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正法眼蔵 仏性

 釈迦牟尼仏は、「一切の全ての生者には、ことごとく仏に成れる性質が有る。如来は、常に不変で住んでいて、変化しない」と言った。



 この言葉は、私達の大いなる師である釈迦牟尼仏の「獅子吼」、「獅子(ライオン)()えるように説かれた法」である「転じた法輪」、「説かれた法」であるが、一切の全ての諸仏、一切の全ての祖師の「頂上」であるし、「眼睛」、「見る眼」である。



 学に参入してきて既に(釈迦牟尼仏の肉体が死んだ紀元前九百四十九年から千二百四十一年までの)二千百九十年間である。

 正統な法の子孫は、わずかに(道元の亡き師である五十祖の如浄までの)五十代である。

 西のインドの二十八代の祖師達は、代々、住んで保持してきた。

 東の地の中国の二十三人の祖師達は、代々、住んで保持してきた。

 十方の仏祖は、共に、住んで保持してきた。



 「一切の全ての生者には、ことごとく仏に成れる性質が有る」という釈迦牟尼仏の言葉の主旨は、どの様な物であるのか?

 「何ものかが、どの様にかして来ている」という「言葉」であるし、「転じられた法輪」、「説かれた法」である。


 「衆生」、「全ての生者」と言ったりするし、

情の有る者と言ったりするし、

「群生」、「全ての生者」と言ったりするし、

「群類」、「全ての生者」と言ったりする。


 「ことごとく有る」と言われたものは、「衆生」、「群有」、「全ての生者」である。

 「ことごとく有る」のは、仏に成れる性質である。

 「ことごとく有る」もののうち一つを「衆生」、「全ての生者」と言うのである。


 この時、全ての生者の内外には、仏に成れる性質がことごとく有るのである。


 単一に伝えられている「皮肉骨髄」、「理解」だけではなく、「あなたは私の『皮肉骨髄』を得た」(、「あなたは私を得た」)ので。


 知るべきである。

 仏に成れる性質によって、ことごとく有らしめられている「有」とは、「有無」、「存在か無」の「有」、「存在」ではない。



 「ことごとく有る」とは、仏の言葉であるし、

仏の舌であるし、

仏祖の「眼睛」、「見る眼」であるし、

法衣を着た僧の「(真理を嗅ぎ分ける)鼻の(あな)」である。


 「ことごとく有る」という言葉は、「始有」、「『最初』から有る」ではないし、

「本有」、「(もと)から有る」ではないし、

「妙有」、「真理自体が永遠に存在する」等ではないし、

まして、「縁有」、「(えん)が存在する」、「(つな)がりが存在する」や「妄有」、「(みだ)りに存在する」ではない!


 「ことごとく有る」という言葉は、心、知覚の対象、性質、相などとは無関係である。


 「全ての生者に、ことごとく有る」、心と身が依り所とする環境としての報いである「この世」と、過去の行いの正に報いである心と身は、業が「増上する」、「増長する」力ではないし、

(みだ)りに因縁によって生じたのではないし、

「法爾」、「ありのまま」ではないし、

「神通」、「理解」と修行と証ではない。


 もし「全ての生者に、ことごとく有るもの」が、業が「増上する」、「増長する」力であったり、因縁によって生じたり、「法爾」、「ありのまま」などであったりしたら、諸々の聖者の「証道」、「修行による証」、「悟り」や、諸々の仏の無上普遍正覚や、仏祖の「眼睛」、「見る眼」も、業が「増上する」、「増長する」力であったり、因縁によって生じたり、「法爾」、「ありのまま」などであったりしてしまうだろう。

 しかし、そうではない。


 尽界は全て、「客塵」、「外から来る煩悩」ではない。

 ()ぐ下に第二の人などはいない(、あなただけである)。

 「直々に根源を切るのを人は未だ理解しておらず、『業識』、『(ごう)によって生じた(誤った)理解』で多忙にしていて、いつに成ったら止むのか?」なので。


 (みだ)りに因縁によって生じた存在ではない。

 遍界は「最初」から隠していないので。


 「遍界は『最初』から隠していない」と言うのは、必ずしも「世界に満ちているものは存在である」と言う訳ではないのである。


 「遍界は私の所有物である」と言うのは、外道の邪悪な見解である。


 「本有」、「(もと)から有る」、存在ではない。

 古今に渡っているので。


 「『最初』から有る」、存在ではない。

 一つの「(ちり)」、「汚れ」、「煩悩」をも受け入れないので。


 突然の存在ではない。

 結合しているので。


 「最初」が無い存在ではない。

 「何ものかが、どの様にかして来ている」ので。


 初めて生じた存在ではない。

 「平常心は『道』、『真理』である」ので。


 まさに、知るべきである。

 「ことごとく有る」中でさえも、全ての生者は、快速の船便によってでも出会い難いのである。


 この様に、「ことごとく有る」という言葉を理解して取れば、「ことごとく有る」とは「透体脱落」、「煩悩を透過して脱ぎ落とす事」である。



 「仏に成れる性質」という言葉を聞いて、多くの学者は、先尼(セーニャ)外道の「我」、「真我」、「霊知」の様に誤解している。

 誤解しているのは、人に出会わないし、自己に出会わないし、師に(まみ)えないからである。

 いたずらに、「『四大(元素)』の『火』や『風』の様に動揺する心の意識」を「仏に成れる性質の『覚知覚了』、『自覚』」であると誤解している。

 「仏に成れる性質には『覚知覚了』、『自覚』が有る」と誰が言ったのか?

 たとえ「覚者」、「知者」が諸々の仏であっても、仏に成れる性質は「覚知覚了」、「自覚」ではない。

 諸仏を「覚者」、「知者」と言う時の「覚」、「知」は、あなたたちが色々言っている誤解とは異なるし、「四大(元素)」の「火」や「風」の様な動揺ではない。

 一人や二人の個々の仏祖の「面目」、「有様(ありよう)」が、諸仏を「覚者」、「知者」と言う時の「覚」、「知」なのである。


 西のインドに行って帰還したり、人や天人を化して導いたりした、長老の僧や先人の高徳の僧は、中国で漢の時代から宋の時代まで、(いね)(あさ)、竹、(あし)の様に多数存在するが、往々にして、多くの僧侶は、「『四大(元素)』の『火』や『風』の様に動揺する心の意識」を「仏に成れる性質の『覚知覚了』、『自覚』」であると誤解している。

 憐れむべきである。

 仏道を学び修行する事が、うたた、ひどく、おろそかなので、この様に誤解するのである。

 今の仏道の後進の者や初心者は、そうであってはいけない。


 たとえ「覚知覚了」、「自覚」を学んだとしても、「覚知覚了」、「自覚」は「動揺する意識」ではない。

 たとえ「動揺する意識」を学んだとしても、「動揺する意識」は「仏に成れる性質」ではない。


 もし真の「動揺する意識」を会得して理解して取る事があれば、真の「覚知覚了」、「自覚」を会得して理解して取るべきである。

 「仏と性質は、あちこちに到達している」のである。

 必ず「仏に成れる性質は、ことごとく有る」のである。

 「ことごとく有るものが、仏に成れる性質である」ので。


 「ことごとく有る」とは、「全てのものが()()微塵(みじん)に成っている物から形成されている事」ではない。

 「ことごとく有る」とは、一個の鉄ではない。


 「拳頭」、「拳」をひねっているので、大小ではない。


 既に「仏に成れる性質」と言っているので、諸々の聖者と肩を並べていないし、仏の性質と肩を並ばせるべきではない。


 ある一種類の人々は、誤って「仏に成れる性質は、草木の種のような物である。法の雨の(うるお)いが、しきりに(うるお)す時、芽や茎が生じて成長し、枝や葉や花や果実を茂らす事が有る。果実は、新しい種を内包している」と思ってしまう。

 この様な見解は、凡人の情による推測である。

 たとえ、この様な見解を抱いたとしても、「種や花や果実は共に個々の真心である」として学に参入して究めるべきである。

 果実の中に種が有り、種は見えなくても根や茎などを生じる。集めなくても、いくつもの枝に大きく囲まれる。

 内外の論理ではない。

 古今の時で、(むな)しくない。

 たとえ、凡人の見解に一任しても、根や茎や枝や葉は皆、同じく生まれて生き、同じく死に、同じく「ことごとく有る仏に成れる性質である」。



 釈迦牟尼仏は「仏に成れる性質の意味を知ろうと思うならば、時の因縁をまさに観察するべきである。もし時が来れば、仏に成れる性質は目の前に現れる」と言った。



 「仏に成れる性質の意味を知ろうと思うならば」と言うのは、ただ知るだけではなく、「修行しようと思うならば」、「証しようと思うならば」、「説こうと思うならば」、「忘れないと思うならば」とも言えるのである。

