表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
24/92

正法眼蔵 山水経

 今の山と水は、古代の仏の「道」、「真理」が形成されて現されているのである。

 山と水は共に、法の位に住んでいて、究め尽す功徳を成就している。

 山と水の消息は創世前の無である長い時間である「空劫」以前からなので、山と水は今も生きている。

 山と水は、前兆が未だ萌芽する前の自己であるので、形成されて現される「透脱」、「透体脱落」、「煩悩を透過して脱ぎ落とす事」である。



 山の諸々の功徳は高く広いので、「乗雲」、「飛竜乗雲」、「雲に乗る様に時の流れに乗って『この世』に出現する、竜の様な高徳の僧」は、必ず、山によって、道徳に通達する。

 順風の霊妙な功徳は、必ず、山によって、高徳の僧を「透脱させる」、「透体脱落させる」、「煩悩を透過させて脱ぎ落とさせる」。



 大陽山の四十五祖の芙蓉道楷は、僧達に示して、「緑の山は常に(あゆ)む。不妊の女性は夜に子を産む」と言った。



 山は、備わるべき功徳が欠けていない。

 このため、山は、常に安住するし、常に歩む。

 まさに、明確に詳細に、山が歩む功徳の学に参入するべきである。

 「山の(あゆ)みとは、人の(あゆ)みのようなのであろう。なのに、山の(あゆ)みは人の歩行と同じようには見えない」と言って山の(あゆ)みを疑う事なかれ。

 今、四十五祖の芙蓉道楷という仏祖が説いた言葉は、山の歩みを指し示している。

 四十五祖の芙蓉道楷といった仏祖は、山の歩みの(もと)を得ているのである。

 「緑の山は常に歩む」と僧達に示した事をわきまえ究めるべきである。

 「歩み」なので「常」なのである。

 緑の山の歩みは、速さが、風の様なものよりも(すみ)やかであるが、山中の人は覚知しないのである。山中とは、世界の中で「華開」、「華開世界起」、「華が開いて世界が起こる」なのである。

