正法眼蔵 谿声山色
無上普遍正覚では、「道」、「真理」による業で伝授される仏祖が多い。
(常啼菩薩が自身の骨を砕いて髄を法涌菩薩に捧げた、といった)粉骨砕身の先例が有る。
二十九祖の慧可の「断臂得髄」の主旨を学ぶべきである。
釈迦牟尼仏が前世で燃灯仏のために髪を敷いて泥を覆った主旨も間違える事なかれ。
各々が殻を脱ぐ時、従来の知見や理解にとらわれず、長い年月で未だ明らめていなかった事が、すぐに目の前に現れる。
各々が殻を脱ぐ時は、自分も知らないし、誰も理解していないし、自分も予期できないし、仏の眼も見張っていない。
どうして各々が殻を脱ぐ時を人の思考で推測できるであろうか? いいえ! 各々が殻を脱ぐ時は人の思考で推測できない!
宋の時代の中国に、東坡居士と呼ばれる蘇軾がいた。蘇軾の字は、子瞻と言う。
蘇軾は、詩人の真の竜である。
蘇軾は、仏の海の、竜や象の様な高徳の僧に学んだ。
蘇軾は、仏の海の、深い淵も泳いだ。
蘇軾は、「層雲」、「霧雲」も昇り降りした。
蘇軾は、ある時、廬山に行った夜に、谷川が流れている音を聞いて「道」、「真理」を悟った。
蘇軾は、詩を作って、東林の常総に示して、「谷川の音という声は、仏の『広長舌』である。
山の色形は、『清浄身』、『清浄である仏の身体』である。
夜に成って、(仏の『広長舌』である谷川の音という声などは、)『八万四千』の詩(を話す)。
後日、どの様に例えたら他人に伝える事ができるだろうか?」と言った。
蘇軾が詩を東林の常総に示すと、東林の常総は詩を肯定した。
東林の常総は、照覚と呼ばれる。
東林の常総は、黄龍慧南の法の子孫、黄龍慧南の弟子である。
黄龍慧南は、慈明と呼ばれる石霜楚円の法の子孫、石霜楚円の弟子である。
ある時、蘇軾が仏印了元に見えると、仏印了元は法衣と仏戒などを授けた。
そのため、蘇軾は、常に法衣を着て修行した。
蘇軾は、価値をつけられないほど貴重な宝玉で飾られた帯を仏印了元に捧げた。
当時の人々は「凡人、俗人が及べない事である」と言った。
蘇軾が谷川の音という声を聞いて「道」、「真理」を悟った出来事には、後進の人を潤す有益さが有る!
(法輪の)何回転か、「(谷川や山という)現身説法」、「仏は(谷川や山といった)色々な形で法を説く事」の化の導きに漏れている様に成っている事を憐れむべきである。
(「説法」、「法を説く事」を「法輪を転じる」と言う場合が有る。)
さらに、どうすれば、山の色形を見て、谷川の音という声を聞いて、「一句である」とか「半句である」とか「八万四千の詩である」とできるのか?
山と川に隠れている色形や音声が有る事を恨みたく成ってしまう。
また、山と川には「現れる」時と理由が有る事を喜ぶべきである。
仏の「広長舌相」である谷川は流れて、飽きて怠る事が無い。
仏の身体という山の色形には生死が無い。
けれども、山と川が「現れる」時を「近い」と習うのか? 山と川が「隠れている」時を「近い」と習うのか?
「一枚である」とするのか? 「半分である」とするのか?
(蘇軾の話を聞くまでの)従来の年月では山と川を見聞きしていなかった。
夜に成った時に山と川を見聞きする事はわずかである。
今、仏道を学び修行している「菩薩」、「無上普遍正覚を求める修行者」も、「山は流れる。水は流れない」という言葉によって、学び入るための門を開くべきである。
蘇軾は、「道」、「真理」を悟った夜の前日に、東林の常総と「無情説法」、「石や草木といった情の無いものが法を説いている」話に参入して質問していた。
蘇軾は、東林の常総の言葉で迷いを転じて悟る事は未だできなかったが、谷川の音という声を聞いて「逆流の波が高く天を打つ」様に悟った。
そのため、谷川の音という声が蘇軾を悟らせたが、谷川の音という声だけが蘇軾を悟らせたのか? 東林の常総の「無情説法」話という川が注いだ谷川の音という声が蘇軾を悟らせたのか?
