正法眼蔵 嗣書
仏から仏へ、必ず仏から仏へ、法を嗣ぐし、祖師から祖師へ、必ず祖師から祖師へ、法を嗣ぐ。
仏祖から仏祖へ法を嗣ぐ事は、証が仏法に適っているのであるし、単一に伝える事である。
このため、(無上普遍正覚は、)無上普遍正覚なのである。
仏でなければ、仏を証明する事は不可能である。
仏の証明を得なければ、仏と成れない。
仏でなければ、誰が、この者を最も尊い者であるとするのか? 無上の者であると印を残すであろうか?
仏の証明を得る時は、師がいなくても独りで悟るし、自分が知らなくても独りで悟る。
このため、「仏から仏へ証を嗣ぎ、祖師から祖師へ証が仏法に適っている」と言うのである。
この道理の主旨は、仏と仏でなければ、明らめる事ができない。
まして、未熟な修行者が、この道理を量る事ができるだろうか? いいえ! 未熟な修行者は、この道理を量る事ができない!
まして、どうして、霊感が無い文字だけの経典の似非学者が、この道理を推測できるだろうか? いいえ! 霊感が無い文字だけの経典の似非学者は、この道理を推測できない!
たとえ、霊感が無い文字だけの経典の似非学者の為に説いても、霊感が無い文字だけの経典の似非学者は、聞く事ができない。
仏から仏へ嗣ぐため、仏道は「仏と仏だけが能く究め尽せる」ので、仏道は仏から仏への道ではない時が無い。
例えば、石は石に嗣ぐ事が有るし、宝玉は宝玉に嗣ぐ事が有る。
秋に最も美しい菊も嗣ぐし、常緑である松も証明するので、皆、前の菊も後の菊も、ありのままであるし、前の松も後の松も、ありのままであるような物である。
この様である事を明らめていない輩は、仏から仏へ正しく伝えている道に出会っても、「どの様な『道』、『真理』を会得したのか?」と疑う事すらできない。
この様である事を明らめていない輩は、「仏から仏へ嗣ぎ、祖師から祖師へ証が仏法に適っている」という事を納得して見えてくる事ができない。
仏の種族に似ていても、仏の子ではない事を、子の仏ではない事を、憐れむべきである。
曹谿山の大鑑禅師と呼ばれる三十三祖の慧能は、ある時、僧達に示して「過去七仏から三十三祖の慧能へ至るまでに四十人の仏がいる(。過去七仏と全ての祖師は仏である)。
三十三祖の慧能から過去七仏へ至るまでに四十人の祖師がいる(。過去七仏と全ての祖師は祖師である)」と言った。
三十三祖の慧能の言葉の道理は、明らかに、仏祖が正しく嗣いでいる主旨である。
過去七仏には、過去の「荘厳劫」に「この世」に出現した者もいるし、現在の「賢劫」に「この世」に出現した者もいる。
過去七仏を、四十人の祖師の一部として「面授」、「言い表せないものを顔と顔を合わせて授かる事」に連ねるのは、仏道であるし、仏を嗣いでいるのである。
そのため、三十三祖から上へ向かって過去七仏にまで至れば、四十人の祖師達が仏を嗣いでいる。
過去七仏から下へ向かって三十三祖にまで至れば、四十人の仏達が仏を嗣いでいる。
仏祖の道とは、この様な物なのである。
証が仏法に適っていなくて仏祖でなければ、仏の智慧は無いし、祖師を究め尽していない。
仏の智慧が無ければ、仏を信じて受け入れていない。
祖師を究め尽していなければ、祖師は「証が仏法に適っている」と、あなたを認めない。
暫定的に「四十人の祖師達」と言ったが、近いものを取りあえず挙げたのである。