 修行も、証も、説く事も、忘れない事も、誤る事も、誤らない事も、時の因縁による物である。

 時の因縁を観察するには、時の因縁によって観察するし、害虫を払うための毛がついた棒である払子、杖などによって観察する。


 「有漏智」、「煩悩に汚染されている知」や、

「無漏智」、「煩悩が無い汚染されていない知」や、

「本覚」、「(もと)からの覚」や、

「始覚」、「思い立って心して、修行して、初めて迷いから覚めて悟りを開く事」や、

「無覚」、「覚などを離れる事」や、

「正覚」、「正しい覚」などの知によってでは、時の因縁を観察できない。


 「まさに観察する」と言うのは、「観察する」や「観察される」とは無関係であり、

正しい観察や誤った観察などに従うべきではなく、

「まさに観察する」のである。


 「まさに観察する」ので、「自分を観察するわけではない」のであるし、

「他のものを観察するわけではない」のであるし、

時の因縁であるし、

因縁の超越であるし、

仏に成れる性質であるし、

仏に成れる性質を脱ぎ落とす事であるし、

仏から仏へであるし、

性質から性質へである。


 「もし時が来れば」という言葉を、往々にして、古今の(やから)は、誤って「仏に成れる性質が目の前に現れる時が、未来に有るのを待つのである」と思ってしまう。

 「仏に成れる性質が目の前に現れる時が、未来に有るのを待って、修行していくと、自然に仏に成れる性質が目の前に現れる時に出会える」と誤って思ってしまう。

 「仏に成れる性質が目の前に現れる時が来なければ、師の所に行って『法』、『真理』について質問しても、道をわきまえる鍛錬をしても、仏に成れる性質は目の前に現れない」と誤って言ってしまう。

 この様に誤って見て取って、いたずらに無駄に、俗世という赤い土色の(ちり)に帰ってしまい、虚しく(そら)を見守る様に呆然としている(たぐい)の人は、恐らくは、自然に外道の(たぐい)と成ってしまう。


 「仏に成れる性質の意味を知ろうと思うならば」と言うのは、「仏に成れる性質の意味をまさに知るべきである」と言う事である。

 「時の因縁をまさに観察するべきである」と言うのは、「時の因縁をまさに知るべきである」と言う事である。

 つまり、仏に成れる性質を知ろうと思うならば、知るべきである、時の因縁が仏に成れる性質である。

 「もし時が来れば」と言うのは、「既に時は来ているので、何を激しく疑うのか?」と言う事である。

 時を激しく疑うならば、それはそれで仕方がない、「私に仏に成れる性質よ返って来なさい」である。

 知るべきである。

 「もし時が来れば」と言うのは、一日の間を(むな)しく過ごさない事である。

 「もし来れば」と言うのは、「既に来ている」と言うような物である。

 「もし時が来れば」と待っていたら、仏に成れる性質は来ないのである。

 つまり、「時が既に来ているので、仏に成れる性質は目の前に現れている」のである。

 「時が既に来ているので、仏に成れる性質は目の前に現れている」という理は明らかである。

 なぜなら、「来ないかもしれない時は無い」し、「目の前に現れない仏に成れる性質は無い」のである。

 (「仏に成れる性質は、ことごとく有る」ので。)



 十二祖の馬鳴は、十三祖の迦毘摩羅のために仏に成れる性質の海を説いて、「山河や大地は皆、仏に成れる性質の海によって建てられている。三昧や六神通は、仏に成れる性質の海によって発現する」と言った。



 そのため、山河や大地は皆、仏に成れる性質の海である。

 「皆、仏に成れる性質の海によって建てられている」と言うのは、建てられている時、山河や大地なのである。

 既に「皆、仏に成れる性質の海によって建てられている」と言う。

 知るべきである。

 仏に成れる性質の海の形は、山河や大地なのである。

 内や外や中間に関わるべきではない。

 「仏に成れる性質の海の形は、山河や大地なのである」ならば、山河を見る事は仏に成れる性質を見る事に成るし、仏に成れる性質を見る事はロバの(えら)や馬の(くちばし)を見る事である。

 「皆、仏に成れる性質の海によって建てられている」とは、「全ての物は、仏に成れる性質の海によって建てられている」のであるし、「全ての物は、全てのものによって建てられている」のであると会得して理解して取るし、理解できないものとするのである。


 「三昧や六神通は、仏に成れる性質の海によって発現する」。

 知るべきである。

 「諸々の三昧が発現したり、来て現れる」のは、同じく、「皆、仏に成れる性質の海によって」なのである。

 六神通の全ては、仏に成れる性質による物も、直接的には仏に成れる性質によらない物も、共に、「皆、仏に成れる性質の海によって」なのである。

 「六神通」とは、「阿笈摩教」、「小乗」、「矮小な乗り物」、「劣悪な段階」の者が言う「六神通」ではない。

 「六」と言うのは、「前三三後三三」を「六通波羅蜜」、「六神通波羅蜜」、「布施、浄戒、忍辱、精進、静慮、知」という「六波羅蜜」と言うのである。

 そのため、「『六神通』は、『明明百草頭、明明仏祖意』である」、「『六神通』は『明らかな百草、森羅万象は、明らかに仏祖の心である』」として参入して究める事なかれ。

 「六神通」に停滞させる、といえども、仏に成れる性質の海に流れ込むのを(さえぎ)ってしまう事にも成ってしまう。



 大満禅師と呼ばれる三十二祖の弘忍は、蘄州の黄梅県の人である。

 前世の弘忍は、父を亡くしてから生まれ、幼子の時に「道」、「真理」を会得して「栽松道者」と成った。

 前世の弘忍は、初めて蘄州の西山にいて松を植えていた時に、外出していた、大医禅師と呼ばれる三十一祖の道信と出会った。

 道信は、前世の弘忍に、「私は、あなたに仏法を伝えたいと思うが、あなたは既に歳を取り過ぎている。もし、あなたが再び『この世』に来るならば、私は、あなたを待ちます」と告げた。

 前世の弘忍は、引き受けた。

 弘忍は、ついに、「周」家の女性の所に行って、「周」家の女性の息子として生まれ変わった。

 弘忍は、ある時、港の(にご)っている水の中に捨てられてしまったが、神の者に守られて七日間、無傷で無事であったので、拾い直されて養われた。

 弘忍は、七歳の幼子に成った時に、黄梅の道の上で、道信と再び出会った。

 道信は、弘忍を見て「骨相が不思議に秀でていて、普通の幼子とは異なる」と思ったので、弘忍に「あなたの姓は、何と言いますか?」と質問した。

 弘忍は、「私の姓は『有』、『存在』です。私の姓は普通の姓ではありません」と答えた。

 道信は、「存在とは、どの様な物であるか?」と言った。

 弘忍は、「存在とは、仏に成れる性質です」と言った。

 道信は、「(あなたは仏ではないので、)あなたに仏の性質は無い」と言った。

 弘忍は、「仏に成れる性質は(くう)であるので、無と言う」と言った。

 道信は、弘忍が仏法を受容できる器であると理解して、弘忍をそばに仕えさせて、後に、弘忍に「正法眼蔵」、「正しくものを見る眼」を付属した。

 弘忍は、黄梅の東山にいて、奥深い家風を大いに振るった。



 祖師が選び取った言葉に参入して究めると、道信の「あなたの姓は、何と言うのか?」という言葉には意味が有る。

 昔は、「何々国人の何々姓」という物が有ったので、「あなたの姓は、何と言うのか?」と言ったのである。

 例えば、「私もまた、その様である」し、「あなたもまた、その様である」と言うような物である。


 弘忍は、「私の姓は『有』、『存在』である。私の姓は普通の姓ではない」と言った。

 「『存在』という姓は普通の姓ではない」し、「普通の姓が『存在』では正しくない」。

 (「存在」という概念は大き過ぎて、特定の家の姓として使用するには適さない。)


 道信の「存在とは、どの様な物であるか?」という言葉は、「どの様な物」とは「存在」である。

 「存在」を「どの様な物」としてきたのが、「姓」である。

 「どの様な物」と成らせるのは、「存在」のおかげである。

 「存在」と成らせるのは、「どの様な物であるか?」の功能である。

 姓は、「存在」であるし、「どの様な物であるか?」なのである。

 これを(ヨモギ)湯にも点じるし、茶湯にも点じるし、日常茶飯事ともするのである。


 弘忍は、「存在とは、仏に成れる性質である」と言った。

 「存在とは、仏に成れる性質である」という言葉の意味は、「存在は仏に成れる性質である」と成る。

 「どの様な物であるか?」のおかげで、「存在は仏である」と成る。

 「存在」は「どの様な物であるか?」だけで究めて理解して取れるだろうか?

 「存在が既に正しくない時は仏に成れる性質なのである」。

 「存在」とは「どの様な物であるか?」、「存在は仏である」といえども、脱ぎ落とすと、「透脱する」、「透体脱落する」、「煩悩を透過して脱ぎ落とす」と、必ず、「存在は姓である」し、「姓は『周』家である」なのである。

 けれども、(厳密に言うと、)「存在」を父から受けた訳ではないし、「存在」を道信といった祖師から受けた訳ではないし、「存在」が母と似ていないし、「存在」は傍観者に肩を並べるだろうか? いいえ!


 道信は、「(あなたは仏ではないので、)あなたに仏の性質は無い」と言った。

 「(あなたは仏ではないので、)あなたに仏の性質は無い」という言葉を理解して取ると、「あなたは誰々ではないので、あなたに一任するが、あなたに仏の性質は無い」と開演しているのである。

 知るべきである。

 学ぶべきである。

 どの様な時に仏の性質が無いのか?

 仏の頭には仏の性質が無いのか?

 仏は向上するので仏の性質が無いのか?

