正法眼蔵 諸悪莫作
「七仏通誡偈」で古代の仏達は「諸々の悪をなすなかれ。
(仏の教えを受け入れて、)諸々の善を行いなさい。
自ら自分の心を清めなさい。
これは、諸仏の(共通の)教えである」と言っている。
「七仏通誡偈」を、釈迦牟尼仏を含む七仏と祖師達が宗としている共通の戒めとして、前の仏から後の仏へ正しく伝えているし、後の仏は前の仏から嗣いでいる。
「七仏通誡偈」は、七仏だけではなく、「これは、諸仏の(共通の)教えである」。
「七仏通誡偈」の道理に鍛錬して参入して究めるべきである。
「七仏通誡偈」という七仏の法の真理は、必ず、七仏が法の真理としていた通りの物である。
「伝えるし、嗣ぐ」のは、「七仏通誡偈」の中の共通の消息である。
「七仏通誡偈」は、「これは、諸仏の(共通の)教えである」ので、百、千、万の無数の仏が「七仏通誡偈」の教え通りに修行して悟りを会得して証している。
「七仏通誡偈」の「諸々の悪」とは、「善性、悪性、無記性」という「三性」の中の「悪性」である。
(「無記」、「無記性」は「善悪に分け難いもの」である。)
「悪性」は「無生」、「生じないもの」、「空であるもの」である。
「善性」と「無記性」なども「無生」、「生じないもの」、「空であるもの」である。
「悪性」などは、(「空」、「くう」であるので、)「無漏」、「(『煩悩が無い』または)『認識しても煩悩を増やさない』」。
「悪性」などは、(「空」、「くう」であるので、)「実相」、「実の相」、「実の見え方」である。
けれども、「悪性」を含む「三性」の中に多数の種類の法が有る。
「七仏通誡偈」では「諸々の悪」と言うが、この世界の悪と、(地獄といった)他の世界の悪は、同じ場合が有るし、異なる場合が有るし、
先の時代の悪と、後の時代の悪は、同じ場合が有るし、異なる場合が有るし、
天上の悪と、人間の悪は、同じ場合が有るし、異なる場合が有る。
まして、仏道の悪と、世間の悪は、悪と言っても、善と言っても、無記と言っても、遥かに差異が有る。
善悪は時である。時は善でもないし悪でもない(、と言える)。
善悪は法である。法は善でもないし悪でもない(、と言える)。
法が等しければ、悪も等しく成る。(法が同じならば、悪も同じに成る。)
法が等しければ、善も等しく成る。(法が同じならば、善も同じに成る。)
無上普遍正覚を学んで、仏の教えを聞き、修行し、悟りという結果を証すると、深遠であるし、絶妙である。
無上普遍正覚を、善知識を持つ人々によって聞いたり、経典によって聞いたりする。
最初は、「諸々の悪をなすなかれ」と聞こえる。
「諸々の悪をなすなかれ」と聞こえないものは、仏の正しい法ではないし、「魔」、「仏敵」の説である。
知るべきである。
「諸々の悪をなすなかれ」と聞こえるものは、仏の正しい法である。
「諸々の悪をなすなかれ」というのは、凡人が「諸々の悪をなすなかれ」と作為的に聴こうとして初めて「諸々の悪をなすなかれ」と聴けるわけではない。
無上普遍正覚が説かれている仏の教えを聞くと、「諸々の悪をなすなかれ」と聞こえるのである。
「諸々の悪をなすなかれ」と聞こえるのは、無上普遍正覚についての言葉である道理の表れである。
無上普遍正覚についての話であるので、無上普遍正覚を話すのである。
「諸々の悪をなすなかれ」という言葉が、無上普遍正覚を説き表した物と成って、聞かれると、知られると、(無上普遍正覚を求める修行者は、)転じられて、「諸々の悪をなすなかれ」と願い、「諸々の悪をなすなかれ」と行っていく。
諸々の悪をなさなく成って行くと、修行の力は突然に形成されて現される。
修行の力が形成されて現される時は、地の尽く、世界の尽く、時の尽く、法の尽くを量として形成されて現されるのである。