仏から仏へ嗣いでいるのは、深遠であって、不退転であるし、断絶しない。
その主旨とは、釈迦牟尼仏は、過去七仏以前に仏に成っていたが、長く、迦葉仏の法を嗣いだのである。
釈迦牟尼仏は、この世に降臨して生まれて、三十歳に成った年の十二月八日に仏に成ったが、過去七仏以前に仏に成っていたのである。
諸々の仏は肩を並べて同時に仏に成るのである。
釈迦牟尼仏は、諸々の仏以前に仏に成ったのである。
釈迦牟尼仏は、一切の諸々の仏よりも後に、末の上で、最後の仏として、仏に成ったのである。
さらに、「迦葉仏は釈迦牟尼仏の法を嗣いだ」として参入して究める道理が有る。
この道理を知らない人は、仏道を明らめていない。
仏道を明らめていなければ、仏を嗣いでいない。
「仏を嗣ぐ」と言うのは、「仏の子と成る」と言う事である。
釈迦牟尼仏は、ある時、阿難陀に質問させた。
「過去の諸々の仏は、誰の弟子ですか?」
釈迦牟尼仏は「過去の諸々の仏は、釈迦牟尼仏の弟子である」と言った。
諸々の仏の「仏の事」とは、この様な物なのである。
この諸々の仏を見て、仏を嗣いで成就するのが、仏から仏への仏の道である。
この仏の道では、法を嗣ぐ時に、必ず、「嗣書」、「師弟の系譜の書を嗣ぐ事」が有る。
もし法を嗣いでいなければ、自然に外道と成る。
もし法を嗣ぐ事が必ず無ければ、仏の道は、どうして今日にまで至るだろうか?
このため、仏から仏へには、必ず、仏が仏を嗣ぐ「嗣書」、「師弟の系譜の書を嗣ぐ事」が有るし、仏が仏を嗣ぐ「嗣書」、「師弟の系譜の書」を得る。
「嗣書」、「師弟の系譜の書を嗣ぐ事」の有様とは、太陽と月と星々を明らめて法を嗣ぐし、
「皮肉骨髄」、「理解」を得させて法を嗣がせるし、
「袈裟」、「法衣」を嗣ぐし、
杖を嗣ぐし、
松の枝を嗣ぐし、
害虫を払うための毛がついた棒である払子を嗣ぐし、
優曇華を嗣ぐし、
「金襴衣」、「金糸で模様を織り入れた法衣」を嗣ぐし、
履物を嗣ぐし、
修行者を打って戒める竹の細長い板である竹箆を嗣ぐ。
これらの法の嗣ぎ方で嗣ぐ時に、指の血で「師弟の系譜の書」を書いたり、舌の血で「師弟の系譜の書」を書いたり、油や乳で「師弟の系譜の書」を書いたりして法を嗣ぐが、共に、「嗣書」、「師弟の系譜の書を嗣ぐ事」である。
「嗣書」、「師弟の系譜の書」を嗣いだ者や得た者は共に、仏を嗣いだのである。
実に、仏祖として形成されて現される時、法を嗣ぐ事が必ず形成されて現される。
法を嗣ぐ事が形成されて現される時、待ち望んでいなかったが来たり、求めていなかったが法を嗣いだりした仏祖が多い。
必ず、法を嗣ぐ事が有るのが、仏から仏へであるし、祖師から祖師へである。
二十八祖の達磨が西のインドから中国へ来てから、仏の道に、法を嗣ぐ事が有る主旨を、東の地である中国でも正しく聞く事ができるのである。
達磨が中国へ来る以前は、中国で、法を嗣ぐ事をかつて未だ聞かなかったのである。
西のインドの霊感が無い文字だけの経典の似非学者は、法を嗣ぐ事ができないし、知らない。
未熟な修行者の境地では、法を嗣ぐ事ができないし、経典による呪術師などは、「法を嗣ぐ事が有るかもしれない」と疑う事もできない。
