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正法眼蔵 礼拝得髄

 無上普遍正覚を修行する時には、導師を得る事が最も難しい。

 無上普遍正覚の導師は、男性や女性などの外見で選ぶのではなく、(すぐ)れた無上普遍正覚者を選ぶべきである。

 無上普遍正覚の導師は、古今、人ではない場合が有ったし、「野狐の精霊」だが善知識を持つものである場合が有るだろう。

 これが、「(師の)髄を得る」、「師を得る」時の様子であるし、良い導師なのである。

 これが、「因果に暗くない」事であるし、「爾我渠」、「あなたは私の頭である」なのである。


 導師に出会ったら、全ての(えん)を投げ捨てて、わずかな時間をも無駄に過ごさず精進して道をわきまえるべきである。

 心が有っても修行するべきであるし、心が無くても修行するべきであるし、半端な心でも修行するべきである。

 頭の燃えている火を払う様に、実現が近いのをつま先で立って待つ様に、学ぶべきである。

 こうすれば、悪口を言う「魔党」、「仏敵ども」、「悪党」に(おか)されない。

 こうすれば、「断臂得髄の祖(の様な者)」、「二十九祖の慧可(の様な者)」や「(古い)身心を脱ぎ落とす師」に、他でもない自分が既に成っている。


 「(師の)髄を得る」、「師の理解を会得する」のは、「法を伝えてもらう」のは、必ず、真心によるのであるし、信心によるのである。


 真心は、外から来たという跡など無いし、内から出た様子など無い。

 真心は、ただ、まさに、法を重んじて身を軽んじるのであるし、俗世を逃れて「道」、「真理」を()()とするのである。

 わずかでも法よりも身を(かえり)みる事を重んじると、法が伝わってこないし、「道」、「真理」を会得する事は無い。


 法を重んじる志は、一つだけではない。

 他の教訓を待たずに、法を重んじる志の例を一つ、二つ、ひねって挙げてみよう。


 「法を重んじる」とは、たとえ、寺の円柱でも、灯籠でも、諸仏でも、野干(ジャッカル)でも、鬼神でも、男性でも女性でも、大いなる法を保持させられ任されたものであれば、「私の髄をあなたは会得した」と導師から言われたものであれば、「身心を牀座施して」、「自分の身心を(ゆず)って捧げて」、無量の時間でも仕えるのである。

 身心を得る事は簡単である。身心は世界に(いね)(あさ)、竹、(あし)の様に多数存在する。

 法に出会う事は(まれ)である。


 釈迦牟尼仏は「無上普遍正覚を説き明かす師に出会うには、素性を見る事なかれ。

容貌を見る事なかれ。

欠点を嫌う事なかれ。

行いを考える事なかれ。

ただ知を尊重するがゆえに、日々、百両、千両の多数の金で食わせるべきである。

天の食を捧げるべきである。

『天華』、『天の華』をまき散らして捧げるべきである。

日々、『朝と日中と日没後』という『三時』に礼拝し(うやうや)しく敬って、悩ませる事なかれ。

この様にすれば、『菩提』、『覚』への道は必ず得られる。

私、釈迦牟尼仏は、悟る事を思い立って心してから、この様に修行して、今、無上普遍正覚を得ているのである」と言った。


 そのため、樹や石にも法を説いてくださいと願うべきであるし、田畑や集落にも法を説いてくださいと求めるべきである。

 寺の円柱に法について質問するべきであるし、牆壁にも参入して究めるべきである。


 昔、帝釈天は、井戸に落ちた野干(ジャッカル)を師として礼拝して法について質問した事が有り、井戸に落ちていた野干(ジャッカル)を大いなる菩薩と呼んだと伝えられていて、「天にいる」という尊い環境にいる帝釈天は「井戸に落ちていた」という「依業」、「過去の行いの報いによる環境」の卑しさを無視して井戸に落ちていた野干(ジャッカル)を師とした。


 それなのに、仏法の学が無い愚者の(たぐい)似非(えせ)僧侶(そうりょ)は、誤って、「私は、(長年修行している)大いなる出家者なので、法を会得している若い人を拝むべきではない」と思ってしまうし、

