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正法眼蔵 洗浄

 仏祖が護って保持してきている修行と証が(一つに成った物が)有る。

 仏祖が護って保持してきている修行と証(が一つに成った物)とは、汚染されない事である。


 ある時、三十三祖の大鑑禅師は、南嶽山の観音院の大慧禅師と呼ばれる三十四祖の南嶽の懐譲に「また修行と証を借りるか否か?」と質問した。

 南嶽の懐譲は、「修行と証が無いわけではないが、汚染するのは駄目である」と言った。

 大鑑禅師は、「ただ、諸仏は汚染されない事を護ろうと念頭に置いているのである。

あなたもまた、そうである。

私も、またそうである。

西のインドの祖師達もまた、そうである」と言った。


 「大比丘三千威儀経」には「身を洗浄するとは、大便と小便を洗い、十本の指の爪を切る事である」と記されている。


 身心が汚染されなくても、身を洗浄する法が有るし、心を洗浄する法が有る。

 ただ、身心を洗浄するだけではなく、国土や樹の下をも洗浄するのである。

 国土に未だかつて(ちり)、汚れが無くても、国土を洗浄するのを、諸仏は護ろうと念頭に置いているのである。

 諸仏は、仏という結果に到達してもなお、洗浄を後退させないし、洗浄を廃止しない。

 洗浄の主旨を(はか)り尽すのは難しい。

 作法とは主旨である。

 「道」、「真理」の会得とは作法である。


 「華厳経」の「浄行品」には、「大便と小便をする時は、全ての生者が、汚れを除いて、『貪欲と怒りと愚かさ』という『三毒』を無くします様にと願うべきである。

水に触れた時は、全ての生者が、無上の道へ向かい、この世を解脱する法を会得します様にと願うべきである。

水で汚れを洗浄する時は、全ての生者が、清浄な忍辱を十分に備えて、最終的に汚れを無くします様にと願うべきである」と記されている。


 水は、必ずしも、本来、清浄でもないし不浄でもない。

 身は、必ずしも、本来、清浄でもないし不浄でもない。

 「諸法」、「全ての物」は、必ずしも、本来、清浄でもないし不浄でもない。

 水は、未だ、情が有るわけでもないし情が無いわけでもない。

 身は、未だ、情が有るわけでもないし情が無いわけでもない。

 「諸法」、「全ての物」は、未だ、情が有るわけでもないし情が無いわけでもない。

 釈迦牟尼仏が説かれた事は、この様な事である。


 けれども、水によって身を清めるのではない。

 仏法によって仏法を保持し任すと身を清めるのである。

 仏法によって仏法を保持し任すと身を清めるのを洗浄と呼ぶ。


 洗浄は、仏祖の一つの身心を親しく正しく伝えてもらっているのである。

 洗浄は、仏祖の一つの言葉を近くで見聞きしているのである。

 洗浄は、仏祖の一つの光明に明らかに住んでいるし、仏祖の一つの光明を保持しているのである。

 洗浄は、無量、無限の功徳を形成させて現させるのである。


 修行を身心に身につけさせた時、久しく長い、(もと)からの行いを十分に備えて円満に成就する。

 このため、修行している身心を(もと)から現すのである。


 十本の指の爪を切るべきである。

 十本の指の爪とは、左右の両手の指の爪である。

 足の指の爪も同じく切るべきである。


 経には「爪の長さが、もし一粒の麦くらいの大きさに成れば罪を得てしまうのである」と記されている。


 そのため、爪を長くしてはいけない。

 爪が長いのは、自然と外道の先例と成ってしまう。

 特に、爪を切るべきである。


 それなのに、宋の時代の中国の僧の中で、学に参入する「見る眼」が(そな)わらない(やから)の多くが爪を長くしている。

 一寸、二寸、三寸、四寸も爪が長い輩もいる。

 (一寸は約三センチメートル。)