経典の似非学者、未熟な修行者、経典による呪術師などは、「道」、「真理」を受容可能な器である人の身で生を受けながら、教えという網に無駄に絡まって、「透脱する」、「透体脱落する」、「煩悩を透過して脱ぎ落とす」法を知らないし、超越の機会を予定しない事を、悲しむべきである。
このため、仏道の学びと修行を明確に詳細にするべきである。
仏道の学に参入して究める志を専らにするべきである。
道元は、宋の時代の中国にいた時、「嗣書」、「師弟の系譜の書」を見て礼拝する事ができたが、多種多様な「嗣書」、「師弟の系譜の書」が有った。
「嗣書」、「師弟の系譜の書」を道元に見せてくれた人のうち、惟一西堂が、天童山の寺に留まっていたのは、超越的な人の業である。
惟一西堂は、広福寺の前の「住持」、「堂頭」である。
惟一西堂は、道元の亡き師である如浄と同郷の人である。
道元の亡き師である如浄は、常に「国情については惟一西堂に質問するべきである」と言った。
惟一西堂は、ある時、道元に「高徳の僧が書いた古い書物を見る事ができるのは、人にとっての宝です。どれだけ見て来ましたか?」と言った。
道元は、「見て来た経験は少ないです」と言った。
惟一西堂が、その時、「私の所に一軸の、高徳の僧が書いた古い書物が有ります。どういう物かは言えませんが、あなたのために見せてあげましょう」と言って持って来た物を見れば、「嗣書」、「師弟の系譜の書」であった。
惟一西堂が見せてくれた「嗣書」、「師弟の系譜の書」は、法眼宗の「嗣書」、「師弟の系譜の書」であった。
惟一西堂が見せてくれた「嗣書」、「師弟の系譜の書」は、高徳の長老の僧の遺品の中から得ていた。
惟一西堂が見せてくれた「嗣書」、「師弟の系譜の書」は、惟一西堂の「嗣書」、「師弟の系譜の書」ではなかった。
惟一西堂が見せてくれた「嗣書」、「師弟の系譜の書」には、「初祖、摩訶迦葉は、釈迦牟尼仏に悟る。釈迦牟尼仏は、迦葉仏に悟る」と記されていた。
道元は、これを見て、正統な法の子孫が正統な法の子孫に法を嗣ぐ事が有る事を決定的に信じて受け入れた。
未だかつて見た事が無かった法であった。
仏祖が目に見えないものを感じて、法の子孫である道元を保護してくれた時であった。
感激に勝てなかった。
宗月という長老の僧が、天童山の寺の「首座」に成った時に、「雲門宗の嗣書です」と言って道元に見せてくれた「嗣書」、「師弟の系譜の書」は、「嗣書」、「師弟の系譜の書」を得た人の師と、西のインドと中国の仏祖が並べ連ねられていて、その次に「嗣書」、「師弟の系譜の書」を得た人の名前が有った。
雲門宗の「嗣書」、「師弟の系譜の書」では、諸々の仏祖から「嗣書」、「師弟の系譜の書」を得て新しい祖師と成った人までの名前を連ねていたのである。
そのため、雲門宗の「嗣書」、「師弟の系譜の書」では、如来、釈迦牟尼仏から数えて四十代余りの仏祖の名前が共に、新しく法を嗣いだ人の名前へと記されて来ていた。
例えるならば、諸々の仏祖が各々、「嗣書」、「師弟の系譜の書」を得た新しい祖師に法を授けたように見える。
雲門宗の「嗣書」、「師弟の系譜の書」には、摩訶迦葉や阿難陀などの祖師の名前が、雲門宗以外の「嗣書」、「師弟の系譜の書」と同様に並べ連ねられていた。
道元は、その時、宗月に「和尚様。
法眼宗、潙仰宗、曹洞宗、雲門宗、臨済宗の五家の『嗣書』、『師弟の系譜の書』では名前の連ね方が少し違います。
名前の連ね方の違いの意味は何でしょうか?