「私は、長年修行しているので、法を会得している後輩を拝むべきではない」と思ってしまうし、

「私は、称号が有るので、法を会得している称号が無い人を拝むべきではない」と思ってしまうし、

「私は、『法務司』なので、法を会得している他の僧を拝むべきではない」と思ってしまうし、

「私は、『僧正司』なので、法を会得している在俗の男性と在俗の女性を拝むべきではない」と思ってしまうし、

「私は、『三賢十聖』なので、法を会得している女性の出家者などを拝むべきではない」と思ってしまうし、

「私は、王族なので、法を会得している家臣を拝むべきではない」と言ってしまう。

 このような愚者は、「いたずらに父の国を離れて他国の道を踏み従う」ので、仏道の学が無いのである。


 唐の時代の中国の、趙州真際大師は、(六十一歳の時、)悟りを求める事を思い立って心して、旅立って諸方を旅した時に、「七歳の児童であっても、もし私よりも優れていれば質問する。百歳の老人であっても、もし私に及ばなければ教える」と言った。


 七歳の児童に法について質問する時、老人でも七歳の児童を礼拝するべきである。

 趙州真際大師の志は、不思議な変わった志である。

 趙州真際大師の志は、古代の仏の心の術である。


 「道」、「真理」、「法」を会得した女性の出家者が、この世に出現した時、法を求めて学に参入した男性の出家者が、法を会得した女性の出家者の会に身を投じて礼拝して法について質問するのは、学に参入した者の優れた行跡である。

 例えば、(のど)(かわ)いている時に水に出会ったかの様に成るべきである。


 中国の、灌渓志閑は、臨済義玄の弟子である、高徳の長老である。


 ある時、臨済義玄が灌渓志閑の来るのを見て灌渓志閑を取り抑えて引き留めると、灌渓志閑は「わかりました」と言ったので、臨済義玄は灌渓志閑を解放して「では、解放するので、あなたは、しばらく留まりなさい」と言った。

 この時から、灌渓志閑は、臨済義玄の弟子と成った。


 灌渓志閑が、臨済義玄を離れて、末山尼了然の所へ行くと、末山尼了然は「どんな所を離れて、近づいたのか?」と質問した。

 灌渓志閑は、「分かれ道です」と言った。

 末山尼了然は、「あなたは、なぜ(ふさ)いで来なかったのか?」と言った。

 灌渓志閑は、無言で礼拝して師弟の礼を(もう)けた。

 灌渓志閑は、「末山(尼了然)とは、どの様なものですか?」と末山尼了然に逆に質問した。

 末山尼了然は、「頭を出さない」と言った。

 灌渓志閑は、「末山(尼了然)の中の人とは、どの様な者ですか?」と言った。

 末山尼了然は、「男性や女性などの外見ではない」と言った。

 灌渓志閑は、「(末山尼了然よ、)あなたは、なぜ変身しないのですか?」と言った。

 末山尼了然は、「私は『野狐の精霊』ではない。何を変身させるというのか?」と言った。

 灌渓志閑は、(無言で)礼拝した。


 ついに、灌渓志閑は、「発心して」、「心して」、三年間、園頭を務めた。


 灌渓志閑は、後に住持に成った時、「私は、仏法の父である臨済義玄の所で半分の水を得て、仏法の母である末山尼了然の所で半分の水を得た。合わせて一つの水を作って飲み終わって、今に至ってなお、(かて)としている」と僧達に話した。

 (

 水は知の例えである。

 知は魂の糧である。

 )


 今、灌渓志閑の言葉を聞いて古代を(した)うと、末山尼了然は、高安大愚の高弟である。

 末山尼了然には命の力が有って、灌渓志閑の仏法の母と成った。

 臨済義玄は、黄檗希運の法の正統な子孫、正統な弟子である。

 臨済義玄には鍛錬の力が有って、灌渓志閑の仏法の父と成った。

 原文の「爺」とは「父」という意味である。

 原文の「嬢」とは「母」という意味である。

 灌渓志閑が末山尼了然を礼拝して法を求めたのは、志による優れた行跡である。後進にとっての慣れるべき志である。「(さえぎ)る入口である(せき)と固定観念を撃破した」と言うべきである。


 妙信尼は、仰山慧寂の弟子である。

 仰山慧寂は、「廨院主」を選ぶ時に、知事や侍者や蔵主の退職者である「勤旧」や、維那や典座などを三回務めた退職者である「前資」などに、「誰が、廨院主に相応(ふさわ)しい人だろうか?」と質問した。