 爪が長いのは、仏法に反している。

 爪を長くする身心は、仏法の身心ではない。

 仏の家である仏教を習わない事によって、爪を長くするのである。

 道に(かな)っている徳が有る長老の僧は、爪を長くしない。


 髪を長くしている輩もいる。

 僧が髪が長いのも、仏法に反している。


 爪や髪が長いのは、中国という大国の僧の身のこなしであるとして「正しい法であろう」と誤る事なかれ。


 道元の亡き師である、古代の仏と等しい五十祖の如浄は、「髪を()る事を理解しない人は、俗人でもなく、僧でもなく、『畜生』、『動物的人間』である。

古くからの仏祖のうち、誰か髪を()らない者がいたか? いいえ! 古くから仏祖は皆、髪を()ってきている!

今、髪を()る事を理解しない人は、真の『畜生』、『動物的人間』である」という深い戒めの言葉を天下の僧のうち髪や爪が長い輩に言った。

 この言葉を如浄が僧達に話すと、長年、髪を()らないでいた輩の多くが髪を()った。


 また、如浄は、堂に上って法を説く時も、普段、法を説く時も、髪や爪が長い輩を、指を(はじ)いて鳴らして(くち)うるさく叱責した。


 また、如浄が、普段、法を説く時に、「どういう道理か知らずに、乱雑に長い髪や長い爪なのである。

『南閻浮提』、『この世』の身心を『道』から外れさせている事を憐れむべきである。

九百年頃や千年頃から祖師の道が廃れてきているので、髪や爪が長い輩が多い。

髪や爪が長い輩が、寺院の主人と成ってしまい、国家が高徳の僧へ与える称号を僭称して、全ての生者の(ため)という外見を偽装するのは、人や天人にとっての不幸である。

今、天下の諸々の山の寺に、道心が有る者は全くいないし、『道』、『真理』を会得した者は久しく()えて、いないし、ならずものしかいない集団ばかりである」と説くと、諸方の(みだ)りに長老を名乗る輩は(うら)まなかったし何も言わなかった。


 知るべきである。

 僧が長い髪なのは、仏祖が戒める物であるし、長い爪は、外道の身のこなしなのである。


 仏祖の法の子孫である僧は、髪や爪を長くするという仏法に反する事を好んではいけない。

 仏祖の法の子孫は、身心を清めるべきである。

 仏祖の法の子孫である僧は、髪を()るべきであるし、爪を切るべきである。


 小便と大便の洗浄を怠る事なかれ。


 舎利弗(シャーリプトラ)は、小便と大便の洗浄の法によって外道を降伏させた事が有った。

 外道が(もと)から期待していなくても、身子(シャーリプトラ)が平素から願いを(ふところ)(いだ)いていなくても、仏祖が身につけている物が形成されて現されると、誤った教えに従っていた人は自然と降伏するのである。


 樹の下や露地で修行して習う時は、便所が無い。そのため、適切な谷などの河で、土で小便と大便を洗浄するのである。

 土で小便と大便を洗浄する時には、灰ではなく、十四丸の土を用いる。

 十四丸の土を用いる法とは、まず、法衣を脱いで(たた)んで置いた後、黒くない黄色の土を取って、一丸当たり大きい大豆くらいの大きさに分けて、石の上や適切な所に、七丸を一列に並べて置いて、十四丸を二列に並べて置く。