西のインドから、正統に代々、嗣がれてきているならば、なぜ違いが有るのでしょうか?」と質問した。
宗月は「たとえ、名前の連ね方の違いが大きくても、『雲門山の雲門文偃という仏は、この様に名前を連ねた』と学ぶべきである。
釈迦牟尼仏は、何によって他のものを尊重したのか? 『道』、『真理』を悟った事によって他のものを尊重したのである!
雲門文偃は、何によって他のものを尊重したのか? 『道』、『真理』を悟った事によって他のものを尊重したのである!」と言った。
道元は、宗月の言葉を聞いて、少し、納得して見えてきたものが有った。
千二百四十一年の、江蘇と浙江で、大きい寺の主の多くは、臨済義玄、雲門文偃、三十八祖の洞山良价などから法を嗣いでいる。
それなのに、臨済義玄の法の遠い子孫を自称する輩には、悪い心のままに悪い企てをする悪行が有る。
臨済義玄の法の遠い子孫を自称する輩は、善知識を持つ人の会に行って、高徳の僧の肖像画を一枚、「法」、「真理」について説かれた言葉が記された書物を一軸、熱心に頼んで受け取ると、法を嗣いだ偽の証拠にしてしまう。
さらに、一種類の「犬」、「動物的人間」、「似非僧侶」がいる。
ある似非僧侶どもは、高徳の長老の僧に近づいて、高徳の僧の肖像画や、「法」、「真理」について説かれた言葉が記された書物などを熱心に頼んで受け取る手口で、多数、隠して蓄えると、晩年に国へ賄賂の金銭と共に渡す代わりに一つの寺をねだる。
ある似非僧侶どもは、寺の主に成る時、高徳の僧の肖像画や、「法」、「真理」について説かれた言葉が記された書物などの、高徳の僧から法を嗣いだとは言わず、当時の名声が有る輩や、王や大臣と親しい長老の僧から法を嗣いだと嘘をつく。
ある似非僧侶どもは、法を会得する事を求めず、名声を貪る事しか求めていない。
末法、悪の時代、この様な邪悪な風習が有る事を悲しむべきである。
この様な輩の中に、未だかつて一人も、仏祖の道を夢にも見聞きした者はいない。
高徳の僧の肖像画や、「法」、「真理」について説かれた言葉が記された書物などを、他の系譜の講師や在家信者にも与えるし、寺の雑務を行う在俗者である「行者」や商人にも与えるのは、法眼宗、潙仰宗、曹洞宗、雲門宗、臨済宗の五家の記録から明らかである。
また、法を嗣いでいない人が妄りに法を嗣いだ証拠を望んで一軸の書物を求めた時、仏道に適っている人は心を痛めつつも、あえて書く事が有る。この様な時は、「嗣書」、「師弟の系譜の書」の古くからの書き方ではなく、わずかに「私を嗣いだ」とだけ書く。
千二百四十一年頃の風習では、ただ、師の会で力を得れば、「会の師を師として法を嗣いだ」としてしまう。
かつて師から法を嗣いだ印を得なくても、ただ、師の部屋に入室したり師が堂に上る時に来て、「長連牀」、「坐禅する場所」にいただけの輩が、ある寺の主として寺に住む時、「師から法を伝承された」と嘘をつくのは、例を挙げるときりがないし、たとえ悟るという一大事を打開できても、師、独りだけを師とする事が多い。
伝蔵主は、龍門の仏眼清遠の法の遠い子孫である。
伝蔵主は、「嗣書」、「師弟の系譜の書」を持っていた。
伝蔵主は、千二百十五年に、隆禅という人が日本人であるが伝蔵主が病気の時に良く看病して多く勤労してくれたので、隆禅の看病の労を感謝するために、「嗣書」、「師弟の系譜の書」を取り出して隆禅に見せて礼拝させてあげた。
伝蔵主は、「『嗣書』、『師弟の系譜の書』は、見るのが難しい物である。あなたのために見せて礼拝させてあげましょう」と言った。
道元が、その八年後、千二百二十三年の秋の頃、初めて天童山の寺で泊まり番をした時に、隆禅は丁寧に伝蔵主にお願いしたため、伝蔵主は「嗣書」、「師弟の系譜の書」を道元に見せてくれた。