 山の外の人は覚知しないのである。山を見る眼が無い人は、覚知しないし見聞きしないのが道理である。

 もし人が山の歩みを激しく疑ったら、自己の歩みをも未だ知らないのである。

 自己の歩みは、存在するが、未だ知らないのであるし、明らめていないのである。

 自己の歩みを知っている人は、まさに、緑の山の歩みをも知っている。

 緑の山は、情の有る者ではないし、情の無いものではない。

 自己は、既に、情の有る者ではないし、情の無いものではない。

 今、緑の山の歩みを疑う事は有り得てはいけない。

 どれだけの法界を量として、緑の山を神の様に照らして明らかに見るべきであるか分からない。

 緑の山の歩みと自己の歩みを明らかに点検して詳細に調べるべきである。



 後退と、後退という歩みを、共に点検して詳細に調べるべきである。

 前兆が未だ無い時、釈迦牟尼仏よりも過去の仏である「空王仏」の辺りの時代から、進歩と後退で、「歩み」が一時も止まっていない事を点検して詳細に調べるべきである。

 もし「歩み」が休止してしまう事があれば、仏祖は、この世に出現しないだろう。

 もし「歩み」が(きわ)まってしまう事があれば、仏法は、今日まで到らなかっただろう。

 進歩は未だ止まない。

 後退は未だ止まない。

 進歩の時は、後退の方向へ向かって逆行しない。

 後退の時は、進歩を(そむ)かせない。

 進歩が後退の方向へ向かわないし後退が進歩を背かせない功徳を「山は流れる」とするし、「流れる山」とする。

 緑の山の歩みに参入して究めるし、「東の山が水上を行く」学に参入するので、進歩と後退の学への参入は山の学への参入と成る。

 山の身心を変えず、山の「面目」、「有様(ありよう)」のまま回り道をして学に参入してきたのである。



 「緑の山は歩む事ができ得ない」とか「東の山は水上を行く事ができ得ない」と言って山の悪口を言う事なかれ。

 低劣な下劣な見解が卑しいので、「緑の山は歩む」という言葉を疑うのである。

 学の無さという(つたな)さによって、「流れる山」という言葉に驚くのである。

 今、「流れる水」という言葉にも七と八に通達しないで、矮小な劣悪な見解と学の無さに(おぼ)れているだけなのである。

 そのため、積んでいる功徳を挙げる事を言葉としているし、命としている。

 積んでいる功徳を挙げる事に、「歩み」が有るし、「流れて行く事」が有る。

 山が山という子を産む時が有るし、山が仏祖と成る道理が有るので、仏祖は、これまでの様に出現しているのである。

 たとえ、草木、土石、牆壁が形成されて現される「眼睛」、「見る眼」がある時でも、激しく疑ってはいけないし、動揺してはいけない。なぜなら、全てが形成されて現されるわけではない。

 たとえ、「七宝」、「七種類の宝」が荘厳であると見えて理解して取れる時が形成されて現されても、実へ帰ったわけではない。

 たとえ、「諸仏の仏道修行の境地である」という見解が形成されて現されても、決して、愛するべき境地ではない。

 たとえ、「諸仏の不思議の功徳である」という見解が形成されて現される頂上を得ても、事実のままではあるが、それだけではない。

 各々に形成されて現されるのは各々の「心と身が依り所とする環境としての報いである『この世』と、過去の行いの正に報いである心と身」である。

 「心と身が依り所とする環境としての報いである『この世』と、過去の行いの正に報いである心と身」を仏祖の道の(わざ)とするわけではないし、一隅の狭い見解である。

 知覚の対象を転じ心を転じるのを、大いなる聖者は(しか)る。

 心を説き性質を説くのを、仏祖は承知しない。なぜなら、心への誤った見解、性質への誤った見解は、外道の手口である。

 「滞言滞句」、「文字にこだわり真理を理解しない」のは、解脱を言葉で表した物ではない。

 このような境地を「透脱している」、「透体脱落している」、「透過して脱ぎ落としている」のが、「緑の山は常に歩む」という言葉であるし、「東の山は水上を行く」という言葉である。

 明確に詳細に参入して究めるべきである。



 「不妊の女性は夜に子を産む」と言うが、「不妊の女性が子を産む」時を「夜」と言っている。


 「男石」、「陽石」(、インドの「リンガム」)という男性の石が有るし、「女石」、「陰石」(、インドの「ヨーニ」)という女性の石が有るし、(「夫婦岩」以外である)男性でも女性でもない石が有る。

 石は、天を補う事が可能であるし、地を補う事が可能である。

 天の石が有るし、地の石が有る。

 これらが俗に言われてはいるが、(真の意味で)知っている人は(まれ)である。


 「子を産む」道理を知るべきである。

 「子を産む」時は、親が親に子が子に並行して変化するのか?

 「子の親と成るのは、『子を産む』事が形成されて現された」として学に参入するだけであろうか?

 「親の子と成る時は、『子を産む』事が形成されて現された修行と証である」として学に参入するべきであるし、究め(とお)すべきである。



 匡真大師と呼ばれる雲門文偃は「東の山は水上を行く」と言った。



 「東の山は水上を行く」という言葉を形成して現している主旨は、諸々の山は「東の山」である。

 一切の全ての「東の山」は、「水上を行く」のである。

 (諸々の山は、「水上を行く」のである。)

 このため、()(メール)山を含む九の山などが、形成されて現されるし、修行し証している。

 これを「東の山」と言う。

 けれども、雲門文偃は、どの様に、「東の山」の「皮肉骨髄」、「理解」と「修行と証の手段」に「透脱している」、「透体脱落している」、「透過して脱ぎ落としている」のだろうか?