 その後、手を土と共に()る石を用意する。

 その後、排泄する。

 排泄後、木のへらや紙を使う。

 その後、水辺に行って土で洗浄する。

 まず、三丸の土を(たずさ)えて洗浄する。

 一丸の土を手のひらに取って、少しばかりの水を入れて、一丸の土を水に合わせて()いて、泥よりも薄い液状に完全にして、まず小便を洗浄する。

 次に、別の一丸の土で、同様にして大便を洗浄する。

 次に、別の一丸の土で、同様にして汚れを除いて触れた手を洗浄する。


 寺に僧が住む様に成ってからは、便所を建てている。

 便所を東司と呼ぶ。ある時は圊と呼ぶ。厠と呼ぶ時も有る。

 僧が住む所に必ず有るべき施設である。


 便所に行く法とは、必ず()()きを持つ。

 便所に行く法とは、手拭きを二つに折って、左の(ひじ)の上の辺りで衣服の(そで)の上に()ける。


 便所に着いたら、清浄な竿(さお)に手拭きを掛けるべきである。

 清浄な竿(さお)に手拭きを掛ける法とは、(ひじ)にかける様に、手拭きを二つに折って掛ける。

 「大衣」の「九条袈裟」、「上衣」の「七条袈裟」を着ていたならば、手拭きに並べて、清浄な竿に掛けるべきである。

 落ちない様に並べて、竿に掛けるべきである。

 慌てて投げて、竿に掛ける事なかれ。

 よくよく「記号」するべきである。

 「記号」とは、竿に名称を書いたり、名称を白い紙に書いて月の輪の様に円にして竿に付けて並べたりしておき、どの名称の竿に自分の衣を置いたか忘れないし他人を混乱させないのを「記号」と言うのである。

 人が多く来ても、自分や他人の竿の位置を乱してはいけない。


 この間、多数の人が来て並んだら、自分の両手を合わせて会釈(えしゃく)するべきである。

 会釈する時には、必ずしも向かい合って身をかがめない。

 ただ、合わせた自分の両手を胸の前に当てて、会釈の様子を表すのである。

 便所では、上半身を覆う法衣を来ていない時にも、来た人に会釈の様子を表すのである。

 もし両手が共に未だ汚物に触れておらず、両手に物を持っていない時には、自分の両手を合わせて会釈するべきである。

 もし既に一方の手を汚物に触れさせていて、他方の手に物を持っていない時は、他方の手だけで片手で会釈するべきである。

 片手で会釈するには、片手を(あお)()けにして指先を少し曲げて水を(すく)う様にして、頭をわずかに下げる様にして会釈するのである。

 他人が片手で会釈してくれば、自分も片手で会釈するべきである。

 自分が片手で会釈すれば、他人も片手で会釈してくるべきである。


 上半身を覆う法衣や下半身を覆う法衣を手拭きの(かたわ)らに掛ける。

 上半身を覆う法衣を手拭きの(かたわ)らに掛ける法は、上半身を覆う法衣は、脱いで、二つの(そで)を後ろへ合わせて、二つの(わき)の下を取って合わせて引き上げれば、二つの(そで)は重なる。

 この時、左手で首のうなじの裏の(もと)を取り右手で脇を引き上げれば、二つの(そで)の下の(ふく)らみと左右の(りょう)(えり)が重なる。

 (りょう)(そで)(りょう)(えり)を重ねて縦に半分に折って、上半身を覆う法衣の首のうなじの辺りを清浄な竿(さお)の奥へ投げ越す。すると、(すそ)袖口(そでぐち)などは竿の手前に掛かる。例えば、上半身を覆う法衣の合わされた腰の辺りが清浄な竿に掛かる。


 次に、竿に掛けていた手拭きの両端を引き、互い違いにして、上半身を覆う法衣を超えて引いて、手拭きの掛かっていない方で再び互い違いにして結び留める。二、三周も互い違いにして結んで、上半身を覆う法衣を清浄な竿から地に落とさない様にするのである。

 そして、上半身を覆う法衣に向かって手を合わせる。


 次に、(たすき)を取って(りょう)(ひじ)に掛ける。


 次に、(おけ)の台に行って、清浄な(おけ)に水を入れて、右手に持って便所の中に上がる。

 桶に水を入れる法は、満杯に満たす事なかれ。九分目を限度とする。

 (九十パーセント以下に水位を抑える。)