修行の力が形成されて現される時の量は、「なすなかれ」を量とする。
修行の力が形成されて現された時の修行者は、諸々の悪を作りそうな所に住んでも、諸々の悪を作りそうな所を行き来しても、諸々の悪を作りそうな縁に出会っても、諸々の悪を作る友に交わるようでも、諸々の悪を更に作らないのである。
なぜなら、「なすなかれ」の力量が形成されて現されるからである。
諸々の悪は自ら「諸々の悪である」と言い表さない。諸々の悪には決まった道具など無い。
(諸々の悪には決まった目印など無い。)
「一拈一放」、「ひねって取ったり手放したりする」という道理が有る。
「ひねって取ったり手放したりする」時、悪(という概念)が人を侵さない道理が知られるし、人が悪(という概念)を破らない道理が明らめられる。
自分の心を挙げて心を修行させる時、自分の身を挙げて身を修行させる時、身心を修行させるより先に八、九割、修行は成っているし、「脳後」、「心身後」の「なすなかれ」が有る。
あなたの心身をひねって取って来て修行したり、誰かの心身をひねって理解して取って来て修行したりすると、四大(元素)と五蘊によって修行する力が突然に形成されて現されるので、四大(元素)と五蘊が自分を汚染せず、今日の四大(元素)と五蘊までも修行されていく。
(
四大元素は土、水、火、風である。
五蘊は色、受、想、行、識である。
)
今、修行されていく四大(元素)と五蘊の力は、過去の四大(元素)と五蘊を修行させる。
山と河と大地、太陽と月と星々までも修行させると、山と河と大地、太陽と月と星々が逆に私達を修行させる。
一時の「見る眼」ではなく、諸々の時の「真理を見通す見識」である。
「見る眼」が「真理を見通す見識」に成る諸々の時であるので、諸々の仏祖を、修行させ、仏の教えを聞かせ、悟りという結果を証させる。
諸々の仏祖は、かつて、「仏の教えと修行と証」を汚染した事が無いので、「仏の教えと修行と証」は諸々の仏祖を妨げる事が無い。
このため、仏祖を修行させると、過去、現在、未来の前後で回避する仏祖はいない。
全ての生者が仏祖と成る時、常日頃、存在している仏祖を遮らずに仏祖と成る道理を、一日の中の日常の行動で、よくよく思考するべきである。
全ての生者が仏祖に成っても、全ての生者を破らないし、奪わないし、失わない。
けれども、(全ての生者は仏祖に成ると古い心身を)脱ぎ落としてきている。
善悪、因果を修行させる。
因果を動かすわけではない。
因果を作るわけではない。
因果は、ある時は、私達を修行させる。
因果の本来の「面目」、「有様」は、明らかである。
因果の本来の有様は、「なすなかれ」であるし、
因果の本来の有様は、「無生」、「生じないもの」、「空であるもの」であるし、
因果の本来の有様は、「無常である」、「変化する」し、
因果の本来の有様は、「(因果に)暗くない事」であるし、
因果の本来の有様は、「(因果に)落ちない事」である。
なぜなら、(因果を)脱ぎ落とすからである。
因果に参入し究めると、「諸々の悪」は、一つの、「かつて、『なすなかれ』であった」と形成されて現される。
「『諸々の悪』は、一つの、『かつて、『なすなかれ』であった』」と形成されて現される事に助け起こされて、「諸々の悪をなすなかれ」であると、見通す事ができ得るし、煩悩を断つ事ができ得る。
「諸々の悪をなすなかれ」であると、見通した時、煩悩を断った時、「最初も中間も最後も『諸々の悪をなすなかれ』である」と形成されて現されるので、「諸々の悪」は、「因縁によって生じている」のではなく、ただ「なすなかれ」でしかないのである。
「諸々の悪」は、「因縁によって滅ぶ」のではなく、ただ「なすなかれ」でしかないのである。
もし「諸々の悪」が等しければ、「諸法」、「全てのもの」も等しいのである。