 千二百四十年の中国に、(「無理会話」をかたる)杜撰(ずさん)(やから)が一種類いて群れを成している。

 少数の真実の言葉では(「無理会話」という多数の嘘の言葉を)撃破不能である。

 (「無理会話」をかたる)彼らは、誤って「『東の山は水上を行く』という話や『南泉鎌子』という『公案』、『修行者に考えさせるための話』といった物は『無理会話』、『会得、理解が無理な話』である。

『無理会話』の主旨は、諸々の思考できる話は、仏祖の禅の話ではない。

『無理会話』、『会得、理解が無理な話』が、仏祖の禅の話なのである。

このため、三十七祖の黄檗希運の棒や臨済義玄の『臨済の喝』を、理解できない、思考できない、前兆が未だ萌芽する前の、大いなる悟りとするのである。

『高徳な先人は、手段として、葛藤を断つ言葉を多く用いた』と言うのは『無理会話』、『会得、理解が無理な話』の事である」と言う。

 この様に言う(やから)は、かつて未だ正しい師に(まみ)えず、学に参入するための見る眼が無い。取るに足りない矮小な劣悪な愚者である。

 中国では、千年頃や千百年頃から今まで、「無理会話」をかたる、「魔の子」、「仏敵の子」である、釈迦牟尼仏の存命時の「六群禿子」、「六群比丘」の様な似非(えせ)僧侶が多い。

 憐れむべきである。

 仏祖の大いなる道が廃れてきているのである。

 「無理会話」をかたる似非(えせ)僧侶の所見、見解は、「小乗」、「矮小な乗り物」、「劣悪な段階」の声聞にもなお及ばないし、外道よりも愚かである。

 「無理会話」をかたる似非(えせ)僧侶は、在俗者ではないし、(真の)僧ではないし、人ではない(「人でなし」である)し、天人ではない。

 「無理会話」をかたる似非(えせ)僧侶は、仏道を学んでいる「畜生」、「動物的人間」よりも愚かである。

 似非(えせ)僧侶が言う「無理会話」は、似非(えせ)僧侶にとってのみ理解が無理なのである。仏祖は理解できる。

 あなたに理解できないからといって、仏祖の理解できる「道」、「真理」の学に参入しないのは、いけない。

 最終的に理解が無理なのであれば、あなたの「思考では理解が無理であるが、理解できる」という言葉も当たっていない。

 「無理会話」をかたる似非(えせ)僧侶の(たぐい)は、宋の時代の中国の諸方に多い。私、道元は目の当たりにして見聞きした。

 憐れむべきである。

 「無理会話」をかたる似非(えせ)僧侶は、言葉で思考する事を知らないし、言葉通りの文字通りの思考を「透脱する」、「透体脱落する」、「透過して脱ぎ落とす」事を知らない。

 私、道元は、宋の時代の中国にいた時に、「無理会話」をかたる似非(えせ)僧侶を笑ったが、「無理会話」をかたる似非(えせ)僧侶は何も言えず無言に成ってしまっただけであった。

 似非(えせ)僧侶の「無理会話」は邪悪な策でしかない。

 誰が「無理会話」を似非(えせ)僧侶に教えたのか? 似非(えせ)僧侶は、自然に純真に師がいなくても、自然に外道の子と成るのである。



 知るべきである。

 「東の山は水上を行く」のは仏祖の「骨髄」、「理解」である。

 諸々の水は、「東の山」の脚の下に形成されて現される。

 このため、諸々の山は雲に乗り、天を歩む。

 諸々の水の頂上は、諸々の山である。

 山の向上する歩行と真っ直ぐに降りる歩行は共に水上である。

 諸々の山の「つま先」は、諸々の水を歩行できるし、諸々の水を出させる。

 そのため、諸々の山の歩みは、七と八に縦横無尽であるし、「修行と証が無いわけではない(が、汚染するのは駄目である)」。



 「水」は、強弱ではないし、湿(しめ)っている(かわ)いているではないし、動静ではないし、冷たい暖かいではないし、存在や無ではないし、迷いや悟りではない。

 「水」は、凝固(ぎょうこ)すると金剛石(ダイアモンド)よりも(かた)い。誰が凝固した「水」を破れるだろうか?