 問答のやり取りをして、ついに、仰山慧寂は、「妙信尼は、女性だが、優れた志が有り、まさに、廨院主を務める事ができる」と言った。

 「勤旧」や「前資」といった僧達は皆、認めた。

 ついに、妙信尼は、廨院主を務めた。

 その時、仰山慧寂の会にいた竜や(ゾウ)の様な高徳の僧は、(うら)まなかった。

 実に、廨院主は重職なので、廨院主の選考を担当した人は自分としては自重し(て用心して選考し)たであろう。

 妙信尼が廨院主の職を務めて廨院にいた時、蜀という国の僧が十七人いて、十七人の僧達は集団を結成して師を訪ね道を尋ねていて、仰山慧寂のいる仰山に登ろうとして夕暮れに廨院に泊まった。

 十七人の僧達は休息している時の夜話で、風が(はた)(あお)いでいるのを見て「風が動いている」と言う僧と「(はた)が動いている」と言う僧が理に(かな)わない問答をしていたので曹谿山の三十三祖の大鑑禅師が「風が動いているのでもなく、(はた)が動いているのでもなく、あなた達の心が動いているだけである」と言った話を()げた。

 十七人の僧達は各々、大鑑禅師の言葉について正しくない事を言った。

 その時、廨院主であった妙信尼は、壁の外にいて、十七人の僧達の大鑑禅師の言葉についての話を聞いて、「十七人の僧達は、十七頭の盲目の驢馬(ロバ)であると言える。惜しむべきである。師を訪ね道を尋ねて、どれだけの(くつ)を費やしたのか? 仏法を未だ夢にも見ていないのである」と言った。

 その時、寺の雑務を行う在俗者である「行者(あんじゃ)」もいて、廨院主であった妙信尼が十七人の僧達の大鑑禅師の言葉についての話を否定しているのを聞いて十七人の僧達に話したが、十七人の僧達は共に妙信尼が否定したのを恨まないどころか、(おのれ)が正しくない事を言ったのを恥じて、身なりを十分に整えてから、焼香して礼拝して妙信尼に尋ねた。

 妙信尼は、「近くに来なさい」と言った。

 十七人の僧達の近づく歩みが未だ終わらない時に、妙信尼は「風は動かないし、(はた)は動かないし、心は動かない」と言った。

 妙信尼が、この様な手段を取ると、十七人の僧達は共に、(かえり)みる所が有り、礼を言って感謝して師弟の作法を取り、速やかに西の蜀に帰り、ついに仰山に登らなかった。


 実に、これは、未熟な修行者の及べる所ではなく、仏祖が正統に代々伝えている「道」、「真理」による(わざ)なのである。


 そのため、今でも、「住持」や「半座」の職が()いている時は、法を会得している女性の出家者に「住持」や「半座」を頼むべきである。

 男性の出家者が高齢であっても経験豊富な老人であっても、法を会得していない人は必要ではない!

 僧達といった全ての生者の(ため)の主人には、必ず、真理を明らかに見通す見る眼が有る人を選ぶべきである。


 それなのに、身心にとらわれている道理に暗い人は、頑迷なので、世俗でも笑うべき事が多い。

 まして、仏法では、身心にとらわれている道理に暗い人は、頑迷なので、笑うべき事が多いのは、言うまでも無い。

 また、夫の姉などの女性の、法を伝えられて師に成った僧を、礼拝する事に同意しない人もいる。

 法を伝えられた女性の僧を礼拝しない人は、知る事が無い上に、学んでいないので、「畜生」、「動物的人間」に近いし、仏祖には遠い。

 ひたすらに仏法に身心を投じようと深く心に蓄える人には、仏法は必ず憐れんでくれる。

 愚かな人や天人にすら真心を感じる思いが有る。

 諸仏の正しい法には真心を感じて(こた)える憐れみが有る!

 土や石や砂礫にも真心を感じる精神は有る。


 宋の時代の中国の寺では、寺にいる女性の出家者が、もし「法を会得している」という声が有れば、国家から尼寺の住持に任命する皇帝の命令をもらう。

 そして、法を会得した女性の出家者は寺で堂に上って法を説くが、寺の住持以下、僧達は皆、堂に来て立って、法を会得した女性の出家者が説く法を聴く。

 問答も法を会得した女性の出家者と行う。

 これが古くからの見本である。


 法を会得したものは、一人の真の古代の仏と等しいものなので、「昔の誰々である」として(まみ)えてはいけない。

 法を会得したものは、私を見る時に、特別に、新しい人として接する。

 私は、法を会得したものを見る時に、今日出会ったばかりの(かた)として接する。


 例えば、「正法眼蔵」、「正しくものを見る眼」を伝えられて保持している女性の出家者は、四果の声聞と独覚や三賢十聖の菩薩が来て礼拝して法について質問したら、礼拝を受けるべきである。


 肉体が男性である人は、何によって高貴なのであろうか? 肉体が男性であるだけでは高貴ではない!