 七と八に通達する事を、八方(はっぽう)(ふさ)がりにする事なかれ。

 七と八に通達する事を、模索する事なかれ。

 「仏の性質が無いのは一時の三昧である」と修行する事も有る。

 「仏の性質とは、仏と成った時、仏の性質は無く成るのか?」、「仏の性質とは、思い立って心した時は、仏の性質は無いのか?」と質問して理解するべきであるし、言葉を理解して取るべきである。

 寺の円柱にも質問させるべきであるし、寺の円柱にも質問して理解して取るべきであるし、仏に成れる性質にも質問させるべきである。

 そのため、「(あなたは仏ではないので、)あなたに仏の性質は無い」という言葉は、遥かな道信の部屋から聞こえている物なのである。黄梅の弘忍に見聞きできるし、趙州真際大師に流通しているし、三十七祖の大潙禅師と呼ばれる潙山霊祐に声を上げている。

 「(あなたは仏ではないので、)あなたに仏の性質は無い」という言葉について必ず精進するべきである。ためらう事なかれ。

 「(あなたは仏ではないので、)あなたに仏の性質は無い」という言葉を辿(たど)るべきであり、

「どの様な物であるか?」という目安が有るし、

「あなた」という「時」、「機会」が有るし、

「存在」という「投機」、「機会に投じる事」が有るし、

「周」家という同じ姓が有るし、

「直趣である」、「一途(いちず)である」。


 弘忍は、「仏に成れる性質は(くう)であるので、無と言う」と言った。

 「(くう)とは虚無ではない」として明らかに「仏に成れる性質は(くう)であるので、無と言う」という言葉を理解して取れる。

 「仏に成れる性質は(くう)である」という言葉を選び取って、半斤と言わず、八両と言わず、「無」という言葉を選び取った。

 (一斤は十六両。半斤は八両。)

 (くう)であるので(くう)と言わず、無であるので無と言わず、仏に成れる性質は(くう)であるので無と言った。

 そのため、無という断片は(くう)という言葉を理解して取るために掲げられた印であるし、(くう)は無という言葉を理解して取る力量である。

 「仏に成れる性質は(くう)である」の「(くう)」は、「色即是空」の「(くう)」ではない。

 「色即是空」と言うのは、色を強引に(くう)としている訳ではないし、(くう)を分けて色を作っている訳ではない。

 「仏に成れる性質は(くう)である」の「(くう)」は、「(くう)(くう)である」の「(くう)」である。

 「(くう)(くう)である」の「(くう)」と言うのは、空の中の一欠片の石である。

 そのため、「仏に成れる性質は無である」と、「仏に成れる性質は(くう)である」と、「仏に成れる性質は存在である」と、道信と弘忍の言葉によって、質問して理解して取り、言葉を理解して取るべきである。



 昔、曹谿山の三十三祖の大鑑禅師が黄梅山の三十二祖の弘忍の所に初めて行った時、弘忍は大鑑禅師に「あなたは、どこから来ましたか?」と質問した。

 大鑑禅師は、「嶺南の人です」と言った。

 弘忍は、「来て、何を求めているのですか?」と言った。

 大鑑禅師は、「仏に成る事を求めています」と言った。

 弘忍は、「嶺南の人には仏の性質が(未だ)無い。どの様にしたら仏に成れるだろうか?」と言った。



 「嶺南の人には仏の性質が(未だ)無い」と言うのは、「嶺南の人には仏に成れる性質が無い」と言う訳ではないし、

「嶺南の人には仏の性質が有る」と言う訳ではないし、

「嶺南の人には仏の性質が(未だ)無い」のである。


 「どの様にしたら仏に成れるだろうか?」と言うのは、「どの様に仏に成る事を望むのか?」と言うのである。


 仏の性質の道理を明らめている先人は少ない。

 諸々の「阿笈摩教」、「小乗」、「矮小な乗り物」、「劣悪な段階」の者や、霊感が無い文字だけの経典の似非(えせ)学者は、仏の性質を知る事はできない。

 仏の性質は、仏祖の法の子孫にだけ単一に伝えられているのである。

 仏の性質の道理では、仏の性質は仏に成るよりも前に十分に備わるのではなく、仏の性質は仏に成った後で十分に備わるのである。

 仏の性質には、必ず、仏に成るのと共に参入するのである。

 この道理に、よくよく参入して究めて鍛錬するべきである。

 二十年でも三十年でも鍛錬して学に参入するべきである。

 仏の性質は、未熟な修行者が明らめる事ができる物ではない。

 「全ての生者には仏に成れる性質が有る」、「全ての生者には仏の性質が(未だ)無い」という言葉を選び取られているのは、この道理なのである。

 「仏の性質は、仏に成って以降に十分に備わるのが法である」として学に参入するのは正しく的を射ている。

 この様に学ばないのは、仏法ではない。

 この様に学ばなければ、仏法は今日にまで至らなかっただろう。

 もし、この道理を明らめなければ、仏に成る事を明らめていないし、仏を見聞きしていないのである。

 このため、弘忍は、大鑑禅師に向かって言う時に、「嶺南の人には仏の性質が(未だ)無い」と言う方法を取ったのである。

 仏法を見聞きする最初に、聞く機会を得るのが難しいのは、「全ての生者には仏の性質が(未だ)無い」という言葉である。

 善知識を持つ人々によってか、経典によって、聞く事を喜ぶべきなのは、「全ての生者には仏の性質が(未だ)無い」という言葉である。

 「一切の全ての生者には仏の性質が(未だ)無い」という言葉を見聞きしたり覚知したりして参入していない者は、仏の性質を未だ見聞きしたり覚知したりしていないのである。

 大鑑禅師が専ら仏に成る事を求めるために、弘忍が大鑑禅師を仏に成らせるために、他の言葉を選び取れず、(たく)みに善へ導く事ができず、ただ、「嶺南の人には仏の性質が(未だ)無い」と言った。

 「『仏の性質が(未だ)無い』という言葉を選び取り、聞いて理解して取るのは、仏に成るための最短の道である」という事を知るべきである。

 そのため、「仏の性質が(未だ)無い」事を理解した時こそ、仏に成る時である。

 「仏の性質が(未だ)無い」という言葉を未だ見聞きせず、理解して取れない人は、未だ仏に成っていないのである。



 大鑑禅師は、「人に南北は有っても、仏に成れる性質に南北は無い」と言った。



 大鑑禅師の言葉を理解して取って理解を挙げて、大鑑禅師の言葉の中の意味を鍛錬するべきである。

 大鑑禅師の南北の言葉は、まさに、真心で照らして(かえり)みて良く調べるべきである。

 大鑑禅師が言い得た言葉には意味が有る。

 大鑑禅師の言葉には、「人は仏に成っても、仏に成れる性質は仏に成らない」という一隅の考えて得た物が有る。

 大鑑禅師は「人は仏に成っても、仏に成れる性質は仏に成らない」事を知っていたのか否か?


 道信と弘忍が選び取った言葉である「仏の性質は無い」と「仏に成れる性質は無である」という言葉を会得、理解した人は、遥かに(さえぎ)る力量の有る「人は仏に成っても、仏に成れる性質は仏に成らない」という一隅を受けて、迦葉仏や釈迦牟尼仏などの諸仏が仏と成って「法輪を転じる」、「法を説く」と、「ことごとく仏に成れる性質が有る」という言葉を理解して取る力量が有るのである。

 「ことごとく有る」の「有」、「存在」は、どうして「無い」と「無である」の「無」の法を()いでいるだろうか? いいえ!

 そのため、「仏の性質は無い」と「仏に成れる性質は無である」という言葉は、遥かな三十一祖の道信と三十二祖の弘忍の部屋から聞こえているのである。

 大鑑禅師が三十三祖であるならば、三十一祖の道信と三十二祖の弘忍の「仏の性質は無い」と「仏に成れる性質は無である」という言葉を鍛錬するべきなのである。

 「有無」、「存在か無」の「無」は(しばら)く置いておき、「仏に成れる性質とは、どの様な物であるか?」と質問して理解して取るべきであるし、「仏に成れる性質とは、何ものであるか?」とたずねるべきである。

 今の人でも、「仏に成れる性質」と聞いたら「仏に成れる性質とは、どの様な物であるか?」と質問して理解して取らず、仏に成れる性質の有無などの意味を言うような人は、軽率である。

 そのため、「諸々の無」の「無」は、「仏の性質は無い」と「仏に成れる性質は無である」の「無」に学ぶべきである。


 大鑑禅師が選び取った「人に南北は有っても、仏に成れる性質に南北は無い」という言葉を長く再三、(すく)い取って()すべきである。まさに、水中の生物を(すく)い取る道具に力量が有るべきである。

 大鑑禅師が選び取った「人に南北は有っても、仏に成れる性質に南北は無い」という言葉を静かに、ひねって取ったり手放したりするべきである。


 愚者は、誤って「『質礙』、『同一空間に複数は共存できないもの』なので、人には南北が有るが、『虚融』、『心に(とどこお)る所が無い』ので、仏に成れる性質は南北を議論できないので、大鑑禅師は『人に南北は有っても、仏に成れる性質に南北は無い』という言葉を選び取ったのか?」と推測してしまうが、無分別で愚かである。この間違った見解を捨て去って、学ぶ事に勤めるべきである。



 三十三祖の大鑑禅師は、門人の行昌に示して、「『無常』、『変化する』とは、仏に成れる性質である。『有常』、『不変』とは、善悪を一切諸法を分別する心である」と言った。