 「水」は、融解すると液体の乳よりも柔らかい。誰が融解した「水」を破れるだろうか?

 そのため、「水」の形成されて現される存在する功徳を疑う事は不可能である。

 少し、十方の「水」を十方において着眼して()るべき時に「水」の学に参入するべきである。

 人や天人が「水」を見る時だけの「水」の学への参入ではない。

 「水」が「水」を見る時の「水」の学への参入が有る。「水」が「水」を修行して証するので。

 「水」が「水」を言い表す事に参入して究める事が有る。

 自己が自己に出会う通路を形成させて現させるべきである。

 他のものが他のものに参入し(とお)す活路で進退するべきであるし、超越するべきである。


 山と水を見る事は、種類に従って違いが有る。

 水を見るのに「瓔珞」、「宝玉などを(ひも)(つな)いだ首飾りや腕輪といった飾り」として見る者がいる。

 けれども、「瓔珞」、「宝玉などを(ひも)(つな)いだ首飾りや腕輪といった飾り」を水として見るわけではない。

 私達が「何々である」と見る形を、他の者は水として見るのである。

 他の者が「瓔珞」、「宝玉などを(ひも)(つな)いだ首飾りや腕輪といった飾り」として見る物を私は水として見る。

 水を妙なる華として見る者がいる。

 けれども、華を水として用いるわけではない。

 霊は、水を猛火として見るし、(うみ)と血として見る。

 「龍魚」、「竜に成る魚」は、水を宮殿として見るし、「楼台」、「高い建物」として見る。

 水を「七宝」、「七種類の宝」や「摩尼珠」、「宝玉」として見る事が有るし、

水を樹林や牆壁として見る事が有るし、

水を清浄な解脱の法の性質として見る事が有るし、

水を真実の人の体として見る事が有るし、

水を身の相や心の性質として見る事が有る。

 人は水を水と見るが、殺す事と活かす事の「因縁」、「理由」と成る。

 (たぐい)の者に従って所見は違うが、明らかに疑うべきである。

 一つの知覚の対象を見て、諸々の見解は色々であるとするのか?

 森羅万象を一つの知覚の対象であると誤っているとするのか?

 鍛錬の頂上で更に鍛錬するべきである。

 修行や証する事や道をわきまえる事も一種類だけではないし、二種類だけではない。

 究極の境地も千、万の無数の種類が有る。

 更に、この主旨を推測して想像すると、たとえ、諸々の(たぐい)の者にとっての水の種類が多いといえども、(もと)の水が無いような物であるし、諸々の種類の水が無いような物である。

 けれども、諸々の(たぐい)の者にとっての水は、心による物ではないし、身による物ではないし、(ごう)によって生じないし、自分による物ではないし、他のものによる物ではない。

 水による「透脱」、「透体脱落」、「煩悩を透過して脱ぎ落とす事」が有る。

 そのため、「水」は、地水火風空識などの四大元素の水ではないし、黄赤白黒などの色ではないし、色声香味触法などではないが、地水火風空識などの四大元素の水は自然に形成されて現される。

 このため、今の国土や宮殿は、何ものが形成しているのか、何ものを形成しているのか、明らめて言う事は難しい。

 「今の国土や宮殿は、世界を支えている『空輪』と『風輪』に支えられている」と言い表しても、私による真実ではないし、他のものによる真実ではない。視野の狭い見方による推測をためらうのである。

 「今の国土や宮殿は、世界を支えている『空輪』と『風輪』に支えられていなければ、存在していないだろう」と思うので、「今の国土や宮殿は、世界を支えている『空輪』と『風輪』に支えられている」と言い表すのである。