 虚空は虚空であるし、地水火風の四大(元素)は四大(元素)であるし、色受想行識の「五蘊」は「五蘊」である。

 肉体が女性である人は、何によって高貴なのであろうか? 肉体が女性であるだけでは高貴ではない!

 「道」、「真理」を会得する人は、肉体が男性でも女性でも「道」、「真理」を会得する。

 ただし、肉体が男性でも女性でも、法を会得した事だけを敬い重んじるべきである。肉体が男性や女性である事を論じる事なかれ。

 これが、仏道の極めて絶妙である法則である。


 また、宋の時代の中国で、居士と呼ばれるものは、未出家の修行者である。

 居士は、草の屋根の小さな質素な(いおり)に住んで、夫や妻を持つものもいるし、孤独で潔白なものもいる。

 居士は、なお、「俗世という『(ちり)』、『汚れ』に在俗して労苦し」、「煩悩に労苦し」、「在俗しているせいで、林が()(しげ)る様に、煩悩という雑草が蔓延している」と言えるであろう。

 けれども、居士が真理を明らめる所が有ると、雲や(かすみ)の様に諸方を訪ねる僧達が集まって礼拝して教えを請うのは、出家者の達道者と同じである。

 たとえ、女性でも、「畜生」、「人以外の動物」でも、真理を明らめる所が有ると、雲や(かすみ)の様に諸方を訪ねる僧達が集まって礼拝して教えを請うのは、出家者の達道者と同じである。

 仏法の道理を未だ夢にも見ていない人は、たとえ百歳の老練な出家者でも、法を会得した在俗の男性や女性に及ばない。

 仏法の道理を未だ夢にも見ていない人は、たとえ百歳の老練な出家者でも、敬うべきではない。

 仏法の道理を未だ夢にも見ていない人には、たとえ百歳の老練な出家者でも、ただ客と主人の礼儀だけである。

 仏法を修行し、仏法の道を会得して理解して取ったものは、たとえ七歳の女性でも、「男性の出家者、女性の出家者、男性の在家信者、女性の在家信者」の「四衆」の導師であるし、全ての生者の思いやり深い父である。

 例えば、「法華経」の「提婆達多品」の「龍女成仏」の様に。

 (「法華経」の「提婆達多品」で、娑竭羅竜王の八歳の娘は男性に成ってから仏に成った。)

 仏法を修行し、仏法の道を会得して理解して取ったものを、たとえ七歳の女性でも、捧げものをして(うやうや)しく敬うのは、諸仏、如来と等しくであるべきである。

 これは、仏道の古くからの見本である。

 これを、知らず、単一に伝えてもらえない人は、憐れむべき人である。


 また、日本と中国の古今で、帝位の女性の人がいる。

 国土は皆、女帝、女王の領土である。

 国土に住む人は皆、女帝、女王の家臣と成る。

 これは、人を敬うのではなく、位を敬うのである。


 女性の出家者も、人(、肉体)を敬う事は、昔から無い。ひとえに法を会得した事を敬うのである。


 また、阿羅漢と成った女性の出家者がいたら、四果に伴う功徳は皆、来る。

 阿羅漢と成った女性の出家者は四果の功徳を伴うのである。

 人や天人の、誰が四果の功徳よりも優れているであろうか? いいえ! 人や天人よりも四果の功徳は優れている!