伝蔵主の「嗣書」、「師弟の系譜の書」の様式では、過去七仏から三十八祖の臨済義玄まで四十五人の祖師の名前が連ねて書かれていて、三十八祖の臨済義玄より後の祖師は一つの円を形成するように名前と署名を写し書きされていて、新しく法を嗣いだ人の名前は最後に年月の下に書かれていた。
「伝蔵主という臨済宗の高徳の長老の僧の『嗣書』、『師弟の系譜の書』には、この様な違いが有った」と知るべきである。
道元の亡き師である五十祖の如浄は、人が妄りに「法を嗣いだ」と自称する事を深く戒めた。
実に、如浄の会は、古代の仏の会であると言えるし、坐禅の寺の中興である。
如浄は、自らも、多様な色の袈裟を着なかった。
如浄には芙蓉山の四十五祖の芙蓉道楷の多様な色の「衲袈裟」が伝わっていたが、如浄は、堂に上る時にも高座に上る時にも用いなかった。
如浄は、寺の長として多様な色の法衣を一生、着なかった。
心ある者も、物を知らない者も、共に、如浄をほめ、如浄を真の善知識を持つ人であると尊重した。
道元の亡き師である、古代の仏と等しい、如浄は、堂に上ると常に諸方の僧を戒めて「近頃、多い、祖師の道に名前を借りる輩は、妄りに法衣を着、長髪を好み、称号を得るのを出世の船出としてしまっている。
憐れむべきである。
誰が、この人たちを救うのか?
諸方の長老の僧が、『道』、『真理』を求める心が無くて、仏道を学んで修行しない事を残念に思う。
『嗣書』、『師弟の系譜の書を嗣ぐ事』と法を嗣ぐ事を見聞きした事が有る者は、なお、稀である。
百人、千人の中にも一人もいない。
祖師の道が衰退してきてしまっている」と言った。
この様に、如浄は常に戒めたが、諸方の長老は恨まなかった。
そのため、真心で道をわきまえる事があれば、「嗣書」、「師弟の系譜の書を嗣ぐ事」を見聞きするであろう。
「嗣書」、「師弟の系譜の書を嗣ぐ事」を見聞きする事が有れば、仏道を学んで修行している事に成るであろう。
臨済宗の「嗣書」、「師弟の系譜の書」では、まず、「嗣書」、「師弟の系譜の書」を得た人の名前を書く。
「誰々が私の所に来た」とも書くし、
「誰々が私の会に来た」とも書くし、
「誰々は私の奥義に入った」とも書くし、
「誰々は私の法を嗣いだ」とも書く。
次に、師の師を書き連ねていくが、言い伝えられている法訓が有る。
法訓の主旨は、「法を嗣ぐ事は、終わりから初めまでとは無関係に、ただ、真の善知識を持つ者の善知識を見る」という明らかで正しい主旨である。
臨済宗には、次の様に書かれている「嗣書」、「師弟の系譜の書」も有る。道元は目の当たりに見たので記す。
「『蔵主』の(無際)了派は、威武の人である。今は、私(、拙庵徳光)の法の子である。
(拙庵)徳光は、径山寺の大慧宗杲の所に行って、そばに仕えた。
径山寺の大慧宗杲は、夾山の圜悟克勤の法を嗣いだ。
夾山の圜悟克勤は、五祖山の法演禅師の法を嗣いだ。
五祖山の法演禅師は、海会寺の白雲守端の法を嗣いだ。
海会寺の白雲守端は、楊岐方会の法を嗣いだ。
楊岐方会は、慈明禅師と呼ばれる石霜楚円の法を嗣いだ。
慈明禅師と呼ばれる石霜楚円は、汾陽善昭の法を嗣いだ。
汾陽善昭は、首山省念の法を嗣いだ。
首山省念は、風穴延沼の法を嗣いだ。
風穴延沼は、南院慧顒の法を嗣いだ。
南院慧顒は、興化存奨の法を嗣いだ。
興化存奨は、臨済義玄の正統な法の長子である」
この「嗣書」、「師弟の系譜の書」は、阿育王山の仏照禅師と呼ばれる拙庵徳光が書いて無際了派に与えたのを、無際了派が天童山の「住持」に成った時に、戒を受けてから十年未満の若い僧である「小師僧」の智庾が無際了派の指示で密かに持って来て「了然寮」で道元に見せてくれた物である。
千二百二十四年に、初めて、無際了派の「嗣書」、「師弟の系譜の書」を見たが、どれだけ喜びを感じた事か!