「諸々の悪」は「因縁によって生じている」と思い込んで、「諸々の悪」の因縁が自己と「なすなかれ」であるのを見ない人は、憐れむべき輩である。
「仏の種は縁によって生じる」のであれば、「縁は仏の種によって生じる」のである。
「諸々の悪」は無いわけではない。「諸々の悪」は「なすなかれ」でしかないのである。
「諸々の悪」は存在するわけではない。「諸々の悪」は「なすなかれ」でしかないのである。
「諸々の悪」は「空」ではない。「諸々の悪」は「なすなかれ」でしかないのである。
「諸々の悪」は「色」ではない。「諸々の悪」は「なすなかれ」でしかないのである。
「諸々の悪」は「なすなかれ」ではない。「諸々の悪」は「なすなかれ」でしかないのである。
例えば、春でも常緑である松は、無ではないし、存在ではないし、(人が)作っていないのである。
秋に最も美しい菊の花は、無ではないし、存在ではないし、(人が)作っていないのである。
諸仏は、無ではないし、存在ではないし、「なすなかれ」なのである。
寺の円柱、灯籠、害虫を払うための毛がついた棒である払子、杖などは、無ではないし、存在ではないし、「なすなかれ」なのである。
自己は、無ではないし、存在ではないし、「なすなかれ」なのである。
善悪の学への参入は、形成させて現させた手がかりであるし、手がかりが形成されて現されているのである。
主観的に鍛錬するし、客観的に鍛錬する。
このため、作られていなかった「諸々の悪」を作っていたと悔しむのも、必然的に、「なすなかれ」による鍛錬の力による物なのである。
そのため、「『諸々の悪』は『なすなかれ』であるならば、『諸々の悪』を作らない」と思うのは、北に歩いて南の国の越に着くのを待つ様な物である。
「諸々の悪をなすなかれ」は、(「驢覰井」、驢馬、ロバが井戸の水を見ると、)「井覰驢」、「井戸の水が驢馬を見る」だけではない。
井戸の水が井戸の水を見るのである。
驢馬が驢馬を見るのである。
人が人を見るのである。
山が山を見るのである。
「説箇応底道理」、「この『応じる』奥底の道理を説く」というのが有るので、「諸々の悪をなすなかれ」なのである。
「仏真法身、猶若虚空。応物現形、如水中月」、「仏の真の『法身』は、なお虚空のようである。物に応じて形を現わすのは、水の中に映る月のようである」なのである。
「物に応じて」、「なすなかれ」であるので、「形を表す」、「なすなかれ」が有る。
「なお虚空のようである」のは、「左拍右拍」、「左で打つし右で打つ」である。
「水の中に映る月のようである」のは、「水と月に遮られる」のである。
これらの「なすなかれ」は、更に疑うべきではない、形成されて現されている物である。
「(仏の教えを受け入れて、)諸々の善を行いなさい」
「七仏通誡偈」の「諸々の善」とは、「善性、悪性、無記性」という「三性」の中の「善性」である。
善性の中に「諸々の善」は有るが、行う前から形成されて現されて、行う人を待つ「諸々の善」は未だ無い。
善をなした時、来ない「諸々の善」は無い。
全ての善には形が無いが、善をなした所に重なり合うのは磁石が鉄を引き寄せるよりも速い。
善が重なり合う力は、世界の最初と最後に吹く大暴風である「毘嵐風」よりも強い。
大地、山河、世界、国土、業が「増上する」、「増長する」力ですら、善の重なり合いを妨げる事は不可能である。
世界によって善の認識が異なる道理は、同じ認識を善としているからである。
過去、現在、未来の諸仏の法の説き方のように。
「同じ」と言うのは、釈迦牟尼仏が存命していた時に説いた法は、ただ「時」、「機会」による物である。寿命、身量も「時」、「機会」に一任してきたので、「無分別」、「区別しない」法なのである。