恐らく、東林の常総の「無情説法」話の響きが未だ止まず、密かに谷川の夜の音声に乱入したのだろう。
誰が「東林の常総の『無情説法』話という水の量は一升である」と納得するのか?
(一升は約一.八リットル。)
誰が「一つの海である」として川を海に合流させるのか?
究極的に言えば、蘇軾が「道」、「真理」を悟ったのか? 山と川が「道」、「真理」を悟ったのか?
誰が、真理を明らかに見通す見る眼が有って、仏の「広長舌相」と「清浄身」、「清浄である仏の身体」を突然に明らかに見るのであろうか?
また、かつて香厳の智閑が三十七祖の潙山霊祐の会で仏道を学び修行していた時、潙山霊祐は「あなたは、聡明で博学である。経典の注釈書の中から記憶に保持した(受け売りの真理の)言葉ではなく、父と母から生まれる以前から、私のために(真理の)言葉を一句、理解して取って来なさい」と言った。
香厳の智閑は、(真理の言葉を)言おうと数回したが、言い得る事ができなかった。
香厳の智閑は、深く身心を恨み、長年に渡って蓄えてきた書籍を開いて(真理の言葉を)探したが、それでもなお呆然とした。
香厳の智閑は、ついに火で長年に渡って集めてきた書籍を焼いて、「絵に描いた餅は、飢えを止める事ができない。
私は誓う。
この生で仏法を会得する事を望まない。
ただ『行粥飯僧』、『他の僧の食べ物を用意する僧』と成ろう」と言って、他の僧の食べ物を用意する務めだけして年月を経て行った。
「行粥飯僧」と言う者は、他の僧達に食べ物を用意する。日本の「給仕」の様な者である。
こうして、香厳の智閑は、潙山霊祐に「香厳の智閑は、身心が真理に暗くて愚かで、『道』、『真理』を会得できず言い得ない。和尚様、潙山霊祐様、私のために、真理の言葉を言ってください」と言った。
潙山霊祐は「私は、あなたのために言う事を辞さないつもりは有るが、(言ってしまったら)恐らくは後に、あなたは私を恨んでしまうであろう(。だから、言わない)」と言った。
かくして、香厳の智閑は、年月が経つと、南陽慧忠の行跡を訪ねて武当山に入山して、南陽慧忠の草の屋根の庵の跡で、草を結びつけて庵と成して暮らした。
香厳の智閑は、竹を植えて友としていた。
香厳の智閑は、ある時、道を平らにするために掃いて清掃していると、小石が飛んで竹に当たり音が鳴ったのを聞いて突然、真理を大いに悟った。
香厳の智閑は、体を水で洗浄し飲食などを節制して身心を清めてから、潙山霊祐に向かって、焼香し礼拝して、「和尚様、潙山霊祐様が、昔、私のために真理を説いていたら、どうして今、真理を悟る事ができたでしょうか? いいえ! 真理を悟れなかったであろう! 潙山霊祐様からの恩の深さは、父と母よりも優れている」と言った。
香厳の智閑は、ついに詩を作って「竹の音は一撃で私が知っていた物を忘れさせた。
更に私は自ら手を加えない。
振る舞いを古くからの道にまで高く上げて、悄然とした心に堕ちない。
(真理は)どこにも跡は無い。
(真理は)音声や色形以外で身につける物である。
諸方の達道者は皆、上々の心を持つ者である、と言おう」と言って潙山霊祐に示した。
潙山霊祐は「この子は(真理に)通じた」と言った。
また、霊雲志勤は、三十年、「道」、「真理」をわきまえていた。
霊雲志勤は、ある時、気晴らしに山を見て歩き、山の麓で休息して、遥か遠くに有る人里を眺めた。その時は春であった。
霊雲志勤は、桃の花が花盛りであるのを見て、突然、「道」、「真理」を悟った。
霊雲志勤は、詩を作って潙山霊祐に示して「三十年、知の剣の達人に尋ねて、何回か葉が落ち枝が伸びた。桃の花を一見した後、直ぐに、今に至るまでも、(私の心は)更に疑う事が無い(ので真理を悟ったのである)」と言った。
潙山霊祐は「仏縁によって真理に入った者は、永遠に、初心を失ったり堕落したりしない」と言って、仏法が霊雲志勤に伝わっている事を認めた。
仏縁によらないで真理に入る者はいない!
真理に入った者で初心を失ったり堕落したりする者はいない!