仏祖が目に見えないものを感じて道元に「嗣書」、「師弟の系譜の書」を見せてくれたのである。
焼香し礼拝して無際了派の「嗣書」、「師弟の系譜の書」を開いて見た。
「嗣書」、「師弟の系譜の書」を無際了派に頼んで出してもらった経緯は、千二百二十三年に、「都監寺」の師広が密かに「寂光堂」で「嗣書」、「師弟の系譜の書」について道元に語ってくれた。
道元は、その時、師広に「今は、誰が、『嗣書』、『師弟の系譜の書』を持っているのでしょうか?」と質問した。
師広は、「『住持』の無際了派の所に『嗣書』、『師弟の系譜の書』の様な物が有りました。後で、出してくれるように、丁寧に頼めば、必ず見せてくれるでしょう」と言った。
道元は、師広の言葉を聞いてから、日夜休まず、「嗣書」、「師弟の系譜の書」を心の中で求めた。
このため、千二百二十四年に、丁寧に、智庾を仲介にして、無際了派に頼み、真心を投じて得たのである。
無際了派の「嗣書」、「師弟の系譜の書」は、白い絹に紙を貼った物に書かれていた。
無際了派の「嗣書」、「師弟の系譜の書」の表紙は、赤い錦であった。
無際了派の「嗣書」、「師弟の系譜の書」の軸は、宝玉であった。
無際了派の「嗣書」、「師弟の系譜の書」の、長さは九寸くらい、広さは七尺余りであった。(一寸は三センチ。一尺は三十センチ。)
無際了派の「嗣書」、「師弟の系譜の書」は、不注意な人には見せない。
道元は、智庾に感謝した。
道元は、すぐに、無際了派の所に行って、焼香して礼拝して無際了派に感謝した。
無際了派は、その時に、「『嗣書』、『師弟の系譜の書』を見て知る事ができ得る者は少ない。今、あなたが『嗣書』、『師弟の系譜の書』を見て知る事ができ得たのは、仏道を学んで修行して実へ帰る事ができたからである」と言った。
道元は、この時、喜びを感じる事に勝てなかった。
道元は、中国の「宝慶」の頃、台山や雁山などを雲の様に訪ねたついでに、「平田」の万年寺に行った。
万年寺の当時の「住持」は福州の元鼒であった。
宗鑑という長老が「住持」を退いて隠居した後、元鼒が「住持」に成って、寺を盛り上げていた。
人の話のついでに、昔からの仏祖の家風を話していて、三十七祖の大潙禅師と呼ばれる潙山霊祐と仰山慧寂の令嗣話を挙げると、元鼒は、「私の所の『嗣書』、『師弟の系譜の書』をかつて見た事が有りますか?」と言った。
道元は、「どうして見た事が有るでしょうか? いいえ!」と言った。
元鼒は、自ら立ち上がって行って、「嗣書」、「師弟の系譜の書」を捧げて、「この『嗣書』、『師弟の系譜の書』は、たとえ、親しい人でも、長年そばに仕えてくれた僧でも、見せませんでしたが、仏祖の法訓に従って見せませんでした。