 大鑑禅師の「無常」という言葉は、外道や「二つの乗り物」の段階の人が推測している物ではない。

 外道や「二つの乗り物」の段階の人の始祖と末裔が「無常である」と言っても、彼らは窮め尽す事ができないのである。


 無常であるものが自ら無常を説いて表し、行って表し、証して表したら、皆、無常である。

 「今、自身を現して仏土に渡すべき者には、自身を現して、その者のために法を説く」のである。

 「今、自身を現して仏土に渡すべき者には、自身を現して、その者のために法を説く」のが、仏に成れる性質である。

 さらに、「長い法身を現したり、短い法身を現したりする」のである。

 常に聖者である者も「無常である」、「変化している」。

 (常に聖者である者は、聖者であろうとしている。)

 常に凡人である者も「無常である」、「変化している」。

 聖者と凡人が「有常」、「不変」なのは、仏に成れる性質ではない。

 「聖者と凡人が不変である」というのは狭量の愚かな見解であるし、推測による狭い見識である。

 「仏とは、狭量の身であるし、性(質)とは、狭量の作用である」。

 このため、大鑑禅師は、「『無常』、『変化する』とは、仏に成れる性質である」という言葉を選び取ったのである。

 「有常」は「未転」である。

 「未転」とは、たとえ、「煩悩を断った」と変化しても、「煩悩が断たれた」と変化しても、過去や未来の行跡と関係が必ずしも有る訳ではない事である。

 そのため、「未転」は「有常」である。

 そのため、草木や林や寺が「無常である」、「変化する」のは、仏に成れる性質である。

 人や物や身や心が「無常である」、「変化する」のは、仏に成れる性質である。

 国土や山河が「無常である」、「変化する」のは、仏に成れる性質である。

 無上普遍正覚は仏に成れる性質なので、「無常である」、「変化する」。

 「大般涅槃」、「大円寂」、「釈迦牟尼仏の『涅槃』、『寂滅』」は「無常である」、「変化する」ので、仏に成れる性質である。


 諸々の、狭量な「二つの乗り物」の段階の人や霊感が無い文字だけの似非(えせ)学者などは、大鑑禅師の言葉を驚き疑い、恐れるべきである。

 驚き疑わない人は、「魔」、「仏敵」や外道の(たぐい)である。



 十四祖の龍樹は、サンスクリット語の発音では「ナーガールジュナ」と言う。

 中国では、十四祖は、「龍樹」、「龍勝」、「龍猛」と言う。

 龍樹は、西のインドの人である。

 龍樹が南インドに行くと、南インドの国の人々の多くは「福業」、「福を招く行為」を信じていた。

 龍樹が南インドの国の人々のために妙なる法を説くと、聞いた者達は互いに「人にとって『福業』、『福を招く行為』が世間で第一の物である。いたずらに無駄に仏に成れる性質を言っても、誰が仏に成れる性質を見る事ができるのか? いいえ! 誰も仏に成れる性質を見る事ができない!」と言い合った。

 龍樹は、「あなたが仏に成れる性質を見ようと欲するならば、まず、自分の慢心を除くべきである」と言った。

 ある南インドの国の人は、「仏に成れる性質とは大きいのか? 小さいのか?」と言った。

 龍樹は、「仏に成れる性質は、大小ではないし、広い狭いではないし、福も報いも無いし、生じたり滅んだりしない」と言った。

 南インドの国の人々は、仏に成れる性質の(ことわり)が優れている事を聞いて、ことごとく、最初に抱いていた思いを改めた。

 龍樹は、座の上に、満月のような自在身を現した。

 一切の全ての集まっていた大衆は、龍樹が法を説く声しか聞こえず、龍樹の人の姿を見れなかった。

 大衆の中に、長者の子である十五祖の「迦那提婆」、「伽那提婆」がいて、集まっていた大衆に「満月のような『相』の意味、満月のように見える意味を理解できましたか? 理解できませんか?」と言った。

 集まっていた大衆は、「今、私達は、目で未だ見た事が無いし、耳で聞いた事が無いし、心で理解できた事が無いし、身が満月のように成って住んだ事が無い」と言った。

 伽那提婆は、「龍樹様は、仏に成れる性質の『相』、『見え方』を現して、私達に示しているのです。『何によって、そう知ったのか?』と言うと、『形が満月のようである』と言われている『無相三昧』によってです。仏に成れる性質の意味を知ると、心が広々と澄みわたり、とらわれなく成る」と言った。

 伽那提婆が言い終わると、龍樹は、満月のような「相」、「見え方」を隠して、座に戻り、詩で「身で(まる)い月の『相』、『見え方』を現して、諸仏の実体を表現した。説いている法には形が無いので、音声や色形ではないもので用が足りる」と言った。



 知るべきである。

 音声や色形を現さなくても、真に、用が足りるのである。

 真の説法には形が無いのである。

 龍樹が、かつて、広く、仏に成れる性質を人のために説いた数は、数える事が不可能な量である。

 今は、暫定的に、一隅を略して挙げているのである。


 「あなたが仏に成れる性質を見ようと欲するならば、まず、自分の慢心を除くべきである」。

 人の(ため)に説かれている「あなたが仏に成れる性質を見ようと欲するならば、まず、自分の慢心を除くべきである」という言葉の意味を、見過ごさずに、わきまえて受け入れるべきである。

 仏に成れる性質は見る事ができるが、仏に成れる性質を見るには自分の慢心を除く必要が有るのである。

 自分と思っている物も一つではないし、慢心も多種多様であるし、自分の慢心を除く方法も万の無数に異なるだろう。

 けれども、自分の慢心を除けば、仏に成れる性質を見るのである。

 「見る眼」で見る事、肉眼で見る事に習うべきである。


 「仏に成れる性質は、大小ではない」という言葉の理解は、この世の普通の凡人や「二つの乗り物」の段階の人の諸々の例に習う事なかれ。

 なぜなら、偏って融通が利かずに、「仏に成れる性質は広大であろう」とだけ思ってしまう邪念を蓄えて来ているからである。

 仏に成れる性質が大小ではない時の言葉に(さえぎ)られない道理を、今、聴いて理解して取るように思量するべきである。思量である聴いて理解して取る事を使い得るので。


 龍樹の言い表した詩の言葉を聞いて理解して取るべきである。

 「身で(まる)い月の『相』、『見え方』を現して、諸仏の実体を表現した」のである。

 諸仏の実体を表現している身の現し方なので、(まる)い月の「相」、「見え方」なのである。

 そのため、一切の長い短い、角ばっている(まる)いを、(まる)い月の「相」、「見え方」という身の現し方に学ぶべきである。

 身と現す事に、うたた、ひどく、おろそかであるのは、(まる)い月の「相」、「見え方」に暗いだけではなく、諸仏の実体を知らないのである。


 愚者が、誤って「龍樹が仮に化身を現したのを(まる)い月の『相』、『見え方』と言う」と思ってしまうのは、仏道を継承していない(たぐい)の仲間の邪念である。


 どこに、いつ、龍樹は身ではない物を他に現したのか? いいえ!

 まさに、知るべきである。

 (まる)い月の「相」、「見え方」を現した時、龍樹は、高座にいただけなのである。

 身の現し方は、今の誰もが坐っているようにしていたのである。

 この身が、(まる)い月の「相」、「見え方」の現れなのである。

 身を現す事は、角ばっている(まる)いではなく、有無ではなく、隠れている現れているではなく、「八万四千の蘊」ではなく、ただ、身を現す事なのである。

 (まる)い月の「相」、「見え方」とは、黄檗希運から宣宗への「ここが、どこだと思って、更に、『粗い』とか『細かい』とか説くのか?」という言葉である。

 身を現すには「まず、自分の慢心を除くべきである」ので、龍樹の身を現したのではなく、諸仏の実体を表現したのである。

 表現であるので、諸仏の実体を「透脱している」、「透体脱落している」、「透過して脱ぎ落としている」。

 そのため、「仏辺」、「仏の側」とは無関係である。

 仏に成れる性質が満月のような形である、「心が広々と澄みわたり、とらわれなく成る事」が有っても、(まる)い月の「相」、「見え方」を仏に成れる性質に並べている訳ではない。

 まして、音声や色形を現さなくても用が足りるし、色形の身を現した訳ではないし、「蘊処界」、「五蘊と十二処と十八界」、「色受想行識と、眼耳鼻舌身意と色声香味触法と、眼耳鼻舌身意と色声香味触法と眼(識)耳(識)鼻(識)舌(識)身(識)意識」ではない。

 「蘊処界」、「五蘊と十二処と十八界」、「色受想行識と、眼耳鼻舌身意と色声香味触法と、眼耳鼻舌身意と色声香味触法と眼(識)耳(識)鼻(識)舌(識)身(識)意識」のようではあるが、表現であり、諸仏の実体である。

 「説法蘊」である。

 「説いている法には形が無い」のである。

 「説いている法には形が無い」し、さらに「無相三昧」である時、身を現すのである。

 大衆が今、(まる)い月の「相」、「見え方」を遠くから眺めても、「目で未だ見た事が無い」のは、「説法蘊」の転機であるし、「自在身を現した」が、「音声や色形ではない」のである。

 隠れたり現れたりしたのは、満月のような「相」、「見え方」による進歩と後退である。

 「龍樹が座の上に満月のような自在身を現した」時は、「一切の全ての集まっていた大衆は、龍樹が法を説く声しか聞こえず、龍樹の人の姿を見れなかった」のである。


 十四祖の龍樹の正統な法の子である、十五祖の伽那提婆は、明らかに、満月のような「相」、「見え方」を理解し、(まる)い月の「相」、「見え方」を理解し、身を現す事を理解し、諸々の仏に成れる性質を理解し、諸仏の実体を理解している。