そのため、仏の法を信じて行う愚鈍な人の善と、「仏の法」、「真理」を知って行う利発な人の善は、遥かに異なるが、仏の法は同じであるような物である。
例えば、声聞が戒を守るのは菩薩が戒を破るような物である。
「諸々の善」は、「因縁によって生じる」のではないし、「因縁によって滅ぶ」のではない。
「諸々の善」は「諸法」、「全てのもの」であるが、「諸法」、「全てのもの」は「諸々の善」ではない。
「因縁」と「生じたり滅んだりする事」と「諸々の善」は同じく、頭が正しければ、尾も正しい。
「諸々の善」は「(仏の教えを受け入れて、)行う事」であるが、自分ではないし、自分に知られない。
他の者ではないし、他の者に知られない。
自分や他の者の知見は、知には自分の物が有るし他の者の物が有るし、見る者が自分である場合が有るし他の者である場合が有るので、各々の「活眼睛」、「真理を見通す見識が有る、見る眼」は太陽にも有るし月にも有る。
「活眼睛」、「真理を見通す見識が有る、見る眼」とは、「(仏の教えを受け入れて、)行う事」である。
「(仏の教えを受け入れて、)行う」時に、形成されて現される仏祖の言動が有っても、仏祖の言動が初めて成ったわけではないし、仏祖の言動が長く留まっているわけではないし、本からの行いであると言うであろうか?
「善をなす」である「(仏の教えを受け入れて、)行う」であるが、推測するべきではない。
「(仏の教えを受け入れて、)行う」のは、「活眼睛」、「真理を見通す見識が有る、見る眼」であるが、推測ではない。
法を推測するために形成させて現させているわけではない。
「活眼睛」、「真理を見通す見識が有る、見る眼」による推測は、他の推測とは異なる。
「諸々の善」は、存在、無、色、空などではない。
「諸々の善」は、「(仏の教えを受け入れて、)行う事」でしかないのである。
「諸々の善」は、どの場所に形成されて現されても、どの時に形成されて現されても、必ず、「(仏の教えを受け入れて、)行う事」なのである。
「(仏の教えを受け入れて、)行う」時に、必ず、「諸々の善」は形成されて現される。
「(仏の教えを受け入れて、)行う事」が形成されて現されるのは、仏祖の言動であるが、生じたり滅びたりしないし、因縁ではない。
「(仏の教えを受け入れて、)行う事」の「入住出」なども、生じたり滅びたりしないし、因縁ではない。
「諸々の善」の中の一つの善を「(仏の教えを受け入れて、)行う」時に、「尽法」、「全身」、「真実」、「地」なども共に「(仏の教えを受け入れて、)行われる」のである。
「(仏の教えを受け入れて、)行う」一つの善の因果は、他の善と同じく、「(仏の教えを受け入れて、)行う事」の形成されて現される手がかりである。
原因は先で結果は後ではないが、原因は円満し結果も円満する。
原因が等しければ、法も等しい。(原因が同じであれば、法も同じである。)
結果が等しければ、法も等しい。(結果が同じであれば、法も同じである。)
原因に待たれて結果を感じるが、前後ではない。前後が等しい道が有るので。
「七仏通誡偈」の「自ら自分の心を清めなさい」と言うのは、「(諸々の悪を)なすなかれ」であるのは「自ら」なのであるし、「(諸々の悪を)なすなかれ」とは「清める事」なのである。
「自ら」が「自分(を清める)」なのであるし、「自分」とは「心」なのである。
「(仏の教えを受け入れて、)行う」、「心」であるし、
「(仏の教えを受け入れて、)行う事」は「清める事」であるし、
「(仏の教えを受け入れて、)行う」のは、「自分」であるし、
「(仏の教えを受け入れて、)行う」のは、「自ら」である。
このため、「七仏通誡偈」では「これは、諸仏の(共通の)教えである」と言うのである。
「七仏通誡偈」の「諸仏」は、自在天に似ている。