 三界の諸々の天人は皆、四果の功徳に及ばない。

 要するに、家を捨てる者と成った人、出家者を、諸々の天人は皆、敬う。

 まして、如来の正しい法を伝えられて、無上普遍正覚を求める修行者が大いなる心を起こしたら、敬わない者が誰かいるであろうか? いいえ! 敬う! 敬わない人がおかしいのである。

 無上普遍正覚を敬わない人は、「法」、「真理」の悪口を言う愚者である。


 また、我が国、日本では、天皇の娘や大臣の娘が皇后に準じたり、皇后が院号を受けたりするが、髪を()った人もいれば、髪を()らない人もいる。

 それなのに、名声や利益を(むさぼ)り愛着する、出家者に似た似非(えせ)僧侶(そうりょ)は、高位の家系の女性の所へ走り、頭を下げて頭を履物(はきもの)に打たないと言う事が無い。

 日本の似非(えせ)僧侶(そうりょ)は、主従関係の従者よりも劣悪である。

 まして、日本の似非(えせ)僧侶(そうりょ)には、高位の家系の女性の下僕(げぼく)と成って年を経る人も多い。

 日本の似非(えせ)僧侶(そうりょ)が、日本という小国、僻地(へきち)に生まれて、高位の家系の女性の下僕(げぼく)に成る事が邪悪な風習であるとも知らない事は、憐れである。

 千二百四十年頃のインドや中国では似非(えせ)僧侶(そうりょ)が高位の家系の女性の下僕(げぼく)に成る事は未だ無い。

 我が国、日本だけ、似非(えせ)僧侶(そうりょ)が高位の家系の女性の下僕(げぼく)に成る事が有る。

 悲しむべきである。

 無闇に無思慮に(ひげ)と髪を()って如来の正しい法を破るのは、深く重い罪の(わざ)であると言える。

 ひとえに「この世を渡り歩く道は空華といった夢幻である」のを忘れる事による物である。

 女性の下僕(げぼく)として(しば)られている事は、悲しむべきである。

 無益である、この世を渡り歩く道のために、日本の似非(えせ)僧侶(そうりょ)は、女性の下僕(げぼく)と成る。

 無上普遍正覚のため、法を会得した敬うべき人を、なぜ敬わないのか? 法を重んじる志が(あさ)いので、法を求める志に()れが有るからである。

 日本の似非(えせ)僧侶(そうりょ)は、既に財宝を(むさぼ)っている時、「女性の財宝だから獲得できる」と思っている。

 法を求める時は、志が、日本の似非(えせ)僧侶(そうりょ)の法を求める志よりも優れているべきである。

 もし、法を求める志が、日本の似非(えせ)僧侶(そうりょ)よりも優れていれば、草木や牆壁も正しい法を施してくれるし、天地の万物も正しい法を与えてくれる。

 必ず知るべき道理である。

 真の善知識を持つ人に出会っても、未だ真の志を立てて法を求めていない時は、法という水の(うるお)いを(こうむ)れない。

 明確に詳細に鍛錬するべきである。


 また、最も愚かな人は、「女性は(男性の)性欲の対象とされる」と思う心を改めず女性を見る。

 仏の子は、「女性は男性の性欲の対象とされる」と思う心を改めず女性を見てはいけない。

 「女性は男性の性欲の対象とされる」として女性を忌むならば、「男性は女性の性欲の対象とされる」ので、一切の全ての男性も忌むべきか? いいえ!

 「汚染の原因と成る」という意味では、男性も誤った知覚の対象と成るし、

女性も誤った知覚の対象と成るし、

男性でも女性でもないものも誤った知覚の対象と成るし、

空華といった夢幻も誤った知覚の対象と成る。

 水に映った形を間接的な原因として性行為する人がいたし、太陽の光や熱を間接的な原因として性行為する人がいた。

 天人も誤った知覚の対象と成るし、霊も誤った知覚の対象と成る。

 誤った知覚の対象と成る間接的な原因は数え尽す事ができない。

 「八万四千の知覚の対象が有る」と言われているが、皆、捨てるべきか? 見てはいけないのか? いいえ!


 「律」には「男性の出家者は(くち)と排泄器官といった二箇所の穴で性行為をしたら、女性の出家者は(くち)と性器と排泄器官といった三箇所の穴で性行為をしたら、『波羅夷罪』、『最も重い重罪』と成るので、僧達の集団から永久追放する」と記されている。


 そのため、「女性は男性の性欲の対象とされる」として女性を嫌ってしまえば、一切の全ての男性と女性は互いに嫌い合う事に成ってしまって、男性も女性も出家の機会を逃すかもしれない。

 この道理を詳細に点検して調べるべきである。


 外道にも妻がいない人もいる。

 妻がいなくても、仏法に入らなければ邪悪な見解を持つ外道である。


 仏の弟子も、男性の在家信者には妻がいる人もいるし、女性の在家信者には夫がいる人もいる。

 夫や妻がいても、仏の弟子であれば、人の中でも天上でも、仏の弟子以外で肩を並べられる者はいない。


 また、唐の時代の中国にも愚かな僧がいて、誤った願いと志を立てて、「いくつもの生や時代を超えて永遠に女性を見ない」と言った。


 この願いは、どんな法による物なのか? この世の法による物なのか? 仏法による物なのか? 外道の法による物なのか? 「天魔」、「魔」、「仏敵」、「神の敵」による物なのか?

