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正法眼蔵 即心是仏

 仏から仏へ、祖師から祖師へ、未だ免れずに、保持して任してきているのは、即心是仏だけである。

 西のインドには「即心是仏」という言葉は無い。

 中国で初めて聞く様に成った。

 学者の多くは誤って、誤りを誤りとしない。

 誤りを誤りとしないので、学者の多くは外道に落ちぶれた。

 「即心是仏」の話を聞いて、愚者は誤って「全ての生者の慮知念覚の、未だ悟りを求めようと心していないのを仏とする」と思っている。

 「即心是仏」への誤解は、かつて正しい師に会わない事によるのである。


 外道の(たぐい)と成るとは、先尼(セーニャ)の様な誤った見解をする事である。

 西のインドに先尼(セーニャ)という外道がいた。

 次の様に、先尼(セーニャ)は、誤った見解を言った。

「霊知という大いなる道は私達の今の身に有る。

霊知の様子は、簡単に知る事ができる。

霊知は、苦しみと快楽をわきまえるし、冷たさと暖かさを自分で知るし、苦痛を了知する。

霊知は、万物に遮られないし、諸々の知覚の対象と無関係である。

物は来たり去ったりするし、知覚の対象は生じたり滅んだりするけれども、霊知は、常に有るし、不変である。

霊知は、遍在している。

凡人、聖者、霊を含有する全てのもので、霊知に(へだ)たりや差異は無い。

霊知の中に一時的に『法』、『物』を(みだ)りにした事による『空華』が有るといえども、一念に相応(ふさわ)しい知が現れたら、物も知覚の対象も無くなれば、霊知という本性だけが明らかな(しず)まっている常に不変な物である。

たとえ身という外見は破れても、霊知は破れないで身を出るのである。

例えば、人の家が過失の火事で焼かれると、家の主は家を出て去る様な物である。

明らかであるし霊的である霊知を覚者、知者の性質と呼ぶし、仏とも呼ぶし、悟りとも呼ぶ。

自分も他者も同じく霊知を十分に備えていて、迷いと悟りに共に通達している。

全ての物と諸々の知覚の対象が、どの様であれ、霊知は、物とも知覚の対象とも同様には変化したり無くなったりせず、長い時間が経過しても常に不変である。

今、現に存在する知覚の対象も、霊知の作用による物であれば、真実であると言える。

霊知という本性、原因が起こしている結果なので、真実の物であると言える。

たとえ知覚の対象が本性によって真実の物であると言えても、知覚の対象は常に不変ではないため生じたり滅んだりするので、また、知覚の対象が生じたり滅んだりするという明暗とは無関係に本性は霊知するので、本性を霊知と呼ぶ。