諸仏は自在天と似ていたり異なっていたりするが、一切の全ての自在天は諸仏ではない。
「諸仏」は、転輪聖王に似ている。
けれども、一切の全ての転輪聖王は諸仏ではない。
この道理の学に鍛錬して参入するべきである。
「諸仏とは、どの様な者であるか?」とも学ばず、いたずらに無駄に労苦する人は、諸仏に似ていても、苦しみを受けている生者であるし、仏道を修行しているわけではない。
「なすなかれ」と「(仏の教えを受け入れて、)行う事」は、「ロバの事が未だ終わらないけれども、馬の事が到来する」なのである。
唐の時代の中国の詩人の白居易は、仏光如満の「俗弟子」、「在俗者の弟子」である。
仏光如満は、三十五祖の馬祖道一の弟子である。
白居易は、杭州の刺史であった時、鳥窠道林の所へ行って「仏法の要点とは、どの様な物ですか?」と質問した。
鳥窠道林は「諸々の悪をなすなかれ。(仏の教えを受け入れて、)諸々の善を行いなさい」と、七仏通誡偈の前半を言った。
(白居易と鳥窠道林の「七仏通誡偈」の問答は史実ではないと言われている。)
白居易は「もし、そうならば、(かえって、)三歳の幼子でも言う事ができ得る」と言った。
鳥窠道林が「たとえ、三歳の幼子でも言う事ができ得るが、八十歳の老人でも行う事はでき得ない」と言うと、白居易は感謝して去った。
実に、白居易は、白起将軍の末裔であるが、世にも稀な詩の天才である。
白居易は「二十四生の文学」である、と人は伝えている。
白居易には、文殊の称号も有るし、弥勒の称号も有る。
白居易の風情は聞こえない事が無い。
詩人が白居易を目指さない事が無い。
けれども、白居易は、仏道では初心者であったし、後進であった。
まして、白居易は、七仏通誡偈の「諸々の悪をなすなかれ。(仏の教えを受け入れて、)諸々の善を行いなさい」という言葉の主旨を夢にも未だ見ないようであった。
白居易は、「鳥窠道林が執着心の趣きを認めて『諸々の悪をなすなかれ。(仏の教えを受け入れて、)諸々の善を行いなさい』と言ったのだろう」と思ってしまい、仏道には永遠の「諸々の悪をなすなかれ。(仏の教えを受け入れて、)諸々の善を行いなさい」が過去から現在まである道理を知らず聞かず、仏法の修行を積まず仏法の力が無いので、「三歳の幼子でも言う事ができ得る」と言ってしまったのである。
たとえ、作った「諸々の悪」を戒め、作った「諸々の善」を勧めても、形成されて現される「なすなかれ」である。
仏法は、善知識を持つものの近くで初めて聞いた物と究極の結果の上は等しいのである。
これを「頭が正しければ、尾も正しい」と言うし、
「妙因妙果」、「原因が絶妙であれば結果も絶妙である」と言うし、
「仏因仏果」、「原因が仏であれば結果も仏である」と言う。
仏道の因果は、「異熟」、「善性や悪性の原因が無記の結果を生じる事」や「等流」、「結果が原因と同じ性質を持つ事」等の論理ではないので、仏という原因でなければ仏という結果を感得できない。
鳥窠道林は、「仏という原因でなければ仏という結果を感得できない」道理を言葉として選び取ったので、仏法が有るのである。
たとえ「諸々の悪」が何重もの尽界を全て統治し、何重もの尽法を飲み込んでも、「なすなかれ」による解脱と成る。
「諸々の善」は「最初も中間も最後も善い」ので、「(仏の教えを受け入れて、)行う」性質、相、本体、力などを「最初も中間も最後も善い」ようにするのである。
白居易は、かつて、この行跡を踏まえなかったので、「三歳の幼子でも言う事ができ得る」と言ってしまったのである。
白居易は、まさしく、言い得る「道」、「真理」を会得する力が無くて、「三歳の幼子でも言う事ができ得る」と言ってしまったのである。
憐れむべきである。
白居易よ、あなたは何を言っているのか?