 「入室した」、「師から法を()いだ」、「瀉瓶した」、「ある器から別の器へ水を移す様に師から法を()いだ」者達が、たとえ、多いといえども、十五祖の伽那提婆に肩を並べる事はできないだろう。

 十五祖の伽那提婆は、十四祖の龍樹に座を半分、譲られた尊い人であるし、僧達の会の導師であるし、全ての座の僧のうち一部を分担した座にいたのである。

 霊山で初祖の摩訶迦葉が「座元」、「首座」であったかの様に、十五祖の伽那提婆は「正法眼蔵」、「正しくものを見る眼」と無上の大いなる法を正しく伝えられた。

 龍樹は、出家前、外道のバラモンであった時、弟子が多かったが、皆、断って去らせた。

 龍樹は、仏と成って以降は、独り、十五祖の伽那提婆だけを、法を付属した正統な法の子として、「正法眼蔵」、「正しくものを見る眼」と無上の大いなる法を正しく伝えた。

 龍樹は、十五祖の伽那提婆だけに、無上の仏の道を単一に伝えたのである。


 それなのに、分不相応な事をする邪悪な者どもは、勝手に「私たちも龍樹の法を()いだ者である」と自称した。

 「龍樹の法を()いだ」と勝手に自称する人たちは、論を作り教義を集めたが、多くは龍樹の手を借りた自説であるし、龍樹が造った物ではない。昔、龍樹に捨てられたバラモンの弟子どもによる、人や天人の心を惑わし乱すための物である。

 仏の弟子は、一途(いちず)に、「十五祖の伽那提婆が伝えていない言葉は、龍樹の言葉ではない」と知るべきである。

 「十五祖の伽那提婆が伝えていない言葉は、龍樹の言葉ではない」と信じる人は、正しい信心を得たのである。

 それなのに、偽物と知りながら受け入れる者が多い。

 大いなる知の悪口を言う生者の愚かさを憐れみ悲しむべきである。


 十五祖の伽那提婆は、龍樹が満月のような自在身を現したのを指して、集まった大衆に「龍樹様は、仏に成れる性質の『相』、『見え方』を現して、私達に示しているのです。『何によって、そう知ったのか?』と言うと、『形が満月のようである』と言われている『無相三昧』によってです。仏に成れる性質の意味を知ると、心が広々と澄みわたり、とらわれなく成る」と言った。

 今、天上や人間で、大千法界に流布している仏法を見聞きしている前後の時間の皮袋である人のうち、誰が「身で現した『相』、『見え方』は仏に成れる性質である」という言葉を選び取れたのか?

 大千世界では十五祖の伽那提婆だけが「身で現した『相』、『見え方』は仏に成れる性質である」という言葉を選び取れたのである。

 他の者は、「目で未だ見た事が無いし、耳で聞いた事が無いし、心で理解できた事が無い、など」という言葉だけを選び取ったのである。

 「身で現す事は仏に成れる性質である」と知らないので、「身で現す事は仏に成れる性質である」という言葉を選び取れないのである。

 祖師は教えを惜しんではいないが、「見る眼」と「聞く耳」が塞がれていて見聞きできなかったのである。

 身による理解が未だ起こらないので、了解して分別する事ができなかったのである。

 「無相三昧」の「形が満月のようである」のを遠くから眺めて礼拝しても、「目で未だ見た事が無い」のである。


 「仏に成れる性質の意味を知ると、心が広々と澄みわたり、とらわれなく成る」。

 そのため、身で現して説いた仏に成れる性質とは、「心が広々と澄みわたり、とらわれなく成る事」である。

 説いている仏に成れる性質を身で現すと、諸仏の実体の表現と成るのである。

 全ての仏が、表現によって諸仏の実体を表すのである!

 諸仏の実体とは、身で現す事である。

 身で現す仏に成れる性質が有る。

 「土、水、火、風」という「四大(元素)」や「色受想行識」という「五蘊」という言葉を選び取って、会得、理解して取った仏祖の量も、逆に、身で現す一時である。

 諸仏の実体とは、「蘊処界」、「五蘊と十二処と十八界」、「色受想行識と、眼耳鼻舌身意と色声香味触法と、眼耳鼻舌身意と色声香味触法と眼(識)耳(識)鼻(識)舌(識)身(識)意識」の、身で現す事なのである。

 一切の功徳は、身で現す功徳である。

 仏の功徳は、身で現す事を究め尽して、袋の(くち)(くく)る様に含んで理解する事なのである。

 一切の全ての、無量、果てしない、功徳の行き来は、身で現す一時である。


 それなのに、龍樹と伽那提婆の師弟よりも後で、インド、中国、日本の三国の諸方で、過去から現在まで、仏教を学んだ人達は、未だに龍樹と伽那提婆のような言葉を選び取れていない。

 どれだけの経典の学者などが、仏の道を見過ごした事か!

 中国では昔から龍樹が満月のような自在身を現した出来事を描こうとしたが、身に描いたり、心に描いたり、空に描いたり、壁に描いたりできず、いたずらに筆先で描いて、法座の上に鏡のような一つの輪の形を描いて、今、龍樹が身で現した(まる)い月の「相」、「見え方」としてしまっている。

 既に数百年の年月が経って、人の眼にとっての金属の(くず)をなそうとしているけれども、「誤っている」と言う人はいない。

 憐れむべきである。

 この様に、万事が誤っているのである。

 もし誤って「身で現した(まる)い月の『相』、『見え方』は、一つの輪の形である」と会得、理解してしまえば、真の一枚の絵に描いた餅に成ってしまう。他人を愚弄しているし、笑うべき物であるし、笑い過ぎて死にそうに成る。

 中国という一国の在家信者も出家者も、一人も、十四祖の龍樹の言葉を聞いた事が無いし知らないし、十五祖の伽那提婆の言葉に通じて理解していないし見た事が無い事を悲しむべきである。

 まして、身で現す事に近づいただろうか? いいえ!

 (まる)い月に暗いし、満月に欠けている。

 これは、学がおろそかであるからであるし、古代を(した)う事が至らないからである。

 古代の仏と等しい人、新しい仏は、真の身で現す事に出会う事によって、絵に描いた餅を尊重する事なかれ。


 知るべきである。

 身で(まる)い月の相を表している場面を描くには、法座の上で身で現している姿が有るべきである。

 絵では、釈迦牟尼仏の「拈華瞬目」である「揚眉瞬目」が、端正であるべきである。

 絵では、「皮肉骨髄」、「理解」と「正法眼蔵」、「正しくものを見る眼」においては、必ず、じっと坐るべきである。

 絵では、初祖の摩訶迦葉の「破顔微笑」が伝わるべきである。仏祖に成るので。

 この様に描いた絵が未だ月に見えなければ、月の様な形は無いし、法を説かないし、音声や色形が無いし、用が足りていないのである。

 もし、身で現す事を求めるならば、(まる)い月の「相」、「見え方」を描くべきである。

 (まる)い月の「相」、「見え方」を描くのであれば、(まる)い月の「相」、「見え方」を描くべきである。龍樹は、身で(まる)い月の「相」、「見え方」を現したので。

 (まる)い月の「相」、「見え方」を描く時、満月の「相」、「見え方」を描くべきであるし、満月の「相」、「見え方」を現すべきである。


 それなのに、身で現す事を描かず、「(まる)い月」を描かず、満月の「相」、「見え方」を描かず、諸仏の実体を描かず、表現を体現せず、法を説く事を描かず、いたずらに無駄に、絵に描いた餅を一枚、描くが、「用いて何をするのか?」。

 絵に描いた餅を急いで見ても、誰が飢えを止められるだろうか?

 月は円形である。

 円は身で現す事である。

 円を学ぶのに、一枚の円形の硬貨のように学ぶ事なかれ。一枚の餅に似せる事なかれ。

 「身の『相』、『見え方』は、(まる)い月の身である」。

 「形は、満月のような形である」。

 一枚の円形の硬貨や、一枚の餅は、円に学ぶべきである。



 私、道元は、雲の様に漂っていた昔、宋の時代の中国に行き、千二百二十三年、秋の頃、初めて、阿育王山の広利禅寺に行った。

 道元は、広利禅寺の西の廊下の柱と柱の間の壁に、西のインドと東の中国の三十三人の祖師の変身した「相」、「見え方」が描かれているのを見た。

 道元は、この時、真理を了承していて見ていた訳ではなかった。

 道元は、後に、千二百二十五年の夏に、再び広利禅寺に行って、西蜀の成桂という「知客」と西の廊下を歩いている時に、成桂に「あの壁の絵は、どの祖師が何に変身した『相』、『見え方』ですか?」と質問した。

 成桂は、「龍樹が身で(まる)い月の『相』、『見え方』を現した時の絵です」と言った。

 道元が、成桂の言葉を聞いて取って、絵を見ると、絵の龍樹の顔には鼻の(あな)が描かれていないし、絵の中に言葉が書かれていなかった。

 私、道元は、「真に、この龍樹の絵は、一枚の絵に描いた餅に似ている」と言った。

 成桂は、その時、大笑いしたが、「笑いの中に知という刀が無いし、『絵に描いた餅』を破る事ができ得ていなかった」。

 私、道元は成桂と舎利殿や六殊勝地などに行っている間に数回、龍樹の絵の話を挙げたが、成桂は激しく疑う事もできなかった。

 自分から龍樹の絵を批評する僧侶もいたが、多くは完全に正しくなかった。

 私、道元は、「『堂頭』、『住持』の僧に質問しましょう」と言った。

 当時の「堂頭」、「住持」は、大光であった。

 成桂は、「大光には、(真理を嗅ぎ分ける)鼻の(あな)が無いので、答える事ができ得ないだろう。大光は、どうして知る事ができ得るだろうか? いいえ!」と言ったため、大光には質問しなかった。