 女性に、どんな(とが)が有ると言うのか?

 男性に、どんな徳が有ると言うのか?


 男性でも悪人はいる。

 女性でも善人はいる。


 仏法を聞く事を願い、迷いを離れる事を求めるのは、男性だけでもないし、女性だけでもない。

 迷いを断てない時は、男性でも女性でも迷いを断てない。

 迷いを断って真理を証して悟った時、男性と女性で差異は無い。


 また、「永遠に女性を見ない」と願ってしまったならば、全ての仏と菩薩が立てる「四弘誓願」のうち「衆生無辺誓願度」、「無限の全ての生者を仏土に渡す誓願」を立てる時に、女性を捨ててしまうのか?

 女性を捨ててしまうものは、菩薩ではない。

 女性を捨ててしまう心は、仏の「慈悲」、「思いやり」とは言えない!

 「永遠に女性を見ない」という誤った言葉は、迷いという酒に深く酔って狂った声聞による言葉である。

 人と天人は「永遠に女性を見るべきではない」という誤った言葉を真理であると信じてはいけない。


 また、「女性が原因で、昔、犯罪が有った」として女性を嫌ってしまえば、一切の全ての菩薩をも嫌ってしまう事に成る。

 もし、「女性が原因で、後に、犯罪が起きるであろう」として女性を嫌ってしまえば、悟りを求める事を思い立って心している、一切の全ての菩薩をも嫌ってしまう事に成る。

 全ての菩薩を嫌ってしまえば、一切の全てを捨てる事に成ってしまう。それでは、何によって仏法が形成されて現されるのか?

 「永遠に女性を見ない」という誤った言葉は、仏法を知らない愚者の理に反した狂った言葉である。

 悲しむべきである。

 もし「永遠に女性を見ない」のが正しいのであれば、釈迦牟尼仏や存命中の諸々の菩薩は皆、「女性を見る」という犯罪を犯していると言うのか?

 また、もし「永遠に女性を見ない」のが正しいのであれば、釈迦牟尼仏や存命中の諸々の菩薩は、「永遠に女性を見ない」あなたよりも無上普遍正覚を求める心が浅いと言うのか?

 静かに(考えて心の中で考えを)観察するべきである。

 仏法を伝えられて保持した祖師や釈迦牟尼仏が存命中の菩薩は、「永遠に女性を見ない」という言葉が無かったので、仏法に未だ学ぶべき物が有ったのか? 未熟だったのか? と誤った仮定をして考えて学に参入するべきである。

 もし「永遠に女性を見ない」のが正しいのであれば、全ての女性を仏土に渡さないだけではなく、法を会得した女性が「この世」に出現して人や天人のために法を説く時も、来て聴いてはいけないのか?

 法を会得した女性が「この世」に出現して人や天人のために法を説く時、来て聴かない人は、菩薩ではなく、外道である。


 宋の時代の中国を見ると、久しく修行している僧に似ている、似非(えせ)僧侶(そうりょ)が、いたずらに無駄に海の砂を数えて、生死という海をさまよっている。

 しかし、女性であるが、善知識を持つ人の所に行って尋ね、道をわきまえる鍛錬をして、人や天人の導師に成る人もいる。

 徳山宣鑑に(もち)を売らず捨てた老婦人などがいる。

 男性は、出家者でも、いたずらに無駄に教えという海の砂を数えて、仏法は夢にも未だ見ない事を憐れむべきである。


 知覚の対象を見たら、明らめる事を習うべきである。


 知覚の対象を恐れて逃げる事だけを習うのは、「小乗」、「矮小な乗り物」、「劣悪な段階」の声聞の教えと行いである。


 東を捨てて西に隠れようとしても、西にも東と西の境界は有る。

 (

 「境」、「境界」には「知覚の対象」という意味が有る。

 女性を見なくても、想像の中で女性を見る事ができる。

 )


 たとえ知覚の対象から逃げたと思っても、明らめなければ、遠くても知覚の対象と成る。

 (女性を見なくても、想像の中で女性を見る事ができる。)

