普遍絶対であるのか? 同一なのか? 違うのか?
「大いなる法輪を転じる」、「大いなる法を説く」時は、自己を転じるし、転じる機会が有るし、「『展事』、『投機』」、「事を展開して広げ、機会に投じる」し、法を転じるし、法によって転じられる。
「法輪を転じる」、「法を説く」と言うが、たとえ大地の尽くが尽くの「火」であっても、「火輪」を転じる「法輪」、「法」が有るし、
諸仏を転じる「法輪」、「法」が有るし、
「法輪を転じる法輪」、「法を説く法」が有るし、
過去、現在、未来を転じる「法輪」、「法」が有る。
そのため、「火」は、諸仏が「大いなる法輪を転じる」、「大いなる法を説く」大いなる道場である。
「火」や「法輪を転じる事」、「法を説く事」を世界の量、時の量、人の量、凡人や聖者の量などで測量しても当たらない。
世界の量、時の量、人の量、凡人や聖者の量などで量れないので、「過去、現在、未来の諸仏は、『火』の中にいて、『大いなる法輪を転じる』、『大いなる法を説く』」のである。
「過去、現在、未来の諸仏」と言うのは、量を超越しているのである。
過去、現在、未来の諸仏が「法輪を転じる」、「法を説く」道場なので、「火」が有るのである。
「火」が有るので、諸仏の道場なのである。
玄沙師備は、「『火』は過去、現在、未来の諸仏のために法を説く。過去、現在、未来の諸仏は地に立って聴く」と言った。
この言葉を聞いて、「玄沙師備の言葉は、雪峰義存の言葉よりも、道、真理を会得していて正しい」と言う人がいるが、必ずしも、そうではない。
知るべきである。
雪峰義存の言葉は、玄沙師備の言葉とは別である。
雪峰義存は過去、現在、未来の諸仏が「大いなる法輪を転じる」、「大いなる法を説く」場所を言っているし、玄沙師備は過去、現在、未来の諸仏が法を聴く事を言っている。
雪峰義存の言葉は「法を転じる」、「法を説く」事を言っているが、「法を転じる」、「法を説く」場所では、必ずしも、法を聴く、聴かないを論じていない。
そのため、雪峰義存の言葉は「『法を転じる』、『法を説く』と必ず法を聴く者がいる」とは聞こえない。
また、雪峰義存は、「過去、現在、未来の諸仏は、『火』のために、法を説く」と言わなかったし、
「過去、現在、未来の諸仏は、過去、現在、未来の諸仏のために、『大いなる法輪を転じる』、『大いなる法を説く』」と言わなかったし、
「『火』は、『火』のために、『大いなる法輪を転じる』、『大いなる法を説く』」と言わなかった意味が有る。
「法輪を転じる」と言ったり、「大いなる法輪を転じる」と言ったりしているが、違いは有るのか?
「法輪を転じる」とは「法を説く」だけではない。
「法を説く」のは必ずしも他のもののためではない。
そのため、雪峰義存の言葉は、言うべき言葉を言い尽している。
雪峰義存の「『火』の中にいて、『大いなる法輪を転じる』、『大いなる法を説く』」という言葉によって、必ず詳細に学に参入するべきである。
玄沙師備の言葉によって混乱する事なかれ。
雪峰義存の言葉に「通じる」、「理解する」事は、仏の身のこなしを身につける事に成る。
「火」が過去、現在、未来の諸仏を中に存在させるのは、一つや二つの無尽法界という範囲だけではないし、一つや二つの微小な塵に通達しているだけではない。
「大いなる法輪を転じる」を量として、大小や広い狭いの量にする事なかれ。
「大いなる法輪を転じる」のは、自己のためでも他のもののためでもないし、説くためでも聴くためでもない。
玄沙師備は、「『火』は過去、現在、未来の諸仏のために法を説く。過去、現在、未来の諸仏は地に立って聴く」と言った。
たとえ「火」は過去、現在、未来の諸仏のために法を説いても、未だ「法輪を転じる」とは言わなかった。
また、「過去、現在、未来の諸仏は『法輪を転じる』」とは言わなかった。
過去、現在、未来の諸仏が地に立って聴いても、どうして、過去、現在、未来の諸仏の法輪が「火」を転じるだろうか?
過去、現在、未来の諸仏のために法を説く「火」は、「大いなる法輪を転じる」のか否か?
玄沙師備は、「『法輪を転じる』のは、この時である」と未だ言っていない。
玄沙師備は、「『法輪を転じる事』は無い」と言わなかった。
けれども、推測するに、玄沙師備は愚かにも「『法輪を転じる』とは『法を説く事』だけである」と誤解したのか?