 仏は「一切の『諸法』、『全てのもの』は、最終的に解脱である。住む所は無い」と言った。



 知るべきである。

 解脱であって束縛無しといえども、「諸法」、「全てのもの」は法の位に住んでいる。

 人は、水を見て、ひたすら、「流れ注いで留まらない」としか見ない。

 水の流れには多くの種類が有って、人が見るのは一端に過ぎない。

 水は、地を流れて通るし、空を流れて通るし、上方に流れて通るし、下方に流れて通る。

 水は、一隅にも流れるし、深淵にも流れる。

 水は、昇って雲を形成するし、降りて淵を形成する。



 道教の書「文子」には「水の道は、天に上って雨や(つゆ)を形成するし、地に下りて長江や黄河を形成する」と記されている。



 道教の俗の説ですら、なお、この様なのである。

 仏祖の法の子孫と自称する輩が、道教の俗人よりも暗いのは、最も恥じるべきである。


 「水の道」を水は知覚しないが、水は、よく現に行う。

 水は、知覚しても、よく現に行う。


 知るべきである。

 「天に上って雨や(つゆ)を形成する」と言うのは、水は、何世界も天上、上方へ上って、雨や(つゆ)を形成するのである。

 雨や(つゆ)は、世界に従って色々である。

 「水が到達しない所が有る」と言うのは、「小乗」、「矮小な乗り物」、「劣悪な段階」の声聞の教えであるか、外道の邪悪な教えである。

 水は、火炎の中にも到達するし、思考の中にも到達するし、覚、知、仏の性質(、神性)の中にも到達する。


 「地に下りて長江や黄河を形成する」。

 知るべきである。

 水が地に下りる時は長江や黄河を形成するのである。

 長江の精霊や黄河の精霊は、よく賢人と成る。

 今、凡庸な人、愚者は「水は、必ず、長江や黄河や海や川に有る」と思ってしまうが、そうではない。

 水は水の中に長江といった川や海を形成するのである。

 そのため、長江といった川や海ではない所にも水は有り、水が地に下りる時は長江といった川や海の功を成すだけなのである。



 また、「水が長江といった川や海を形成した水中には世界は無いし、仏土は無い」と学ぶべきではない。

 一滴の水の中にも無量の仏の国土が形成されて現されるのである。

 そのため、仏土の中に水が有るわけではないし、水の中に仏土が有るわけではない。

 水の所在は、「過去、現在、未来」の「三際」と無関係であるし、法界と無関係である。

 しかも、この様ではあるが、水が形成されて現されるのは「公案」、「仏祖の言動」である。

 仏祖が到達する所に水は必ず到達する。

 水が到達する所に仏祖は必ず形成されて現される。

 これによって、仏祖は、必ず、水をひねって身心とするし、思量とする。

 このため、「水は上に上らない」と言う言葉は仏教の内外の書籍には無い。

 水の道は、上下に縦横に通達している。


 仏教の経典の中では、火と風は上に上り、土と水は下に下る。(西洋の四大元素の考えと同じである。)

 四大(元素)の上下の学には参入するべき所が有る。

 仏道の上下の学に参入するのである。

 土と水の行き先を「下」とするのである。

 下を土と水の行き先とするわけではない。

 火と風の行き先は「上」である。


 法界は、上下と、「天の四隅である北東、北西、南東、南西」という「四維」の量とは必ずしも無関係ではあるが、四大(元素)と(くう)と「識」、「理解」の行き先によって暫定的に上下の二方向と天の四隅に法界を建てているだけなのである。


 「無想天」、「有頂天」を「上」、「阿鼻地獄」を「下」とするわけではない。

 「阿鼻地獄」も尽法界であるし、「有頂天」も尽法界である。


 「龍魚」、「竜に成る魚」が水を宮殿として見る時、人が宮殿を見るのと同様であり、「流れて行く」と思うべきではない。

 もし傍観者が「龍魚」、「竜に成る魚」に「あなたの宮殿は流れる水である」と言ったら、私達、人が「山は流れる」という言葉を聞いた時と同様に、「龍魚」、「竜に成る魚」は驚き疑うであろう。