また、霊知を『真我』、『真の自分』と呼ぶし、『覚元』、『悟りの元』と呼ぶし、本性と呼ぶし、本体と呼ぶ。

この様な本性を悟るのを『常に不変なものに帰る』と呼ぶし、この様な本性を悟った人を『真実に帰った大いなる士』と呼ぶ。

霊知という本性を悟った後は、生死に流されて運ばれず、生じたり滅んだりしない性海を証して性海に入るのである。

霊知以外は真実ではない。

霊知という性質を現さなければ現さないほど、三界と、『地獄、餓鬼、修羅、畜生、人間、天』という『六道』は、競う様に生じてしまう」

 これが、先尼(セーニャ)外道の誤った見解である。


 唐の時代の中国の、大証禅師と呼ばれる南陽慧忠は、ある僧に「どこから来ましたか?」と質問した。

 ある僧は、「南方から来ました」と言った。

 南陽慧忠は、「南方には、どの様な善知識を持つ人がいますか?」と言った。

 ある僧は、「善知識を持つ人々が、とても多くいます」と言った。

 南陽慧忠は、「南方の善知識を持つ人々は、どの様に真理を人に示しているのですか?」と言った。

 次の様に、ある僧は言った。

「南方の善知識を持つ人々は、()ぐに、未だ学ぶべき物が有る人に、『即心是仏』と示します。

『仏』は『覚(者)』を意味するが、あなたは、今、見聞きしたり覚知したりする性質をことごとく備えている。

人が見聞きしたり覚知したりする性質は、釈迦牟尼仏の『拈華瞬目』である『揚眉瞬目』をよくできるし、過去と未来をよく運用できる。

人が見聞きしたり覚知したりする性質は、身中に遍在していて、頭に触れれば頭を知るし、脚に触れれば脚を知る。

そのため、人が見聞きしたり覚知したりする性質を正遍知と呼ぶ。

正遍知以外の仏は無い。

身は生じたり滅んだりするが、心の性質は果てしない昔から未だかつて生じたり滅んだりしない。

心の性質から見れば、身が生じたり滅んだりするのは、竜が骨を換える様な物であるし、蛇が脱皮するのに似ているし、人が古い家を出るのに似ている。

身は変化する。

心の性質は常に不変である。

南方の所説は、おおよそ、この様な物です」

 次の様に、南陽慧忠は言った。

「もし、その通りであれば、あの先尼(セーニャ)外道と違いが無い。

先尼(セーニャ)外道は、『自分の身中には、ある神性が有る。

神性は、(いた)みと(かゆ)みを知る事ができる。

神性は、身が壊れた時、身を出て去る。

家が焼かれれば、家の主は出て去る様な物である。

身という家は変化する。

神性という家の主は常に不変である』と言っていた。

明らかにすると、先尼(セーニャ)外道の様な説は、善悪をわきまえていない。

誰が先尼(セーニャ)外道の様な説を正しいとするのか? いいえ! 先尼(セーニャ)外道の様な説は正しくない!

私が近頃、諸方を訪ねた時、先尼(セーニャ)外道の様な説を多く見聞きした。

先尼(セーニャ)外道の様な説は、最近も盛んである。

三百人、五百人の群衆を集めて、雲の様な群衆を見ながら、先尼(セーニャ)外道の様な説を『南方の仏教の教義である』と言う。

先尼(セーニャ)外道の様な説は、三十三祖の大鑑禅師の『六祖壇経』を改竄(かいざん)して取り、劣悪な作り話を付け足し、三十三祖の大鑑禅師という聖者の考えを削除して、後世の学徒の心を惑わし乱している。

どうして先尼(セーニャ)外道の様な説が、仏の言葉、仏の教えであろうか? いいえ! 先尼(セーニャ)外道の様な説は、仏の言葉、仏の教えではない!