仏の家の家風を未だ聞かないのに、「三歳の幼子」を知っているのか否か?
幼子が才能を持って生まれる道理を知っているのか否か?
「三歳の幼子」を(真の意味で)知っている者は、過去、現在、未来の諸仏をも知っている。
過去、現在、未来の諸仏を未だ知らない者が、どうして「三歳の幼子」を知っているだろうか?
「対面したものは知っている」と思う事なかれ。
「対面しなければ知らない」と思う事なかれ。
一つの塵を知る者は世界の尽くを知るし、一つの法に通じている者は全ての法に通じる。
全ての法に通じていない者は一つの法にも通じていない。
「通」、「理解」を学んだ者が「徹底的に完全に理解した」時、全ての法をも見るし、一つの法をも見るので、一つの塵を学んでいる者は不可避的に世界の尽くを学んでいるのである。
「『三歳の幼子』は仏法を言う事ができない」と思ってしまったり、「『三歳の幼子』が言う事は簡単にできる」と思ってしまったりするのは最悪の愚かさである。
なぜなら、生を明らめ死を明らめるのは仏の家が一大事とする「因縁」、「理由」である。
古代の高徳の僧は「あなたが初めて生まれた時、『獅子吼』、『獅子が吼えるように法を説く』才能が有った」と言った。
「獅子吼」、「獅子が吼えるように法を説く」才能とは、如来、釈迦牟尼仏が法輪を転じるように法を説いた功徳であるし、法輪を転じるように法を説く事である。
また、古代の高徳の僧は「生死が去ったり来たりするのは、真実の人の体である」と言った。
そのため、真の実体を明らめ、「獅子吼」、「獅子が吼えるように法を説く」功徳が有るのは、実に、一大事である。簡単ではない。
このため、「三歳の幼子」の因縁の日常の行動を明らめようとすると、更に、大いなる因縁が有る。
なぜなら、過去、現在、未来の諸仏の日常の行動の因縁と似ていたり異なっていたりするからである。
白居易は、愚かにも、「『三歳の幼子』が仏法を言い得る」事をかつて聞かなかったので、「『三歳の幼子』が仏法を言い得るだろうか?」と明らかに疑わず、「三歳の幼子でも言う事ができ得る」という言葉を選び取ってしまったのである。
白居易は、雷よりも明らかに現れている鳥窠道林の話す声を聴かず、「かえって、三歳の幼子でも言う事ができ得る」と言ってしまった。
白居易は、「幼子」の「獅子吼」、「獅子が吼えるように説く法」をも聴かなかったし、鳥窠道林が説く法をも見過ごしてしまった。
鳥窠道林は、憐れみを止める事ができず、「たとえ、三歳の幼子でも言う事ができ得るが、八十歳の老人でも行う事はでき得ない」と重ねて言ったのである。
鳥窠道林の言葉の意味は、「『三歳の幼子』に言い得る言葉が有る」。
「『三歳の幼子』に言い得る言葉」に、よくよく参入して究めるべきである。
「八十歳の老人に行う事ができ得ない『道』、『真理』が有る」。
「八十歳の老人に行う事ができ得ない真理」をよくよく鍛錬するべきである。
「幼子が言い得る言葉は、あなたに一任する。けれども、幼子に一任しない。老人が行う事ができ得ない真理は、あなたに一任する。けれども、老人に一任しない」と言っているのである。
仏法は、この様に、わきまえて理解して取るし、説明して理解して取るし、宗として理解して取るのを道理としている。
正法眼蔵 諸悪莫作(諸々の悪をなすなかれ)
その時、千二百四十年、興聖宝林寺にいて僧達に話した。