 成桂は、この様に言ったけれども、成桂も会得、理解できていなかった。

 話を聞いていた皮袋である僧侶達も何も言い得なかった。

 過去から現在までの「粥飯頭」、「住持」達も、龍樹の絵を見て疑わず、絵を改め直さなかった。


 描く事ができ得ない法は全て、描くべきではない。

 法を描くならば、正しく描くべきである。

 そのため、龍樹が身で(まる)い月の「相」、「見え方」を現した時の絵は、かつて描かれなかったのである。


 「仏に成れる性質は、今の慮知念覚だろう」という誤った見解から目覚めない事によって、「仏に成れる性質は有る」という言葉にも、「仏の性質は無い」という言葉にも、通達する手がかりを失っているようである。

 「仏に成れる性質を言い表すべきである」と学習する者も(まれ)である。

 知るべきである。

 僧達が、仏に成れる性質について、おろそかで怠けているのは、仏教が廃れてきているからである。

 諸方の「粥飯頭」、「住持」達には、仏に成れる性質を言い表す事を、一生、言わないで、やめてしまう者もいる。

 誤って「教えを聴くだけの下の段階の輩は仏に成れる性質について話してしまうが、禅に参入している上の段階の僧は仏に成れる性質について言うべきではない」と話す輩は、真に、「畜生」、「動物的人間」、「似非(えせ)僧侶」である。

 なんという「魔」、「仏敵」の仲間が私達の釈迦牟尼仏、如来の道に交わって汚そうとしているのか!

 「教えを聴くだけの下の段階」という言葉が仏道に有るか?

 「禅に参入している上の段階」という言葉が仏道に有るか?

 未だ「教えを聴くだけの下の段階」や「禅に参入している上の段階」という言葉は、仏道には無いと知るべきである。



 杭州の塩官斉安は、三十五祖の馬祖道一の弟子である、高徳の長老の僧である。

 塩官斉安は、ある時、僧達に示して、「一切の全ての生者には、仏に成れる性質が有る」と言った。



 「一切の全ての生者」という言葉に速やかに参入して究めるべきである。

 「一切の全ての生者」は、「業道」や「心と身が依り所とする環境としての報いである『この世』と、過去の行いの正に報いである心と身」が一つだけではないし、見解も個々で異なっている。

 凡人、外道、三乗、五乗などは、各々異なっている。

 今、仏道で言う「一切の全ての生者」は、心有る者である。

 心有る者は皆、「生者」である。「心は生者である」ので。

 心無い者も、同じく、「生者」だろう。「生者は心である」ので。

 そのため、「心は皆、生者である」。

 「生者には、皆、仏に成れる性質が有る」。

 草木、国土は、心であり、心であるため「生者」であり、「生者」であるので「仏に成れる性質が有る」。

 太陽と月と星々は、心であり、心であるため「生者」であり、「生者」であるので「仏に成れる性質が有る」。

 塩官斉安が言う「仏に成れる性質が有る」とは、この様な物である。

 もし、この様でなければ、仏道で言う「仏に成れる性質が有る」ではない。


 今、塩官斉安の言葉の意味は、「一切の全ての生者には、仏に成れる性質が有る」だけである。

 さらに、「生者」でなければ、仏に成れる性質は無いだろう。

 塩官斉安に「一切の全ての諸仏には、仏に成れる性質が有るのか? 無いのか?」と質問するべきである。

 この様に質問して理解して取り、試すべきである。


 「『一切の全ての生者は仏に成れる性質である』とは言わずに『一切の全ての生者には仏に成れる性質が有る』と言う」として学に参入するべきである。

 「仏に成れる性質が有る」の「有」をまさに脱ぎ落とすべきである。

 脱ぎ落とす事は、一個の鉄である。一個の鉄は、鳥の道である。


 そのため、「一切の全ての仏に成れる性質には生者が存在する」。

 「一切の全ての仏に成れる性質には生者が存在する」という道理は、「生者」を説き(とお)すだけではなく、仏に成れる性質をも説き(とお)すのである。


 塩官斉安が、たとえ、会得、理解を言葉に伝えなくても、伝えられる機会が無い訳ではない。

 今日の言葉は、無意味ではない。

 自己が備えている道理は、未だ必ずしも自ら会得、理解していなくても、「土、水、火、風」という「四大(元素)」や「色受想行識」という「五蘊」も有るし、「皮肉骨髄」、「理解」も有る。

 この様に、言葉を理解して取る事にも、一生の内に言葉を理解して取る事も有るし、言葉を理解して取る事に、いくつもの生がかかる事も有る。



 大円禅師と呼ばれる大潙禅師と呼ばれる三十七祖の潙山霊祐は、ある時、僧達に示して、「一切の全ての生者には、仏の性質が無い」と言った。



 潙山霊祐の言葉を聞いた人や天人の中に、喜んだ大いなる素質を持つ者もいたし、驚き疑う(たぐい)の者もいた。

 釈迦牟尼仏の言葉は「一切の全ての生者には、ことごとく仏に成れる性質が有る」であり、潙山霊祐の言葉は「一切の全ての生者には、仏の性質が無い」である。

 有無の言葉の(ことわり)は、遥かに異なる。

 言葉を会得して理解して取る事の当たる、当たらないが有る事は疑い無い。

 けれども、「一切の全ての生者には、仏の性質が無い」という言葉だけが仏道では優れている。



 塩官斉安の「一切の全ての生者には、仏に成れる性質が有る」という言葉は、たとえ、古代の仏と共に一方の手を出すのに似ていても、「一本の杖を二人で(かつ)いでいる」のである。

 今、潙山霊祐の「一切の全ての生者には、仏の性質が無い」という言葉は、「一本の杖が二人を飲み込んでいる」。

 塩官斉安は三十五祖の馬祖道一の法の子であり、潙山霊祐は馬祖道一の法の孫である。

 けれども、法の孫は法の祖父の道に老熟しており、法の子は法の父の道に未熟で若い。

 潙山霊祐の言葉の道理と一致した主旨は、「一切の全ての生者には、仏の性質が無い」という言葉を道理と一致した主旨としている。

 未だ広大で規格外とは言わない。

 自分の家の中の経典をこのように受け取って保持している。


 さらに模索するべきである。

 「どうして一切の全ての生者は仏の性質であるだろうか? いいえ!」。

 「どうして一切の全ての生者には仏の性質が有るだろうか? いいえ!」。

 もし「生者」に仏の性質が有れば、「魔」、「仏敵」の仲間だろう。魔の子、一人をもたらして「一切の全ての生者」に混ぜようとするような物である。

 仏の性質は仏の性質なので、「生者」は「生者」である。

 「生者」は(もと)から仏の性質を全く備えていない。

 たとえ、「生者」が仏の性質を備えようと求めても、仏の性質が求めて初めて来る事ができない意味が有る。

 「ある人が酒を飲むと別の人が酔う」と言う事なかれ。

 もし自然に仏の性質が有る者は、「生者」ではない。

 既に「生者」である者には、仏の性質は無い。



 このため、三十六祖の百丈の懐海は「『生者には仏の性質が有る』と説くのは、仏法僧の悪口を言う事にも成ってしまう。『生者には仏に成れる性質が無い』と説くのも、仏法僧の悪口を言う事にも成ってしまう」と言った。



 そのため、「生者には仏の性質が有る」と言う事も、「生者には仏に成れる性質が無い」と言う事も、共に、悪口と成ってしまう。

 悪口と成ってしまうが、言葉を理解して取らないのはいけない。

「潙山霊祐、百丈の懐海よ、あなた達に質問するので聞いてください。

悪口と成ってしまうが、仏に成れる性質か、仏の性質を説く事ができ得たのか? 未だでき得なかったのか?