そのため、潙山霊祐の「仏縁によって真理に入った者は、永遠に、初心を失ったり堕落したりしない」という言葉は、霊雲志勤、独りだけの事を言っているのではない。
霊雲志勤は、ついに潙山霊祐から仏法を嗣ぐ事ができた。
もし山の色形が「清浄身」、「清浄である仏の身体」でなかったら、どうして霊雲志勤は潙山霊祐から仏法を嗣ぐ事ができたであろうか? 山の色形は「清浄身」、「清浄である仏の身体」であるので、霊雲志勤は潙山霊祐から仏法を嗣ぐ事ができた!
ある僧が長沙景岑に「どの様にしたら、山河大地を転じて自己に帰す事ができますか?」と質問した。
長沙景岑は「どの様にしたら、自己を転じて山河大地に帰す事ができるのか?」と言った。
長沙景岑が「どの様にしたら、自己を転じて山河大地に帰す事ができるのか?」という言葉を選び取ったのは、「自己は自然に自己である。たとえ、自己が山河大地である、といえども、更に、帰す事に、こだわるべきではない」という意味である。
広照大師と呼ばれる琅邪の慧覚は、三十四祖の南嶽の懐譲の法の遠い子孫である。
ある時、華厳宗の講師の長水子璿が「清浄であるのが本来の自然のままの姿である。どうして突然に山河大地を生じるのか?」と質問した。
琅邪の慧覚は「清浄であるのが本来の自然のままの姿である。(あなたは、)どうして突然に(別の普通の)山河大地を生じるのか?」と示して言った。
清浄である本来の自然のままである真の山河大地を、普通の山河大地と誤ってはいけない、と琅邪の慧覚の言葉によって知る事ができる。
それなのに、霊感が無い文字だけの経典の似非学者である長水子璿は、清浄である本来の自然のままである真の山河大地をかつて夢にも聞いた事が無いので、真の山河大地を真の山河大地であると知らないのである。
知るべきである。
山の色形と谷川の音という声が仏の物でなければ、釈迦牟尼仏は「拈華瞬目」を開演しなかったであろうし、二十八祖の達磨が「(あなたは私の)髄を得た」と言ってほめた二十九祖の慧可は達磨を三回礼拝した後に自分の位置に戻って立つ事もしなかったであろう。
山の色形と谷川の音という声の功徳によって、大地と情の有る全ての生者と共に同時に仏に成った、明けの明星を見た時に道を悟った、釈迦牟尼仏といった諸仏がいるのである。
蘇軾、香厳の智閑、霊雲志勤といった皮袋である人達は、仏法を求める志が非常に深かった先人の賢人である。
蘇軾、香厳の智閑、霊雲志勤といった先人の行跡に、今の人は必ず参入して理解して取るべきである。
今も、名声や利益と無関係でいる真実の学への参入者は、蘇軾、香厳の智閑、霊雲志勤の様な志を立てるべきである。
遠方である日本では、千二百四十年頃から、真に仏法を求める人は稀である。いないわけではないが、出会うのは困難である。
偶々(たまたま)、似非出家者と成り、世俗から離れた真の出家者に似ていても、仏道を名声や利益への架け橋とする人ばかりが多い。
憐れむべきである。
悲しむべきである。
速やかに過ぎ去ってしまう、この時間を惜しまず、この時間を虚しく「黒暗業」、「悪業」に換えてしまう。
何時が、迷いから出て離れて「道」、「真理」を会得する機会であろうか? 今が、迷いから出て離れて「道」、「真理」を会得する機会である!