 更に、「宮殿楼閣の手すり、階段、円柱も流れる水である」という説明が有ると保持させられ任せられる事も有るだろう。

 これらの言葉の処理を、静かに思考してきたり思考していったりするべきである。

 この辺りの表立った所で「透脱」、「透体脱落」、「煩悩を透過して脱ぎ落とす事」を学んでいなければ、凡人である身心を解脱していない事に成るし、仏の国土を究め尽していない事に成る。

 ただし、凡人の国土を究め尽すわけではないし、凡人の宮殿を究め尽すわけではない。


 今、人間では、海の心、長江の心を深く水として知見したといえども、「龍魚」、「竜に成る魚」などが、どの様なものを水として知見して使用しているか、未だ知らない。

 愚かにも、「自分が水として知見しているものを、どの(たぐい)の者も水として用いている」と認める事なかれ。

 今、仏教を学んでいる仲間は、「水」を習う時、人間にとっての「水」だけを習う事に停滞するべきではない。

 進んで、仏道の「水」の学に参入するべきである。

 「仏祖が『水』として用いているものを、私達は何ものであると見ているのか?」と学に参入するべきである。

 「仏祖の家の中に『水』が有るのか? 無いのか?」と学に参入するべきである。



 山は、古今を超越している「時」から、大いなる聖者のいる所である。

 賢者と聖者は共に、山を奥義としているし、山を身心としている。

 賢者や聖者によって、山は形成されて現されるのである。

 「山には何人もの大いなる賢者や聖者が入って集まっている」と思われるが、山に入ってから今まで、一人の人にも出会った人が一人もいないのである。

 ただ、山という手段が形成されて現されるだけなのである。

 更に、山に入って来た跡すら残らない。

 世間で山を(のぞ)む時と、山中で山に出会う時は、「頂上を見る眼」が遥かに異なる。

 「山は流れない」という推測と想像と知見は、「龍魚」、「竜に成る魚」の知見と違う。

 人や天人が自分の世界で場所を得ている事を、他の(たぐい)の者は、激しく疑うか、疑う事すらできない。

 「山は流れる」という言葉を仏祖に学ぶべきである。驚き疑ったままではいけない。

 一つの言葉をひねって取ると「山は流れる」のであるし、別の一つの言葉をひねって取ると「山は流れない」のである。

 ある時は「山は流れる」のであるし、別の時は「山は流れない」のである。

 「山は流れる」という言葉と「山は流れない」という言葉に参入して究めていない説明は、如来の正しい「法輪」、「説かれている法」ではない。



 古代の仏は「『無間業』、『無間地獄に堕ちる悪業』を招く事をし得ない事を欲するならば、如来の正しい『法輪』、『説かれている法』の悪口を言う事なかれ」と言った。



 この言葉を「皮肉骨髄」、「理解」に銘じるべきであるし、

身心、「心と身が依り所とする環境としての報いである『この世』と、過去の行いの正に報いである心と身」に銘じるべきであるし、

(くう)に銘じるべきであるし、色に銘じるべきである。

 この言葉は、経典として、樹や石に記されているし、田畑や集落に広まっている。



 山は、国や世界の物ではあるが、山を愛する人の物と成る。

 山は主人を必ず愛し求めるが、山が主人を愛し求めると、聖者や賢者や高徳の者は山に入るのである。

 聖者や賢者が山に住むと、山は聖者や賢者の物と成るので、樹は青々と茂り、石は増え、鳥や獣は霊妙に成る。山が賢者や聖者の徳を(こうむ)らせるからである。

 知るべきである。

 山は、賢者を好む事実が有るし、聖者を好む事実が有る。

 多くの王者が山に行って賢者を拝み、大いなる聖者を拝みに訪問するのは、古今の優れた行跡である。

 この時、王者は賢者や聖者を師として礼拝して敬う。民間の法に従う事は無い。

 皇帝や王などの「聖化」、「徳の化」が及ぶ所でも、山の賢者に強引に何かを()す事は全く無い。山が人間を離れている事を知るべきである。