たとえ、仏に成れる性質か、仏の性質を説く事ができ得たとしても、説明が仏に成る事を妨げてしまう。

仏に成れる性質か、仏の性質を説明できていたら、聞いた者と共に、仏に参入しているはず、仏に成っているはずである。

また、潙山霊祐に向かって言います。

たとえ『一切の全ての生者には、仏の性質が無い』と言い得ても、『一切の仏の性質には、生者がいない』と言わなかったし、『一切の仏に成れる性質には、仏の性質が無い』と言わなかったし、まして、『一切の諸仏には、仏に成れる性質が無い』とは夢にも未だ見なかった。

言い得るのであれば、試しに挙げてみなさい」



 百丈山の、大智禅師と呼ばれる百丈の懐海は、僧達に示して、「仏は、無上の存在である。

仏には、無上の知が有る。

仏は、仏の道として、仏という人を立てている。

仏には、仏の性質が有る。

仏は、導師である。

仏は、『(さえぎ)られない風』を使う事ができ得る。

(さえぎ)られない風』とは、『(さえぎ)られない知』である。

仏の知によって初めて、因果を使う事ができ得るし、福の知が自由と成る。

仏の知を車となして、因果を載せて運ぶのである。

仏の知によって、生きている際に生に留められないし、死に際して死に(さえぎ)られないし、『色受想行識』という『五蘊』、『五陰』の際に門が開くかの様に『五蘊』に(さえぎ)られないし、去ったり住んだりするのが自由であるし、難無く出入りできる。

もし、この様にできれば、上下関係や優劣を論じないし、身が(アリ)でも世界の(ことごと)くが清浄な妙なる国土と成るし不可思議な物と成る」と言った。



 百丈の懐海の仏の性質についての言葉である。

 「五蘊」と言っているのは、今の不壊の身である。

 今の一時は、「門が開くかの様に『五蘊』に(さえぎ)られない」。

 生を使う事ができ得るが、生に留められないし、

死を使う事ができ得るが、死に(さえぎ)られない。

 いたずらに無駄に、生を愛着する事なかれ。

 (みだ)りに死を恐れる事なかれ。

 生死には、既に、仏の性質が存在する。

 生死に動揺して嫌って捨てるのは外道である。

 目の前の、諸々の(えん)と認めていた物は、「使う事ができ得る、『(さえぎ)られない風』、『(さえぎ)られない知』である」。

 この様な者が、無上者である仏である。

 仏が存在する所は、「清浄な妙なる国土と成る」。



 黄檗希運は、南泉普願の茶室の中にいて坐っていた。

 南泉普願は、黄檗希運に「『定と知を等しく学べば、明らかに仏の性質を見る』という(ことわり)は、どの様な物ですか?」と質問した。

 黄檗希運は、「一日中、何物にも依存しなくて初めて、仏の性質を見る事ができ得る」と言った。

 南泉普願は、「他の長老の僧の見解では無いでしょうね?」と言った。

 黄檗希運は、「あえて否定はしません」と言った。

 南泉普願は、「食事代は、さておき、履物代は誰かさんに返してもらいましょう」と言った。

 黄檗希運は、(無言で)休んだ。



 「定と知を等しく学ぶ」という言葉の意味は、「『定学』が『慧学』を(さえぎ)らないので、等しく学ぶと、明らかに仏の性質を見る事が有る」という意味ではなく、「明らかに仏の性質を見る時に、定と知を等しく学んでいる学が有る」という意味である。

 「明らかに仏の性質を見る時に、定と知を等しく学んでいる学が有る」、「という(ことわり)は、どの様な物であるのか?」と言っているのである。

 例えば、「明らかに仏の性質を見るのは、誰が行っているのか?」という言葉と意味が同じである。

 「『仏と性質を等しく学べば、明らかに仏の性質を見る』という(ことわり)は、どの様な物であるのか?」とも言う事ができ得る。


 黄檗希運の「一日中、何物にも依存しなくて初めて、仏の性質を見る事ができ得る」という言葉の意味は、たとえ、「一日中」が一日の中に存在していても、「依存しない」のである。

 「何物にも依存しない」のは、「一日」であるので、仏の性質が明らかに見るのである。

 「一日中」は、いつ到来するとするのか? どの国土であるとするのか?

 「一日」は、人間の一日であるのか? 他のどの中の一日であるのか? 白銀世界の一日が暫定的に来たのか?

 たとえ、この土地、この世界であっても、他の世界であっても、「依存しない」のである。

 既に「一日中」であるので、「依存しない」べきである。


 「他の長老の僧の見解では無いでしょうね?」と言うのは、「『一日中、何物にも依存しなくて初めて、仏の性質を見る事ができ得る』のを見解とは言わないでしょうね?」と言うような物である。

 「他の長老の僧の見解ですか?」と言われても、「自己の見解である」と頭の向きを変えるべきではない。

 自己を直接的に言い当てていても、黄檗希運の考えではない。

 黄檗希運の考えは、必ずしも自己の考えだけではない。他の長老の僧の見解は、「外を回る」ので。


 黄檗希運は、「あえて否定はしません」と言った。

 黄檗希運の「あえて否定はしません」という言葉は、中国では、自己に有る能力を質問された時に、可能な事を可能であると言う場合に、「あえて否定はしません」と言うからである。

 そのため、「あえて否定はしません」という言葉は、あえて否定している訳ではないのである。

 「一日中、何物にも依存しなくて初めて、仏の性質を見る事ができ得る」という、黄檗希運が言い得た言葉が、他の長老の僧の言葉から選び取ったかどうか考えるべきではない。

 見解が、たとえ、他の長老の僧の見解であっても、黄檗希運の見解であっても、「あえて否定はしません」と言うべきである。

 「一頭の神の使いである牛、水牛が出て来て、『(ウーン)(ウーン)』と言う」のである。

 (「吽」は「牛が鳴く」を意味する場合が有る。)

 このように言葉を理解して取るのが、言葉を理解して取る事なのである。

 言葉にする意味や、言葉を理解して取っている言葉を、試みに言ってみるべきである。


 南泉普願は、「食事代は、さておき、履物代は誰かさんに返してもらう」と言った。

 「食事の価値は、さておき、履物の価値は誰かさんに返してもらう」と言っているのである。

 この言葉の意味に、長く、いくつもの生を尽くして、参入して究めるべきである。

 「食事代は、どうして取らないのか?」と心に留めて学ぶ事に勤めるべきである。

 「履物代は、どうして取るのか?」。

 「悟りを求めて諸方をたずねて歩きまわった年月で、どれだけの履物を踏み破ってきたのか?」。

 今、「もし代価を返さなければ、未だ履物を履きません」と言うべきである。

 また、「二足、三足の履物である」と言うべきである。

 この様に言い得るべきである。

 この様な主旨であるべきである。


 黄檗希運は、(無言で)休んだ。

 黄檗希運は、休んだのである。

 南泉普願に同意されなかったので(無言で)休んだ訳ではないし、黄檗希運が同意しなかったので(無言で)休んだ訳ではない。

 本来の僧は、そうではない。

 知るべきである。

 「(無言で)休んだ姿の裏で雄弁に語っている」のは、「笑いの中に知という刀が有る」ような物である。

 仏の性質が明らかに見る、「粥足飯足」、「朝食に満足するし昼食に満足する事」である。



 潙山霊祐は、黄檗希運と南泉普願の話を挙げて、仰山慧寂に「黄檗希運は、南泉普願に応対する事ができ得なかったのではないか?」と質問した。

 仰山慧寂は、「そうでは、ありません。黄檗希運には虎を(おとしい)れる素質が有る事を知るべきです」と言った。

 潙山霊祐は、「あなたの見解は、これについて優れている」と言った。



 潙山霊祐は、「昔、黄檗希運は、南泉普願に応対でき得なかったのか?」と言っているのである。

 仰山慧寂は、「黄檗希運には虎を(おとしい)れる素質が有る」と言った。

 既に虎を(おとしい)れたのであれば、虎の頭を取ったのである。

「虎を(おとしい)れるのも、虎を取るのも、仏が生者を救うために俗世の中へ降りて行く事である。

仏の性質を明らかに見るのは、単眼を開く。

仏の性質が明らかに見るのは、単眼を失う。

(すみ)やかに言いなさい。

(すみ)やかに言いなさい。

仏の性質が見ると、何について優れているのか?」

 このため、半端な物にも、全ての物にも、「依存しない」のである。

 百、千の無数の物にも、「依存しない」のである。

 百、千の無数の時にも、「依存しない」のである。

 このため、「(かご)は一枚であるし、時の中は一日である。依存するも、依存しないも、葛藤が樹に依存するような物である。天の中も、天全体も、最終的に、未だ言葉が無い」。



 ある僧が、趙州真際大師に「犬には仏の性質が有りますか? 無いですか?」と質問した。



 「犬には仏の性質が有るか? 無いのか?」という質問の意味を明らめるべきである。

 原文の「狗子」とは「犬」である。

 「犬には仏の性質が有るか?」と質問した訳でもなく、「犬には仏の性質が無いのか?」と質問した訳でもなく、「鉄のように意思が堅固な修行者は仏道を学び修行するのか?」と質問しているのである。

 誤って辛辣な手段に出会った恨みは深いが、三十年かかって半分の聖者を見る風流である。



 趙州真際大師は、「犬には仏の性質は無い」と言った。



 「犬には仏の性質は無い」という言葉を聞いて、学ぶべき方向への道が有る。

 仏の性質から見て言っても「犬には仏の性質は無い」し、

犬から見て言っても「犬には仏の性質は無い」し、

傍観者から見て言っても「犬には仏の性質は無い」。

 「犬には仏の性質は無い」事が、石を消す日も有るだろう。



 ある僧は、「一切の全ての生者には皆、仏に成れる性質が有ります。どうして犬には仏の性質が無いのですか?」と言った。



 この言葉の意味は、「一切の全ての生者には仏の性質が無いのであれば、仏の性質も無いだろうし、犬も無いだろう」という意味であり、「どうですか?」と質問しているのである。

 「犬には仏に成れる性質が有る」ので、どうして「犬には仏の性質は無い」という言葉を期待していただろうか?



 趙州真際大師は、「業による理解が、他に有るからである」と言った。



 この言葉の意味は、「『犬には仏の性質は無い』のは『他に理由が有るからである』、『他に有る理由』とは『業による理解』である」という意味である。

 「業による理解」が有っても、「他に理由」が有っても、「『犬には無い』、『仏の性質は無い』」のである。

 「業による理解」は未だ犬に出会っていないのに、どうして犬は仏の性質に出会えるだろうか?