 便所の戸の前で履物(はきもの)を換えるべきである。

 便所用の履物を()いて、自分の履物を便所の戸の前で脱ぐのである。

 これを「換鞋」と呼ぶ。


 「禅苑清規(寺の規範)」には「便所には、あらかじめ()っておくべきである。

便意を(もよお)して、逼迫(ひっぱく)して、慌てる事なかれ。

袈裟を(たた)んで、寮の机の上か清浄な竿の上に置くべきである」と記されている。


 便所の中に入って、左手で戸を閉める。


 次に、(おけ)の水を少しばかり便器の中に移す。


 次に、桶を正面の桶を置く場所に置く。


 次に、立ったまま便器に向かって、三回、右手の指を(はじ)いて鳴らすべきである。

 右手の指を弾いて鳴らす時、左手は握って左腰に付けておく。


 次に、下半身を覆う法衣の(すそ)を短くして、便所の戸の方を向いて、便器にまたがり、かがんで、排泄する。


 便器の外を汚す事なかれ。


 排泄している間は黙っているべきである。

 壁を隔てて他人と話して笑ったり、独りで声を上げて歌ったりする事なかれ。


 涙や鼻水や(つば)などで汚す事なかれ。


 力み過ぎる事なかれ。


 便所の壁に字を書いてはいけない。


 木のへらで地面に線を描く事なかれ。


 排泄後、木のへらを使うべきである。また、紙を使う法も有る。


 使用済みの紙を用いてはいけない。


 字が書かれた紙を用いてはいけない。


 未使用の木のへらと使用済みの木のへらを区別するべきである。


 木のへらは八寸の長さで三角に作る。

 (一寸は約三センチメートル。)

 太さは手の親指の大きさである。

 (うるし)を塗った物も有るし、塗っていない物も有る。


 使用済みの木のへらは、使用済みの木のへら用のごみ箱に投げ捨てておく。

 未使用の木のへらは、未使用の木のへらを置く台に有る。

 未使用の木のへらを置く台は、便器よりも最も手前の辺りに置かれている。


 木のへらや紙を使った後、洗浄する法は、右手に(おけ)を持って左手をよく()らした後、左手で水を(すく)う形を作って水を受けて、まず、三回、左手で小便を洗浄する。次に、左手で大便を洗う。

 洗浄の法の通りにして清らかに清潔にするべきである。

 水で左手で洗浄している間、手荒く(おけ)を傾けて水を手以外にこぼして水を早く失う事なかれ。


 水による洗浄が終わったら、(おけ)を正面の桶を置く場所に置いて、木のへらを取って左手で(ぬぐ)って乾かす。または、木のへらを紙で()いて乾かすべきである。


 左手か紙で、二つの排泄器官をよく()いて乾かすべきである。


 次に、右手で下半身を覆う法衣の(すそ)を引いて整えて、右手で(おけ)を持って、便所を出て、便所用の履物(はきもの)を脱いで自分の履物を()く。


 次に、(おけ)の台に行って、(おけ)を本の場所に置く。


 次に、手を洗浄する。


 右手で灰用の(さじ)を取って、灰を(すく)って(かわら)か石の上に置き、右手で水をしたたらせて、汚物に触れた左手を洗浄する。左手を(かわら)か石に当てて()いで洗うのである。例えば、(さび)が有る刀を砥石に当てて()ぐ様に。

 この様にして、灰で三回、左手を洗うべきである。


 次に、(かわら)か石の上に土を置き、右手で水をしたたらせて、三回、左手を洗うべきである。


 次に、右手で、石鹸(せっけん)の代わりと成る皀莢(サイカチ)(さや)を取って小さな(おけ)の水に入れて(ひた)して、両手を合わせて、もみ洗う。腕に至るまでも、よく洗うのである。