 たとえ知覚の対象から逃げても、明らめなければ、解脱の可能性は無い。

 遠くに有る知覚の対象への欲求はますます深く成る。

 (満たされない欲求は強く成ってしまう。)


 また、日本には、一つの笑い事が有る。「結界の境地」とか「大乗の道場」とか言って、女性の出家者といった女性を入って来させないのである。

 邪悪な風習が長く伝えられて、人は善悪をわきまえない。

 修行者は改めないし、博識な学者も考える事をしない。

 「化身の行いが理由である」とか「古代の先人が(のこ)した風習である」とか言って、更に論じようとしないのは、笑うと(ちょう)が耐えられないほどの笑い事である。

 何者の化身の行いが理由であると言うのか? 賢者か? 聖者か? 天人か? 霊か? 十聖か? 三賢か? 等覚か? 妙覚か?

 また、古い物事を改めてはいけないのであれば、迷いの生死のくり返しを捨ててはいけないのか?


 大いなる師である釈迦牟尼仏は、無上普遍正覚者である。

 釈迦牟尼仏は、明らめるべき物事を、ことごとく明らめている。

 釈迦牟尼仏は、行うべき物事を、ことごとく行っている。

 釈迦牟尼仏は、解脱するべき物事を、皆、解脱している。

 今の誰も釈迦牟尼仏の足元にも及ばない!

 存命中の釈迦牟尼仏の会には、「男性の出家者、女性の出家者、男性の在家信者、女性の在家信者」という「四衆」がいたし、竜を含む「八部衆」がいたし、「三十七部」がいたし、「八万四千部」がいた。

 釈迦牟尼仏の会は、新しい「仏界」、「仏土」を結成している「四衆」や「八部衆」といった仏達の集まりである(と言える)。

 どの仏の会に女性の出家者や女性や竜女といった「八部衆」がいないと言うのか? いいえ!

 「如来、釈迦牟尼仏が存命中の釈迦牟尼仏の会よりも清浄である」と(誤って)言われている「女性の出家者を入れない結界」を私達は願うべきではない。なぜなら、「女性の出家者を入れない結界」は「天魔界」、「魔界」、「仏敵界」である(と言える)。

 仏の会の「法」、「作法」は、この世でも、仏土でも、過去、現在、未来の諸仏の仏土でも、同一である。

 「釈迦牟尼仏の会と違う『法』、『作法』が有る会は、仏の会ではない」と知るべきである。


 四果は究極の位である。なぜなら、大乗でも小乗でも究極の位である四果の功徳を区別しない。

 四果を証した女性の出家者は多い。

 四果を証した女性の出家者は、三界でも、十方の仏土でも、どの世界にも至る事ができる!

 誰が、四果を証した女性の出家者の行動を(さえぎ)る事ができるであろうか?


 また、仏に成った妙覚は無上の位である。

 女性が仏に成ったら、諸方の全てのものを究め尽す。

 誰も、仏に成った女性を(さえぎ)って到達できない様にできない!

 仏に成った女性には(あまね)く十方を照らす功徳が有る。境界では、どうにもできない!


 また、天女を(さえぎ)って仏土に到達させないのか?

 聖女を(さえぎ)って仏土に到達させないのか?(原文は「神女」である。)

 天女も聖女も、未だ迷いを断って悟っていない時は、生死をくりかえす生者である。

 天女も聖女も、罪を犯す時は犯すし、罪を犯さない時は犯さない。

 人の女性も動物の女性も、罪を犯す時は犯すし、罪を犯さない時は犯さない。

 天への道、神への道を(さえぎ)ろうとする人は誰か?

 女性は、過去、現在、未来の仏の会に行くし、「仏所」、「仏土」で学に参入する。

 誰が、仏土と仏の会の法と異なる悪法を仏法として誤って信じて受け入れるであろうか? いいえ!