 「崆峒華封」の時、黄帝は、崆峒山の仙人の広成子を拝むために、ひざまずいて進んで、ひれ伏して、「道」、「真理」を広成子に質問した。



 釈迦牟尼仏は、かつて父の王宮を出て山に入った。

 けれども、釈迦牟尼仏の父の王は、山を恨まなかったし、山にいて王子である釈迦牟尼仏を教える者達を疑わなかった。

 釈迦牟尼仏は、十二年の修行の多くで、山にいた。

 「法王」、「釈迦牟尼仏」が(仏という)運を(ひら)いたのも、山にいた時である。



 実に、転輪聖王ですら山にいる仏に強引に何かを()す事が無い。


 知るべきである。

 山は、人間の場所ではないし、天上の場所ではない。

 人の思考の推測によって山を知見するべきではない。

 もし山が人間の「流れる」を超越していなかったら、誰が「山は流れる」とか「山は流れない」などの言葉で激しく疑うであろうか?



 また、昔から、賢者や聖者は自然に水に住む事も有る。

 聖者や賢者が水に住む時、魚を釣る事も有るし、人を釣る事も有るし、「道」、「真理」を釣る事も有る。

 聖者や賢者が魚や人や真理を釣るのは共に、古くからの水中での風流である。

 更に、進んで、自己を釣る事も有るし、釣る事を釣る事も有るし、釣る事に釣られる事も有るし、「道」、「真理」に釣られる事も有る。



 昔、華亭の徳誠は、突然、三十六祖の薬山惟儼から離れて華亭江という川の中に住んだ時、夾山善会といった華亭江の賢者や聖者を得た。



 華亭の徳誠は、魚を釣らなかったであろうか? いいえ! 華亭の徳誠は、魚を釣った。

 華亭の徳誠は、人を釣らなかったであろうか? いいえ! 華亭の徳誠は、人を釣った。

 華亭の徳誠は、水を釣らなかったであろうか? いいえ! 華亭の徳誠は、水を釣った。

 華亭の徳誠は、自らを釣らなかったであろうか? いいえ! 華亭の徳誠は、自らを釣った。

 華亭の徳誠を「見る」事ができ得た人は、華亭の徳誠に成るのである。

 華亭の徳誠が人を接する方法は、人に会うのである。


 世界に水が有る、というだけではない。

 水という世界に世界が有る。


 水中にだけ世界が有るわけではない。


 雲の中にも情が有る者の世界が有るし、

風の中にも情が有る者の世界が有るし、

火の中にも情が有る者の世界が有るし、

土の中にも情が有る者の世界が有るし、

法界の中にも情が有る者の世界が有るし、

一茎の草の中にも情が有る者の世界が有るし、

一つの杖の中にも情が有る者の世界が有る。


 情が有る者の世界が有る場所には必ず仏祖の世界が有る。

 「情が有る者の世界が有る場所には必ず仏祖の世界が有る」道理の学によくよく参入するべきである。


 水は真の竜の宮殿である。

 水は流れ落ちるのではない。

 「水は流れるだけである」と認めるのは、「流れる」という言葉と水の悪口を言う事に成る。例えば、「水は流れない」と強引に()す可能性が有るので。


 水は水のありのままの実の相だけである。

 水とは水の功徳である。

 水とは流れる物ではない。

 一つの水の、流れる事に参入して究め、流れない事に参入して究めると、全てのものを究め尽す事が突然に形成されて現されるのである。



 山にも、宝に隠れている山が有るし、沢に隠れている山が有るし、空に隠れている山が有るし、山に隠れている山が有る。

 内への所持に山を内に所持する学への参入が有る。



 古代の仏は「山は(真の)山である。水は(真の)水である」と言った。



 この言葉は、「山は普通の山である」と言っているわけではない。

 この言葉は、「山は真の山である」と言っているのである。

 そのため、真の山に参入して究めるべきである。

 真の山に参入して究めれば、真の山で鍛錬する事に成る。



 真の山と水は、自然に、賢者を形成するし、聖者を形成する。



 正法眼蔵 山水経


 その時、千二百四十年、冬、観音導利興聖宝林寺にいて僧達に話した。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