似非出家者は、たとえ正しい師に出会っても、真の竜である正しい師を愛さないであろう。
似非出家者の類を、過去の仏祖は「憐れむべき者である」と言った。
似非出家者は、前世に悪い原因が有るので、悪い結果に成るのである。
(未だ悟らない時の生を「前世」と言う場合が有る。)
似非出家者は、生まれても、法のために法を求める志が無いので、真の法の師に見えても真の竜である真の法の師を疑うのであるし、正しい法に出会っても正しい法に嫌われるのである。
似非出家者は、身心骨肉を、かつて法によって生じさせていないので、法と結びつかないのであるし、法を受用できないのである。
仏祖が宗としている事を師から弟子へ伝承してきたが、久しく成ってしまった。
「菩提心」、「悟りを求める心」は、昔の夢を説く様な物に成ってしまった。
財宝の山に生まれながら、財宝を知らない事を、財宝を見ない事を、更に、財宝を得られない事を、憐れむべきである。
もし「菩提心」、「悟りを求める心」を起こした後で、「六趣四生で」、「六道四生で」、「『地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上』の『六道』に『胎生、卵生、湿生、化生』の『四生』で生まれて」、輪廻転生しても、輪廻転生した因縁は皆、「菩提」、「悟り」への修行と誓願と成るのである。
そのため、従来、今まで、たとえ時間を虚しく過ごしていても、今の生が未だ過ぎない間に、急いで悟りを求める心を起こすべきである。
「願わくば、私と一切の全ての生者は、今の生から、いくつもの生を超えても、正しい法を聞く事が有ります様に。
正しい法を聞く事が有った時、正しい法を激しく疑いません様に。
正しい法を信じない事が有りません様に。
まさに、正しい法に出会った時、この世の法を捨てて仏法を受けて保持できます様に。
ついには、(釈迦牟尼仏の様に、)大地と情の有る全ての生者と共に同時に仏に成る事ができ得ます様に」といった悟りを求める心を起こせば、自然と、正しい、悟りを求める事を思い立って心する因縁と成るであろう。
この心の術を飽きて怠る事なかれ。
また、この日本国は、海外の遠方であり、人の心は最悪に愚かである。
昔から、未だに、聖者は生まれないし、生まれながらの(真の)知者は生まれないし、更には、本当に仏道を学び修行する者は稀である。
道心を知らない輩に道心を教えても、「論語」で孔子が言う様に「忠言は耳に逆らう」、「忠告は素直に聞き入れ難い」ので、自己を反省せず、(道心を教えて忠告した)他人を恨んでくる。
「菩提心」、「悟りを求める心」を修行し誓願している時には、「菩提心」、「悟りを求める心」の有無や、仏道修行の有無を、「世の人々に知られよう」と思ってはいけない。「知られない様にしよう」と思って修行するべきである。まして、自称するべきではない。
今の人が、真実を求める事は稀である。
そのため、例えば、身で修行する事が無くても、心に悟りが無くても、他人がほめた事が有る、「修行と理解を結びつけた」と自称する偽の人を、今の人は求める。
「迷いの中で更に迷う」とは、偽の師を求める事である。
他人がほめた偽の師を求める邪念を速やかに投げ捨てるべきである。
仏道を学んで修行する時に、見聞きする事が難しいのは、正しい法の心の術である。
正しい法の心の術は、仏から仏へ伝えて来ている物である。
正しい法の心の術を、仏の光明として、仏の心として、伝えて来ているのである。
如来、釈迦牟尼仏が存命していた時から今日に至るまで、名声や利益を求めるのを仏道を学んで修行する用心としている様な輩が多いが、正しい師の教えに出会って、心を翻して正しい法を求めれば、自然と、道を会得している。
今、仏道を学んで修行する時にも、正しい法の心の術を見聞きする事が難しい憂いが有るだろう、と知るべきである。
例えば、初心の学び始めた時でも、長年修行している時でも、「道」、「真理」を伝授してもらえる機会を得る事も有るし、得られない事も有る。
古代を慕って習う優れた素質の人もいるであろうし、悪口を言って習わない仏敵もいるであろうが、両者共、愛するべきではないし、恨むべきではない。
どうして、(自分は劣悪な素質の人である、といった物事への)憂いが無いであろうか? いいえ! 憂いが有る!
どうして、優れた素質の人や、仏敵なのに改心したからといって真理を伝授してもらった人を、恨まないであろうか? いいえ! 恨んでしまう!
「貪欲と怒りや恨みと愚かさ」という「三毒」を「自分の心の、この思いは『三毒』である」と知っている輩は稀であるので、(自分を戒めて、用心して、)恨まない様にするのである。
初めて仏道を求めた時の志を忘れないべきである。
初めて仏道を求める事を思い立って心した時は、他人を目的として仏法を求めず、名声や利益を投げ捨ててきた。
名声や利益を求めず、ただ一途に「道」、「真理」の会得を志した。
国王や大臣が恭しく敬ってきたり捧げものをしてきたりする事を待ち望まないものである。
国王や大臣が恭しく敬ってきたり捧げものをしてきたりする事が有っても、本から待ち望んでいないし、求めてはいない。
人や天人に心が縛られる事を待ち望まない。
それなのに、愚かな人は、たとえ道心が有っても本からの志を早くも忘れて、誤って、人や天人からの捧げものを待ち望んでしまうし、人や天人から捧げものをされると仏法の功徳に至ったと喜んでしまう。
愚かな人は、国王や大臣の帰依が多ければ、自分の「道」、「真理」が形成されて現されたと思ってしまう。
人や天人からの捧げものや帰依は、仏道を学んで修行する上で、一つの「魔」、「仏敵」、「障害」と成る物である。
人や天人を思いやる心を忘れるべきではないが、人や天人からの捧げものや帰依を喜ぶ事なかれ。
「法華経」の「法師品」で釈迦牟尼仏は「(法華経には、)如来(、釈迦牟尼仏)がいる現在ですらなお、怨みや嫉みが多い」と言った金言が有る事を見聞きした事が無いか?