 仏土と仏の会の法と異なる悪法を教える人は、世間の人をだまし惑わす最悪の愚者である。

 仏土と仏の会の法と異なる悪法を教える人は、野干(ジャッカル)が穴を人に奪われたくないと惜しむよりも愚かである。


 また、仏の弟子の位は、菩薩であれ、たとえ声聞であれ、第一位が男性の出家者、第二位が女性の出家者、第三位が男性の在家信者、第四位が女性の在家信者である。

 仏の弟子の位は、天上でも人の間でも知られている。

 仏の弟子の位は、長く知られている。

 仏の弟子の第二位である女性の出家者は、転輪聖王よりも優れているし、帝釈天よりも優れている。

 女性の出家者が入れない場所が有るべきではない。

 女性の出家者の位は、日本という小国、僻地(へきち)の国王や大臣の位と並べるべきではない。

 それなのに、今、「女性の出家者が入ってはいけない」と(誤って)言われている道場を見ると、農夫といった俗人、学が無い人、木こりといった俗人も乱入しているし、国王、大臣、役人、宰相も入っている。

 農夫などの俗人たちと、女性の出家者を、仏道の修行という観点で比較したり、得ている位という観点で比較したら、優劣は、どう成るであろうか? 女性の出家者は俗人たちよりも優れている!

 たとえ、この世の法で論じたとしても、仏法で論じたとしても、女性の出家者が入れない場所が有ったとしたら、農夫などの俗人たちと学が無い人も入るべきではない。

 日本という小国は、女性の出家者が入ってはいけない場所を作るという非常に錯乱している行跡を初めて残してしまった。

 三界の父、思いやり深い父である釈迦牟尼仏の長女である、女性の出家者が、日本という小国に来たら、入る事を妨害される場所が有る事を憐れむべきである。


 また、「女性の出家者を入れない『結界』」と言われる所に住んでいる(やから)は、十悪業を犯す事を恐れないし、十重禁戒をあれもこれも犯す。

 罪を造る界として、罪を造らない人である女性の出家者を嫌うのか?

 僧の集団の和を破壊する「逆罪」は重罪である。

 「女性の出家者を入れない『結界の地』」に住んでいる者は、僧の集団の和を破壊する「逆罪」も造っている。

 「女性の出家者を入れない結界」という「魔界」は、正に、破るべきである。

 仏の化の導きを学ぶべきである。

 「仏界」、「仏土」に入るべきである。

 「女性の出家者を入れない結界」を破る事と、「仏土」に入る事は、正に、仏からの恩に報いる事である。

 「女性の出家者を入れない結界」をねつ造した古代の先人とやらは真の「結界」の意味を知っていたのか否か?

 「女性の出家者を入れない結界」は誰から伝承してもらったのか?

 誰が印を「女性の出家者を入れない結界」をねつ造した人に与えたのか?


 諸仏が結んでいる場所である「大界」、「大いなる世界」にいるものは、諸仏も全ての生者も、大地も虚空も、迷いという束縛を解脱して諸仏の妙なる法という源に帰るのである。

 この世界を一度(ひとたび)()んだ全ての生者は、仏の功徳を(こうむ)るのである。

 仏法に違反しない功徳が有る。

 清浄を獲得する功徳が有る。

 一方を結んでも、法界を全て結ぶ事に成る。

 一つだけを結んでも、法界を全て結ぶ事に成る。

 水で結界を結ぶ事が有るし、心で結界を結ぶ事が有るし、(くう)で結界を結ぶ事が有る。

 真の「結界」には、必ず伝承が有るので、知るべきである。

 真の「結界」を結ぶ時は、「甘露」を注いだ後、仏法僧の三宝への帰依の敬礼をして、土地を清める等してから、「この土地は、(あまね)く法界と自然と結ばれて清められる」という言葉を唱える。

 「この土地は、(あまね)く法界と自然と結ばれて清められる」という真の「結界」を結ぶ時に唱える言葉の主旨を、今、日頃、「結界」という言葉を(くち)にする老人は知っているのか否か?

 私、道元が思うに、あなたたちは、「結界」の「結」という言葉の中に「(あまね)く法界と自然と結ばれている」という意味が有る事を知らないのである。

 あなたが声聞の酒に酔って小さな土地を大いなる世界と思い込んでいる、と知る事ができる。

 願わくば、日頃の迷いという酔いが速やかに()めて、諸仏の大いなる世界である(あまね)く世界に違反しないべきである。

 全ての生者を仏土へ渡し終える、全ての生者を受け入れる、諸仏の化の導きを一切の全ての生者に与える、諸仏の功徳を礼拝して(うやうや)しく敬うべきである。

 諸仏の功徳を礼拝して(うやうや)しく敬うのを、「仏道の髄を得る」、「仏道を会得する」と言うのである。


 正法眼蔵 礼拝得髄(礼拝して会得する)


 千二百四十年、「清明日」、観音導利興聖宝林寺で記した。

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