もし、そうであれば、玄沙師備は未だ雪峰義存の言葉に暗いのである。
玄沙師備は、「『火』が過去、現在、未来の諸仏のために法を説く時、過去、現在、未来の諸仏は地に立って聴く」とは知っていたが、「『火』が『法輪を転じる』所で『火』は地に立って法を聴く」と知らなかったのである。
玄沙師備は、「『火』が『法輪を転じる』所で『火』は同じ『法輪を転じる』」と言わなかった。
過去、現在、未来の諸仏が聴くのは、諸仏の法であり、他から被るのではない。
「火」を法と認める事なかれ。
「火」を仏と認める事なかれ。
「火」を普通の火と認める事なかれ。
実に、雪峰義存と玄沙師備、師弟の言葉をなおざりにするべきではない。
「赤い髭の『胡』」だけであろうか? いいえ! さらに、これは、「『胡』の髭は赤い」なのである。
(「胡」には「ひげの長い未開の地の野蛮な人」という意味が有る。)
玄沙師備の言葉は、この様であるといえども、学に参入する力量とするべき所が有る。
経典の似非学者の「大乗」と「小乗」、「矮小な乗り物」、「劣悪な段階」の度量の性質や相とは無関係である、仏から仏へ、祖師から祖師へ正しく伝えられている性質と相の学に参入するべきである。
「仏から仏へ、祖師から祖師へ正しく伝えられている性質と相」とは、「過去、現在、未来の諸仏が法を聴く事」である。
「過去、現在、未来の諸仏が法を聴く」のは、「大乗」と「小乗」、「矮小な乗り物」、「劣悪な段階」の性質や相ではない。
人々は、「諸仏には、『機縁』、『教えを求める素質が、教えを説いてもらえる、きっかけと成る事』による説法が有る」とだけ知っていて、「諸仏は法を聴く」と言わないし、「諸仏は修行する」と言わないし、「諸仏は仏に成る」と言わない。
玄沙師備は、「過去、現在、未来の諸仏は地に立って法を聴く」と言ったが、「諸仏が法を聴く」性質と相が有るのである。
「法を説く者は優れていて、法を聴く者は劣っている」と必ずしも言う事なかれ。
法を説く者が尊ければ、法を聴く者も尊いのである。
釈迦牟尼仏は、「もし、この(法華)経を説けば、私を見ると為す」、「一人の為に説くのは、難しいと為す」と言った。
そのため、法を説く事は、釈迦牟尼仏を見る事に成るのである。
「私を見ると為す」のは、釈迦牟尼仏であるので。
また、釈迦牟尼仏は、「私の肉体が滅んだ後において、この(法華)経を聴いて受け入れ、その意味を質問するのは、難しいと為す」と言った。
知るべきである。
「(法を)聴いて受け入れる」のも、(法を説くのと)同じく、釈迦牟尼仏は「難しいと為す」。
(法を説く事と法を聴く事の)優劣は無いのである。
最も尊い者である諸仏であるといえども、「地に立って法を聴く事」は有るべきなのである。「過去、現在、未来の諸仏は地に立って法を聴く」ので。
諸仏は結果の上にいるので、原因の中の「法を聴く事」を言っているわけではない。「過去、現在、未来の諸仏」と既に言われているので。
知るべきである。
「過去、現在、未来の諸仏」とは、「火」が説く法を地に立って聴いて諸仏と成るのである。
一途な化の導きを辿るべきではない。
辿ろうとすると、「箭鋒相拄」、「矢と刃が衝突する」。
「火」は、必ず、過去、現在、未来の諸仏のために法を説く。
全くの真心として、「鉄樹華開世界香」、「鉄の樹の華が開いて世界が香る」のである。
さらに言うと、「火」が説く法を地に立って聴いていくと、最終的に何を形成して現すのか? 「智勝于師」、「知が師よりも優れる」のであるし、「智等于師」、「知が師に等しく成る」のである。さらに、師弟の奥義に参入して究めて過去、現在、未来の諸仏と成るのである。
圜悟克勤の言葉の「ある者は猿は白いと言う」のが「別の者は猿は黒いと言う」のを遮らないで「互換」、「どちらも当てはまる」し「投機」、「機会に投じる」のは、「神出鬼没」である。
圜悟克勤の言葉は玄沙師備の言葉と同一に出るけれども、同一には入らない一つの道も有るといえども、「火」の諸仏であるのか? 諸仏を「火」とするのか?
黒と白が「互換」、「どちらも当てはまる」心が、玄沙師備の「神鬼」に出没するといえども、雪峰義存の声色は未だ黒と白の際に残らない。
しかも、この様ではあるが、玄沙師備の言葉に正しい所も有るし、正しくない所も有るし、雪峰義存にひねって取った言葉が有るし、手放した言葉が有る事を知るべきである。
さらに、圜悟克勤には、玄沙師備と異なるし、雪峰義存と異なる、「激しい『火』が天に行き渡ると、仏は法を説く。天に行き渡っているのが激しい『火』であると、法が仏を説く」という言葉が有る。
「激しい『火』が天に行き渡ると、仏は法を説く。天に行き渡っているのが激しい『火』であると、法が仏を説く」という言葉は、真に後進の者にとっての光明である。
たとえ、「激しい『火』」に暗くても、天に行き渡って覆われれば、私に、その分け前が有るし、他のものに、この分け前が有る。
天に行き渡って覆う所の物は、既に、「激しい『火』」である。
これを嫌って、あちらを用いるのは、「どうであろう?」というしかない。
喜ぶべきである。
皮袋である日本人は、生まれた場所は聖者達から遠く離れているし、生きている今は聖者達の時代から遠く離れているといえども、天に行き渡っている化の導きが、なお聞こえるのに出会った。
仏が法を説く事は聞いた事が有るが、法が仏を説く事は何重もの無知を患って来て知らなかった事か!
そのため、過去、現在、未来の諸仏は、過去、現在、未来で、法によって説かれているし、過去、現在、未来の諸法は、過去、現在、未来で、仏によって説かれている。
葛藤の巣に風を当てて切断する、天に行き渡っているものだけが有る。
一言は、隠れる事無く、維摩も、維摩ではないものも、明らかにしてきている。
そのため、法が仏を説くし、
法が仏を行うし、
法が仏を証するし、
仏が法を説くし、
仏が仏を行うし、
仏が仏と成る。
この様に成るのは、共に、行っている仏の身のこなしによる物なのである。
天地に渡っても、古今に渡っても、得た者は軽んじられないし、明らめた者は低い位の者として用いられない。
正法眼蔵 行仏威儀(行っている仏の身のこなし)
千二百四十一年、観音導利興聖宝林寺で沙門である道元が記した。