苦しい。私の宗教、仏教は滅びてしまったのか。

もし見聞きしたり覚知したりする性質を誤って仏の性質としてしまえば、維摩は『(仏)法は見聞きと覚知を離れている。

もし見聞きしたり覚知したりすれば、見聞きしたり覚知したりしたのであり、法を求めていない』と言わなかったであろう」


 大証禅師と呼ばれる南陽慧忠は、曹谿山の、古代の仏と等しい三十三祖の大鑑禅師の高弟である。

 南陽慧忠は、天上の天人と人にとっての、大いなる善知識を持つ人である。

 南陽慧忠が話した主旨を明らめて、学に参入する「鏡」、「見本」とするべきである。

 先尼(セーニャ)外道の様な説を知って従う事なかれ。


 宋の時代の中国の山の主人にいる(やから)に、南陽慧忠の様な人はいない。

 昔から、未だかつて、南陽慧忠に等しい善知識を持つ人は、この世に出現していない。

 なのに、世の人々は、誤って「臨済義玄も徳山宣鑑も南陽慧忠に等しい」と思っている。

 この様な(やから)ばかりが多い。

 明らかに「見る眼」が有る師がいない事を憐れむべきである。


 仏祖が保持して任している即心是仏は、外道と「二つの乗り物」の段階の人が夢にも見ない物である。

 ただ、仏祖と仏祖だけが、即心是仏してきた、究め尽してきた、聞き知ってきたものが有るし、行って理解して取ってきたものが有るし、証して知ってきたものが有る。

 仏は、百草をひねって引いてきたり、打ち無くしたりしてきた。

 けれども、仏は、「丈六」の「金身」である「仏身」によって説かなかった。

 「即公案」が有って、「現成公案」、「手がかりが形成されて現される」のを待たないし、敗壊を回避しない。

 「是三界」が有って、退出ではないし、「唯心」、「唯一の心」ではない。

 「心牆壁」、「心は牆壁である」が有って、未だ泥水を()ねないし、未だ造作をしない。

 即心是仏に参入して究めたり、

心即仏是に参入して究めたり、

仏即是心に参入して究めたり、

即心仏是に参入して究めたり、

是仏心即に参入して究めたりする。

 この様に参入して究めるのは、正しく即心是仏であるし、この様に参入して究め挙げて、即心是仏として正しく伝えるのである。

 この様に正しく伝えて、即心是仏は、今日までに至っている。

 正しく伝えてきている「即心是仏」の「心」とは、「一心は一切の法、物である」、「一切の法、物は一心である」という事である。


 そのため、古代の人は「もし人が心を会得して理解すれば、大地には、わずかな土地も無い」と言った。


 知るべきである。

 心を会得して理解すれば、天という(ふた)は落とされるし、(あまね)く地は裂かれ破られる。


 または、心を会得して理解すれば、大地は厚さをわずかに増す。


 古代の高徳の僧は「妙なる清浄な明るい心とは、どの様な物であるか? 妙なる清浄な明るい心とは、山や河や大地であるし、太陽や月や星々である」と言った。


 明らかに知る事ができる。

 心とは、山や河や大地であるし、太陽や月や星々である。


 けれども、「心とは、山や河や大地であるし、太陽や月や星々である」という言葉を理解して取る際に、進めば不足が有るし、退けば余る。

 山や河や大地である心とは、山や河や大地だけである。更に、波は無いし、風と(かすみ)は無い。

 太陽や月や星々である心とは、太陽や月や星々だけである。更に、(きり)は無いし、(かすみ)は無い。

 生死が来たり去ったりする心とは、生死が来たり去ったりするだけである。更に、迷いは無いし、悟りは無い。

 牆壁や瓦礫である心とは、牆壁や瓦礫だけである。更に、泥は無いし、水は無い。

 地水火風という四大(元素)と、色受想行識という「五蘊」の心とは、四大(元素)と「五蘊」だけである。更に、馬はいないし、(サル)はいない。

 椅子(いす)や、害虫を払うための毛がついた棒である払子である心とは、椅子(いす)や払子だけである。更に、竹は無いし、木は無い。

 このため、即心是仏は、汚染させない即心是仏なのである。

 諸仏は、汚染させない諸仏なのである。

 そのため、即心是仏とは、「発心、修行、菩提、涅槃」、「心する事、修行、覚、寂滅」する諸仏である。

 「発心、修行、菩提、涅槃」、「心する事、修行、覚、寂滅」を未だしない心は、即心是仏ではない。

 たとえ、一刹那に、心して修行して証する心も、即心是仏であるし、

たとえ、一つの極微の中に、心して修行して証する心も、即心是仏であるし、

たとえ、無量劫に、心して修行して証する心も、即心是仏であるし、

たとえ、一念の中に、心して修行して証する心も、即心是仏であるし、

たとえ、半分の拳の中に、心して修行して証する心も、即心是仏である。

 なのに、「長い時間、修行して仏に成るのは、即心是仏ではない」と言う人は、即心是仏を未だ見ていないし、未だ知らないし、未だ学んでいないのである。

 「長時間、修行して仏に成るのは、即心是仏ではない」と言う人は、即心是仏を開演する正しい師に出会っていないのである。


 諸仏とは、釈迦牟尼仏である。

 釈迦牟尼仏は、即心是仏である。

 過去、現在、未来の諸仏は共に、仏と成る時は、必ず釈迦牟尼仏と成るのである。

 「過去、現在、未来の諸仏は共に、仏と成る時は、必ず釈迦牟尼仏と成る」のが、即心是仏である。


 正法眼蔵 即心是仏


 その時、千二百三十九年、雍州の宇治郡の観音導利興聖宝林寺にいて僧達に話した。

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