 心を込めて丁寧に洗うべきである。


 灰で三回、土で三回、石鹸(せっけん)の代わりと成る皀莢(サイカチ)(さや)と水で一回、洗うのである。

 (手の皮膚が荒れない様に、)合わせて七回を限度とする。


 次に、大きな(おけ)で両手を洗う。

 大きな(おけ)で両手を洗う時、灰や土や薬を用いず、ただ水か湯で洗うのである。

 一回、洗って、その水を小さな(おけ)に移して、新しい水を大きな(おけ)に入れて両手を洗う。


 「華厳経」には、「水で手を洗う時は、全ての生者が、すぐれた手を得て、仏法を受けて保持します様にと願うべきである」と記されている。


 水を(すく)(しゃく)を取るのは、必ず右手でするべきである。


 水を(すく)っている間、(おけ)(しゃく)で音を鳴らし、うるさくする事なかれ。


 水をまき散らしたり、皀莢(サイカチ)(さや)をまき散らしたり、(おけ)の台の周辺を()らしたりして、慌てる事なかれ。汚す事なかれ。


 次に、公共用の()()きで手を拭く。または、自分の手拭きで手を拭く。


 手を拭き終わったら、清浄な竿(さお)の下、上半身を覆う法衣の前に行って、(たすき)を竿に掛ける。


 次に、手を合わせた後、結んでいた手拭きを解き、上半身を覆う法衣を取って着る。


 次に、手拭きを(ひだり)(ひじ)に掛けて香を塗る。

 公共用に塗る香が有る。香木を(びん)の形にしている。その大きさは親指大である。長さは指四本分くらいに作られている。一尺余りの細い縄を(びん)の両端に貫通させている。これを清浄な竿に掛けておいてある。

 これを両手の手のひらを合わせて、もみ合わせれば、香気が自然と両手に香る。


 (たすき)を竿に掛ける時は、(たすき)同士が重なって乱雑に成る事なかれ。


 この様にするのは、皆、仏の国土を清めるためであるし、仏の国の荘厳を輝かせるためである。


 明確に詳細にするべきである。


 慌てて洗浄するべきではない。

 「急いで終わらせて帰ろう」と思って洗浄する事なかれ。


 密かに、「便所では仏法を説かない」、「便所での洗浄は仏法であるので、便所では別に仏法を説かない」道理を思い(はか)るべきである。


 人が来る方面をしきりに気にする事なかれ。


 「便所の洗浄には冷水が良い」。熱湯は腸炎などを引き起こすと言われている。


 手を洗うのに温かい湯を用いるのは妨げが無い。


 (かま)を一つ置くのは、湯を沸かして手を洗うためである。


 「禅苑清規(寺の規範)」には「晩の後は、湯を沸かして、油を乗せ、常に湯を温かくし続け、僧達を動揺させる事なかれ」と記されている。


 そのため、水と共に湯を用いる事を知る事ができる。


 もし便所の中に、汚物が触れる事が有れば、戸を閉めて、「触」という(ふだ)を戸に掛けるべきである。

 もし便所の中で、誤って(おけ)を落とす事が有れば、戸を閉めて、「落桶」という(ふだ)を戸に掛けるべきである。

 「触」や「落桶」の(ふだ)が掛かっている便所に入る事なかれ。


 もし、先に便所に入っていても、外で他の人が指を(はじ)いて鳴らしたら、可能な限り短時間で済ませて出るべきである。


 「禅苑清規(寺の規範)」には「もし洗浄しなければ、床の上で坐禅したり、仏法僧の三宝を礼拝したりする事なかれ。また、人からの礼拝を受ける事なかれ」と記されている。


 「大比丘三千威儀経」には「もし大便や小便を洗わなければ、軽い罪に成る。

また、もし大便や小便を洗わなければ、僧の清浄な坐具の上に座ったり、仏法僧の三宝を礼拝したりする事なかれ。

もし大便や小便を洗わなければ、仏法僧の三宝を礼拝しても、福徳は無い」と記されている。


 そのため、道をわきまえる鍛錬をする道場では、洗浄を優先するべきである。


 どうして僧が仏法僧の三宝を礼拝しない事が有るだろうか? いいえ!

 どうして僧が人からの礼拝を受けない事が有るだろうか? いいえ!

 どうして僧が人を礼拝しない事が有るだろうか? いいえ!