しかし、私、元鼒は、常日頃、城に行って『知府』に見えるために城にいた時、ある夢を見たのです。
夢の中で、大梅山の法常禅師と思われる高徳な僧がいて、梅の華が咲いた枝を一枝かかげて、『もし、海を越えて来た真実の人がいたら、華を惜しむ事なかれ』と言って、梅の華を私、元鼒に与えたのです。
私、元鼒は思わず夢の中で詩で『未だ海を越えていなくても良いです。三十回、棒で軽く打ってあげますから』と言った。
夢を見てから五日も経たずに、あなた、道元と見えました。
あなた、道元は海を越えて来ました。
この『嗣書』、『師弟の系譜の書』は、梅の華の模様に書かれています。
大梅山の法常禅師が『梅の華』で教えたのは、この『嗣書』、『師弟の系譜の書』でしょう。
夢と符号するので、この『嗣書』、『師弟の系譜の書』を取り出したのです。
もしかして、あなた、道元は、私、元鼒の法を嗣ぐ事を求めますか?
たとえ、もし、あなた、道元が私、元鼒の法を嗣ぐ事を求めても、私、元鼒は惜しむべきではないのです」と言った。
道元は、元鼒の夢の話を信じ、感じ入った。
道元は、「嗣書」、「師弟の系譜の書を嗣ぐ事」と法を嗣ぐ事を求めるべきであったが、ただ、「嗣書」、「師弟の系譜の書」を焼香して礼拝して恭しく敬い供養するだけであった。
その時、焼香で、そばに仕えていた僧である、法寧という僧がいたが、「初めて『嗣書』、『師弟の系譜の書』を見ました」と言った。
道元は、密かに思った。
元鼒の「嗣書」、「師弟の系譜の書」は、実に、仏祖の目に見えない助けが無ければ、見聞きする事は難しかった。
道元は、日本という僻地の愚者であるが、何の幸いが有ったのか、数回、「嗣書」、「師弟の系譜の書」を見た。
感涙で袖を濡らしてしまった。
その時、維摩室や大舎堂などは静かで無人であった。
元鼒の「嗣書」、「師弟の系譜の書」は、地に落ちている梅の華の模様の白い紙に書かれていた。
元鼒の「嗣書」、「師弟の系譜の書」の、長さは九寸余り、広さは一尋余りであった。
元鼒の「嗣書」、「師弟の系譜の書」の軸は、黄玉であった。
元鼒の「嗣書」、「師弟の系譜の書」の表紙は錦であった。
道元が台山から天童山へ帰る途中で大梅山の護聖寺の宿泊所に泊まると、大梅山の法常禅師が来て開花している一枝の梅の華を授けてくれるという神仏による不思議な夢を見た。
大梅山の法常禅師という祖師が、道元を照らして見てくれていて、道元の夢に降臨してくれたのである。
神仏による不思議な夢の、一枝の梅の華の縦横は、一尺余りであった。
梅の華は、どうして優曇華ではないか?