 「双放双収」しても、「双方共に手放しても、双方共に手中に収めても」、初めから終わりまで全て「業による理解」である。



 別の、ある僧が、趙州真際大師に「犬には仏に成れる性質が有りますか? 無いですか?」と質問した。



 この質問は、この僧が趙州真際大師に応対し得た道理による物なのだろう。

 そのため、仏に成れる性質か、仏の性質を言ったり質問したりするのは、仏祖の日常茶飯事なのである。



 趙州真際大師は、「犬には仏に成れる性質が有る」と言った。



 「犬には仏に成れる性質が有る」様子は、他の宗派の経典の似非(えせ)学者の「有」、「存在」ではないし、「有部」派が論じている「有」、「存在」ではない。

 進んで、仏の「有」、「存在」を学ぶべきである。

 仏の「有」、「存在」とは、趙州真際大師の「有」、「存在」である。

 趙州真際大師の「有」、「存在」とは、犬の「有」、「存在」である。

 犬の「有」、「存在」とは、仏に成れる性質の「有」、「存在」である。



 ある僧は、「既に、仏に成れる性質が有るならば、どうして、再び、この肉体という皮袋に突入するのですか?」と言った。



 この僧の言葉の意味は、「仏に成れる性質は、今、有るのか? 昔から有るのか? 既に有るのか?」と質問している。

 「既に有る」のは「諸々に有る」に似ているが、「既に有る」は単独で明らかである。

 「仏に成れる性質が、既に有る」者は、肉体に突入するべきか? 突入するべきではないか?

 「この肉体という皮袋に突入する」様子を、いたずらに無駄に見過ごす鍛錬をしてはいけない。



 趙州真際大師は、「知っていても犯すからである」と言った。



 「知っていても犯すからである」という言葉は、世俗の言葉として長く途中に流布しているが、今は趙州真際大師の言葉なのである。

 「知っていても犯すからである」という言葉の意味は、「知っても犯す」という意味である。

 「知っていても犯すからである」という言葉を激しく疑う人が多いだろう。

 「肉体という皮袋に『入る』」事も明らめ難いが、「入る」事も用い得ないのである。

 まして、「肉体という(いおり)の中の不死の人を理解しようと欲するならば、どうして今のこの肉体という皮袋を離れようか? いいえ! 離れない!」なのである。

 不死の人が何ものであっても、いつか肉体という皮袋を離れるのである。

 「知っていても犯す」とは、必ずしも「肉体という皮袋に入る」事ではない。

 「この肉体という皮袋に突入する」事は、必ずしも「知っていても犯す」事ではない。

 「知っている」ので「知っていても犯してしまう」のである。

 知るべきである。

 「知っていても犯す」事は、「脱体」、「そのままの、そのもの」の様子を心に秘めているだろう。

 これを「突入する」と説明しているのである。

 「脱体」、「そのままの、そのもの」の様子は、心に秘めている時、自己の心にも秘めているし、他人の心にも秘めている。

 この様であっても、「未だ逃れない」と言う事なかれ。

 「驢前馬後漢」、「驢馬(ロバ)が先で、馬が後である、と言う男」である。



 まして、三十九祖の雲居道膺は、「たとえ、仏法の辺りの事を学び得たとしても、(すみ)やかに、誤って心を用い終わったという事である」と言っている。



 そのため、半端に仏法の辺りの事を学ぶと、長く誤って来ている事は月日が経つにつれて深く成ってしまうが、これは、「この肉体という皮袋に突入する犬」である。

 「知っていても犯す」としても、仏に成れる性質は有るのである。



 長沙景岑の会で、竺尚書が「ミミズが斬れて二つに成ると、両方の頭が共に動きます。仏に成れる性質は、どちらの頭に存在するのでしょうか?」と質問した。

 長沙景岑は、「妄想する事なかれ」と言った。

 竺尚書は、「どうして動くのですか?」と言った。

 長沙景岑は、「四大(元素)の『火』と『風』が未だ散らないだけである」と言った。



 今、竺尚書は、「ミミズが斬れて二つに成る」と言うが、ミミズが斬れていない時は一つであると決めつけて良いのか?

 仏祖の日常では、そうではない。

 ミミズは、(もと)から一つではないし、斬れても二つではない。

 「一つ」、「二つ」という言葉を理解して取る事を鍛錬して学に参入するべきである。


 「両方の頭が共に動く」と言うが、斬れる以前は一つの頭であったとするのか? 仏の向上を一つの頭とするのか?

 「両方の頭が共に動く」という話は、竺尚書の理解とは無関係に、見過ごす事なかれ。

 斬れている二つのミミズには、一つの頭と、別に一つの頭が有るのか?


 「共に動く」と言うが、「定動智抜」、「定で動かし知で抜く」のも「共に動く」事である。


 「仏に成れる性質は、どちらの頭に存在するのか?」。

 「仏に成れる性質は斬れて二つに成る。ミミズは、どちらの頭に存在するのか?」と言っているのだろう。

 この言葉の会得、理解は、明確に詳細にするべきである。

 「両方の頭が共に動く。仏に成れる性質は、どちらの頭に存在するのか?」と言うが、「両方の頭が共に動く」ならば、「仏に成れる性質は存在できない」と言うのか?

 「両方の頭が共に動く」ならば、「共に動いている」が、「仏に成れる性質は、どちらかの頭にしか存在しない」と言うのか?


 長沙景岑は、「妄想する事なかれ」と言った。

 この言葉の意味は、どうか?

 「妄想する事なかれ」と言うのである。

 「『両方の頭が共に動く』とまで考えるのは妄想ではない」と言っているのか?

 「仏に成れる性質には、妄想は無い」と言っているのか?

 「『両方の頭が共に動く』とまで考えず、『仏に成れる性質は、どちらの頭に存在するのか?』とまで考えず、ただ『妄想する事なかれ』と言っているのか?」とも考えて参入して究めるべきである。


 「どうして動くのか?」と言っているが、「両方の頭が共に動けば、仏に成れる性質が一つ増えるべきである」と言っているのか?

 「両方の頭が共に動けば、仏に成れる性質が無いだろう」と言っているのか?


 「四大(元素)の『火』と『風』が未だ散らない」という言葉は、仏に成れる性質を出現させている。

 「両方の頭を動かしているのは、仏に成れる性質である」とするのか?

 「両方の頭を動かしているのは、『火』と『風』である」とするのか?

 「仏に成れる性質と、『火』と『風』は、共に、出て散る」と言うべきではない。

 「仏に成れる性質と、『火』と『風』は、一方は出て散り、他方は出ないで散らない」と言うべきではない。

 「『火』と『風』は、仏に成れる性質である」と言うべきではない。

 なので、長沙景岑は、「ミミズには、仏に成れる性質が有る」と言わなかったし、「ミミズには、仏の性質が無い」と言わなかった。

 長沙景岑は、ただ「妄想する事なかれ」と言ったし、「四大(元素)の『火』と『風』が未だ散らない」と言った。

 仏に成れる性質への手がかりは、長沙景岑の言葉を考えるべきである。

 「四大(元素)の『火』と『風』が未だ散らない」という言葉を静かに考えて鍛錬するべきである。

 「四大(元素)の『火』と『風』が未だ散らない」という言葉には、どのような道理が有るのか?

 「火」と「風」が集まっていたものが散る時期が未だであるのを言うために「未だ散らない」と言っているのか?

 そうではない。

 「火」と「風」が未だ散らないのは、仏が法を説く。

 「火」と「風」を未だ散らさないのは、法が仏を説く。

 例えば、「一音」、「多種多様に解釈されるが真意は唯一」の法を説く時が到来したのである。

 法が「一音」、「多種多様に解釈されるが真意は唯一」である、到来の時である。

 法は、「一音」、「多種多様に解釈されるが真意は唯一」である。「一音」、「多種多様に解釈されるが真意は唯一」の法であるので。

 また、「仏に成れる性質は、生きている時だけ有って、死んでいる時は無く成るだろう」と思う人は、最悪の学が無い理解していない人である。

 生きている時も、仏に成れる性質は有るが、仏の性質は無い。

 死んでいる時も、仏に成れる性質は有るが、仏の性質は無い。

 「火」と「風」の散る、散らないを論じるならば、仏に成れる性質か、仏の性質の散る、散らないを論じるべきである。

 たとえ、「火」と「風」が散る時も、仏に成れる性質は有るが、仏の性質は無い。

 たとえ、「火」と「風」が散らない時も、仏に成れる性質は有るが、仏の性質は無い。

 それなのに、「仏に成れる性質か、仏の性質は、動く動かないによって存在したり不在したりするし、理解している理解していないによって精神であったり精神でなかったりするし、知っている知っていないによって性質であったり性質でなかったりする」と誤って、とらわれる人は、外道である。

 果てしない昔から、多くの愚者が、理解を仏に成れる性質とし本来の人としているが、笑い過ぎて死にそうに成る。

 さらに、「仏に成れる性質か、仏の性質」を言うと、「拕泥帯水」、「人を救うために泥水にまみれる」わけではないが、「牆壁、瓦礫である」。

 向上において言う時、「仏の性質とは、どの様な物であるか?」。

 「『三頭八臂』、『三つの頭と八本の腕』である仏に、逆に、ことごとく委ねましょうか」。



 正法眼蔵 仏性(仏に成れる性質か、仏の性質)


 その時、千二百四十一年、雍州の観音導利興聖宝林寺にいて僧達に話した。

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