 仏祖の道場では、必ず洗浄を身につけさせる。

 仏祖の道場の中の人は、必ず洗浄を十分に身につける。


 洗浄は、自己が()いて()す物なのではない。身につけたものによる言行なのである。


 洗浄は、諸仏の常の作法である。

 洗浄は、諸祖の日常茶飯事である。

 洗浄は、この世の諸仏だけではなく、十方の仏の作法である。

 洗浄は、浄土と、「穢土」、「この世」の、仏の作法である。


 学の無い(やから)は、「諸仏は便所での洗浄を身につけていない。『娑婆(しゃば)』、『苦しみを耐え忍ぶ場所』である『この世』の諸仏が身につけている物は、浄土の諸仏と同様ではない」と思ってしまう。

 「この世の諸仏が身につけている物は、浄土の諸仏と同様ではない」と思ってしまう(やから)は、仏道を学んでいない。

 知るべきである。

 清浄と汚れは、この世を離れた人から(したた)り落ちている「血」、「労苦」である。

 「血」、「労苦」は、ある時は暖かいし、ある時は(すさ)まじい。

 諸仏は便所での洗浄を身につけていると知るべきである。

 (神には免疫、自浄能力が有る。)


 「十誦律」の「第十四」には「釈迦牟尼仏の息子である羅睺羅(ラーフラ)は、出家をしたが戒を受ける前の時に、(寝る場所が無くて、)釈迦牟尼仏の便所で寝た。

釈迦牟尼仏は、起きると、右手で羅睺羅(ラーフラ)の頭をなでて、『あなたが出家したのは、貧窮したためではなく、富貴を失ったためではなく、ただ道、真理を求めるためである。

出家では苦しみを忍耐するべきである』という言葉を詩で言った」と記されている。


 そのため、仏の道場に便所は有るし、仏の便所の中で身につけさせるのは洗浄なのである。

 祖師から祖師へ伝えられてきている作法が今もなお残っているのは、古代を(した)う人にとっての喜びである。

 出会い難い物に出会えたのである。

 まして、如来、釈迦牟尼仏は、申し訳なくも便所の中で、羅睺羅(ラーフラ)のために法を説いた。

 便所は、仏が法の輪を転じた、仏が法を説いた、一つの場所なのである。

 便所という道場での進退を、仏祖は正しく伝えている。


 「摩訶僧祇律」の「第三十四」には、「便所は家などの東や北に建てたりする事なかれ。便所は家などの西や南に建てたりするべきである。小便所も同様である」と記されている。


 「摩訶僧祇律」の「第三十四」に従うべきである。

 「摩訶僧祇律」の「第三十四」の便所の配置は、西のインドの諸々の寺の便所の配置である。

 如来、釈迦牟尼仏が現実に存在した時の便所を建てる時の配置である。

 知るべきである。

 一人の仏だけの作法ではなく、釈迦牟尼仏を含む七仏の道場である。七仏の寺である。

 諸仏が始めたわけではなく、諸仏が身につけている物なのである。

 洗浄について明らめていなければ、寺院を建てても、仏法を修行しても、誤りが多いし、仏が身につけている物が(そな)わらないし、仏の「菩提」、「覚」は目の前に現れない。

 もし道場を建てるならば、寺院を建てるならば、仏祖が正しく伝えている法の作法に従うべきである。

 もし道場を建てるならば、寺院を建てるならば、正統に正しく伝えられている法の作法に従うべきである。

 正統に正しく伝えられている法の作法は、正統に正しく伝えられているので、功徳を集め重ねている。

 仏祖が正しく伝えている正統な仏祖の法の子孫でなければ、仏法の身心を知らない。

 仏法の身心を知らなければ、仏の家業を明らめていない。

 今、大いなる師である釈迦牟尼仏の仏法が(あまね)く十方に伝わっているのは、仏の身心が形成されて現されているのである。

 仏の身心が形成されて現されている時は、仏法が(あまね)く十方に伝わっているのである。


 正法眼蔵 洗浄


 その時、千二百三十九年、冬、雍州の宇治県の観音導利興聖宝林寺にいて僧達に話した。

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