梅の華が、優曇華であると言えるのは、神仏による不思議な夢の中でも、目が覚めている現実の中でも、同じく真実であろう。
道元は、神仏による不思議な夢を、宋の時代の中国にいた間も、帰国した後も、未だ人には語っていなかった。
道元の、三十八祖の洞山良价の法の子孫の「嗣書」、「師弟の系譜の書」の書き方は、臨済義玄などの法の子孫の「嗣書」、「師弟の系譜の書」の書き方とは異なる。
仏祖の衣の裏に書かれていたのを、三十四祖の青原の行思が三十三祖の大鑑禅師の机の前で手の指より清らかな血を出して書き正しく伝えられたのである。
「青原の行思の指の血に、大鑑禅師の指の血を合わせて、書き伝えられた」と伝えられている。
「二十八祖の達磨と二十九祖の慧可の時にも、血を合わせる事は行われた」と伝えられている。
「誰々は私の法の子である」とか「誰々が私の所に来た」などとは書かず、過去七仏と諸仏を書き伝える「嗣書」、「師弟の系譜」の書き方である。
そのため、知るべきである。
大鑑禅師の血の気は、かたじけなくも青原の行思の清らかな血と和合し、青原の行思の清らかな血は親しく大鑑禅師の親しい血と和合して、目の当たりに法を嗣いだ証明を得たのは、青原の行思、独りだけである。
南嶽の懐譲といった他の祖師が及ぶ所ではない。
この事を知っている仲間は、「仏法は三十四祖の青原の行思だけに正しく伝えられた」という「道」、「真理」を理解して取る。
道元の亡き師である、古代の仏と等しい、五十祖の如浄は、示して、「諸仏には、必ず、法を嗣ぐ事が有る。
釈迦牟尼仏は、迦葉仏の法を嗣いだ。
迦葉仏は、拘那含牟尼仏の法を嗣いだ。
拘那含牟尼仏は、拘留孫仏の法を嗣いだ。
この様に、『仏から仏へ法を嗣いで今に至る』と信じて受け入れるべきである。
『仏から仏へ法を嗣いで今に至る』と信じて受け入れる事が、仏を学ぶ道である」と言った。
道元は、その時、「迦葉仏の肉体が死んだ後で、釈迦牟尼仏は初めて『この世』に出現して仏に成りました。
また、現在の『賢劫』の諸仏が、どうして過去の『荘厳劫』の諸仏の法を嗣ぐ事ができますでしょうか?
この道理とは、どの様な物ですか?」と質問した。
如浄は、「あなたが言った事は、教えを聴いただけの段階の理解であるし、未熟な修行者の言葉であるし、仏祖の正統な代々の言葉ではない。
私の、仏から仏へ伝えられている言葉は、そうではない。
『釈迦牟尼仏は、まさしく、迦葉仏の法を嗣いだ』と習ってきているのである。
『釈迦牟尼仏が法を嗣いだ後に、迦葉仏の肉体は死んだ』として学に参入するのである。
もし釈迦牟尼仏が迦葉仏の法を嗣いでいなければ、自然に外道と同様に成ってしまうだろう。
誰が釈迦牟尼仏を信じるだろうか?
この様に、仏から仏へ法を嗣いで今に至るので、個々の仏は共に、正しく法を嗣いでいるのである。
諸仏は、連続しているわけではないし、集まっているわけではない。
まさに、この様に、『仏から仏へ法を嗣いでいる』と学ぶのである。
『阿笈摩教』、『小乗』、『矮小な乗り物』、『劣悪な段階』の者が言う『劫の量』、『寿命の量』とは無関係である。
もし、『釈迦牟尼仏だけから仏教が起こった』と言えば、わずかに二千年余りであり古いわけではないし、法を嗣ぐのも、わずかに四十代余りであり新しいと言える。
この様に、仏を嗣ぐ事を学ぶわけではない。
『釈迦牟尼仏は、迦葉仏の法を嗣いだ』と学ぶし、『迦葉仏は、釈迦牟尼仏の法を嗣いだ』と学ぶのである。
この様に学んだ時、まさに、諸々の仏祖の法を嗣ぐ事を学んだのである」と言った。
道元は、この時、初めて、「仏祖には法を嗣ぐ事が有る」という教えを受けただけではなく、従来の古巣を脱ぎ落としたのである。
正法眼蔵 嗣書(師弟の系譜の書を嗣ぐ事)
時に、千二百四十一年、観音導利興聖宝林寺で、かつて宋の時代の中国に入り、仏法を伝えている沙門である道元が記した。
千二百四十三年、越前の吉田県の吉峰古寺草庵に滞在した。
(道元の署名)