愚者が真の賢者を知らず、矮小な劣悪な動物的人間が大いなる聖者を恨む理とは、この様な物である。
また、西のインドの祖師の多くは、外道、「二つの乗り物」の段階の人、国王などに害されたが、外道達が優れていたからではないし、祖師達に深慮遠謀が無かったからではない。
二十八祖の達磨は、西のインドから中国へ来た後、蒿山に留まったが、梁の武帝も知らなかったし、魏の主も知らなかった。
その時、菩提流支と、光統律師と呼ばれる慧光という(達磨の悪口を言って吠えた)二人の「犬」(、「動物的人間」)がいた。
菩提流支と、光統律師と呼ばれる慧光は、虚しい名声と邪悪に得ていた利益が、達磨という正しい人に遮られる事を恐れて、天を仰いで天の太陽を見えなくしようとした。
達磨が存命していた時の菩提流支と、光統律師と呼ばれる慧光は、釈迦牟尼仏が存命していた時の提婆達多よりもなお、ひどい。
憐れむべきである。
あなたたちが深く愛着する名声や利益を、達磨といった祖師は排泄物といった汚れたものよりも嫌うのである。
名声や利益を排泄物といった汚れたものよりも嫌う道理は、仏法の力量をきわめていない者には無いのである。
善人の悪口を言って吠える「犬」(、「動物的人間」)がいる、と知るべきである。
善人の悪口を言って吠える「犬」(、「動物的人間」)に悩む事なかれ。恨む事なかれ。
人々が導かれて仏道に引き入れられる様に祈るべきである。
「あなたは『畜生』、『動物的人間』である。『菩提心』、『悟りを求める心』を起こしなさい」と施し設けるべきである。
先人の賢人は「この人は『人の顔をした畜生』、『動物的人間』である」と言った。
また、帰依し捧げものをしてくる「魔」、「仏敵」の類もいるであろう。
過去の仏祖は「国王、王子、大臣、役人の長、バラモン、在俗の修行者に親近するな」と言っている。
実に、仏道を学び習おうとする人が忘れてはいけない行動の見本であるし、そうすれば、学び始めた、無上普遍正覚を求める修行者の功徳は進むに従って積み重なるであろう。
また、昔から、帝釈天が来て修行者の志を試したり、「魔波旬」、「仏敵」が来て修行者の修行を妨げたりする事が有る。
天人からの試練や仏敵からの妨害は全て、名声や利益を求める心を離れない時に起きる。
大いに思いやり深く、全ての生者を広く仏土へ渡す願いが長年である時には、天人からの試練や仏敵からの妨害といった障害は無いのである。
修行の力量が、自然に国土を獲得する事が有るし、この世の運による栄達を迎える様な事が有る。
このような時も、更に、修行者をわきまえるべきである。
修行者の欠点に目をつぶる事なかれ。
愚かな人は、この世での成功を喜ぶ。例えば、愚かな犬が枯れた骨をしゃぶる様に。
賢者や聖者は、この世での成功を嫌う。例えば、世の人々が排泄物といった汚れたものを恐れる様に。
初心者の思い量りでは、仏道を計る事は不可能である。計っても当たらない。
仏道は、初心者では計れないが、究極が無いわけではない。
仏道の究極的な奥義は、初心者による浅い理解とは異なる。
ただ、まさに、先人の聖者の行跡による道を踏み辿ろうとして行動するべきである。
この時、師を訪ね「道」、「真理」を尋ねるのに、険しい山を登ったり危険な航海をしたりするのである。
導師を尋ね、善知識を求めるには、「天から降下したり、地から湧き出たりする」のである。
導師と接する所で、情の有る者に言わせて、情の無いものに言わせて、身で聴き、心で聴く。
声を耳で聴くのは日常茶飯事だが、声を眼で聴くのは、仏法では必ずしも無いわけではない。
仏を見るのにも、自分の仏と他の仏をも見、大きい仏と小さい仏を見る。
大きい仏にも驚き恐れる事なかれ。小さい仏にも疑い悩む事なかれ。
大きい仏と小さい仏を暫定的に仮に山の色形と谷川の音という声であると認めるのである。
山の色形と谷川の音という声に、仏の「広長舌」が有って、「八万四千」の詩が有る。
遠く隔てた離れたものを挙げて示すのである。
独り抜き出たものを見通すのである。
このため、俗に言うと、「論語」の「仰ぎ見れば、いよいよ高く、切り込めば、いよいよ堅い」なのである。
過去の仏祖は「天に満ち、全て統治している」と言った。
春でも松は常緑であるという志を変えない操が有り、秋には菊の花が最も秀でて美しいのは、「正しい」ばかりなのである。
善知識を持つ人が、この境地に至った時、人や天人の大いなる師と成る。
この境地に未だ至らずに、妄りに、人の為に成る事を知っていると思う人は、人や天人にとっての大いなる賊である。
春でも松は常緑であるという志を変えない操を知らず、秋には菊の花が最も秀でて美しいのを見れない人に、どんな、牛などが食べる草が有るというのか? どの様にして根源を裁断するというのか?
(牛は修行者の例えである。)
また、心でも肉でも飽きて怠る事が有ったり信じない事が有ったりしたら、真心で集中して過去の仏に「懺悔するべきである」、「罪を告白して悔い改め許してもらうべきである」。
こうした時、過去の仏に懺悔した功徳の力が、自身を救ってくれて清めてくれる。
過去の仏に懺悔した功徳は、障害に止められない、清らかな信心と精進を生じさせて成長させる。
清らかな信心が一度現される時、自分も他のものも同じく転じられる。
清らかな信心が一度現された事による利益は、遍く、情の有る者と情の無いものにもたらされる。
懺悔の大意を言うと、「願わくば、たとえ私に過去の悪業が多く積み重なってしまい仏道での障害と成ってしまう因縁が有っても、仏道によって仏道を会得した諸々の仏祖が、私を憐れんで、私を悪業の積み重なりから解脱させて、仏道を学んで修行する障害を無くさせて、仏道の功徳の法の門を遍く無尽法界に充満させて全て統治させて、憐れみを私に分けてください」と成る。
仏祖の過去は私達である(、と言える)。
私達は未来は仏祖と成るであろう(かもしれない)。
仏祖を仰ぎ見れば一人の仏祖である。
悟りを求める事を思い立って心した想いを観ても一つの想いである。
仏祖は憐れみを「七と八に通達」させているが、私達は機会を得たり落としてしまったりしているのである。
このため、龍牙居遁は「過去の生で未だ(真理を)了解していなければ、今、(真理を)了解するべきである。この生で、生を重ねてきた身を仏土に渡すのである。古代の仏も、未だ悟っていない時は、今の人と同じであったのである。今の人も、悟れば、古代の仏なのである」と言った。
静かに(考えて)、龍牙居遁の言葉の理由に参入して究めるべきである。
証している仏を会得して継承するのである。
過去の仏に懺悔すれば、必ず、仏祖の目に見えない助けが有る。
心の念や、身の振る舞いのうち、隠していた事を露わに表して、過去の仏に告白して懺悔するべきである。
隠していた事を露わに表す力は、罪の根を消滅させる。
懺悔は、一途な、正しい修行であるし、正しい信心であるし、正しい「信身」、「身で信じる事」である。
正しく修行している時、谷川の音という声も色形も、山の色形も音という声も、共に、「八万四千」の詩を惜しまない。
もし自己が名声や利益や身心を捨てて惜しまなければ、谷川と山も「八万四千」の詩を惜しまないのである。
たとえ、谷川の音という声と山の色形が「八万四千」の詩を形成させて現させても、現させなくても、夜に成っても、真の谷川と山を真の谷川と山であると挙げて示す力を未だ尽していなければ、「あなたの自己は、谷川の音という声と山の色形である」と誰が見聞きするであろうか? いいえ! 見聞きしない!
正法眼蔵 谿声山色(谷川の音という声と山の色形)
その時、千二百四十年、観音導利興聖宝林寺にいて僧達に話した。